Review10 欠席にはならない
椅子を引く音がした。
高瀬は資料室の扉を開けた。
廊下には誰もいない。
窓の外はもう暗く、校舎に残っている生徒もほとんどいない時間だった。遠くから運動部の声が聞こえる。それ以外は、蛍光灯の低い音と、高瀬自身の足音だけだった。
もう一度。
ギィ、と。
教室のほうから音がした。
高瀬は手の中の付箋を見る。
『明日、もう一度話す』
『待ってます』
「……行くよ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
歩き出す。
十四日目に交わした約束。
自分は忘れた。
相手だけが覚えていた。
もし今も待っているのなら、今度こそ。
教室の前まで来た。
扉は閉まっている。
中から物音はしない。
高瀬は取っ手に手をかけた。
一瞬だけ怖くなる。
何もいなかったら。
また手がかりだけだったら。
逆に。
本当に誰かがいたら。
「……どっちにしても開けるしかないか」
扉を開けた。
◇
誰もいなかった。
「……」
高瀬は天井を見上げた。
「おい」
思わず声が出た。
「ここまで来てそれはないだろ」
返事はない。
教室には、整然と机が並んでいる。
黒板も、ロッカーも、窓際のカーテンもいつも通りだった。
「期待させやがって……」
そう呟きながら中へ入る。
その時。
高瀬は気づいた。
一脚だけ。
椅子が引かれている。
最後列。
窓側。
誰も使っていない机だった。
昨日、名前のないノートが置かれていた場所。
高瀬は近づいた。
机の上には何もない。
中を覗く。
「……?」
一枚の紙が入っていた。
折り畳まれている。
取り出して開いた。
白紙だった。
「またかよ」
裏返す。
何もない。
光に透かす。
何もない。
「さすがに今回は炙ったりしないぞ」
誰もいない教室で、自分にツッコミを入れる。
その瞬間。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
『読み取りますか?』
「……これを?」
高瀬は白紙を見る。
選択肢。
『YES / NO』
迷った。
Reviewに従わない。
そう決めたはずだった。
けれど今回は、採点ではない。
目の前にあるものを読むかどうか。
高瀬は白紙を机に置いた。
「……読む」
YESを押す。
スマートフォンの画面が一度暗くなった。
同時に。
白紙に文字が浮かび始めた。
「……っ」
インクではない。
鉛筆でもない。
薄い灰色の文字が、一行ずつ現れていく。
『十五日目』
『登校しました。』
高瀬は息を止めた。
「……登校?」
十五日目。
記録から消えた日。
その日も。
来ていた。
『午前七時五十二分』
『校門を通過。』
『午前八時十分』
『教室に入室。』
『午前八時二十五分』
『担任を待つ。』
「俺を……」
付箋を握る。
『明日、もう一度話す』
約束した。
だから。
待っていた。
『午前八時三十五分』
『朝の会開始。』
高瀬の眉が動く。
「待て」
朝の会が始まったなら。
自分は教室にいたはずだ。
『担任、高瀬悠介。入室。』
「……俺もいた」
『出席確認開始。』
次の一文が。
なかなか出ない。
高瀬は白紙を見つめる。
やがて。
『対象者の名前は呼ばれませんでした。』
「……え?」
高瀬の指が震えた。
『対象者は教室内に存在しています。』
『担任は対象者を認識していません。』
『クラスメイトも対象者を認識していません。』
高瀬は。
意味を理解するまでに時間がかかった。
「いたのに……?」
教室にいた。
椅子に座っていた。
高瀬を待っていた。
なのに。
誰にも見えていない。
『午前八時四十二分』
『対象者は担任に声をかけました。』
「……」
『反応なし。』
『午前八時四十三分』
『再度、声をかけました。』
『反応なし。』
「やめろ……」
高瀬の喉が乾く。
『午前八時四十五分』
『対象者は着席しました。』
次の文章。
『以降、授業に参加。』
「一日……?」
誰にも認識されないまま。
そこにいた。
『午後零時二十分』
『給食は配膳されませんでした。』
高瀬は目を閉じた。
「……やめてくれ」
『午後三時四十分』
『帰りの会終了。』
『対象者は担任を待っています。』
約束。
『明日、もう一度話す』
その言葉だけを信じて。
『午後四時十三分』
『担任、高瀬悠介。退勤準備。』
「……俺」
記憶はない。
でも。
光景だけは想像できた。
若い自分。
仕事を片づけ。
帰ろうとしている。
『対象者が声をかけました。』
『「先生」』
高瀬の手が止まる。
『反応なし。』
『「昨日の話」』
『反応なし。』
『「待ってたんですけど」』
「……ごめん」
高瀬の声が震えた。
『反応なし。』
しばらく。
文字が現れなかった。
そして。
『午後四時十七分』
『対象者は学校を出ました。』
高瀬は唇を噛んだ。
死んだ。
消された。
そう思っていた。
違う。
十五日目にも。
その人物は生きていた。
学校へ来て。
授業を受けて。
約束を待って。
誰にも気づかれないまま。
一日を過ごした。
「そのあと……」
高瀬は白紙に触れた。
「そのあと、どうなった」
文字が現れる。
『十六日目』
『登校しました。』
「……」
『十七日目』
『登校しました。』
「嘘だろ」
『十八日目』
『登校しました。』
高瀬は椅子に座り込んだ。
記録にはない。
出席にもならない。
でも。
来ていた。
毎日。
『二十二日目』
『登校しました。』
『二十九日目』
『登校しました。』
『三十六日目』
『登校しました。』
「なんで……」
誰にも見えないのに。
誰にも声が届かないのに。
「なんで来たんだよ」
白紙に。
答えが現れた。
『本人記録より抽出』
そして。
『先生が、もう一度話すって言ったから。』
高瀬は。
何も言えなかった。
◇
どれほど時間が経ったのか分からない。
高瀬は最後列の椅子に座ったまま、白紙を見つめていた。
自分の一言。
たった一つの約束。
相手にとっては。
学校へ来る理由になっていた。
自分は忘れていた。
正確には。
忘れさせられていた。
それでも。
約束した事実まで消えるわけではない。
「……いつまで来てた」
高瀬は呟いた。
白紙に文字が出る。
『回答できません。』
「なんで」
『記録が存在しません。』
「今まで出してただろ」
『これは記録ではありません。』
高瀬の目が細くなる。
『本人のReviewです。』
「……本人?」
画面が切り替わった。
『未投稿Reviewを表示しますか?』
高瀬は動けなかった。
未投稿。
誰にも届かなかったReview。
「……見せてくれ」
YES。
白紙に。
星が現れた。
☆☆☆☆☆
星は。
一つも塗られていなかった。
「ゼロ……?」
その下に文章が続く。
『先生へ。』
『今日も学校に行きました。』
『先生は私を見ませんでした。』
『友達も私を見ませんでした。』
『でも、先生が悪いわけじゃないことは分かっています。』
『たぶん。』
『みんなが悪いわけでもありません。』
『だから。』
『何点をつければいいのか分かりません。』
高瀬は読む。
『★1をつけたら、先生が悪い人になります。』
『★5をつけたら、私が平気だったことになります。』
『どっちも違います。』
高瀬の胸に。
その言葉が刺さった。
『人って、数字にした瞬間にこぼれるものがあるって。』
「……え?」
見覚えのある言葉。
ずっと前。
自分が。
別の生徒に話した言葉。
『だから私は。』
『星をつけません。』
『先生のことを嫌いになれないから。』
『でも。』
『許せるかも、まだ分からないから。』
『これは採点じゃありません。』
『ただ。』
『私がここにいたって、覚えていてほしいだけです。』
文章は。
そこで終わった。
高瀬は長い間、顔を上げられなかった。
「……覚えてるよ」
嘘だった。
まだ。
名前すら思い出せない。
だから。
言い直した。
「違うな」
高瀬は、誰もいない隣の席を見る。
「覚えてない」
初めて。
それを認めた。
「ごめん」
静かな教室に。
高瀬の声だけが残る。
「だから」
付箋を机に置いた。
『明日、もう一度話す』
「今から、思い出す」
スマートフォンが震えた。
『未完了の約束があります』
その表示が。
消えた。
代わりに。
『約束を再開しますか?』
YES。
NO。
高瀬は。
迷わなかった。
YES。
画面が暗くなる。
数秒後。
白い文字が浮かんだ。
『再開を確認しました。』
そして。
『対象者は現在も生存しています。』
「……!」
高瀬が立ち上がる。
生きている。
どこかに。
今も。
「どこにいる」
問いかける。
返事はない。
「教えてくれ」
画面に文字が現れる。
『検索しますか?』
YES。
高瀬は押した。
『検索中――』
数秒。
十秒。
そして。
『対象者を確認しました。』
高瀬の心臓が大きく鳴る。
『現在地――』
表示された場所を見て。
高瀬は。
動けなくなった。
『この校舎内』
直後。
教室の後ろで。
椅子を引く音がした。
今度は。
高瀬のすぐ後ろで。




