Review8 聞かないでほしかった
『今度は、聞こえましたか』
高瀬は、名前のないノートを開いたまま動けなかった。
昨日まではなかった文字だった。
鉛筆で書かれた、たった一行。
誰が書いたのかは分からない。
いつ書かれたのかも分からない。
ただ、これが偶然でないことだけは分かる。
高瀬は教室を見回した。
机。椅子。黒板。半分だけ開いたカーテン。廊下から聞こえる生徒たちの声。
いつもの学校だった。
だからこそ、不気味だった。
「……聞こえたよ」
誰もいない教室で、高瀬は答えた。
返事はない。
「今度は、ちゃんと聞く」
そう言ってから、高瀬はノートを閉じた。
◇
その日の昼休み。
「先生、ちょっといい?」
声をかけてきたのは、クラスの男子生徒だった。
「いいぞ」
「ここじゃなくて」
男子生徒が周囲を見る。
高瀬はすぐに空き教室へ移動した。
向かい合って座る。
「どうした?」
「……」
男子生徒は黙っている。
高瀬も待った。
昨日までなら、沈黙に耐えきれず質問を重ねていたかもしれない。
でも今は違う。
聞く。
相手が話すまで待つ。
それが必要なのだと、高瀬は学んだ。
一分ほど経った頃、男子生徒が口を開いた。
「友達のことなんだけど」
「うん」
「最近、ちょっと変で」
「どんなふうに?」
「……急に帰ったり、LINE返ってこなかったり」
高瀬は頷いた。
「他には?」
「授業中もぼーっとしてる」
「うん」
「前はそんなことなかった」
「そっか」
男子生徒は指を組んだり離したりしている。
何か言いにくいことがある。
高瀬は急かさなかった。
「それで?」
「昨日……そいつが」
声が小さくなる。
「『全部めんどくさい』って言ってて」
高瀬の表情が変わった。
「全部?」
「うん」
「学校が?」
「分かんない。全部って言っただけ」
「そのあと何か言ってた?」
「いや」
「今日、学校には?」
「来てる」
「今は?」
「たぶん教室」
高瀬は立ち上がりかけた。
しかし、止まった。
まずは目の前の生徒の話を聞く。
「お前は、それを聞いてどう思った?」
「……心配」
「うん」
「だから先生に言った」
「ありがとう」
男子生徒が顔を上げる。
「でも」
「ん?」
「俺が言ったって、言わないで」
「……分かった」
「絶対ね」
「約束する」
高瀬は頷いた。
◇
放課後。
高瀬は、その生徒に声をかけた。
「少しいいか?」
「はい」
「ちょっと話せる?」
「いいですけど」
生徒は特に嫌がる様子もなく、空き教室へ入った。
高瀬は向かいに座る。
「最近どう?」
「普通です」
「学校は?」
「普通」
「家は?」
「普通です」
三回目の「普通」。
高瀬は少し考えた。
「何か困ってることない?」
「ないです」
「本当に?」
「はい」
笑っている。
昨日までの高瀬なら、ここで終わっていたかもしれない。
本人が大丈夫と言っている。
なら、大丈夫なのだろう。
でも。
『今度は、聞こえましたか』
あの文字が浮かんだ。
聞こえていないものがある。
そう思った。
「最近、疲れてない?」
「別に」
「眠れてる?」
「寝てます」
「友達とは?」
「普通です」
「学校、来るのしんどい時ある?」
「先生」
生徒が笑った。
「今日どうしたの?」
「いや」
「めっちゃ聞くじゃん」
「……ごめん」
高瀬は少し笑った。
「心配になって」
その瞬間。
生徒の表情が変わった。
「なんで?」
「え?」
「なんで心配になったの?」
高瀬は答えられなかった。
「俺、先生に何も言ってないよね」
「それは……」
「誰かから何か聞いた?」
まずい。
高瀬はすぐに分かった。
「いや」
「じゃあ何で?」
「最近ちょっと元気ないように見えたから」
「嘘」
即答だった。
「先生、昨日まで俺のこと普通にしてたじゃん」
「……」
「誰?」
「それは言えない」
生徒の目が細くなる。
「やっぱ誰か言ったんじゃん」
「違う。そういう意味じゃ――」
「誰?」
「約束してるから言えない」
言った瞬間。
高瀬は後悔した。
約束。
その言葉自体が、誰かが話したことを認めてしまっている。
生徒は立ち上がった。
「もういい」
「待て」
「俺、別に先生に相談したくないから」
「分かった。でも――」
「分かってないじゃん」
高瀬の言葉が止まった。
「何でも聞けばいいと思ってる?」
「……」
「俺が話したくないって言っても、どうせ聞くじゃん」
「そんなつもりじゃ」
「先生が心配したら、俺は話さなきゃいけないの?」
その言葉に。
高瀬は何も返せなかった。
生徒は教室を出ていった。
扉が閉まる。
高瀬だけが残った。
「……やった」
両手で顔を覆う。
「またやった……」
今度こそ聞こうと思った。
見逃したくなかった。
声にならないものまで拾いたかった。
それなのに。
聞こうとしたこと自体が。
相手を追い詰めた。
◇
翌朝。
高瀬が教室へ入ると、空気がおかしかった。
昨日相談に来た男子生徒と、放課後に話した生徒。
二人が離れて座っている。
普段なら朝から話している二人だった。
「……」
嫌な予感がした。
朝の会を終えたあと、高瀬は昨日相談に来た男子生徒を呼んだ。
「何かあった?」
「……バレた」
「何が?」
「俺が先生に言ったの」
高瀬の胃が重くなる。
「なんで」
「昨日、あいつからLINE来た。『先生に言った?』って」
「……」
「最初は違うって言ったけど」
男子生徒は俯いた。
「嘘つけなくて」
「そっか」
「めっちゃ怒ってた」
「……ごめん」
高瀬は頭を下げた。
「先生のせいだ」
男子生徒が顔を上げる。
その表情に怒りはなかった。
むしろ困っていた。
「俺、言わないほうがよかった?」
高瀬は答えようとして。
やめた。
良かった。
悪かった。
その二つに分けるのは簡単だ。
でも。
「心配して先生に話したことを、間違いだったとは言いたくない」
「じゃあ」
「でも、先生の聞き方は間違えた」
高瀬は言った。
「そこは先生の失敗だ」
「……」
「お前のせいにするな」
男子生徒は黙っていた。
「仲直りできるかな」
「分からない」
「またそれ?」
「悪いな」
高瀬は苦笑する。
「でも、先生が仲直りさせるって約束するのも違うと思う」
「……うん」
「先生にできることがあるなら言ってくれ」
男子生徒は少し考えてから、
「今はいい」
と答えた。
「分かった」
高瀬は、それ以上聞かなかった。
◇
昼休み。
廊下の先に、昨日の生徒がいた。
高瀬に気づく。
一瞬だけ目が合った。
高瀬は迷った。
話しかけるべきか。
昨日のことを謝るべきか。
それとも。
今は何もしないべきか。
生徒は目を逸らし、歩き出した。
「……」
高瀬は追わなかった。
ただ。
すれ違う直前。
「昨日は、ごめん」
それだけ言った。
生徒の足が、一瞬止まった。
振り返らない。
「……何が?」
「聞きすぎた」
「……」
「話したくないって言ってるのに、先生が勝手に答えを探そうとした」
返事はない。
「今は、話さなくていい」
高瀬は続けた。
「先生からも聞かない」
数秒。
生徒は黙っていた。
「じゃあ」
小さな声。
「もう放っといて」
高瀬の胸が痛んだ。
でも。
「分かった」
そう答えた。
生徒は歩いていった。
高瀬は追わなかった。
◇
その日の夕方。
スマートフォンを確認すると、『影響継続中』は十四のままだった。
増えていない。
減ってもいない。
高瀬は少しだけ安心している自分に気づき、嫌になった。
「数字で安心してどうすんだよ……」
十四なら失敗していない。
十五になったら何かが起きた。
いつの間にか。
自分もまた。
数字で人間を見ようとしている。
高瀬はスマートフォンを伏せた。
その時だった。
机の引き出しから、紙が一枚落ちた。
「ん?」
拾う。
見覚えはない。
白い紙。
印刷ではなく。
鉛筆で文字が書かれている。
『聞くことと、聞き出すことは違います』
高瀬は息を止めた。
昨日のノートと同じ筆跡だった。
「……見てたのか」
誰も答えない。
高瀬は紙を裏返した。
そこにも。
一行。
『先生は、昔からそうでした』
「……昔から?」
心臓が鳴る。
名前のない人物。
自分が過去に★★★☆☆をつけた相手。
自分のことを知っている。
それだけではない。
今の自分も見ている。
高瀬は昨日のノートを取り出した。
『今度は、聞こえましたか』
今日の紙。
『聞くことと、聞き出すことは違います』
そして。
『先生は、昔からそうでした』
高瀬はしばらく二つを見比べた。
やがて。
紙の端に。
小さく何かが書かれていることに気づいた。
数字だった。
『14』
「……十四?」
影響継続中と同じ数字。
偶然なのか。
それとも。
別の十四なのか。
高瀬がスマートフォンを手に取る。
『影響継続中:14』
変わっていない。
もう一度、紙を見る。
『14』
その数字を見た瞬間。
高瀬の頭に。
別の数字が浮かんだ。
『十四日後――』
過去の記録。
あの人物を採点したあと。
十四日目から。
高瀬は、その先を確認していない。
「……同じ十四?」
背筋が冷たくなる。
その時。
教室の扉が開いた。
高瀬は振り返る。
昨日。
『もう放っといて』
そう言った生徒が立っていた。
「……先生」
高瀬は立ち上がりかけて。
やめた。
「うん」
それだけ答える。
生徒は教室へ入ってきた。
「聞かないんじゃなかったの?」
「聞いてないだろ」
「……そうだけど」
少しだけ。
間が空いた。
生徒は高瀬の前まで来ると、椅子に座った。
高瀬は何も聞かなかった。
一分ほど経った。
やがて。
生徒が自分から口を開いた。
「昨日の」
「うん」
「全部めんどくさいって言ったやつ」
高瀬は黙っている。
「別に、死にたいとかじゃないから」
「……うん」
「ただ」
生徒は俯いた。
「俺さ」
そこで。
言葉が止まった。
高瀬は待った。
今度は。
本当に。
待った。
「……やっぱ今日、言うのやめる」
高瀬は少しだけ笑った。
「分かった」
「怒らない?」
「なんで怒るんだよ」
「ここまで来たのに」
「来たら最後まで喋らなきゃいけないなんてルールないだろ」
生徒は高瀬を見る。
「じゃあ何しに来たんだろ、俺」
「知らん」
「先生なのに?」
「お前の頭の中まで担当教科じゃない」
「何それ」
生徒が笑った。
ほんの少しだけ。
そして立ち上がる。
「帰るわ」
「おう」
扉の前まで歩いて。
生徒が止まった。
「先生」
「ん?」
「……また来てもいい?」
「もちろん」
「その時も、聞かない?」
高瀬は少し考えた。
「お前が話したくなるまでは」
生徒は頷いた。
「じゃあ、また」
「またな」
扉が閉まった。
高瀬は、一人になった。
結局。
何も聞けなかった。
何も解決していない。
でも。
今度は。
それでいいと思えた。
机の上には。
『聞くことと、聞き出すことは違います』
そして。
『14』
高瀬はその紙を見つめた。
十四日目に。
何があった。
今度は。
それを。
聞き出すのではなく。
自分で確かめる。




