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この人生、採点中  作者: 夜凪 灯
第二章 あなたは、誰の採点者ですか

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82/119

Review8 聞かないでほしかった

『今度は、聞こえましたか』



 高瀬は、名前のないノートを開いたまま動けなかった。


 昨日まではなかった文字だった。


 鉛筆で書かれた、たった一行。


 誰が書いたのかは分からない。


 いつ書かれたのかも分からない。


 ただ、これが偶然でないことだけは分かる。


 高瀬は教室を見回した。


 机。椅子。黒板。半分だけ開いたカーテン。廊下から聞こえる生徒たちの声。


 いつもの学校だった。


 だからこそ、不気味だった。


「……聞こえたよ」


 誰もいない教室で、高瀬は答えた。


 返事はない。


「今度は、ちゃんと聞く」


 そう言ってから、高瀬はノートを閉じた。



◇



 その日の昼休み。


「先生、ちょっといい?」


 声をかけてきたのは、クラスの男子生徒だった。


「いいぞ」


「ここじゃなくて」


 男子生徒が周囲を見る。


 高瀬はすぐに空き教室へ移動した。


 向かい合って座る。


「どうした?」


「……」


 男子生徒は黙っている。


 高瀬も待った。


 昨日までなら、沈黙に耐えきれず質問を重ねていたかもしれない。


 でも今は違う。


 聞く。


 相手が話すまで待つ。


 それが必要なのだと、高瀬は学んだ。


 一分ほど経った頃、男子生徒が口を開いた。


「友達のことなんだけど」


「うん」


「最近、ちょっと変で」


「どんなふうに?」


「……急に帰ったり、LINE返ってこなかったり」


 高瀬は頷いた。


「他には?」


「授業中もぼーっとしてる」


「うん」


「前はそんなことなかった」


「そっか」


 男子生徒は指を組んだり離したりしている。


 何か言いにくいことがある。


 高瀬は急かさなかった。


「それで?」


「昨日……そいつが」


 声が小さくなる。


「『全部めんどくさい』って言ってて」


 高瀬の表情が変わった。


「全部?」


「うん」


「学校が?」


「分かんない。全部って言っただけ」


「そのあと何か言ってた?」


「いや」


「今日、学校には?」


「来てる」


「今は?」


「たぶん教室」


 高瀬は立ち上がりかけた。


 しかし、止まった。


 まずは目の前の生徒の話を聞く。


「お前は、それを聞いてどう思った?」


「……心配」


「うん」


「だから先生に言った」


「ありがとう」


 男子生徒が顔を上げる。


「でも」


「ん?」


「俺が言ったって、言わないで」


「……分かった」


「絶対ね」


「約束する」


 高瀬は頷いた。



◇



 放課後。


 高瀬は、その生徒に声をかけた。


「少しいいか?」


「はい」


「ちょっと話せる?」


「いいですけど」


 生徒は特に嫌がる様子もなく、空き教室へ入った。


 高瀬は向かいに座る。


「最近どう?」


「普通です」


「学校は?」


「普通」


「家は?」


「普通です」


 三回目の「普通」。


 高瀬は少し考えた。


「何か困ってることない?」


「ないです」


「本当に?」


「はい」


 笑っている。


 昨日までの高瀬なら、ここで終わっていたかもしれない。


 本人が大丈夫と言っている。


 なら、大丈夫なのだろう。


 でも。


『今度は、聞こえましたか』


 あの文字が浮かんだ。


 聞こえていないものがある。


 そう思った。


「最近、疲れてない?」


「別に」


「眠れてる?」


「寝てます」


「友達とは?」


「普通です」


「学校、来るのしんどい時ある?」


「先生」


 生徒が笑った。


「今日どうしたの?」


「いや」


「めっちゃ聞くじゃん」


「……ごめん」


 高瀬は少し笑った。


「心配になって」


 その瞬間。


 生徒の表情が変わった。


「なんで?」


「え?」


「なんで心配になったの?」


 高瀬は答えられなかった。


「俺、先生に何も言ってないよね」


「それは……」


「誰かから何か聞いた?」


 まずい。


 高瀬はすぐに分かった。


「いや」


「じゃあ何で?」


「最近ちょっと元気ないように見えたから」


「嘘」


 即答だった。


「先生、昨日まで俺のこと普通にしてたじゃん」


「……」


「誰?」


「それは言えない」


 生徒の目が細くなる。


「やっぱ誰か言ったんじゃん」


「違う。そういう意味じゃ――」


「誰?」


「約束してるから言えない」


 言った瞬間。


 高瀬は後悔した。


 約束。


 その言葉自体が、誰かが話したことを認めてしまっている。


 生徒は立ち上がった。


「もういい」


「待て」


「俺、別に先生に相談したくないから」


「分かった。でも――」


「分かってないじゃん」


 高瀬の言葉が止まった。


「何でも聞けばいいと思ってる?」


「……」


「俺が話したくないって言っても、どうせ聞くじゃん」


「そんなつもりじゃ」


「先生が心配したら、俺は話さなきゃいけないの?」


 その言葉に。


 高瀬は何も返せなかった。


 生徒は教室を出ていった。


 扉が閉まる。


 高瀬だけが残った。


「……やった」


 両手で顔を覆う。


「またやった……」


 今度こそ聞こうと思った。


 見逃したくなかった。


 声にならないものまで拾いたかった。


 それなのに。


 聞こうとしたこと自体が。


 相手を追い詰めた。



◇



 翌朝。


 高瀬が教室へ入ると、空気がおかしかった。


 昨日相談に来た男子生徒と、放課後に話した生徒。


 二人が離れて座っている。


 普段なら朝から話している二人だった。


「……」


 嫌な予感がした。


 朝の会を終えたあと、高瀬は昨日相談に来た男子生徒を呼んだ。


「何かあった?」


「……バレた」


「何が?」


「俺が先生に言ったの」


 高瀬の胃が重くなる。


「なんで」


「昨日、あいつからLINE来た。『先生に言った?』って」


「……」


「最初は違うって言ったけど」


 男子生徒は俯いた。


「嘘つけなくて」


「そっか」


「めっちゃ怒ってた」


「……ごめん」


 高瀬は頭を下げた。


「先生のせいだ」


 男子生徒が顔を上げる。


 その表情に怒りはなかった。


 むしろ困っていた。


「俺、言わないほうがよかった?」


 高瀬は答えようとして。


 やめた。


 良かった。


 悪かった。


 その二つに分けるのは簡単だ。


 でも。


「心配して先生に話したことを、間違いだったとは言いたくない」


「じゃあ」


「でも、先生の聞き方は間違えた」


 高瀬は言った。


「そこは先生の失敗だ」


「……」


「お前のせいにするな」


 男子生徒は黙っていた。


「仲直りできるかな」


「分からない」


「またそれ?」


「悪いな」


 高瀬は苦笑する。


「でも、先生が仲直りさせるって約束するのも違うと思う」


「……うん」


「先生にできることがあるなら言ってくれ」


 男子生徒は少し考えてから、


「今はいい」


 と答えた。


「分かった」


 高瀬は、それ以上聞かなかった。



◇



 昼休み。


 廊下の先に、昨日の生徒がいた。


 高瀬に気づく。


 一瞬だけ目が合った。


 高瀬は迷った。


 話しかけるべきか。


 昨日のことを謝るべきか。


 それとも。


 今は何もしないべきか。


 生徒は目を逸らし、歩き出した。


「……」


 高瀬は追わなかった。


 ただ。


 すれ違う直前。


「昨日は、ごめん」


 それだけ言った。


 生徒の足が、一瞬止まった。


 振り返らない。


「……何が?」


「聞きすぎた」


「……」


「話したくないって言ってるのに、先生が勝手に答えを探そうとした」


 返事はない。


「今は、話さなくていい」


 高瀬は続けた。


「先生からも聞かない」


 数秒。


 生徒は黙っていた。


「じゃあ」


 小さな声。


「もう放っといて」


 高瀬の胸が痛んだ。


 でも。


「分かった」


 そう答えた。


 生徒は歩いていった。


 高瀬は追わなかった。



◇



 その日の夕方。


 スマートフォンを確認すると、『影響継続中』は十四のままだった。


 増えていない。


 減ってもいない。


 高瀬は少しだけ安心している自分に気づき、嫌になった。


「数字で安心してどうすんだよ……」


 十四なら失敗していない。


 十五になったら何かが起きた。


 いつの間にか。


 自分もまた。


 数字で人間を見ようとしている。


 高瀬はスマートフォンを伏せた。


 その時だった。


 机の引き出しから、紙が一枚落ちた。


「ん?」


 拾う。


 見覚えはない。


 白い紙。


 印刷ではなく。


 鉛筆で文字が書かれている。



『聞くことと、聞き出すことは違います』



 高瀬は息を止めた。


 昨日のノートと同じ筆跡だった。


「……見てたのか」


 誰も答えない。


 高瀬は紙を裏返した。


 そこにも。


 一行。



『先生は、昔からそうでした』



「……昔から?」


 心臓が鳴る。


 名前のない人物。


 自分が過去に★★★☆☆をつけた相手。


 自分のことを知っている。


 それだけではない。


 今の自分も見ている。


 高瀬は昨日のノートを取り出した。


『今度は、聞こえましたか』


 今日の紙。


『聞くことと、聞き出すことは違います』


 そして。


『先生は、昔からそうでした』


 高瀬はしばらく二つを見比べた。


 やがて。


 紙の端に。


 小さく何かが書かれていることに気づいた。


 数字だった。



『14』



「……十四?」


 影響継続中と同じ数字。


 偶然なのか。


 それとも。


 別の十四なのか。


 高瀬がスマートフォンを手に取る。


『影響継続中:14』


 変わっていない。


 もう一度、紙を見る。


『14』


 その数字を見た瞬間。


 高瀬の頭に。


 別の数字が浮かんだ。



『十四日後――』



 過去の記録。


 あの人物を採点したあと。


 十四日目から。


 高瀬は、その先を確認していない。



「……同じ十四?」



 背筋が冷たくなる。


 その時。


 教室の扉が開いた。


 高瀬は振り返る。


 昨日。


『もう放っといて』


 そう言った生徒が立っていた。


「……先生」


 高瀬は立ち上がりかけて。


 やめた。


「うん」


 それだけ答える。


 生徒は教室へ入ってきた。


「聞かないんじゃなかったの?」


「聞いてないだろ」


「……そうだけど」


 少しだけ。


 間が空いた。


 生徒は高瀬の前まで来ると、椅子に座った。


 高瀬は何も聞かなかった。


 一分ほど経った。


 やがて。


 生徒が自分から口を開いた。


「昨日の」


「うん」


「全部めんどくさいって言ったやつ」


 高瀬は黙っている。


「別に、死にたいとかじゃないから」


「……うん」


「ただ」


 生徒は俯いた。


「俺さ」


 そこで。


 言葉が止まった。


 高瀬は待った。


 今度は。


 本当に。


 待った。


「……やっぱ今日、言うのやめる」


 高瀬は少しだけ笑った。


「分かった」


「怒らない?」


「なんで怒るんだよ」


「ここまで来たのに」


「来たら最後まで喋らなきゃいけないなんてルールないだろ」


 生徒は高瀬を見る。


「じゃあ何しに来たんだろ、俺」


「知らん」


「先生なのに?」


「お前の頭の中まで担当教科じゃない」


「何それ」


 生徒が笑った。


 ほんの少しだけ。


 そして立ち上がる。


「帰るわ」


「おう」


 扉の前まで歩いて。


 生徒が止まった。


「先生」


「ん?」


「……また来てもいい?」


「もちろん」


「その時も、聞かない?」


 高瀬は少し考えた。


「お前が話したくなるまでは」


 生徒は頷いた。


「じゃあ、また」


「またな」


 扉が閉まった。


 高瀬は、一人になった。


 結局。


 何も聞けなかった。


 何も解決していない。


 でも。


 今度は。


 それでいいと思えた。



 机の上には。



『聞くことと、聞き出すことは違います』



 そして。



『14』



 高瀬はその紙を見つめた。



 十四日目に。



 何があった。



 今度は。



 それを。



 聞き出すのではなく。



 自分で確かめる。

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