Review6 優しさの行き先
『総影響人数:――――』
読み込みを示す小さな円が、何度も回り続けていた。
高瀬はスマートフォンを机に置いた。
「……もういい」
数字が何人だろうと、今すぐできることはない。それに、昨日から画面を睨みすぎている。これ以上続けたら、スマートフォンのほうから「少し休め」と言われそうだった。
職員室の時計は、午後六時を回っている。
帰ろう。
そう思って鞄を持ち上げた瞬間、机の上でスマートフォンが震えた。
高瀬は見ない。
もう一度、震えた。
「……見ないからな」
誰に宣言しているのか分からない。
三度目。
「しつこいな!」
結局、見る。
画面には、数字が表示されていた。
『総影響人数:2』
「……二?」
高瀬は眉を寄せた。
何十人。
何百人。
もっと途方もない数字が出ると思っていた。
だが、二人。
『影響継続中:2』
『総影響人数:2』
二つの数字は同じだった。
高瀬が画面に触れると、その下に短い文章が現れた。
『影響は、行動によってのみ継承されます』
「行動……」
言葉を聞いただけでは、数えられない。
心が動いただけでも、数えられない。
誰かの影響を受けた人間が、実際に何かをした時。
その先へ繋がる。
「じゃあ……」
昨日見つけた、名前のないノート。
そこに残された言葉が高瀬を変えた。
そして今日、高瀬は一人の生徒に対して、以前とは違う行動を選んだ。
それが二人目。
高瀬はしばらく画面を見つめた。
「……少ないな」
思わず漏れた。
十三年間、教師をしてきた。
何百人という生徒と出会った。
何千回と言葉を交わした。
それなのに、Reviewが数えている影響は、たった二人。
自分が思っていたほど、人の人生なんて変えていなかったのかもしれない。
少しだけ寂しくなって。
すぐに、高瀬は首を振った。
「何期待してんだよ」
人の人生を変えた人数で教師の価値を測り始めたら、それこそ採点と同じだ。
スマートフォンを鞄にしまい、高瀬は職員室を出た。
◇
翌朝。
昨日休んだ女子生徒の席は、今日も空いていた。
高瀬は出席簿に欠席の印をつけた。それ以上は何も言わず、いつも通り朝の会を進める。
休み時間になってから、クラスの女子生徒二人が近づいてきた。
「先生」
「ん?」
「あの子、今日も休み?」
「ああ」
「風邪?」
高瀬は少し考えた。
「本人から聞いてないことを、先生が勝手に話すわけにはいかないな」
「あー……そっか」
二人は顔を見合わせた。
一人が小さな声で言う。
「LINEも返ってこないんだよね」
「心配か?」
「……ちょっと」
「そっか」
高瀬はそれだけ答えた。
すると、もう一人が困ったように笑った。
「先生、最近『そっか』多くない?」
「便利なんだよ」
「先生なのに?」
「先生だって便利な言葉くらい使わせてくれ」
「じゃあ先生、今日から『そっか先生』ね」
「嫌すぎるだろ」
二人が笑う。
そのまま離れていくかと思ったが、一人が足を止めた。
「先生」
「ん?」
「あの子に、学校来てって言わないほうがいい?」
高瀬はすぐには答えなかった。
「言いたい?」
「うん。だって、いないと寂しいし」
「じゃあ、それは言っていいんじゃないか」
「でも、それで無理して来たら?」
高瀬は言葉に詰まった。
数日前なら、こんなところで迷わなかったかもしれない。
友達が待っている。
嬉しい言葉だ。
伝えてあげればいい。
そう答えていた。
でも今は、その優しさが相手にとって何になるのかを考えてしまう。
「……難しいな」
「先生でも分かんないの?」
「分からないことのほうが多いよ」
「大人なのに?」
「大人を何だと思ってる」
「完成品」
「残念。だいたい試作品のまま歳だけ取る」
「夢ないなあ」
「現実を教えるのも教育だ」
二人が笑った。
高瀬も笑ってから、少しだけ考える。
「『学校来て』じゃなくてもいいんじゃないか」
「じゃあ何て言うの?」
「それは自分で考えろ」
「そこ先生の仕事じゃん!」
「友達に送るLINEまで教師が考えたら怖いだろ」
「確かに」
二人はスマートフォンを見ながら、教室の後ろへ戻っていった。
高瀬は、その背中を見送った。
◇
昼休み。
休んでいる女子生徒のスマートフォンに、一件のメッセージが届いた。
『今日も休みなんだね』
少しして、もう一件。
『別に学校来なくていいけどさ』
そこで送信が止まる。
打っては消す。
また打つ。
やがて。
『昨日の体育、先生が盛大にコケた』
送信。
『嘘つけ!!』
すぐ隣から高瀬の声が飛んだ。
「なんで先生見てんの!?」
「見えたんだよ!」
「コケたじゃん!」
「つまずいただけだ!」
「一緒!」
「全然違う!」
教室に笑い声が広がる。
女子生徒は笑いながら、続きを打った。
『あと高瀬先生がコケたのに、何事もなかった顔して授業続けてた』
『だから元気になったら見に来て』
指が止まった。
少し考えて。
最後の一文を消す。
代わりに。
『また面白いことあったら送るわ』
送信した。
◇
その日の夕方。
高瀬のスマートフォンが震えた。
『影響継続中:3』
「……三」
すぐに分かった。
あの女子生徒だ。
自分との会話を受けて、友達への接し方を変えた。
行動が、次へ渡った。
「こういうことか……」
少しだけ。
嬉しかった。
誰かの苦しさが。
自分を経由して。
別の誰かの優しさに変わる。
それなら。
悪くない。
そう思った。
――その日の夜。
◇
「……何これ」
休んでいる女子生徒は、自分の部屋でスマートフォンを見ていた。
友人から届いたメッセージ。
『また面白いことあったら送るわ』
その下に。
写真が何枚も届いている。
黒板。
昼休み。
変な顔をしている友人。
高瀬が廊下を歩いている後ろ姿まで、勝手に撮られていた。
「先生、めっちゃ猫背じゃん」
久しぶりに笑った。
そして。
その直後だった。
別の通知が届いた。
『Reviewが届きました』
「……え?」
自分へのReview。
開く。
★★☆☆☆
『最近ずっと休んでる』
『理由もよく分からない』
『みんな普通に学校来てるのに』
『心配してる人もいるんだから、少しくらい説明したほうがいいと思う』
笑っていた顔から、表情が消えた。
誰が書いたのかは分からない。
クラスメイトかもしれない。
別の誰かかもしれない。
ただ。
『みんな普通に学校来てるのに』
その一文だけが。
何度も目に入った。
「……普通」
スマートフォンを伏せる。
ベッドに横になる。
天井を見る。
今日一日。
学校のことを、ほとんど考えずにいられた。
友達から届いたくだらない写真を見て。
少し笑えた。
明日のことは、明日の朝に考えればいい。
高瀬に言われた言葉を、少しだけ信じられた。
なのに。
たった一件。
★★☆☆☆。
それだけで。
学校が、また近づいてきた。
◇
翌朝。
高瀬が教室へ入ると、昨日まで空いていた席に女子生徒が座っていた。
「……おはよう」
「おはようございます」
高瀬は驚いた。
でも。
「来られたんだな」
とは言わなかった。
「早いな」
それだけ言った。
「先生より早いです」
「先生は職員室にいたからな?」
「言い訳ですか?」
「事実だ」
女子生徒が少し笑った。
その笑顔を見て、高瀬も安心しかけた。
けれど。
朝の会が終わっても。
彼女は誰とも話さなかった。
昨日メッセージを送った友人が声をかけても。
「大丈夫」
そう言って笑った。
昼休み。
弁当にはほとんど手をつけなかった。
高瀬は声をかけるか迷った。
迷って。
近づいた。
「ちょっといいか?」
「大丈夫です」
先に言われた。
「……まだ何も聞いてないぞ」
「大丈夫だから」
二回目。
高瀬は、その言葉に引っかかった。
「何かあった?」
「ないです」
「本当に?」
「先生」
女子生徒は笑った。
「私、学校来たじゃん」
「……うん」
「だから、もう大丈夫です」
その笑顔を見た瞬間。
高瀬は。
昨日までとは違う嫌な感覚を覚えた。
自分は。
この笑顔を。
知っている。
『あなたは、まだ大丈夫です』
「……違う」
「え?」
「学校に来たから大丈夫って、先生は思ってない」
女子生徒の笑顔が止まった。
「昨日、何かあった?」
「……」
「言いたくなかったら、言わなくてもいい」
「……」
「でも」
高瀬は彼女の目を見る。
「大丈夫って言葉で終わらせなくてもいい」
長い沈黙のあと。
女子生徒はスマートフォンを取り出した。
「……これ」
画面を見せる。
★★☆☆☆。
高瀬は最後まで読んだ。
『みんな普通に学校来てるのに』
その一文で。
昨日の会話が全部繋がった。
「これ見て……来たのか?」
女子生徒は頷いた。
「休んでたら、迷惑なのかなって」
「……」
「心配してくれてる子もいるし」
「うん」
「だから来たほうがいいかなって」
間違ってはいない。
心配している人がいるのも本当だ。
学校に来るという選択も、間違いとは言えない。
Reviewを書いた人間だって。
もしかしたら。
本当に心配していたのかもしれない。
誰も。
悪意だけで動いているとは限らない。
それでも。
高瀬は聞いた。
「お前は?」
「え?」
「みんなじゃなくて」
椅子を一つ引いて、彼女の前に座る。
「お前は今日、どうしたかった?」
女子生徒は答えなかった。
高瀬は待った。
やがて。
唇が震えた。
「……休みたかった」
小さな声だった。
「うん」
「本当は」
「うん」
「今日も……休みたかった」
涙が落ちた。
高瀬は。
それを見ていた。
正しい言葉を探さなかった。
励まさなかった。
ただ。
「そっか」
そう答えた。
ポケットの中で。
スマートフォンが震えた。
高瀬は取り出さなかった。
だが。
震動は。
一度では終わらなかった。
二度。
三度。
四度。
「……先生?」
「ごめん」
高瀬はスマートフォンを取り出した。
画面を見る。
『影響継続中:4』
数字が変わる。
『5』
さらに。
『6』
「……なんで」
止まらない。
『7』
『8』
『9』
高瀬の顔から血の気が引いた。
優しさは。
誰かを救うことがある。
正しさも。
誰かを支えることがある。
でも。
人から人へ渡っていくものが。
途中で。
同じ形をしている保証なんて。
どこにもない。
『影響継続中:12』
高瀬は、ようやく理解した。
Reviewが数えているのは。
救われた人数ではない。
幸せになった人数でもない。
ただ。
人生が。
動いた人数だ。
良い方向でも。
悪い方向でも。
画面の数字が。
また一つ。
増えた。
『影響継続中:13』




