Review5 何もしなかった日
「座ろうか」
高瀬が椅子を引くと、生徒は小さく頷いた。
泣いていたのは、クラスの女子生徒だった。
普段から目立つタイプではない。かといって、一人でいるわけでもない。休み時間には友人と話し、授業中に指名すれば普通に答える。
高瀬の中では、どちらかといえば「心配の少ない生徒」に入っていた。
だからこそ。
その目が赤く腫れていることに、胸の奥がざわついた。
「話したくないことは、話さなくていいから」
もう一度、そう伝えた。
「うん」
「ここにいるだけでもいい」
「……うん」
高瀬は待った。
いつもなら、沈黙が長くなる前に質問をしていた。
何があった?
誰かと喧嘩した?
家のこと?
学校のこと?
原因を見つければ、何かできる。
そう思っていた。
でも今は。
目の前の生徒が、自分から言葉を出すまで待った。
時計の秒針だけが教室に響く。
一分。
二分。
思ったより長い。
正直、少し気まずい。
「……先生」
「うん」
「何も聞かないんですか?」
「話したくないことは話さなくていいって言ったから」
「本当に何も聞かないとは思わなかった」
「……加減が難しいんだよ」
女子生徒の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「先生なのに?」
「先生への期待値が高すぎる」
「じゃあ、ちょっと下げときます」
「星で?」
「星で」
「最近それ怖いんだよ」
少しだけ笑った。
笑ったあと。
また、沈黙が来た。
今度の沈黙は。
さっきより苦しくなかった。
「私」
女子生徒が口を開いた。
「学校、休みたいです」
高瀬は答えなかった。
「……明日だけじゃなくて」
「うん」
「しばらく」
膝の上で握られた手が震えている。
「うん」
「でも、いじめられてるとかじゃないです」
「分かった」
「友達もいます」
「うん」
「勉強も……嫌いだけど、別にそれが理由じゃなくて」
「うん」
「家も普通です」
一つ言うたびに。
彼女は、自分が休んではいけない理由を並べているように見えた。
「じゃあ」
高瀬は慎重に聞いた。
「どうして休みたい?」
女子生徒は俯いた。
「分かりません」
「……そっか」
「分からないんです」
声が震えた。
「朝起きると、行きたくなくて。でも、行かなきゃって思って」
「うん」
「学校来たら普通に喋れるし、笑えるし」
「うん」
「だから私、普通なんです」
その言葉に。
高瀬の胸が痛んだ。
『あなたは、まだ大丈夫です』
かつて。
自分が誰かに向けた言葉。
口から出かかった。
大丈夫だよ。
疲れてるだけかもしれない。
少し休めば。
そこまで浮かんで。
高瀬は飲み込んだ。
「……普通なら」
女子生徒が続ける。
「休んじゃ駄目ですよね?」
高瀬は。
すぐに答えなかった。
昨日見つけたノート。
『今日できたこと』
『学校に来た』
『頑張った』
『頑張った』
『頑張った』
最後に残っていた、消し跡。
『せんせいに たすけてって いえなかった』
高瀬は目の前の生徒を見る。
「先生は」
ゆっくり言った。
「普通かどうかと、休んでいいかどうかは、別だと思う」
女子生徒が顔を上げた。
「……でも」
「理由が説明できないと、休んじゃ駄目?」
「……分かんない」
「先生も分からない」
「また?」
「また」
女子生徒が少しだけ笑う。
高瀬も笑った。
「でも、今のお前が『休みたい』って言ったことは聞いた」
「……」
「そこは、理由が分からなくても無視したくない」
女子生徒の目に、また涙が溜まった。
高瀬は何も言わなかった。
励まさなかった。
大丈夫とも言わなかった。
ただ。
泣き終わるまで、そこにいた。
◇
翌朝。
女子生徒の席は空いていた。
「今日は休みか」
隣の生徒が何気なく言った。
「珍しいね」
「昨日元気じゃなかった?」
「普通だったよね」
普通。
その言葉に、高瀬の手が一瞬止まった。
「先生?」
「ああ。何でもない」
出席簿に欠席の印をつける。
昨日の面談後、本人の了承を得た上で保護者と話をした。
母親は驚いていた。
『家では普通でした』
やはり。
同じ言葉だった。
でも最後には、
『明日は休ませます』
と言ってくれた。
一日で何かが解決するわけじゃない。
明後日も休むかもしれない。
一週間かもしれない。
もっと長いかもしれない。
高瀬には分からない。
だから。
今度は勝手に「戻れる」と決めない。
「じゃあ朝の会始めるぞ」
そう言って。
空席から目を離した。
◇
昼休み。
高瀬はスマートフォンを取り出した。
昨日から気になっていた表示。
『影響継続中:1』
数字は変わっていない。
「……この一って、何なんだ」
過去の人物が一人。
そういう意味なのか。
影響を受けている人間が一人。
それとも。
まったく別の意味か。
画面を触ってみる。
反応はない。
「都合悪い時だけ無口だな、お前」
「誰と喋ってるんですか?」
「うわっ!」
背後から同僚教師が覗き込んでいた。
「最近びっくりしすぎじゃないですか?」
「最近後ろから来すぎなんだよ」
「独り言増えてますよ」
「疲れてるんだよ」
「休んだらどうです?」
高瀬は。
その言葉に止まった。
「……何です?」
「いや」
少し笑った。
「そうだな」
「え?」
「いや。そうだよなって思って」
「高瀬先生が素直……」
「失礼だな」
「★5つけときます?」
「いらない」
「即答」
同僚が笑いながら去っていく。
高瀬はスマートフォンを伏せた。
◇
放課後。
昨日休みたいと言った女子生徒から、学校へ連絡があった。
高瀬宛てだった。
「もしもし」
『先生?』
「うん」
『今、大丈夫ですか?』
「大丈夫」
言ってから。
高瀬は少し笑った。
「……いや。今の大丈夫は普通の大丈夫な」
『何それ』
「こっちの話」
電話の向こうで、少し笑う声がした。
「今日はどうだった?」
聞いてから。
高瀬は一瞬迷った。
また答えを求めてしまっただろうか。
『……何もしてない』
「そっか」
『朝起きて。ご飯食べて。また寝て』
「うん」
『昼に起きて。テレビ見て』
「うん」
『それだけ』
「うん」
少し間が空いた。
『先生』
「ん?」
『今日、何もできなかった』
昨日のノートが。
頭に浮かんだ。
『今日できたこと』
高瀬は机の上に置いた手を握った。
あの時。
自分は。
できたことを探そうとした。
学校に来られた。
話せた。
頑張れた。
前を向かせるために。
きっと。
今日のこの子にも。
探そうと思えば、いくらでも言える。
電話できた。
ご飯を食べられた。
休めた。
でも。
高瀬は。
それを言わなかった。
「何もできなかったか」
『……うん』
「じゃあ今日は」
少し考えて。
「何もしなかった日だな」
『……それだけ?』
「それだけ」
『怒らないの?』
「なんで怒るんだよ」
『学校休んだし』
「うん」
『勉強もしてない』
「うん」
『ずっと寝てた』
「聞いた」
『……』
「それで?」
電話の向こうが静かになった。
『……それでって?』
「今日がそういう一日だった。それで終わりじゃ駄目か?」
返事がない。
高瀬は待った。
長い沈黙のあと。
『……いいの?』
その声は。
昨日よりずっと幼く聞こえた。
「先生が決めることじゃないけど」
高瀬は言った。
「少なくとも、今日のお前に点数つけろって言われても、俺はつけない」
『なんで?』
「何もしなかった一日が、良かったのか悪かったのかなんて」
窓の外を見る。
夕方の校庭。
部活動をしている生徒たち。
走っている。
声を出している。
頑張っている。
「今日だけじゃ、分かんないから」
電話の向こうで。
小さく。
息を吐く音がした。
『先生』
「ん?」
『明日も休んでいい?』
高瀬は。
少しだけ迷った。
休め。
来い。
どちらも。
自分が決める言葉ではない。
「明日の朝」
高瀬は言った。
「起きてから考えよう」
『朝?』
「うん」
「今日のお前が、明日のお前の分まで決めなくていい」
電話の向こうで。
『……分かった』
小さな返事。
「じゃあまたな」
『先生』
「ん?」
『ありがとう』
電話が切れた。
高瀬はしばらく受話器を持ったままだった。
正しかったかは。
分からない。
明日、この子が学校へ来るかも。
分からない。
これで良くなるのかも。
分からない。
分からないことばかりだ。
それでも。
以前の自分なら。
きっと。
『明日は来られるといいな』
そう言っていた。
励ましのつもりで。
期待を込めて。
何気なく。
高瀬のスマートフォンが震えた。
「……」
画面を見る。
『影響継続中:1』
数字が。
ゆっくり。
『2』
へ変わった。
「……増えた?」
高瀬は画面を開く。
説明はない。
ただ。
『影響継続中:2』
高瀬は考えた。
昨日。
一人。
今日。
二人。
もし。
この数字が。
過去の誰かから始まった影響が。
次に届いた人間の数だとしたら。
「……まさか」
高瀬は。
今日休んだ生徒を思い浮かべた。
過去の誰かが。
高瀬を変えた。
変わった高瀬が。
今日。
別の誰かに。
違う言葉を渡した。
それを。
Reviewは。
数えている?
その瞬間。
数字の下に。
初めて。
文章が現れた。
『影響は、評価者を経由して伝播します』
高瀬は息を止めた。
自分がつけた。
たった一つの★★★☆☆。
その影響が。
まだ。
終わっていない。
良い意味なのか。
悪い意味なのか。
それすら。
分からない。
そして。
もう一つ。
高瀬は気づいた。
「……待てよ」
影響が。
人から人へ。
伝わるのなら。
自分がこれまでにつけてきたReviewは。
今。
いったい。
何人の人生に。
残っている。
画面が切り替わった。
『影響継続中:2』
その下に。
新しい数字。
『総影響人数:――――』
読み込みが始まる。
高瀬は。
その数字が表示されるのを。
黙って見つめていた。




