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この人生、採点中  作者: 夜凪 灯
第二章 あなたは、誰の採点者ですか

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Review5 何もしなかった日

「座ろうか」


 高瀬が椅子を引くと、生徒は小さく頷いた。


 泣いていたのは、クラスの女子生徒だった。


 普段から目立つタイプではない。かといって、一人でいるわけでもない。休み時間には友人と話し、授業中に指名すれば普通に答える。


 高瀬の中では、どちらかといえば「心配の少ない生徒」に入っていた。


 だからこそ。


 その目が赤く腫れていることに、胸の奥がざわついた。


「話したくないことは、話さなくていいから」


 もう一度、そう伝えた。


「うん」


「ここにいるだけでもいい」


「……うん」


 高瀬は待った。


 いつもなら、沈黙が長くなる前に質問をしていた。


 何があった?


 誰かと喧嘩した?


 家のこと?


 学校のこと?


 原因を見つければ、何かできる。


 そう思っていた。


 でも今は。


 目の前の生徒が、自分から言葉を出すまで待った。


 時計の秒針だけが教室に響く。


 一分。


 二分。


 思ったより長い。


 正直、少し気まずい。


「……先生」


「うん」


「何も聞かないんですか?」


「話したくないことは話さなくていいって言ったから」


「本当に何も聞かないとは思わなかった」


「……加減が難しいんだよ」


 女子生徒の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「先生なのに?」


「先生への期待値が高すぎる」


「じゃあ、ちょっと下げときます」


「星で?」


「星で」


「最近それ怖いんだよ」


 少しだけ笑った。


 笑ったあと。


 また、沈黙が来た。


 今度の沈黙は。


 さっきより苦しくなかった。


「私」


 女子生徒が口を開いた。


「学校、休みたいです」


 高瀬は答えなかった。


「……明日だけじゃなくて」


「うん」


「しばらく」


 膝の上で握られた手が震えている。


「うん」


「でも、いじめられてるとかじゃないです」


「分かった」


「友達もいます」


「うん」


「勉強も……嫌いだけど、別にそれが理由じゃなくて」


「うん」


「家も普通です」


 一つ言うたびに。


 彼女は、自分が休んではいけない理由を並べているように見えた。


「じゃあ」


 高瀬は慎重に聞いた。


「どうして休みたい?」


 女子生徒は俯いた。


「分かりません」


「……そっか」


「分からないんです」


 声が震えた。


「朝起きると、行きたくなくて。でも、行かなきゃって思って」


「うん」


「学校来たら普通に喋れるし、笑えるし」


「うん」


「だから私、普通なんです」


 その言葉に。


 高瀬の胸が痛んだ。


『あなたは、まだ大丈夫です』


 かつて。


 自分が誰かに向けた言葉。


 口から出かかった。


 大丈夫だよ。


 疲れてるだけかもしれない。


 少し休めば。


 そこまで浮かんで。


 高瀬は飲み込んだ。


「……普通なら」


 女子生徒が続ける。


「休んじゃ駄目ですよね?」


 高瀬は。


 すぐに答えなかった。


 昨日見つけたノート。


『今日できたこと』


『学校に来た』


『頑張った』


『頑張った』


『頑張った』


 最後に残っていた、消し跡。


『せんせいに たすけてって いえなかった』


 高瀬は目の前の生徒を見る。


「先生は」


 ゆっくり言った。


「普通かどうかと、休んでいいかどうかは、別だと思う」


 女子生徒が顔を上げた。


「……でも」


「理由が説明できないと、休んじゃ駄目?」


「……分かんない」


「先生も分からない」


「また?」


「また」


 女子生徒が少しだけ笑う。


 高瀬も笑った。


「でも、今のお前が『休みたい』って言ったことは聞いた」


「……」


「そこは、理由が分からなくても無視したくない」


 女子生徒の目に、また涙が溜まった。


 高瀬は何も言わなかった。


 励まさなかった。


 大丈夫とも言わなかった。


 ただ。


 泣き終わるまで、そこにいた。



◇



 翌朝。


 女子生徒の席は空いていた。


「今日は休みか」


 隣の生徒が何気なく言った。


「珍しいね」


「昨日元気じゃなかった?」


「普通だったよね」


 普通。


 その言葉に、高瀬の手が一瞬止まった。


「先生?」


「ああ。何でもない」


 出席簿に欠席の印をつける。


 昨日の面談後、本人の了承を得た上で保護者と話をした。


 母親は驚いていた。


『家では普通でした』


 やはり。


 同じ言葉だった。


 でも最後には、


『明日は休ませます』


 と言ってくれた。


 一日で何かが解決するわけじゃない。


 明後日も休むかもしれない。


 一週間かもしれない。


 もっと長いかもしれない。


 高瀬には分からない。


 だから。


 今度は勝手に「戻れる」と決めない。


「じゃあ朝の会始めるぞ」


 そう言って。


 空席から目を離した。



◇



 昼休み。


 高瀬はスマートフォンを取り出した。


 昨日から気になっていた表示。


『影響継続中:1』


 数字は変わっていない。


「……この一って、何なんだ」


 過去の人物が一人。


 そういう意味なのか。


 影響を受けている人間が一人。


 それとも。


 まったく別の意味か。


 画面を触ってみる。


 反応はない。


「都合悪い時だけ無口だな、お前」


「誰と喋ってるんですか?」


「うわっ!」


 背後から同僚教師が覗き込んでいた。


「最近びっくりしすぎじゃないですか?」


「最近後ろから来すぎなんだよ」


「独り言増えてますよ」


「疲れてるんだよ」


「休んだらどうです?」


 高瀬は。


 その言葉に止まった。


「……何です?」


「いや」


 少し笑った。


「そうだな」


「え?」


「いや。そうだよなって思って」


「高瀬先生が素直……」


「失礼だな」


「★5つけときます?」


「いらない」


「即答」


 同僚が笑いながら去っていく。


 高瀬はスマートフォンを伏せた。



◇



 放課後。


 昨日休みたいと言った女子生徒から、学校へ連絡があった。


 高瀬宛てだった。


「もしもし」


『先生?』


「うん」


『今、大丈夫ですか?』


「大丈夫」


 言ってから。


 高瀬は少し笑った。


「……いや。今の大丈夫は普通の大丈夫な」


『何それ』


「こっちの話」


 電話の向こうで、少し笑う声がした。


「今日はどうだった?」


 聞いてから。


 高瀬は一瞬迷った。


 また答えを求めてしまっただろうか。


『……何もしてない』


「そっか」


『朝起きて。ご飯食べて。また寝て』


「うん」


『昼に起きて。テレビ見て』


「うん」


『それだけ』


「うん」


 少し間が空いた。


『先生』


「ん?」


『今日、何もできなかった』


 昨日のノートが。


 頭に浮かんだ。


『今日できたこと』


 高瀬は机の上に置いた手を握った。


 あの時。


 自分は。


 できたことを探そうとした。


 学校に来られた。


 話せた。


 頑張れた。


 前を向かせるために。


 きっと。


 今日のこの子にも。


 探そうと思えば、いくらでも言える。


 電話できた。


 ご飯を食べられた。


 休めた。


 でも。


 高瀬は。


 それを言わなかった。


「何もできなかったか」


『……うん』


「じゃあ今日は」


 少し考えて。


「何もしなかった日だな」


『……それだけ?』


「それだけ」


『怒らないの?』


「なんで怒るんだよ」


『学校休んだし』


「うん」


『勉強もしてない』


「うん」


『ずっと寝てた』


「聞いた」


『……』


「それで?」


 電話の向こうが静かになった。


『……それでって?』


「今日がそういう一日だった。それで終わりじゃ駄目か?」


 返事がない。


 高瀬は待った。


 長い沈黙のあと。


『……いいの?』


 その声は。


 昨日よりずっと幼く聞こえた。


「先生が決めることじゃないけど」


 高瀬は言った。


「少なくとも、今日のお前に点数つけろって言われても、俺はつけない」


『なんで?』


「何もしなかった一日が、良かったのか悪かったのかなんて」


 窓の外を見る。


 夕方の校庭。


 部活動をしている生徒たち。


 走っている。


 声を出している。


 頑張っている。


「今日だけじゃ、分かんないから」


 電話の向こうで。


 小さく。


 息を吐く音がした。


『先生』


「ん?」


『明日も休んでいい?』


 高瀬は。


 少しだけ迷った。


 休め。


 来い。


 どちらも。


 自分が決める言葉ではない。


「明日の朝」


 高瀬は言った。


「起きてから考えよう」


『朝?』


「うん」


「今日のお前が、明日のお前の分まで決めなくていい」


 電話の向こうで。


『……分かった』


 小さな返事。


「じゃあまたな」


『先生』


「ん?」


『ありがとう』


 電話が切れた。


 高瀬はしばらく受話器を持ったままだった。


 正しかったかは。


 分からない。


 明日、この子が学校へ来るかも。


 分からない。


 これで良くなるのかも。


 分からない。


 分からないことばかりだ。


 それでも。


 以前の自分なら。


 きっと。


『明日は来られるといいな』


 そう言っていた。


 励ましのつもりで。


 期待を込めて。


 何気なく。



 高瀬のスマートフォンが震えた。



「……」



 画面を見る。



『影響継続中:1』



 数字が。



 ゆっくり。



『2』



 へ変わった。



「……増えた?」



 高瀬は画面を開く。



 説明はない。



 ただ。



『影響継続中:2』



 高瀬は考えた。



 昨日。



 一人。



 今日。



 二人。



 もし。



 この数字が。



 過去の誰かから始まった影響が。



 次に届いた人間の数だとしたら。



「……まさか」



 高瀬は。



 今日休んだ生徒を思い浮かべた。



 過去の誰かが。



 高瀬を変えた。



 変わった高瀬が。



 今日。



 別の誰かに。



 違う言葉を渡した。



 それを。



 Reviewは。



 数えている?



 その瞬間。



 数字の下に。



 初めて。



 文章が現れた。



『影響は、評価者を経由して伝播します』



 高瀬は息を止めた。



 自分がつけた。



 たった一つの★★★☆☆。



 その影響が。



 まだ。



 終わっていない。



 良い意味なのか。



 悪い意味なのか。



 それすら。



 分からない。



 そして。



 もう一つ。



 高瀬は気づいた。



「……待てよ」



 影響が。



 人から人へ。



 伝わるのなら。



 自分がこれまでにつけてきたReviewは。



 今。



 いったい。



 何人の人生に。



 残っている。



 画面が切り替わった。



『影響継続中:2』



 その下に。



 新しい数字。



『総影響人数:――――』



 読み込みが始まる。



 高瀬は。



 その数字が表示されるのを。



 黙って見つめていた。

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