Review4 白紙の続きを
『影響継続中』
高瀬悠介は、その四文字を何度読み返したか分からなかった。
過去に自分がつけた、★★★☆☆。
『あなたは、まだ大丈夫です』
『今は苦しくても、少し休めばまた戻れます』
あの時の自分は、励ましたつもりだった。
教師として、生徒の背中を押したつもりだった。
けれど相手が本当に言いたかったのは、まったく逆だった。
『頑張りたくないって言っても、いいですかって聞きたかったんです。』
そして今。
その人物の情報は存在しない。
それなのに。
影響だけが、残っている。
「……何が続いてるんだよ」
画面に問いかけても、返事はなかった。
◇
「先生、今日やばいよ」
翌朝。
教室へ入るなり、生徒に言われた。
「何が」
「顔」
「朝一番で教師の顔面を批評するな」
「昨日寝た?」
「寝た」
「何時間?」
「……三時間」
「それ寝たって言わないでしょ」
「寝たには入る」
「じゃあ★2」
「お前ら本当に星好きだな」
笑いが起きる。
昨日より少しだけ、いつもの教室に近かった。
学校側がReviewの使用を控えるよう呼びかけたこともあって、露骨にスマートフォンを見せ合う生徒は減っている。
もちろん、なくなったわけではない。
机の下でこっそり見る。
休み時間に廊下で確認する。
友人同士で星の数を比べる。
大人が「やめなさい」と言った翌日に全員が素直にやめるなら、教師はたぶん今より三割くらい早く帰れる。
「ほら、スマホしまえ。朝の会始めるぞ」
生徒たちが席につく。
高瀬は出席簿を開いた。
名前を呼んでいく。
返事が返る。
いつもの朝。
昨日、★2をつけられた男子生徒もいる。
Reviewを書いた女子生徒もいる。
二人はまだ話していなかった。
でも、それでいい。
昨日の今日だ。
人間関係は、ボタン一つで修復できるものじゃない。
「――以上」
高瀬は出席簿を閉じた。
その時だった。
「先生」
一人の生徒が手を挙げた。
「ん?」
「一個、多くない?」
「何が?」
「人数」
高瀬の手が止まった。
「……何言ってんだ?」
「いや」
男子生徒が教室を見回す。
「今日、全員いるよね?」
「ああ」
「なのに先生、最後にもう一人呼んだ」
教室が少しざわついた。
高瀬は出席簿を見る。
「呼んでないぞ」
「呼んだって」
「誰を?」
「それが……」
男子生徒が眉を寄せる。
「名前、忘れた」
「は?」
「今聞いたのに?」
隣の生徒が笑う。
「いや、マジで。何だっけ」
「お前寝ぼけてんじゃね?」
「違うって!」
周囲から笑い声が上がる。
高瀬も最初は、聞き間違いだと思った。
だが。
出席簿の一番下。
最後の生徒の名前の、その下に。
一本だけ。
横線が引かれていた。
そこには何も書かれていない。
ただ。
高瀬には妙な感覚があった。
消された跡のように見えた。
◇
昼休み。
高瀬は職員室で古い出席簿を開いていた。
「何探してるんですか?」
隣から声が飛んでくる。
「昔の生徒」
「同窓会ですか?」
「違う」
「借金?」
「教師にどういうイメージ持ってる?」
「給料日前はみんな一緒です」
「否定できないの腹立つな」
同僚教師は笑いながらコーヒーを持って離れていった。
高瀬は再びページへ目を落とす。
昨日確認した日付。
『話を聞く』
そう手帳に残していた日。
その頃に担当していた生徒の名簿を、一人ずつ確認していく。
だが。
誰を見ても、決定的な記憶には繋がらない。
昨日、一瞬だけ浮かんだ光景。
夕方の教室。
俯いた生徒。
握られたハンカチ。
『大丈夫。まだ頑張れるよ』
自分の声だけは覚えている。
相手の顔だけが、どうしても出てこない。
「……なんでだよ」
高瀬はページをめくった。
その時。
指が止まる。
一箇所だけ。
不自然に空いていた。
出席番号。
十八。
その次が。
二十。
「……十九は?」
高瀬は顔を上げた。
もう一度見る。
十八。
二十。
間違いない。
十九番が存在しない。
「そんなわけ……」
転校した生徒なら、記録は残る。
欠番になる場合だって、理由はある。
だが、これは違った。
最初から十九番など存在しなかったように、番号だけが飛んでいる。
高瀬は別の資料を探した。
成績記録。
同じ。
十八。
二十。
写真台帳。
同じ。
「……」
高瀬は卒業アルバムを取り出した。
ページを開く。
集合写真。
教師。
生徒。
全員が並んでいる。
高瀬は人数を数えた。
「一、二、三……」
途中で止まった。
もう一度。
数え直す。
名簿より。
一人多い。
「……いる」
写真にはいる。
でも。
名簿にはいない。
高瀬は写真を近づけた。
一番後ろ。
端から三人目。
そこだけ。
妙に隙間が空いている。
いや。
違う。
隙間ではない。
誰かの肩が写っている。
制服。
髪。
腕。
確かに人が立っている。
なのに。
顔だけが。
隣の生徒の影に隠れていた。
偶然。
そう言われれば、それまでだった。
でも。
高瀬は目を離せなかった。
「高瀬先生?」
「……はい」
「電話です」
「あ、すみません」
アルバムを閉じる。
立ち上がろうとして。
もう一度だけ開いた。
同じページ。
同じ集合写真。
高瀬は固まった。
さっきまで。
誰かの肩があった場所。
そこにはもう。
何も写っていなかった。
◇
放課後。
高瀬は一人で資料室へ戻った。
卒業アルバムを開く。
やはり。
誰もいない。
「……見間違いじゃない」
自分に言い聞かせるように呟いた。
スマートフォンを取り出す。
昨夜のReview。
『対象者情報は現在存在しません』
『照合結果:0件』
そして。
『影響継続中』
「存在しないのに……影響だけ残ってる」
そこで。
高瀬は考え方を変えた。
人を探すから、見つからない。
なら。
その人が残したものを探せばいい。
高瀬は古い資料を片っ端から確認した。
作文。
学級通信。
係活動。
行事の記録。
文集。
一時間近く探した。
何もない。
「くそ……」
椅子にもたれる。
天井を見上げた。
その時。
棚の上に置かれた箱が目に入った。
『忘れ物・落とし物』
古い年度のものだ。
「まさかな」
箱を下ろす。
ハンカチ。
シャープペン。
キーホルダー。
名前の消えかけた水筒。
その中に。
一冊だけ。
薄いノートがあった。
表紙に名前はない。
開く。
授業のノートではなかった。
一ページ目。
『今日できたこと』
その下に。
『学校に来た』
『一時間目までいた』
『給食を少し食べた』
高瀬の指が止まる。
次のページ。
『今日できたこと』
『教室に入った』
『先生におはようって言えた』
次。
『今日できたこと』
『泣かなかった』
ページをめくる。
少しずつ。
文字が乱れていく。
『今日できたこと』
『休まずに来た』
次。
『今日できたこと』
『頑張った』
次。
『今日できたこと』
『頑張った』
また。
『頑張った』
次も。
『頑張った』
高瀬の喉が詰まった。
昨日のReviewが頭に蘇る。
『頑張りたくないって言っても、いいですかって聞きたかったんです。』
「……これ」
高瀬はページをめくった。
最後の一枚。
そこだけ。
『今日できたこと』
の文字がない。
代わりに。
一文だけ。
『今日は、できなかったことを書いてもいいですか』
高瀬は息を止めた。
その下には。
何も書かれていない。
白紙。
ただ。
ページの端に。
小さな跡が残っていた。
何度も。
何度も。
鉛筆で書いて。
消した跡。
高瀬はノートを傾けた。
光に当てる。
紙に残った筆圧。
かすかに読める。
「……」
目を凝らす。
最初の文字。
『せ』
次。
『ん』
高瀬の心臓が強く鳴った。
指で紙をなぞる。
消された言葉を。
一文字ずつ。
拾っていく。
『せんせいに』
その先。
『たすけてって』
高瀬の指が止まった。
まだ続いている。
『いえなかった』
「……っ」
昨日。
自分は謝った。
『ごめん』
でも。
相手は。
もう一度。
教えてくれた。
高瀬はノートを閉じられなかった。
しばらくして。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
例の★1Review。
本文は変わっていない。
ただ。
最下部。
『影響継続中』
その横に。
数字が表示されていた。
『1』
「……一?」
高瀬は眉を寄せた。
その瞬間。
資料室の外から。
声が聞こえた。
「先生」
高瀬が顔を上げる。
廊下。
誰もいない。
「……誰?」
返事はない。
高瀬は立ち上がった。
扉を開ける。
右。
誰もいない。
左。
誰もいない。
「……」
気のせい。
そう思って。
資料室へ戻ろうとした。
その時。
廊下の先。
一人の生徒が立っていた。
高瀬のクラスの生徒だった。
「どうした?」
声をかける。
生徒は。
泣いていた。
「先生」
「うん」
「……今、いいですか」
高瀬は。
一瞬。
手に持ったノートを見た。
そして。
スマートフォン。
『影響継続中:1』
もう一度。
目の前の生徒を見る。
高瀬は。
ノートを閉じた。
「いいよ」
生徒の前まで歩く。
昨日までの自分なら。
きっと。
最初にこう聞いていた。
『何があった?』
でも。
今日は。
少しだけ違った。
「話したくないことは、話さなくていいから」
生徒が顔を上げる。
「とりあえず」
高瀬は。
教室の扉を開けた。
「座ろうか」
生徒は。
小さく。
頷いた。
その瞬間。
ポケットの中で。
スマートフォンが震えた。
高瀬は。
見なかった。




