Review1 ★5をつけた人から死んでいく
午前七時十二分。
高瀬悠介は、コーヒーを淹れながらスマートフォンを見ていた。
通知はない。
もう一度、画面を消す。
三秒後。
また見る。
「……来てないって」
自分で言ってから、少し嫌になった。
以前なら、通知なんて来ない方がよかった。
Reviewが現れるたびに誰かの人生へ踏み込み、自分の書いた言葉で現実が変わる。その責任が怖くて、何度もスマートフォンそのものを捨てたくなった。
それなのに今は。
何も届かないことの方が、不気味だった。
あの日から三日。
Reviewは、一件も届いていない。
高瀬はコーヒーを一口飲んだ。
「苦っ」
砂糖を入れ忘れていた。
それくらい、自分でも気づかないほど考え事をしているらしい。
もう一杯飲む。
「……やっぱ苦い」
当たり前だった。
砂糖を入れていないのだから。
高瀬は諦めてカップを置いた。
その瞬間。
スマートフォンが震えた。
高瀬の手が止まる。
画面を見る。
通知。
反射的に息を呑んだ。
だが表示されていたのは、
『本日ポイント5倍』
近所のドラッグストアだった。
「……お前かよ」
スマートフォンを伏せる。
心臓だけが、まだ少し速かった。
◇
「先生」
「ん?」
「聞いてました?」
「聞いてた」
「じゃあ私、何て言いました?」
「……」
「聞いてないじゃん」
「ごめん」
昼休み。
教卓の前に立っていた女子生徒が呆れた顔をした。
「珍しいですね」
「何が?」
「先生がぼーっとしてるの」
「先生だってぼーっとするよ」
「授業中?」
「それは怒られるな」
「誰に?」
「みんなに」
「じゃあちゃんとしてください」
「はい」
高瀬が素直に頭を下げると、生徒は笑った。
「で、何だった?」
「進路希望の紙」
「ああ」
「まだ決まってなくてもいいですか?」
「いいよ」
「でも、みんな結構書いてて」
生徒は手に持った紙を見る。
進路希望。
第一希望。
第二希望。
その下には、保護者記入欄。
「決まってないのが不安?」
「ちょっと」
「じゃあ、“まだ決まってません”が今の答えでいいんじゃない?」
「そんなのあり?」
「あるよ」
「先生が言っていいの?」
「先生だから言ってる」
生徒は少し考えた。
「先生は、中学生の時から先生になりたかった?」
「いや」
「じゃあ何になりたかった?」
「覚えてない」
「夢なかったんですか?」
「多分、金持ち」
「最低」
「なんでだよ」
「もっと教師っぽい夢言ってくださいよ」
「世界平和」
「急にデカい」
二人で笑った。
高瀬は進路希望調査票を指さした。
「今決めたことが、一生そのままになるわけじゃないから」
「……」
「変えてもいいし、迷ってもいい。自分で考えて書いたなら、それでいいよ」
「じゃあ空欄でも?」
「それは先生が怒られるから何か書いて」
「結局!」
生徒は笑いながら教室を出ていった。
その背中を見送る。
高瀬はふと思った。
人生は。
本当なら、こういうものなのかもしれない。
迷う。
選ぶ。
間違える。
また選ぶ。
誰かから星をつけられなくても。
それでも進んでいく。
スマートフォンが震えた。
高瀬の表情から笑みが消えた。
◇
画面には見慣れた表示があった。
『Reviewが届きました』
久しぶりに見たはずなのに、身体は覚えている。
高瀬は職員室へ戻らず、人のいない階段の踊り場へ向かった。
画面を開く。
投稿者名。
知らない名前だった。
年齢。
二十九歳。
本文。
『あの人は、私の人生を救ってくれました。』
高瀬は読み進める。
『仕事も、家族も、全部嫌になっていた時期がありました。』
『そんな時、たまたま入った店で声をかけてくれた人がいました。』
『最初は変な人だと思いました。』
『でも、私の話を最後まで聞いてくれました。』
『何度も会うようになって、少しずつ生活が変わりました。』
『仕事も変えました。』
『家族とも、もう一度話せました。』
『あの人がいなかったら、今の私はいません。』
高瀬は少しだけ肩の力を抜いた。
珍しい。
素直に、いいReviewだった。
誰かに救われた人が。
その感謝を書いている。
『だから評価します。』
星が表示される。
★★★★★
高瀬は画面を見つめた。
満点。
何の迷いもない。
その下。
『あなたは、私の人生で出会った最高の人です。』
高瀬は小さく息を吐いた。
「……こういうのもあるんだな」
Reviewは。
人を傷つけるだけではない。
誰かが誰かに伝えられなかった感謝を、形にすることもある。
そう思った。
その時。
画面の一番下に。
もう一行あることに気づいた。
『このReviewを公開しますか?』
高瀬の指が止まった。
「……公開?」
初めて見る。
今まで、そんな選択肢はなかった。
『YES』
『NO』
「待てよ……」
高瀬は画面をスクロールした。
説明はない。
戻ることもできない。
ただ。
選択肢だけが表示されている。
嫌な予感がした。
第一章までなら。
きっと高瀬は迷いながらも押していた。
Reviewに従う。
表示されたものを受け入れる。
そうするしかないと思っていた。
でも。
今は違う。
「……押さない」
高瀬はスマートフォンを閉じた。
何が起きるか分からないものを。
もう簡単には選ばない。
それが。
あの日までの自分との。
小さな違いだった。
◇
午後四時四十一分。
授業を終えた高瀬は職員室へ戻った。
スマートフォンを見る。
まだ残っている。
『このReviewを公開しますか?』
YES。
NO。
「しつこいな……」
消えない。
通知を閉じても。
アプリを終了しても。
もう一度開けば同じ画面が出る。
高瀬はNOを押そうとした。
その時。
「高瀬先生」
呼ばれて顔を上げた。
同僚の教師が立っている。
「何ですか?」
「お客さん」
「俺に?」
「うん。若い女の人」
「保護者?」
「分かんない。名前聞いても、“高瀬先生なら分かる”って」
「……?」
心当たりがない。
高瀬はスマートフォンをポケットへ入れた。
◇
玄関。
女性が一人、立っていた。
二十代くらい。
白いシャツ。
黒いパンツ。
どこにでもいそうな女性だった。
高瀬を見る。
「高瀬悠介さん?」
「そうですけど」
女性が笑った。
「よかった」
「……どちら様ですか?」
女性は答えなかった。
代わりに。
「届きました?」
高瀬の身体が固まった。
「何がですか?」
「Review」
周囲の音が遠くなった。
「……誰ですか」
「まだ押してないんですね」
「何で知ってる」
女性は少し困ったように笑った。
「押さない方がいいですよ」
高瀬は女性を睨んだ。
「あなた、何を知ってるんですか」
「少しだけ」
「少しって何だ」
「高瀬さんよりは知ってます」
「だから何を――」
女性のスマートフォンが鳴った。
「あ」
画面を見る。
女性の表情が変わった。
さっきまでの柔らかい笑顔が消える。
「……遅かった」
「何が?」
女性は答えない。
高瀬のスマートフォンも。
震えた。
二人が。
ほぼ同時に画面を見る。
YESも。
NOも。
消えていた。
代わりに。
『Reviewが公開されました』
「俺、押してないぞ」
高瀬は女性を見る。
「おい。これどういう――」
「高瀬さん」
女性の声が震えていた。
「今から何が起きても」
「……」
「自分のせいだと思わないでください」
高瀬の眉が寄る。
「何の話だよ」
女性は答えなかった。
ただ。
高瀬のスマートフォンを見ていた。
画面が変わる。
『評価を反映します』
★★★★★
満点。
その下。
高瀬が一度も見たことのない文字が現れた。
『評価対象者の人生を最適化します』
「……最適化?」
女性が。
目を閉じた。
「始まった」
次の瞬間。
遠くで。
救急車のサイレンが鳴った。
◇
午後六時十三分。
高瀬は女性と向かい合っていた。
学校近くの公園。
「説明してください」
女性は黙っている。
「あなた、知ってたんですよね」
「……はい」
「何が起きる」
「まだ分かりません」
「ふざけるな!」
高瀬の声が公園に響いた。
女性の肩がわずかに揺れた。
「すみません」
「謝ってほしいんじゃない!」
高瀬はスマートフォンを握りしめた。
「俺は何も押してない。なのに勝手に公開された。最適化って何だ。あのReviewを書かれた人に何が起きる?」
「……」
「答えてください」
女性は唇を噛んだ。
「私も」
声が小さかった。
「最初は、いいことだと思ってました」
「何が?」
「★5」
高瀬が黙る。
「人生を最高だと評価された人が、不幸になるはずないって」
「……」
「でも違った」
女性の手が震えていた。
「★5は」
一度、言葉が止まる。
「その人にとって必要のないものを、消します」
「……は?」
「苦しみ」
「……」
「失敗」
「……」
「後悔」
女性の目が、高瀬を見る。
「人間関係も」
「待て」
「仕事も」
「待てって」
「記憶も」
「……」
「その人自身も」
高瀬は。
何も言えなかった。
女性が続ける。
「SYSTEMにとっての“最高の人生”と、人間にとっての幸せは同じじゃない」
風が吹いた。
高瀬は動けない。
「じゃあ……」
ようやく声が出る。
「さっきの人は?」
「分かりません」
「助けられる?」
「……」
「助けられるんですよね?」
女性は答えない。
高瀬の声が強くなる。
「答えろよ!」
「分からないんです!」
女性も叫んだ。
初めて。
感情を剥き出しにした。
「私だって助けたかった!」
高瀬が止まる。
「助けられるなら……!」
女性の目に涙が浮かぶ。
「とっくに助けてます」
沈黙。
高瀬は。
その言葉の意味を考えた。
「……誰を?」
女性の表情が変わった。
しまった。
そういう顔だった。
「今……誰を助けたかったって言った?」
「……」
「あなたも誰かにReviewを書いたことがあるんですか?」
女性が一歩下がる。
「答えてください」
「……帰ります」
「待てよ」
女性が背を向ける。
高瀬は追おうとした。
その時。
スマートフォンが震えた。
新しい通知。
『最適化処理が完了しました』
高瀬の足が止まった。
その下に。
名前。
さっきのReview。
評価された人物の名前。
そして。
『変更項目:1』
「……一個?」
高瀬は画面を押した。
表示された。
『不要要素を削除しました』
さらに下。
『削除対象――』
文字が。
一瞬。
乱れた。
そして。
表示された。
『投稿者』
「…………は?」
高瀬の呼吸が止まった。
★★★★★。
『あなたは、私の人生で出会った最高の人です。』
そう書いた。
あの女性。
その人が。
『不要要素』
高瀬は顔を上げた。
「待って!」
さっきの女性を呼ぶ。
「これ……!」
だが。
女性は。
画面を見るなり。
青ざめた。
「違う」
「何が?」
「こんなの……今までと違う」
高瀬のスマートフォンが。
もう一度震えた。
新しいReview。
一件。
また一件。
さらに。
一件。
「……何だよ」
通知が止まらない。
『★★★★★』
『★★★★★』
『★★★★★』
すべて。
満点。
高瀬は画面をスクロールした。
投稿者も。
評価対象者も。
全部違う。
「なんで……」
女性が呟いた。
「同時に……?」
通知。
通知。
通知。
その数が。
十を超えた。
二十。
三十。
高瀬のスマートフォンが震え続ける。
そして。
すべてのReviewに。
同じ一文が追加された。
『評価を反映します』
女性が高瀬の腕を掴んだ。
「逃げて」
「は?」
「今すぐ!」
「何から――」
「分からない!」
女性は泣いていた。
「でも、こんなの見たことない!」
その瞬間。
すべての通知が消えた。
静かになった。
画面の中央に。
一つだけ。
文字が浮かぶ。
『第二段階へ移行します』
高瀬は。
その文字を見つめた。
「……第二段階?」
画面が暗くなる。
そして。
最後に。
一文だけ表示された。
『採点対象を拡大しました』
「対象……?」
女性が。
震える声で答えた。
「高瀬さん」
「……」
「今までReviewに選ばれてたのは……」
一度。
息を呑む。
「ほんの一部の人だけです」
高瀬は女性を見る。
「じゃあ……今度は?」
女性は答えなかった。
答える必要もなかった。
街のあちこちで。
スマートフォンが鳴り始めた。
一台。
二台。
十台。
百台。
帰宅途中の会社員が立ち止まる。
高校生が画面を見る。
ベビーカーを押していた母親がスマートフォンを取り出す。
店員が。
老人が。
学生が。
誰もが。
同じ画面を見ていた。
『あなたに、新しいReviewが届きました』
高瀬は。
初めて理解した。
今まで自分が見ていたものは。
始まりですらなかった。
その夜。
人生を採点される側と。
人生を採点する側の境界が。
消えた。




