Re:View 03 明日のことなんて、知らなければよかった ――あの日を、もう一度
「未来が見えたら、何見る?」
突然そんなことを聞かれて、真壁透はスマートフォンから顔を上げた。
「……は?」
「だから未来。見られるなら何見る?」
「急にどうした」
「いいから」
向かいに座る弟は、ファミレスのポテトを一本つまみながら真壁の答えを待っている。
時刻は午後九時を少し過ぎたところだった。
仕事帰りの真壁が一人で夕食を済ませようとしていたところへ、近くにいた弟が勝手に合流してきた。注文したのはポテトとドリンクバーだけなのに、真壁のハンバーグをすでに二口奪っている。
「宝くじ」
「つまんな」
「じゃあ聞くな」
「もっとあるだろ。何年後に結婚するとか」
「興味ない」
「寿命とか」
「もっと興味ない」
「自分がいつ死ぬか分かるんだぞ?」
真壁は少し考えた。
「絶対見ない」
「なんで?」
「死ぬ日なんか知ったら、その日までずっと数えるだろ」
「じゃあ明日死ぬって分かったら?」
「仕事休む」
「そこ?」
「当たり前だろ。最後の日まで働きたくない」
「兄ちゃんらしいわ」
弟が笑う。
「じゃあ俺の未来は?」
「見ない」
「即答!?」
「お前の未来まで俺が知ってどうすんだよ」
「事故るとか分かったら助けられるじゃん」
「縁起でもないこと言うな」
「例えばだよ」
「それでも見ない」
「冷たっ」
「逆だよ」
真壁は弟に取られる前に、残っていたハンバーグを自分の側へ寄せた。
「お前が明日事故るって知ったら、俺はたぶん今日からお前を外に出さない」
「助かるじゃん」
「その代わり、お前が今日やりたかったこと全部できなくなる」
「一日くらいよくない?」
「じゃあ一週間後だったら?」
「……」
「一年後だったら?」
弟が黙る。
「一年間、お前が出かけるたびに止めるかもしれない。車乗るな、電車乗るな、そこ行くな、あいつと会うなって」
「兄ちゃんならやりそう」
「だろ?」
「怖っ」
「だから知らない方がいい」
真壁は水を飲んだ。
「未来なんて、来てから考えればいいんだよ」
「名言っぽく言ってるけど普通だな」
「ポテト返せ」
「食べた」
「帰れ」
「車で送って」
「図々しすぎるだろ」
二人で笑った。
その夜の会話を、真壁はしばらく忘れていた。
◇
「兄ちゃん、土曜空いてる?」
三日後。
仕事中の真壁のスマートフォンに、弟からメッセージが届いた。
『なんで』
『付き合ってほしいとこある』
『嫌だ』
『まだ何も言ってない』
『お前が誘ってくる時、大体ろくなことない』
『今回はマジ』
『何』
数秒後。
『車見に行く』
真壁は眉を寄せた。
『買うの?』
『まだ見るだけ』
『一人で行け』
『兄ちゃん車詳しいじゃん』
『普通』
『俺より詳しい』
『全人類だいたいお前より詳しい』
『お願いします真壁先生』
『誰が先生だ』
その後、土曜日の午前十一時に待ち合わせることになった。
◇
土曜日。
午前十時五十二分。
真壁は自宅で財布を探していた。
「……ない」
机。
鞄。
上着のポケット。
ない。
昨日コンビニへ行った時まではあった。
スマートフォンが鳴る。
『着いた』
弟だった。
「早いんだよ」
そう呟きながら、真壁は返信する。
『財布ない。ちょい待って』
『また?』
『またとは何だ』
『冷蔵庫見た?』
『俺を何だと思ってんだ』
『前スマホ入ってたじゃん』
『あれは事故』
『冷蔵庫見ろ』
見ない。
絶対に見ない。
三十秒後。
真壁は冷蔵庫を開けた。
「……ないじゃねえか」
『なかった』
『見たんかい』
腹が立ったので既読だけつけた。
結局、財布は昨日着ていたズボンのポケットから見つかった。
午前十一時七分。
『今出る』
『おっそ』
『七分だろ』
『先行ってるわ』
『待ってろよ』
『近いから大丈夫』
『おい』
既読。
返事はなかった。
「……ほんと人の話聞かねえな」
真壁は靴を履いた。
七分。
たった七分だった。
◇
交差点の手前で、人だかりが見えた。
最初は何だと思っただけだった。
工事か。
事故か。
それくらい。
真壁は少し速度を落として歩いた。
救急車の音が聞こえる。
道路の中央に、一台の車が斜めに止まっている。少し離れたところには自転車が倒れ、警察官が周囲の人を下がらせていた。
事故か。
真壁はスマートフォンを取り出した。
『どこ』
弟へ送る。
返事はない。
まあ、歩いているのだろう。
そう思った。
もう一度、事故現場を見る。
倒れている自転車。
その横に落ちているものが見えた。
黒い鞄。
見覚えがあった。
真壁の足が止まった。
「……いや」
似ているだけだ。
同じような鞄なんて、いくらでもある。
スマートフォンを見る。
『どこ』
既読がつかない。
真壁は電話をかけた。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
出ない。
人だかりの向こうで、救急隊員が誰かを担架へ移している。
顔は見えない。
真壁は歩き出した。
最初は普通に。
途中から速くなった。
「すみません」
警察官に止められる。
「危ないので下がってください」
「あの」
「下がってください」
「あの鞄」
「え?」
「あれ……」
うまく声が出ない。
「あれ、弟のかもしれなくて」
警察官の表情が変わった。
「弟さんのお名前は?」
答えた。
警察官が何かを確認する。
ほんの数秒だった。
でも。
その数秒だけ、時間の進み方がおかしくなった。
◇
病院の廊下は、異様に静かだった。
真壁は椅子に座っていた。
時計を見る。
午後一時二十六分。
また見る。
一時二十七分。
スマートフォンには、最後のやり取りが残っている。
『先行ってるわ』
『待ってろよ』
『近いから大丈夫』
『おい』
それだけ。
たったそれだけの会話だった。
午前十一時七分。
もし財布を前日に用意していたら。
もし七分遅れなかったら。
もし「待ってろよ」ではなく電話をしていたら。
もし弟が一人で先に行かなかったら。
何度考えても、午前十一時七分へ戻る。
「……七分」
真壁は呟いた。
たった七分。
人生を変えるには、十分すぎる時間だった。
◇
弟は死ななかった。
医師からその言葉を聞いた瞬間、真壁はその場に座り込みそうになった。
命に別状はない。
ただし、右脚の損傷が大きかった。
何度かの手術。
長いリハビリ。
元のように動けるようになるかは、今の段階では分からない。
医師は丁寧に説明してくれた。
真壁は何度も頷いた。
でも、半分も頭に入っていなかった。
死ななかった。
それだけでよかった。
そう思った。
本当に。
その時は。
◇
三週間後。
「兄ちゃん」
「ん?」
「車、キャンセルした」
病室で弟が言った。
「ああ」
「まあ、そりゃそうか」
笑っている。
真壁も笑おうとした。
でも、うまくできなかった。
「また乗れるよ」
「何が?」
「車」
「……」
「リハビリすれば」
弟は窓の外を見た。
「医者、何て言ってた?」
「時間かかるって」
「それだけ?」
「それだけ」
「嘘つけ」
真壁は黙った。
「俺の脚、元通りになる?」
「なるよ」
即答した。
弟がこちらを見る。
「絶対?」
「絶対」
もう一度、迷わず言った。
根拠なんてない。
でも、それ以外の答えを言えなかった。
「そっか」
弟は笑った。
「じゃあ頑張るわ」
「おう」
「車もまた買う」
「やめとけ」
「なんでだよ」
「お前、運転下手そうだから」
「まだ運転したことねえよ」
「じゃあ余計怖い」
「ひどっ」
弟が笑う。
真壁も今度は少し笑えた。
でも病室を出た瞬間。
壁に背中を預けた。
――絶対。
自分で言った言葉が、ひどく重かった。
◇
半年後。
弟は歩いていた。
以前と同じではない。
杖を使い、右脚を庇いながら、一歩ずつ。
「遅い」
「うるせえ」
「じいちゃんに抜かれてたぞ」
「じいちゃん速すぎんだよ」
「競歩選手かもしれん」
「なら仕方ない」
リハビリ施設から出てきた弟と並んで歩きながら、真壁は笑った。
「兄ちゃん」
「何」
「俺さ」
「うん」
「事故った日、覚えてる?」
真壁の表情がわずかに固まった。
「忘れるわけないだろ」
「ファミレスで話したじゃん。その前」
「何を?」
「未来見えたらどうするって」
思い出した。
『お前が明日事故るって知ったら、俺はたぶん今日からお前を外に出さない』
あの時は笑い話だった。
弟も覚えていたらしい。
「もしさ」
「うん」
「兄ちゃんが知ってたら、止めた?」
「当たり前だろ」
即答だった。
「絶対?」
「絶対」
「じゃあ、事故らなかったな」
「……そうだな」
弟は少し笑った。
「だったら、未来見えた方がよくない?」
真壁は答えられなかった。
半年前なら、迷わず否定していた。
未来なんて知らない方がいい。
来てから考えればいい。
そう言った。
でも今は。
午前十一時七分を知ることができたのなら。
たった一度。
たった一度だけ未来を見られたのなら。
弟を家から出さなかった。
何を言われても。
嫌われても。
力ずくでも。
止めた。
「……そうかもな」
真壁が答えると、弟が笑った。
「意見変わってんじゃん」
「人間だからな」
「便利だな、それ」
「便利だよ」
二人は歩き続けた。
◇
それから。
真壁には、一つの癖ができた。
出かける前に天気予報を見る。
電車の遅延情報を見る。
事故情報を見る。
家族が出かける時には行き先を聞く。
「何時に帰る?」
「誰と行く?」
「車?」
「電車?」
最初は心配性になっただけだった。
でも少しずつ。
知っていれば避けられる。
先に分かっていれば変えられる。
そう考えるようになった。
事故だけではない。
失敗も。
別れも。
後悔も。
全部。
起きる前に知ることができたなら。
人生はもっと上手くやれるのではないか。
未来は、知らない方がいい。
そう言っていた男は。
いつの間にか。
誰よりも未来を知りたがるようになっていた。
◇
数年後。
真壁は一人でファミレスにいた。
あの日、弟と未来について話した店だった。
何となく入っただけだ。
メニューも変わっている。
店員も違う。
座っている席さえ、あの日とは違う。
それでも、ポテトを見た瞬間に思い出した。
『じゃあ俺の未来は?』
『見ない』
『事故るとか分かったら助けられるじゃん』
真壁は目を閉じた。
「……お前が正しかったな」
誰にも聞こえない声で呟いた。
スマートフォンを開く。
弟からメッセージが届いていた。
『今日遅くなる』
真壁はすぐ返信する。
『何時』
『分からん』
『車?』
『電車』
『何線』
『過保護かよ』
『いいから』
しばらくして。
『○○線』
真壁はその路線名を検索した。
事故情報なし。
遅延なし。
問題なし。
「……よし」
画面を閉じる。
そこでふと、自分がおかしくなったことに気づいて笑った。
「何が“よし”だよ」
何も保証されていない。
電車が平常運転だからといって、弟が無事に帰る保証なんてどこにもない。
未来は分からない。
当たり前だ。
それなのに。
知りたい。
ほんの少し先だけでもいい。
何が起きるのか。
誰に何が起きるのか。
それさえ分かれば。
今度こそ。
間に合える気がした。
この頃の真壁透は、まだ知らない。
未来を知ることと。
未来を変えることは。
同じではない。
そして。
知らなかった未来を知ることよりも。
知ってしまった未来を抱えて生きる方が。
ずっと残酷なこともある。
それでも彼は、やがて願う。
見たい。
この先を。
その願いが。
いつか彼自身の人生を、まるで別の場所へ連れていくことになるとも知らずに。
Re:View 03 明日のことなんて、知らなければよかった
――END.




