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この人生、採点中  作者: 夜凪 灯
第一章 『あなたは、あなたを何点にしますか』

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Re:View 02 正解じゃなくても、選びました ――あの日を、もう一度

「それ、絶対似合わないって」


 試着室のカーテンを開けた瞬間、結良は友人から容赦のない一言を浴びせられた。


「……まだ三秒なんだけど」


「三秒あれば分かる」


「人の可能性を三秒で潰さないでもらえる?」


「じゃあ五秒待つ?」


「そういう問題じゃない」


 友人は腕を組み、本当に二秒待った。


「うん。やっぱ似合わない」


「合計五秒で結論出すな!」


 結良は鏡の前で黒いジャケットの襟を整えた。自分では悪くないと思っていた。少なくとも試着室から出るまでは。


「そんな変?」


「変じゃない。ただ、結良じゃない」


「何それ」


「なんか無理して“大人の女です”ってやってる感じ」


「大人の女なんだけど?」


「自称ね」


「殴るよ?」


「大人の女はすぐ殴らない」


 友人が笑いながら別の服をラックから引っ張り出した。


「こっち着てみて」


「嫌」


「絶対似合う」


「子どもっぽい」


「一回だけ」


「嫌」


「アイス奢る」


「着る」


「決断早っ」


「条件が変わったから」


「安いなあ、結良の意思」


「合理的と言ってください」


 服を受け取って試着室へ戻りながら、結良も笑った。


 こういうことなら、いくらでも決められる。


 服も、食べ物も、休日にどこへ行くかも、だいたい直感で選べる。失敗したところで「まあいっか」で終わるからだ。


 なのに、自分の人生に関わることになると途端に決められなくなる。


 間違えたくない。


 後悔したくない。


 できることなら、選ぶ前に正解を知りたい。


 そんなものがあるはずもないのに。



◇



「で、何があったの?」


 買い物を終え、二人は駅前のカフェに入った。


 約束通り友人が奢ったアイスを口へ運びながら、結良は知らないふりをする。


「何が?」


「買い物したかったわけじゃないでしょ」


「したかったよ」


「嘘」


「なんでよ」


「結良、悩んでる時だけ私のこと買い物に誘うから」


 結良のスプーンが止まった。


「……そんなことない」


「去年、バイト辞めようか迷ってた時もそうだった」


「あったっけ?」


「その前、告白断るか迷ってた時も」


「それは忘れて」


「三時間付き合わされた」


「記憶から消してください」


「そのさらに前は――」


「もういい! 分かった!」


 友人が楽しそうに笑っている。


 結良はアイスを一口食べた。冷たさが舌に広がるのを待ってから、小さく息を吐く。


「……仕事」


「辞めたいの?」


「分かんない」


「仕事が嫌?」


「嫌いじゃない」


「人間関係?」


「普通」


「給料?」


「めちゃくちゃ高くはないけど、困ってない」


「じゃあ何?」


「それが分かんないから困ってるの」


 自分でも面倒くさいと思う。


 明確な不満があるわけではない。


 普通に出勤して、普通に仕事をして、普通に給料をもらう。休日には友達と買い物へ行けるし、欲しいものだってそれなりに買える。


 何かを変えなければならない理由なんて、どこにもなかった。


 それなのに最近、会社へ向かう電車の中で何度も考える。


 このままでいいのかな、と。


「何かやりたいことあるの?」


「ない」


「ないんかい」


「だから困ってんの!」


 二人で笑ったものの、結良の胸に引っかかったものは消えなかった。


 友人はしばらく結良の顔を見ていたが、やがて何かに気づいたように眉を寄せた。


「……あの子のこと?」


 結良の手が止まった。


 さっきまでの笑いが、すっと遠くなった。


「違うよ」


「結良」


「違うって」


 否定する声が、自分でも分かるくらい弱かった。


 友人はそれ以上追及しなかった。


 その沈黙が、かえって苦しかった。


 忘れたわけではない。


 むしろ、忘れられなかった。



◇



 三か月前。


「結良さん、ちょっといいですか?」


 昼休みが終わる直前、後輩の美月が声をかけてきた。


 入社して一年にも満たない彼女は、仕事が速いタイプではなかった。確認に時間がかかり、一度教えたことをもう一度聞きに来ることもある。周囲が十分で終わらせる仕事に二十分かけてしまい、焦って別のミスをすることもあった。


 けれど、手を抜く子ではなかった。


 誰より早くメモを取り、分からないことがあれば何度でも確認する。昼休みに一人で資料を読み返している姿も、結良は何度も見ていた。


「どうした?」


「私……やっぱり遅いですよね」


「何が?」


「仕事です」


「まあ、速くはない」


「そこは否定してくださいよ」


「嘘ついてもしょうがないじゃん」


「結良さん、たまに優しいのか厳しいのか分かんないです」


「基本優しいよ」


「自分で言います?」


 美月が笑う。


 でも、その笑顔には元気がなかった。


「今日も怒られました」


「見てた」


「向いてないのかな、私」


 結良はすぐに答えなかった。


「辞めたい?」


「……分かんないです」


「じゃあ今決めなくていいんじゃない?」


「でも迷惑かけてるし」


「迷惑かけない新人なんている?」


「結良さんも?」


「私は完璧だった」


「絶対嘘」


「バレた?」


「早すぎます」


 ようやく美月が笑った。


 結良はそれを見てから、少し声を柔らかくした。


「今できないことと、ずっとできないことは違うでしょ」


「……」


「美月が本当に向いてないかなんて、私には分かんないよ」


「でも」


「もう少しやってみたいなら、やってみればいいじゃん」


 美月は少しだけ黙ったあと、嬉しそうに笑った。


「結良さんに相談してよかった」


「相談料、高いよ」


「いくらですか?」


「今度アイス」


「安っ」


「じゃあ焼肉」


「急に上がった!」


 その時の美月の笑顔を、結良は今でも覚えている。



 だから。


 余計に忘れられない。



◇



 その日の夕方。


「結良さん、ちょっと」


 上司に呼ばれた。


「はい?」


「美月さんのことで聞きたいんだけど」


 その名前が出た時点で、何の話かはだいたい分かった。


「最近どう?」


「どう、というと?」


「仕事。結良さん、よく教えてるでしょ」


「頑張ってますよ」


「うん。ただ、ミスが続いててね」


 結良も知っていた。


 同じ部署の人間なら、誰でも知っている。


「正直なところ、どう思う?」


「どうって……」


「この仕事、続けられそう?」


 困った。


 美月が努力していることは知っている。


 でも、努力していることと、仕事ができていることは同じではない。


 ここで「大丈夫です」と答えるのも無責任な気がした。


「本人、頑張ってます」


「それは分かってる。ただ、結良さんから見てどう?」


「……」


「正直に言ってくれていいよ」


 正直に。


 その言葉に押されるように、結良は考えた。


 何度も同じミスをしている。


 仕事の速度もなかなか上がらない。


 本人自身が、毎日のように苦しそうにしている。


 無理に続けることが、本当に美月のためなのか。


 昼休みには「もう少しやってみればいい」と言った。


 けれどそれは、先輩として励ましただけだ。


 仕事として評価するなら――。


「……今のままだと」


 結良は慎重に言葉を選んだ。


「正直、厳しいと思います」


 上司は小さく頷いた。


「そうだよね」


「でも、まだ一年経ってないですし、本人も頑張ってるので――」


「うん。ありがとう。参考になった」


 話はそこで終わった。


 結良も、それ以上は気にしなかった。


 ただ意見を聞かれただけ。


 そう思っていた。



◇



 四日後。


 美月が会社を辞めると聞いた。


「……え?」


 結良は思わず聞き返した。


「今月末で退職だって」


 同僚は、それ以上のことを知らなかった。


 結良はすぐに美月を探した。


 給湯室。


 いない。


 休憩室。


 いない。


 廊下へ出たところで、段ボール箱を抱えた美月と鉢合わせた。


「美月」


「あ……結良さん」


「辞めるって本当?」


「はい」


「急じゃない?」


「……そうですね」


「何かあった?」


 聞いた瞬間。


 美月の表情が変わった。


 ほんの少しだけ。


 でも結良には分かった。


「……美月?」


「結良さん」


「うん」


「私、この仕事向いてないですか?」


 結良の胸がざわついた。


「何で急に――」


「上司に言われました」


「……何を?」


「このまま続けても厳しいんじゃないかって」


 嫌な予感がした。


「それで?」


「周りの人からも、そういう意見が出てるって」


 息が詰まった。


「……誰が言ったか聞いたの?」


「最初は教えてくれませんでした」


 美月は段ボール箱を抱えたまま、結良を見た。


 いつものように笑おうとしていた。


 でも、うまく笑えていなかった。


「でも私、聞いちゃったんです」


「……」


「結良さんも、厳しいと思うって言ったんですよね」


 何か言わなければと思った。


 違う。


 そうじゃない。


 あれは、美月を辞めさせるために言ったわけじゃない。


 頑張っていることも伝えた。


 まだ時間が必要だとも言おうとした。


「美月、違う。私は――」


「何が違うんですか?」


 責めるような声ではなかった。


 だからこそ、何も返せなかった。


 言った。


 確かに自分は、


『厳しいと思います』


 そう言った。


 どんな理由を並べても、その事実だけは消せない。


「ごめん」


 ようやく出た言葉が、それだった。


 美月は首を横に振った。


「謝らないでください」


「でも」


「結良さんは正直に言っただけですもんね」


「……」


「私、仕事できなかったし」


「そんな言い方――」


「本当じゃないですか」


 美月は笑った。


 結良が一度も見たことのない笑い方だった。


「でも」


 その表情のまま、美月は言った。


「結良さんだけは、違うと思ってました」


 結良は動けなかった。


「昼休み、言ってくれたじゃないですか」


 ――今できないことと、ずっとできないことは違うでしょ。


 自分の声が頭の中で蘇る。


「だから私、もう少し頑張ろうって思ったんです」


「……美月」


「嬉しかったんですよ。本当に」


 美月は小さく頭を下げた。


「今までありがとうございました」


 結良の横を通り過ぎていく。


 呼び止めたかった。


 でも、何と言えばいいのか分からなかった。


 辞めないで。


 私のせいじゃない。


 誤解だよ。


 どれも違う。


 美月の人生なのに、自分が何を言う資格があるのだろう。


 足音が遠ざかっていく。


 その背中を見送りながら、結良は初めて気づいた。


 人を評価する言葉は。


 言った本人が思っているより、ずっと重い。



◇



「……それから?」


 カフェ。


 友人の声で、結良は三か月前から戻ってきた。


「それだけ」


「連絡してないの?」


「したよ」


「返ってきた?」


「最初は」


「最初は?」


「そのうち返ってこなくなった」


 結良は溶けかけたアイスを見る。


「別に、美月が辞めたの全部私のせいだとは思ってないよ。会社の判断もあったし、本人が最終的に決めたことだし」


「うん」


「でもさ」


 スプーンを置いた。


「私、昼には“やってみればいい”って言って、夕方には“厳しい”って言ったんだよね」


「立場が違ったんでしょ」


「分かってる」


「嘘つけばよかったとも思ってないでしょ?」


「……うん」


「じゃあ」


「それでも嫌なの」


 友人が黙る。


「私が何気なく言った一言が、誰かの人生を決める材料になった。それがずっと引っかかってる」


 結良は窓の外を見た。


「人のことなんて、全部分かるわけないのにね」


 美月の仕事だけを見ていた。


 ミスの数。


 速度。


 できたこと。


 できなかったこと。


 それを材料に「厳しい」と評価した。


 でも、美月が昼休みにどれだけ勉強していたか。


 怒られた日の帰り道に何を考えていたのか。


 それでも翌朝また会社へ来るために、どれだけ自分を奮い立たせていたのか。


 結良は知らない。


 知らないのに。


 評価した。


「……だから辞めたいの?」


「それも分かんない」


「相変わらずだね」


「うるさい」


 友人は少し考えてから言った。


「じゃあさ。結良、自分のことは誰に決めてもらうの?」


「え?」


「今の会社に残るか、辞めるか」


「……」


「上司?」


「違う」


「私?」


「それも違う」


「じゃあ誰?」


 答えは分かっていた。


 分かっているから、怖かった。


「……私」


「じゃあ自分で決めれば?」


「簡単に言うなあ」


「簡単じゃないから、自分で決めるんじゃない?」


 結良は眉を寄せた。


「今日ちょいちょいいいこと言うの腹立つ」


「何で?」


「普段との落差」


「失礼すぎる」


 二人で笑った。


 笑ったあと。


 友人がぽつりと言う。


「正解じゃなくてもいいんじゃない?」


「……」


「間違えたら、また選べばいいじゃん」


 結良は返事をしなかった。


 でも、その言葉は残った。



◇



 その日の夜。


 結良はベッドの上で求人ページを開いていた。


 ここ数日、何度も見ている会社だった。


 仕事内容。


 待遇。


 勤務地。


 口コミ。


 検索すればするほど、良い情報も悪い情報も出てくる。


 見れば見るほど分からなくなる。


「……結局どっちなんだよ」


 スマートフォンへ文句を言っても答えてくれない。


 応募ボタンまで指を滑らせる。


 止まる。


 もし失敗したら。


 今の会社に残っていた方がよかったと思ったら。


 転職先でも同じことが起きたら。


 怖い。


 結良は画面を閉じた。


 その瞬間。


 美月の顔が浮かんだ。


『結良さんだけは、違うと思ってました』


「……」


 結良は目を閉じた。


 あの日以来、ずっと考えていた。


 自分は美月の人生を決めてしまったのか。


 たぶん違う。


 自分の一言だけで全部が決まったわけじゃない。


 それでも、自分の言葉が一つの材料になったことは事実だった。


 誰かが人を評価する。


 その評価を、別の誰かが判断材料にする。


 そして時には。


 評価された本人の知らない場所で、人生の選択肢が減っていく。


 結良は、それが怖かった。


 だからこそ思う。


「……自分のことくらい」


 スマートフォンをもう一度開く。


 応募画面へ戻る。


「自分で決めるか」


 指を押した。


『応募が完了しました』


「…………」


 数秒。


「え、本当に押しちゃった」


 心臓が急にうるさくなる。


「いや待って待って。ちょっと待って」


 慌てて画面をスクロールする。


「取り消し……取り消しってどこ!?」


 ない。


「応募ボタンはあんなにデカいのに!?」


 探す。


 さらに探す。


「こういう時だけ不親切じゃない!?」


 そこまでやって。


 結良は自分が何をしているのか気づいた。


 自分で押した。


 その三十秒後に、自分で逃げようとしている。


「……アホらし」


 スマートフォンをベッドへ放り投げた。


 仰向けになる。


 怖い。


 でも。


 少しだけ笑えた。


「まあ、いっか」


 正解かどうかなんて分からない。


 不採用になるかもしれない。


 転職して後悔するかもしれない。


 それでも、これは自分で押したボタンだ。


 誰かに評価されて決められたわけではない。


 結良は枕元へスマートフォンを置いた。


 その画面には、まだ星も点数もレビューも存在しない。


 誰かの言葉一つで、明日の現実そのものが変わることもない。



 だから結良は、まだ知らなかった。



 いつか。


 自分が誰かを評価する言葉を、もう一度書かなければならなくなることを。



 そして今度は。


 その言葉がただの「判断材料」では済まないことを。



◇



 数日後。


「結良」


「何?」


「例の転職どうなった?」


 昼休み、友人に聞かれた結良は弁当を食べながら答えた。


「落ちた」


「えっ」


「書類で」


「……ごめん」


「なんで謝るの」


「いや、背中押したから」


「別にいいよ」


「でも」


「一個分かったし」


「何が?」


「応募ボタン押しても死なない」


「そこ!?」


「めちゃくちゃ大事でしょ」


 友人が吹き出した。


「じゃあ、もう転職やめる?」


「うーん」


 結良はスマートフォンを取り出した。


「昨日、三つ応募した」


「増えてるじゃん!」


「一回押したら慣れた」


「成長の仕方、雑すぎない?」


「人間そんなもんでしょ」


 結良も笑った。


 一社に落ちた。


 少し凹んだ。


 でも。


 不採用だったからといって、自分という人間が不合格になったわけではない。


 美月のことがなければ、そうは思えなかったかもしれない。


「正解だった?」


 友人が聞いた。


「何が?」


「応募したこと」


 結良は少し考えた。


「分かんない」


「分かんないんだ」


「だってまだ途中じゃん」


 その時、スマートフォンが震えた。


 一通のメール。


 応募した会社からだった。


『書類選考通過のお知らせ』


「あ」


「どうした?」


「通った」


「え!?」


「書類」


「やったじゃん!」


「まだ書類だけだよ」


「いいじゃん!」


 自分以上に喜ぶ友人を見て、結良も笑った。


「面接いつ?」


「来週」


「緊張する?」


「する」


「やめる?」


 結良は少しだけ考えて。


 今度は、迷わず答えた。


「やめない」


「おお」


「何その反応」


「成長したなと思って」


「誰目線だよ」


「私のおかげ?」


「それは絶対違う」


「ひどっ!」


 二人の笑い声が重なる。



 結良はこの時、自分の人生を自分で選んだ。



 その選択が正しかったのか。


 何点だったのか。


 そんなことは、まだ誰にも分からない。



 ただ一つ。


 彼女の中には、消えない言葉が残っていた。



『結良さんだけは、違うと思ってました』



 いつか結良が再び、誰かを評価しなければならなくなった時。


 その言葉はきっと。


 もう一度、彼女の手を止める。



 その時。


 結良は何を書くのだろう。



 そして――



 美月は今、どこで何をしているのだろう。




Re:View 02 正解じゃなくても、選びました


――END.

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