Re:View 02 正解じゃなくても、選びました ――あの日を、もう一度
「それ、絶対似合わないって」
試着室のカーテンを開けた瞬間、結良は友人から容赦のない一言を浴びせられた。
「……まだ三秒なんだけど」
「三秒あれば分かる」
「人の可能性を三秒で潰さないでもらえる?」
「じゃあ五秒待つ?」
「そういう問題じゃない」
友人は腕を組み、本当に二秒待った。
「うん。やっぱ似合わない」
「合計五秒で結論出すな!」
結良は鏡の前で黒いジャケットの襟を整えた。自分では悪くないと思っていた。少なくとも試着室から出るまでは。
「そんな変?」
「変じゃない。ただ、結良じゃない」
「何それ」
「なんか無理して“大人の女です”ってやってる感じ」
「大人の女なんだけど?」
「自称ね」
「殴るよ?」
「大人の女はすぐ殴らない」
友人が笑いながら別の服をラックから引っ張り出した。
「こっち着てみて」
「嫌」
「絶対似合う」
「子どもっぽい」
「一回だけ」
「嫌」
「アイス奢る」
「着る」
「決断早っ」
「条件が変わったから」
「安いなあ、結良の意思」
「合理的と言ってください」
服を受け取って試着室へ戻りながら、結良も笑った。
こういうことなら、いくらでも決められる。
服も、食べ物も、休日にどこへ行くかも、だいたい直感で選べる。失敗したところで「まあいっか」で終わるからだ。
なのに、自分の人生に関わることになると途端に決められなくなる。
間違えたくない。
後悔したくない。
できることなら、選ぶ前に正解を知りたい。
そんなものがあるはずもないのに。
◇
「で、何があったの?」
買い物を終え、二人は駅前のカフェに入った。
約束通り友人が奢ったアイスを口へ運びながら、結良は知らないふりをする。
「何が?」
「買い物したかったわけじゃないでしょ」
「したかったよ」
「嘘」
「なんでよ」
「結良、悩んでる時だけ私のこと買い物に誘うから」
結良のスプーンが止まった。
「……そんなことない」
「去年、バイト辞めようか迷ってた時もそうだった」
「あったっけ?」
「その前、告白断るか迷ってた時も」
「それは忘れて」
「三時間付き合わされた」
「記憶から消してください」
「そのさらに前は――」
「もういい! 分かった!」
友人が楽しそうに笑っている。
結良はアイスを一口食べた。冷たさが舌に広がるのを待ってから、小さく息を吐く。
「……仕事」
「辞めたいの?」
「分かんない」
「仕事が嫌?」
「嫌いじゃない」
「人間関係?」
「普通」
「給料?」
「めちゃくちゃ高くはないけど、困ってない」
「じゃあ何?」
「それが分かんないから困ってるの」
自分でも面倒くさいと思う。
明確な不満があるわけではない。
普通に出勤して、普通に仕事をして、普通に給料をもらう。休日には友達と買い物へ行けるし、欲しいものだってそれなりに買える。
何かを変えなければならない理由なんて、どこにもなかった。
それなのに最近、会社へ向かう電車の中で何度も考える。
このままでいいのかな、と。
「何かやりたいことあるの?」
「ない」
「ないんかい」
「だから困ってんの!」
二人で笑ったものの、結良の胸に引っかかったものは消えなかった。
友人はしばらく結良の顔を見ていたが、やがて何かに気づいたように眉を寄せた。
「……あの子のこと?」
結良の手が止まった。
さっきまでの笑いが、すっと遠くなった。
「違うよ」
「結良」
「違うって」
否定する声が、自分でも分かるくらい弱かった。
友人はそれ以上追及しなかった。
その沈黙が、かえって苦しかった。
忘れたわけではない。
むしろ、忘れられなかった。
◇
三か月前。
「結良さん、ちょっといいですか?」
昼休みが終わる直前、後輩の美月が声をかけてきた。
入社して一年にも満たない彼女は、仕事が速いタイプではなかった。確認に時間がかかり、一度教えたことをもう一度聞きに来ることもある。周囲が十分で終わらせる仕事に二十分かけてしまい、焦って別のミスをすることもあった。
けれど、手を抜く子ではなかった。
誰より早くメモを取り、分からないことがあれば何度でも確認する。昼休みに一人で資料を読み返している姿も、結良は何度も見ていた。
「どうした?」
「私……やっぱり遅いですよね」
「何が?」
「仕事です」
「まあ、速くはない」
「そこは否定してくださいよ」
「嘘ついてもしょうがないじゃん」
「結良さん、たまに優しいのか厳しいのか分かんないです」
「基本優しいよ」
「自分で言います?」
美月が笑う。
でも、その笑顔には元気がなかった。
「今日も怒られました」
「見てた」
「向いてないのかな、私」
結良はすぐに答えなかった。
「辞めたい?」
「……分かんないです」
「じゃあ今決めなくていいんじゃない?」
「でも迷惑かけてるし」
「迷惑かけない新人なんている?」
「結良さんも?」
「私は完璧だった」
「絶対嘘」
「バレた?」
「早すぎます」
ようやく美月が笑った。
結良はそれを見てから、少し声を柔らかくした。
「今できないことと、ずっとできないことは違うでしょ」
「……」
「美月が本当に向いてないかなんて、私には分かんないよ」
「でも」
「もう少しやってみたいなら、やってみればいいじゃん」
美月は少しだけ黙ったあと、嬉しそうに笑った。
「結良さんに相談してよかった」
「相談料、高いよ」
「いくらですか?」
「今度アイス」
「安っ」
「じゃあ焼肉」
「急に上がった!」
その時の美月の笑顔を、結良は今でも覚えている。
だから。
余計に忘れられない。
◇
その日の夕方。
「結良さん、ちょっと」
上司に呼ばれた。
「はい?」
「美月さんのことで聞きたいんだけど」
その名前が出た時点で、何の話かはだいたい分かった。
「最近どう?」
「どう、というと?」
「仕事。結良さん、よく教えてるでしょ」
「頑張ってますよ」
「うん。ただ、ミスが続いててね」
結良も知っていた。
同じ部署の人間なら、誰でも知っている。
「正直なところ、どう思う?」
「どうって……」
「この仕事、続けられそう?」
困った。
美月が努力していることは知っている。
でも、努力していることと、仕事ができていることは同じではない。
ここで「大丈夫です」と答えるのも無責任な気がした。
「本人、頑張ってます」
「それは分かってる。ただ、結良さんから見てどう?」
「……」
「正直に言ってくれていいよ」
正直に。
その言葉に押されるように、結良は考えた。
何度も同じミスをしている。
仕事の速度もなかなか上がらない。
本人自身が、毎日のように苦しそうにしている。
無理に続けることが、本当に美月のためなのか。
昼休みには「もう少しやってみればいい」と言った。
けれどそれは、先輩として励ましただけだ。
仕事として評価するなら――。
「……今のままだと」
結良は慎重に言葉を選んだ。
「正直、厳しいと思います」
上司は小さく頷いた。
「そうだよね」
「でも、まだ一年経ってないですし、本人も頑張ってるので――」
「うん。ありがとう。参考になった」
話はそこで終わった。
結良も、それ以上は気にしなかった。
ただ意見を聞かれただけ。
そう思っていた。
◇
四日後。
美月が会社を辞めると聞いた。
「……え?」
結良は思わず聞き返した。
「今月末で退職だって」
同僚は、それ以上のことを知らなかった。
結良はすぐに美月を探した。
給湯室。
いない。
休憩室。
いない。
廊下へ出たところで、段ボール箱を抱えた美月と鉢合わせた。
「美月」
「あ……結良さん」
「辞めるって本当?」
「はい」
「急じゃない?」
「……そうですね」
「何かあった?」
聞いた瞬間。
美月の表情が変わった。
ほんの少しだけ。
でも結良には分かった。
「……美月?」
「結良さん」
「うん」
「私、この仕事向いてないですか?」
結良の胸がざわついた。
「何で急に――」
「上司に言われました」
「……何を?」
「このまま続けても厳しいんじゃないかって」
嫌な予感がした。
「それで?」
「周りの人からも、そういう意見が出てるって」
息が詰まった。
「……誰が言ったか聞いたの?」
「最初は教えてくれませんでした」
美月は段ボール箱を抱えたまま、結良を見た。
いつものように笑おうとしていた。
でも、うまく笑えていなかった。
「でも私、聞いちゃったんです」
「……」
「結良さんも、厳しいと思うって言ったんですよね」
何か言わなければと思った。
違う。
そうじゃない。
あれは、美月を辞めさせるために言ったわけじゃない。
頑張っていることも伝えた。
まだ時間が必要だとも言おうとした。
「美月、違う。私は――」
「何が違うんですか?」
責めるような声ではなかった。
だからこそ、何も返せなかった。
言った。
確かに自分は、
『厳しいと思います』
そう言った。
どんな理由を並べても、その事実だけは消せない。
「ごめん」
ようやく出た言葉が、それだった。
美月は首を横に振った。
「謝らないでください」
「でも」
「結良さんは正直に言っただけですもんね」
「……」
「私、仕事できなかったし」
「そんな言い方――」
「本当じゃないですか」
美月は笑った。
結良が一度も見たことのない笑い方だった。
「でも」
その表情のまま、美月は言った。
「結良さんだけは、違うと思ってました」
結良は動けなかった。
「昼休み、言ってくれたじゃないですか」
――今できないことと、ずっとできないことは違うでしょ。
自分の声が頭の中で蘇る。
「だから私、もう少し頑張ろうって思ったんです」
「……美月」
「嬉しかったんですよ。本当に」
美月は小さく頭を下げた。
「今までありがとうございました」
結良の横を通り過ぎていく。
呼び止めたかった。
でも、何と言えばいいのか分からなかった。
辞めないで。
私のせいじゃない。
誤解だよ。
どれも違う。
美月の人生なのに、自分が何を言う資格があるのだろう。
足音が遠ざかっていく。
その背中を見送りながら、結良は初めて気づいた。
人を評価する言葉は。
言った本人が思っているより、ずっと重い。
◇
「……それから?」
カフェ。
友人の声で、結良は三か月前から戻ってきた。
「それだけ」
「連絡してないの?」
「したよ」
「返ってきた?」
「最初は」
「最初は?」
「そのうち返ってこなくなった」
結良は溶けかけたアイスを見る。
「別に、美月が辞めたの全部私のせいだとは思ってないよ。会社の判断もあったし、本人が最終的に決めたことだし」
「うん」
「でもさ」
スプーンを置いた。
「私、昼には“やってみればいい”って言って、夕方には“厳しい”って言ったんだよね」
「立場が違ったんでしょ」
「分かってる」
「嘘つけばよかったとも思ってないでしょ?」
「……うん」
「じゃあ」
「それでも嫌なの」
友人が黙る。
「私が何気なく言った一言が、誰かの人生を決める材料になった。それがずっと引っかかってる」
結良は窓の外を見た。
「人のことなんて、全部分かるわけないのにね」
美月の仕事だけを見ていた。
ミスの数。
速度。
できたこと。
できなかったこと。
それを材料に「厳しい」と評価した。
でも、美月が昼休みにどれだけ勉強していたか。
怒られた日の帰り道に何を考えていたのか。
それでも翌朝また会社へ来るために、どれだけ自分を奮い立たせていたのか。
結良は知らない。
知らないのに。
評価した。
「……だから辞めたいの?」
「それも分かんない」
「相変わらずだね」
「うるさい」
友人は少し考えてから言った。
「じゃあさ。結良、自分のことは誰に決めてもらうの?」
「え?」
「今の会社に残るか、辞めるか」
「……」
「上司?」
「違う」
「私?」
「それも違う」
「じゃあ誰?」
答えは分かっていた。
分かっているから、怖かった。
「……私」
「じゃあ自分で決めれば?」
「簡単に言うなあ」
「簡単じゃないから、自分で決めるんじゃない?」
結良は眉を寄せた。
「今日ちょいちょいいいこと言うの腹立つ」
「何で?」
「普段との落差」
「失礼すぎる」
二人で笑った。
笑ったあと。
友人がぽつりと言う。
「正解じゃなくてもいいんじゃない?」
「……」
「間違えたら、また選べばいいじゃん」
結良は返事をしなかった。
でも、その言葉は残った。
◇
その日の夜。
結良はベッドの上で求人ページを開いていた。
ここ数日、何度も見ている会社だった。
仕事内容。
待遇。
勤務地。
口コミ。
検索すればするほど、良い情報も悪い情報も出てくる。
見れば見るほど分からなくなる。
「……結局どっちなんだよ」
スマートフォンへ文句を言っても答えてくれない。
応募ボタンまで指を滑らせる。
止まる。
もし失敗したら。
今の会社に残っていた方がよかったと思ったら。
転職先でも同じことが起きたら。
怖い。
結良は画面を閉じた。
その瞬間。
美月の顔が浮かんだ。
『結良さんだけは、違うと思ってました』
「……」
結良は目を閉じた。
あの日以来、ずっと考えていた。
自分は美月の人生を決めてしまったのか。
たぶん違う。
自分の一言だけで全部が決まったわけじゃない。
それでも、自分の言葉が一つの材料になったことは事実だった。
誰かが人を評価する。
その評価を、別の誰かが判断材料にする。
そして時には。
評価された本人の知らない場所で、人生の選択肢が減っていく。
結良は、それが怖かった。
だからこそ思う。
「……自分のことくらい」
スマートフォンをもう一度開く。
応募画面へ戻る。
「自分で決めるか」
指を押した。
『応募が完了しました』
「…………」
数秒。
「え、本当に押しちゃった」
心臓が急にうるさくなる。
「いや待って待って。ちょっと待って」
慌てて画面をスクロールする。
「取り消し……取り消しってどこ!?」
ない。
「応募ボタンはあんなにデカいのに!?」
探す。
さらに探す。
「こういう時だけ不親切じゃない!?」
そこまでやって。
結良は自分が何をしているのか気づいた。
自分で押した。
その三十秒後に、自分で逃げようとしている。
「……アホらし」
スマートフォンをベッドへ放り投げた。
仰向けになる。
怖い。
でも。
少しだけ笑えた。
「まあ、いっか」
正解かどうかなんて分からない。
不採用になるかもしれない。
転職して後悔するかもしれない。
それでも、これは自分で押したボタンだ。
誰かに評価されて決められたわけではない。
結良は枕元へスマートフォンを置いた。
その画面には、まだ星も点数もレビューも存在しない。
誰かの言葉一つで、明日の現実そのものが変わることもない。
だから結良は、まだ知らなかった。
いつか。
自分が誰かを評価する言葉を、もう一度書かなければならなくなることを。
そして今度は。
その言葉がただの「判断材料」では済まないことを。
◇
数日後。
「結良」
「何?」
「例の転職どうなった?」
昼休み、友人に聞かれた結良は弁当を食べながら答えた。
「落ちた」
「えっ」
「書類で」
「……ごめん」
「なんで謝るの」
「いや、背中押したから」
「別にいいよ」
「でも」
「一個分かったし」
「何が?」
「応募ボタン押しても死なない」
「そこ!?」
「めちゃくちゃ大事でしょ」
友人が吹き出した。
「じゃあ、もう転職やめる?」
「うーん」
結良はスマートフォンを取り出した。
「昨日、三つ応募した」
「増えてるじゃん!」
「一回押したら慣れた」
「成長の仕方、雑すぎない?」
「人間そんなもんでしょ」
結良も笑った。
一社に落ちた。
少し凹んだ。
でも。
不採用だったからといって、自分という人間が不合格になったわけではない。
美月のことがなければ、そうは思えなかったかもしれない。
「正解だった?」
友人が聞いた。
「何が?」
「応募したこと」
結良は少し考えた。
「分かんない」
「分かんないんだ」
「だってまだ途中じゃん」
その時、スマートフォンが震えた。
一通のメール。
応募した会社からだった。
『書類選考通過のお知らせ』
「あ」
「どうした?」
「通った」
「え!?」
「書類」
「やったじゃん!」
「まだ書類だけだよ」
「いいじゃん!」
自分以上に喜ぶ友人を見て、結良も笑った。
「面接いつ?」
「来週」
「緊張する?」
「する」
「やめる?」
結良は少しだけ考えて。
今度は、迷わず答えた。
「やめない」
「おお」
「何その反応」
「成長したなと思って」
「誰目線だよ」
「私のおかげ?」
「それは絶対違う」
「ひどっ!」
二人の笑い声が重なる。
結良はこの時、自分の人生を自分で選んだ。
その選択が正しかったのか。
何点だったのか。
そんなことは、まだ誰にも分からない。
ただ一つ。
彼女の中には、消えない言葉が残っていた。
『結良さんだけは、違うと思ってました』
いつか結良が再び、誰かを評価しなければならなくなった時。
その言葉はきっと。
もう一度、彼女の手を止める。
その時。
結良は何を書くのだろう。
そして――
美月は今、どこで何をしているのだろう。
Re:View 02 正解じゃなくても、選びました
――END.




