Re:View 01 明日も、たぶん普通です ――あの日を、もう一度
朝七時四十二分。
「……ない」
高瀬は職員室の机に積まれた書類を一つずつ持ち上げながら、昨日印刷したはずのプリントを探していた。
一時間目で使う資料だ。放課後、印刷室から戻ってきて、この机の右端に置いたところまでは覚えている。
いや、覚えている気がする。
十三年も教師をやっていると、「絶対ここに置いた」という自信ほど信用できないものはないことも知っていた。
「高瀬先生、朝から何してるんですか?」
隣の席から声がした。
「プリントが消えました」
「消えた?」
「昨日ここに置いたんですよ。誰か持っていったのかな」
「へえ」
「いや、結構困るんですよ。一時間目で使うから、もう一回印刷――」
「先生」
「はい?」
「左手」
「……左手?」
言われるまま、自分の左手へ視線を落とす。
あった。
探していたプリントを、最初からしっかり握っていた。
隣の教師と目が合う。
高瀬は無言で机の引き出しを閉め、何事もなかったように椅子へ座った。
「おはようございます」
「今ので全部なかったことにしようとしてます?」
「今日も一日頑張りましょう」
「無理ですよ」
朝から一敗。
今日も長い一日になりそうだった。
◇
「起立」
椅子を引く音が教室中に重なり、三十人分の声が朝の空気を一気に騒がしくする。
「礼」
「おはようございまーす!」
「はい、おはよう」
高瀬が出席簿と教材を教卓へ置いた、その瞬間だった。
「先生」
「何」
「今日、髪やばいよ」
教室のあちこちから笑い声が上がった。
「……そんなに?」
「右!」
「めっちゃ右!」
「右がどうした」
「右だけ元気!」
「俺より先に起きてたんじゃない?」
「髪の毛が?」
「知らん!」
高瀬は窓ガラスに映った自分を確認する。確かに右側だけ、見事なまでに跳ねていた。
どうして家を出る時に気づかなかったのか。
「これは……風だ」
「今日、風ないよ」
「寝坊?」
「してない」
「寝癖じゃん」
「違う」
「じゃあ何?」
高瀬は数秒考えた末、真顔で答えた。
「個性」
「便利な言葉使うなよ!」
「はい、ホームルーム始めるぞ!」
「逃げた!」
「逃げてない!」
また笑いが起きる。
これも、いつもの朝だった。
まだ眠そうに机へ突っ伏している生徒もいれば、朝から友達と話したくて仕方がない生徒もいる。宿題を忘れて鞄の奥を必死に探している者もいれば、その隣でなぜか一緒になって探している者もいる。
教室という場所は、一人ひとりを見ればまるで違う朝を過ごしているのに、三十人が集まると不思議と一つの空気になる。
高瀬は、そんな雑多な朝が嫌いではなかった。
「先生!」
「今度は何?」
「消しゴム落ちた!」
「拾え!」
「先生拾って!」
「先生は消しゴムを拾うために十三年教師やってない!」
「十三年もやってんの!?」
「そこに驚くな!」
笑い声がまた広がった。
高瀬も笑いながら出席簿を開く。
その時だった。
教室の後ろ、窓際から二番目の席に目が止まった。
森田が笑っていない。
普段なら、こういうくだらないやり取りには真っ先に乗ってくる生徒だった。むしろ余計な一言を足して、高瀬から「お前は黙ってろ」と言われるまでが一連の流れになっている。
けれど今日は、周りが笑っていても口元すらほとんど動かない。
一瞬だけ目が合った。
森田は気まずそうに視線を逸らした。
高瀬はそれを見ても、声をかけなかった。
「じゃあ出席取るぞー」
いつも通りに名前を呼び始める。
気づいたからといって、すぐに踏み込めばいいわけではない。
十三年教師をやってきて、高瀬がようやく覚えたことの一つだった。
◇
二時間目。
「じゃあ、ここ。分かる人」
黒板に書いた問題を指すと、いくつか手が上がった。
高瀬はその中から一人を選ぼうとして、やめる。
「森田」
「え?」
窓際から驚いた声が返ってきた。
「やってみ」
「俺、手挙げてないけど」
「知ってる」
「横暴じゃん」
「教師には時として権力が必要なんだ」
「最低だ」
「成績下げるぞ」
「ほら権力使った!」
教室が沸いた。
森田の口元にも、ようやく小さな笑みが浮かぶ。
「はいはい。で、答えは?」
「……三十二」
「違う」
「最悪じゃん!」
「堂々と言うから一瞬俺も不安になったわ」
「じゃあ正解ってことにして」
「世の中そんなに甘くない」
「先生、俺に厳しくない?」
「安心しろ。間違えたやつ全員に平等に厳しい」
「平等の使い方おかしいだろ」
今度は森田もちゃんと笑った。
高瀬はそれ以上何も言わず、黒板へ向き直る。
「でも、ここは実際間違えやすい。森田が間違えてくれたおかげで確認できたな」
「俺のおかげ?」
「そう」
「じゃあ褒めて」
「ありがとう、森田。お前の犠牲は忘れない」
「死んでないから!」
笑い声が教室を包む。
授業を再開しながら、高瀬はほんの一度だけ森田の方を見た。
さっきよりはいい。
でも、まだいつもの顔ではない。
そう思ったが、やはり聞かなかった。
◇
昼休み。
給食を食べ終えた高瀬が牛乳を片手に廊下を歩いていると、階段の踊り場に森田が座っていた。
いつもなら友達と教室で騒いでいる時間だ。膝の上に腕を置き、ぼんやりと窓の外を眺めている。
高瀬は足を止めた。
朝から三度目。
さすがに偶然ではない。
それでも「何かあったのか」とは聞かず、森田の隣に腰を下ろした。
「……何?」
「別に」
「絶対なんかあるじゃん」
「唐揚げ、うまかったなと思って」
「何しに来たんだよ」
「感想を共有しに」
「教室でやれよ」
「冷たいなあ」
高瀬は牛乳パックのストローに口をつける。
「お前、今日の唐揚げどうだった?」
「普通」
「え、結構うまかっただろ」
「先生、なんでもうまいって言うじゃん」
「そんなことない」
「昨日の魚」
「うまかった」
「その前のカレー」
「うまかった」
「その前の――」
「給食を作ってくださる方々への感謝を忘れるな」
「逃げた」
「大人には逃げなきゃいけない時もある」
「教師がそれ言っていいの?」
「今のは忘れろ」
森田が小さく笑った。
高瀬もそれ以上は喋らなかった。
廊下の向こうから、生徒たちの声が聞こえてくる。校庭へ走っていく足音、教室から漏れてくる笑い声、遠くで誰かを注意している教師の声。いつもの昼休みの音が、二人の沈黙の周りを通り過ぎていった。
高瀬は急かさない。
こちらから聞けば話すかもしれない。でも、自分で話し始めた言葉と、聞かれたから仕方なく答えた言葉は、似ているようで少し違う。
十三年も教師をやっていれば、それくらいは分かる。
しばらくして、森田が床へ視線を落としたまま口を開いた。
「……先生」
「ん?」
「聞かないの?」
「何を?」
「何かあった? とか」
「あったの?」
「……そうじゃなくて」
「難しいな、お前」
「先生が鈍いんだよ」
「教師に向かって鈍いとは何だ」
「鈍い」
「二回言うな」
森田はまた少し笑った。
けれど今度は、その笑顔が消えるのも早かった。
「友達と喧嘩した」
「そっか」
「俺も悪い」
「うん」
「でも、あいつも悪い」
「うん」
「謝りたくない」
「うん」
「……先生、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ」
「さっきから『うん』しか言ってないじゃん」
高瀬は牛乳を一口飲んでから森田を見る。
「じゃあ謝れ」
「嫌だ」
「ほら」
「何が」
「俺が答え出しても、お前聞かないじゃん」
「……それとこれとは違う」
「難しいな、お前」
「それ二回目」
「便利だからな」
森田は膝を抱え直した。
「じゃあ、どうしたらいいと思う?」
「それを俺が決めるの?」
「先生じゃん」
「先生だけど、お前じゃないし」
「……何それ」
「お前はどうしたい?」
森田はすぐには答えなかった。口を尖らせ、階段の下を見つめながら何度か考えている。
「分かんない」
やがて、そう答えた。
高瀬は頷いた。
「じゃあ、まだ分かんなくていいんじゃない」
「いいの?」
「知らん」
「先生なのに?」
「先生だって全部分かると思うなよ」
「役に立たねえ」
「相談料返せ」
「払ってねえよ」
二人とも笑った。
それで少しだけ空気が軽くなる。
高瀬は立ち上がり、空になった牛乳パックを軽く潰した。
「まあ、明日になったら今日と違うこと考えるかもしれんしな」
「……明日?」
「今日決められないなら、明日の自分に任せればいいだろ。今日のお前が全部決めなきゃいけない理由もないし」
森田は何も答えなかった。
ただ、その言葉を確かめるように何度か瞬きをしている。
やがて、唐突に口を開いた。
「先生ってさ」
「何?」
「人に点数つけるの、好き?」
「……急だな」
「先生ってテストとか成績とかつけるじゃん。あれ、楽しい?」
高瀬は思わず笑った。
「楽しくはないな」
「なんで?」
「なんでって……」
すぐに答えようとして、やめた。
テストなら答えがある。問題ごとに配点があって、正解すれば点が入る。けれど成績となれば、それだけではない。授業で見せた姿、提出物、積み重ね。そこへ一つの数字を置くたび、高瀬は今でも少しだけ落ち着かない。
「テストの点数なら分かるよ。この問題ができた、できなかった。それを数字にするのは」
「うん」
「でも、人間そのものに点数つけろって言われたら、俺は無理だな」
森田が顔を上げる。
「なんで?」
「人って、数字にした瞬間にこぼれるものがあるだろ」
「こぼれる?」
「例えば、お前が今日のテストで三十点だったとして」
「もっとあるわ」
「例えだよ」
「五十にして」
「微妙に現実的な交渉すんな」
「百って言ったら怒るじゃん」
「分かってるじゃん」
二人で笑う。
「じゃあ五十点だったとして。その五十って数字だけ見て、お前がどういう人間か全部分かる?」
「分かんない」
「だろ。朝から元気なのも、くだらないことですぐ笑うのも、友達と喧嘩して一日中引きずってるのも、その五十点には入ってない」
「……最後のいる?」
「具体例だ」
「絶対いらない」
「だから、数字は数字。それで全部決まるわけじゃないってこと」
森田はしばらく考えていた。
「でも先生たち、成績つけるじゃん」
「つけるよ。仕事だから」
「矛盾してない?」
「してるかもな」
「認めるんだ」
「教師を何だと思ってんだよ」
「絶対間違い認めない生き物」
「お前、先生に何されたんだよ」
「先生に成績つけられてる」
「俺だった」
森田が吹き出した。
その笑顔は、朝よりずっと自然だった。
高瀬も安心して立ち上がろうとした、その時。
「じゃあさ」
森田の声が、少しだけ低くなった。
「数字からこぼれたものって、どこ行くの?」
高瀬の動きが止まった。
「……え?」
「点数にならなかったやつ。先生が言ったじゃん、数字にしたらこぼれるって」
「ああ……」
「それって、どこに残るんだろうなって」
森田はただ、不思議に思ったことを聞いただけなのだろう。
そこに深刻そうな表情はなかった。
だから高瀬も、深く考えなかった。
「さあな」
「分かんないの?」
「だから先生を万能だと思うなって」
「役に立たねえなあ」
「二回目だぞ、それ」
ちょうどチャイムが鳴った。
森田が「あ、やべ」と立ち上がる。
「次、移動教室だぞ」
「先生のせいで遅れる!」
「お前が話し始めたんだろ!」
「長引かせたの先生じゃん!」
「廊下走るなよ!」
「はーい!」
「走りながら返事すんな!」
森田は笑いながら廊下を駆けていった。
高瀬はその背中を見送ってから、ふと先ほどの言葉を思い返した。
数字からこぼれたものは、どこへ行くのか。
「……知らんよ」
自分で言って、小さく笑う。
次の授業へ向かった。
その時は、それだけだった。
◇
放課後。
職員室へ戻ろうとしていた高瀬を、後ろから森田が呼び止めた。
「先生!」
「何?」
「帰る」
「見れば分かる」
「友達と」
森田が指した先には、朝から避けていた男子生徒が待っていた。二人の間にはまだ少し気まずそうな空気がある。
「仲直りした?」
「してない」
「してないんかい」
「でも一緒に帰る」
「そっか」
「うん」
高瀬は、それ以上聞かなかった。
森田が自分で決めたのなら、それでいい。
「じゃあ先生、また明日」
「おう。また明日」
森田は数歩進んでから振り返った。
「先生のおかげじゃないからね」
「何も言ってねえよ!」
「自分たちで決めたから!」
「はいはい。それでいいよ」
森田は笑って、友達のところへ走っていった。
二人はまだ何か言い合っている。
仲直りしたのか。
していないのか。
明日にはまた喧嘩するのか。
高瀬には分からない。
でも、それでいい。
生徒の人生を教師が全部決める必要なんてない。
転びそうになった時に少しだけ近くにいて、本人が立ち上がるなら、その後はまた離れればいい。
少なくとも高瀬は、そういう教師でいたかった。
◇
午後六時五十八分。
「……ありがとうございました。はい。明日もこちらで様子を見ます。何かありましたら、またご連絡ください」
電話を切った高瀬は、受話器へ手を置いたまま数秒動かなかった。
今日、教室で起きた小さなトラブルについて保護者へ連絡しただけだ。事実を伝え、学校での様子を説明し、明日の対応についても話した。相手が怒っていたわけでもない。最後には「ありがとうございました」と言ってくれた。
それなのに、頭の中ではもう反省会が始まっていた。
「……最後、“こちらでも様子を見ます”の方が安心したかな」
「また始まった」
「え?」
隣を見ると、朝プリントを見つけてくれた教師が呆れた顔でこちらを見ている。
「高瀬先生の一人反省会」
「いや、今の電話、最後の言い方がちょっと」
「普通でしたよ」
「でも、もう少し安心してもらえるように――」
「普通でした」
「……聞いてました?」
「近いので嫌でも聞こえます」
「だったら改善点を」
「帰ってください」
「急だな」
「もう七時ですよ」
時計を見る。
本当だった。
「これだけやったら帰ります」
「その“これだけ”で何回残業したんですか?」
「明日の準備だけですよ」
「何分?」
「二十分」
「昨日も聞きました、それ」
「昨日は三十分」
「悪化してるじゃないですか」
「短くなってるんだから改善してるでしょ」
「残ってる時点で悪化です」
高瀬は笑いながら机の上を片づけ始めた。
「すぐ帰ります」
「信用ゼロです」
「教師なのに?」
「人間として」
「評価厳しくないですか?」
隣の教師は少し笑ってから、片づけを続ける高瀬を見た。
「先生、自分にはもっと厳しいですけどね」
「……そうですか?」
「そうですよ」
「全然分かんないです」
「そこですよ」
「どこ?」
「そういうところです」
高瀬は首を傾げた。
本当に、よく分からなかった。
◇
午後八時十三分。
風呂から上がったところで、テーブルに置いていたスマートフォンが震えた。
画面には『姉』の二文字。
「……嫌な予感」
出ないともっと面倒になることを知っているので、高瀬は通話ボタンを押した。
「もしもし」
『生きてる?』
「第一声それ?」
『連絡ないから』
「三日前しただろ」
『三日前を“最近”に含めるのやめて』
「最近だろ」
『悠介の最近、範囲広すぎ』
「何の用?」
『別に』
「じゃあ切るぞ」
『待って待って!』
「何なんだよ」
電話の向こうで沙耶が笑っている。
『仕事終わった?』
「終わった」
『何時?』
「……」
『悠介』
「終わったって」
『何時?』
「七時半くらい」
『遅っ』
「教師なんてそんなもんだよ」
『また全部抱えてない?』
「抱えてない」
『その言い方する時は抱えてる』
「姉ちゃん、俺の何なの?」
『姉』
「強い」
『十三年もやってんだから、そろそろ力抜けばいいのに』
高瀬は冷蔵庫からコンビニ弁当を取り出し、電子レンジへ入れた。
「今日さ」
『うん』
「生徒に相談されたんだけど」
『うん』
「俺、ちゃんと答えられなかったんだよね」
『何て相談?』
「それは言えない」
『変なところ真面目』
「当たり前だろ」
『じゃあ何を悩んでんの』
「教師として、ちゃんとできてんのかなって」
電話の向こうが、ほんの少し静かになった。
『……また始まった』
「今日それ二回目なんだけど」
『一人反省会』
「姉ちゃんまで?」
『悠介さ』
「何」
『人には結構優しいのに、自分にはずっと厳しいよね』
「そう?」
『そう』
「自覚ない」
『そこ』
「何が」
『そういうとこ』
「それも今日二回目」
『じゃあ二人から言われたなら、本当なんじゃない?』
「多数決で俺の性格決めるなよ」
電子レンジの中で弁当がゆっくり回っている。
沙耶は少し笑ってから言った。
『じゃあ採点してみたら?』
「何を?」
『今日の悠介先生』
「嫌だよ」
『何点?』
「つけない」
『なんで?』
昼休みの森田との会話が、一瞬だけ頭をよぎった。
けれど高瀬は、それをわざわざ説明することもなく答えた。
「教師だから、かな」
『意味分かんない』
「俺も今言ってから思った」
『何それ』
二人で笑った。
ちょうど電子レンジが鳴る。
「飯できたから切るわ」
『ちゃんと食べて寝なよ』
「はいはい」
『あと、明日も仕事?』
「仕事」
『頑張りすぎんなよ』
「分かってる」
『分かってないから言ってる』
「おやすみ」
『逃げたな』
通話を切る。
高瀬はしばらくスマートフォンを見てから、小さく笑った。
「……自分に厳しい、ね」
そんなつもりはなかった。
今日だって、特別なことは何もしていない。
生徒の話を聞いて、授業をして、保護者へ電話をした。
教師なら普通にやることばかりだ。
それなのに、できなかったことの方が先に浮かぶ。
森田にもっと何か言えたんじゃないか。
保護者への電話も、もっと安心してもらえる言い方があったんじゃないか。
考え始めれば、いくらでも出てくる。
高瀬はそこで、自分の頭を軽く掻いた。
「……飯食お」
反省会は、いったん閉会した。
◇
午後十一時四十七分。
布団に入った高瀬は、暗い部屋の中で天井を眺めていた。
明日の授業。
提出物。
今日の電話。
森田。
考えることはいくらでもある。
特に森田との昼休みの会話は、妙に頭に残っていた。
――数字からこぼれたものって、どこ行くの?
あの時は答えられなかった。
今考えても、やっぱり分からない。
数字にできないもの。
評価から抜け落ちるもの。
それでも確かに、その人の中にあるもの。
「……難しいこと聞くなよ」
誰もいない部屋で呟いて、自分で少し笑った。
枕元のスマートフォンは静かなままだった。
今日も一日、特別なことは何も起きなかった。
世界が変わったわけでもなければ、大事件が起きたわけでもない。森田だって、明日になればまた友達とくだらないことで喧嘩するかもしれない。
それでいい。
明日になれば、今日とは違う答えを出すかもしれない。
生徒にそう言ったくせに、自分だけ今日の失敗をいつまでも引きずるのもおかしな話だ。
「……まあ」
高瀬は目を閉じた。
「明日、もう一回やればいいか」
部屋から光が消える。
明日も学校へ行く。
生徒が来る。
授業をする。
誰かが忘れ物をして、誰かが笑って、誰かが怒る。
たぶん高瀬も、また何か失敗する。
そして一日が終わる。
そんな日々が、これからも当たり前に続いていく。
高瀬は、本気でそう思っていた。
この頃の彼のスマートフォンには、まだ未来を告げる通知は届かない。
誰かの人生を変えてしまうレビューも、星も、点数もない。
SYSTEMという名前すら知らない。
自分の人生に点数をつける日が来ることも。
自分を、たった十二点だと思ってしまうことも。
まだ知らない。
翌朝。
高瀬が教室へ入ると、森田が真っ先に駆け寄ってきた。
「先生!」
「朝からうるさい」
「昨日のやつ!」
「昨日?」
「友達と喧嘩したやつ!」
「ああ。どうなった?」
「仲直りした」
「そっか」
「うん」
森田は、昨日の朝とはまるで違う顔で笑っていた。
「よかったな」
「先生のおかげじゃないけどね」
「一言余計なんだよ」
「自分たちで決めたから」
その言葉を聞いて、高瀬は一瞬だけ目を細めた。
昨日、自分が何を言ったのか。
たぶん森田は、全部覚えているわけではない。
それでもいい。
「それでいいよ」
「先生」
「何?」
「今日、髪普通だね」
「俺の髪を毎朝評価すんな」
「今日は八十点」
「人の話聞いてた!?」
「髪だからいいじゃん!」
「そういう問題か?」
森田が笑いながら教室へ戻っていく。
高瀬も呆れながら、その後を追った。
昨日と同じように、生徒たちの声が飛び交っている。
誰かが宿題を忘れたと言い、別の誰かが朝からくだらないことで笑っている。
高瀬は教卓へ教材を置き、いつものように教室を見渡した。
「はい、席つけー。始めるぞ」
いつもの朝が始まる。
この日もきっと、何か失敗する。
誰かにいじられて、誰かに腹を立てて、誰かの話を聞く。
そしてまた、明日が来る。
明日も、たぶん普通です。
少なくとも。
この時の高瀬は、そう信じていた。
Re:View 01 明日も、たぶん普通です
――END.




