Review48「名前のない朝」
人の名前を忘れることと、その人がいなくなることは、同じではない。
高瀬悠介は、そう信じたかった。
けれど、もし。
世界中の誰もが、その人の名前を忘れてしまったら。
写真にも、書類にも、記録にも残らなくなったら。
その人が確かに生きていたことを、誰が証明するのだろう。
午前六時四十二分。
高瀬は、食卓の前で固まっていた。
「……何これ」
テーブルの上には、三枚の紙が並んでいた。
一枚目。
『高瀬悠介』
二枚目。
『高瀬悠介』
三枚目。
『桐谷』
それぞれの名前の下には、手書きの数字が記されている。
一。
二。
三。
「……何の実験?」
高瀬が尋ねると、もう一人の高瀬が顔を上げた。
「名前が消えるか、試してる」
「……俺たちの?」
「うん」
高瀬は、二枚目の紙を手に取った。
「何で俺が二番なの?」
「俺が先に起きたから」
「そういう問題!?」
ソファから、桐谷の笑い声が聞こえた。
「いいじゃねえか。俺なんて三番だぞ」
「お前はそもそも高瀬じゃないだろ」
「仲間外れにすんなよ」
「自分で入ってくんな!」
いつものように言い返してから、高瀬はもう一度紙を見た。
二枚の『高瀬悠介』。
文字は同じ。
けれど、筆跡は少し違っていた。
一枚目は、右上がりで勢いがある。
二枚目は、一文字ずつ丁寧に書かれている。
「……字、違うんだな」
高瀬が呟く。
もう一人の高瀬は、少し笑った。
「そりゃ、別々に生きてきたからな」
その言葉に、高瀬は顔を上げた。
別々に生きてきた。
昨日までなら、少し寂しく感じたかもしれない。
でも、今は違う。
「……そうだな」
高瀬は、二枚の紙を並べ直した。
「じゃあ、数字じゃなくて別の呼び方にする?」
「例えば?」
「悠介一号と二号」
「絶対嫌だ」
「じゃあ、スーパー高瀬と普通の高瀬」
「お前が普通な」
「何でだよ!」
桐谷が腹を抱えて笑った。
もう一人の高瀬も笑っていた。
けれど、しばらくして、その笑顔が消えた。
「……なあ」
「ん?」
「俺さ」
男は、紙に書かれた自分の名前を見つめた。
「……いつか、自分の名前が欲しい」
高瀬は、黙った。
「高瀬悠介じゃ、嫌ってわけじゃない」
男は、ゆっくり続けた。
「でも、誰かに呼ばれた時、どっちが返事すればいいのか迷うだろ」
「……うん」
「それに、いつまでも『もう一人』って呼ばれるのも、ちょっとな」
高瀬は、胸の奥が小さく痛むのを感じた。
自分は、ずっとこの男を『もう一人の高瀬』と呼んでいた。
それが当たり前だと思っていた。
でも。
この男にとって、自分は決して『もう一人』ではない。
自分こそが、自分なのだ。
「……ごめん」
高瀬が言うと、男は首を振った。
「謝らなくていい」
「でも」
「まだ、俺も分かんないんだ」
男は、少し笑った。
「どんな名前で生きたいのか」
高瀬は頷いた。
「……そっか」
桐谷が、ソファから身体を起こした。
「じゃあ、決まるまで待てばいいじゃん」
二人が振り返る。
「急いで名前つけなくてもいいだろ」
桐谷は、あくびをした。
「人間、名前より先に腹が減るんだよ」
「お前、さっきパン二枚食っただろ!」
「成長期なんだよ」
「何歳だよ!」
また、笑い声が響いた。
高瀬は、二枚の紙を見つめた。
同じ名前。
違う筆跡。
違う人生。
そして。
まだ決まっていない、これからの名前。
それは、少しだけ希望のある話に思えた。
◇
午前八時三十五分。
職員室。
高瀬は、出勤してすぐ藤原と真壁に声を掛けた。
「昨日の件なんだけど」
藤原が頷く。
「宮原君ですね」
「うん」
高瀬は、昨夜のReview画面を二人に見せた。
【削除範囲:評価履歴】
【存在そのものの削除ではありません】
【検索範囲:現実世界】
真壁が腕を組んだ。
「……やっぱり、最後の一文が気になるな」
「現実世界、ですよね」
藤原が言う。
高瀬は頷いた。
「うん」
真壁は、画面を拡大した。
「ただ、これだけで別の世界があるとは言えない」
「そうだな」
「検索範囲を示してるだけかもしれない。検索できないからといって、宮原が別の場所にいるとも限らない」
高瀬は、少し笑った。
「お前、ほんと慎重だな」
「お前が慎重じゃなさすぎるんだよ」
「否定できない」
藤原が笑った。
けれど、すぐに真剣な表情に戻る。
「……それで、どうします?」
高瀬は、少し考えた。
「まず、今日の出席を確認する」
真壁が頷く。
「当然だな」
「それから、宮原の席」
「……席?」
藤原が聞き返す。
「うん」
高瀬は、窓の外を見た。
「もし宮原が本当に自分の足で教室を出たなら、俺たちが知らないところで何か変わってるかもしれない」
真壁は、少し考えてから頷いた。
「分かった。ただし、他の生徒を巻き込むなよ」
「分かってる」
「あと、無断で古い記録を持ち出すな」
「分かってるって」
「それと――」
「俺、そんな信用ない!?」
藤原が吹き出した。
真壁は真顔だった。
「ない」
「即答!?」
職員室に、小さな笑い声が広がった。
◇
午前九時十二分。
教室。
「……先生」
出席確認を終えた高瀬に、一人の男子生徒が声を掛けた。
「ん?」
「ちょっと聞いていい?」
「おう」
男子生徒は、周囲を気にしながら近付いてきた。
「……昨日さ」
「うん」
「宮原、来てた?」
高瀬の指が止まった。
「……え?」
男子生徒は、少し困った顔をした。
「いや、何か変な夢見たんだよ」
「夢?」
「うん。宮原が教室にいてさ」
高瀬は、黙って聞いていた。
「先生が二人いて、みんなで何か話してて」
心臓が、強く鳴った。
「……それで?」
男子生徒は、首を傾げた。
「分かんない。でも、宮原が最後に『行ってきます』って言って」
高瀬は、息を止めた。
行ってきます。
昨日、宮原が教室を出る時に言った言葉。
なぜ、この生徒が知っている。
「……お前、その夢いつ見た?」
「昨日の夜」
「……そっか」
高瀬は、ゆっくり頷いた。
男子生徒は、少し笑った。
「変だよな。宮原って、最近学校来てないのに」
高瀬は、顔を上げた。
「……覚えてるのか?」
「何を?」
「宮原のこと」
男子生徒は、怪訝そうな顔をした。
「……そりゃ覚えてるよ」
高瀬の胸が、強く鳴った。
宮原を覚えている。
Reviewの削除処理が完了した後でも。
この生徒は、宮原を覚えている。
「……先生?」
「あ、ごめん」
高瀬は、笑った。
「ちょっと驚いただけ」
男子生徒は、少し考えた。
そして。
「……先生さ」
「ん?」
「宮原のこと、探してる?」
高瀬は、すぐには答えなかった。
教師として、生徒の情報をどこまで話すべきか。
それを考えてから、ゆっくり頷いた。
「……心配はしてる」
男子生徒は、少しだけ笑った。
「そっか」
そして。
「じゃあ、伝えといて」
「……何を?」
男子生徒は、少し照れくさそうに言った。
「……また一緒にゲームしようって」
高瀬は、息を呑んだ。
宮原蒼太。
その名前は、消えていない。
少なくとも。
この少年の中には、確かに残っている。
「……分かった」
高瀬は、ゆっくり頷いた。
「伝えられたら、伝えるよ」
男子生徒は笑った。
「よろしく!」
そして、自分の席へ戻っていった。
高瀬は、その背中を見つめた。
記録から消されても。
誰かと過ごした時間まで、消えるとは限らない。
それは。
小さくても、確かな希望だった。
◇
午後零時四十七分。
昼休み。
高瀬は、校舎の廊下を歩いていた。
旧校舎へ続く渡り廊下。
そこに、真壁が立っていた。
「……おう」
「どうした?」
高瀬が尋ねると、真壁は一枚の紙を見せた。
「昨日の教室の使用記録、確認してきた」
高瀬は、眉を寄せた。
「……許可取った?」
「当然だろ」
「さすが」
「お前とは違う」
「毎回言うな!」
真壁は、紙を指差した。
「昨日、あの教室を使った記録はない」
「……え?」
「鍵の貸し出しもない」
高瀬は、息を止めた。
「でも、俺たち入ったぞ」
「そうだな」
真壁は、ゆっくり頷いた。
「だから変なんだよ」
高瀬は、紙を見つめた。
使用記録なし。
鍵の貸し出しなし。
なのに、教室には入れた。
そして。
宮原蒼太と会った。
「……もう一つある」
真壁が言った。
「何?」
「今日の朝、あの教室を確認した職員がいる」
「……誰?」
「用務員さんだ」
真壁は、少しだけ眉を寄せた。
「……机が一つ、増えてたらしい」
高瀬は、息を止めた。
「……一つ?」
「うん」
「……何で」
「分からない」
真壁は、紙を畳んだ。
「ただ、古い机が一つ増えてたって」
高瀬は、窓の外を見た。
旧校舎。
三十七人目の席。
宮原が座っていた場所。
その机が。
増えた。
「……確認したい」
高瀬が言うと、真壁は頷いた。
「放課後な」
「……分かってる」
真壁が、少しだけ笑った。
「成長したじゃねえか」
「子ども扱いすんな!」
高瀬も笑った。
でも。
胸の奥では、何かが静かに動き始めていた。
◇
午後四時三十一分。
旧校舎。
高瀬、藤原、真壁の三人は、教室の前に立っていた。
使用許可を取り、鍵を借りている。
高瀬は、扉を開けた。
ガラガラ。
古い音が響く。
教室には、誰もいなかった。
夕日が差し込んでいる。
机。
椅子。
黒板。
そして。
最後列。
窓際。
そこに、一つの机があった。
「……これか」
高瀬が呟く。
真壁が頷いた。
「昨日はなかったはずだ」
藤原が、ゆっくり近付いた。
「……でも」
机を見つめる。
「これ、すごく古いですね」
高瀬も近付いた。
木製の机。
傷だらけの天板。
角には、小さな落書きがある。
高瀬は、指先で触れた。
そこには。
『69』
数字が刻まれていた。
「……宮原」
高瀬が呟く。
藤原が、息を呑んだ。
「……六十九」
真壁も、眉を寄せた。
「答案の点数か」
高瀬は頷いた。
六十九点。
宮原の答案。
最初の評価。
そして。
この机。
高瀬は、天板を見つめた。
数字の横に、小さな文字が刻まれている。
かすれていて、よく読めない。
高瀬は、顔を近付けた。
そして。
息を止めた。
『また明日』
その四文字。
高瀬は、動けなかった。
宮原が、最後に言った言葉。
行ってきます。
そして。
また明日。
高瀬は、ゆっくり目を閉じた。
「……あいつ」
声が、少しだけ震えた。
「……ちゃんと、残してたんだな」
藤原が、静かに頷いた。
「……はい」
真壁も、机を見つめていた。
その時。
高瀬のスマートフォンが震えた。
――ブッ。
【Review】
評価対象外の人物による
干渉を確認しました。
高瀬は、息を止めた。
「……干渉?」
次の表示。
【干渉元】
不明。
【干渉対象】
現実世界。
高瀬の眉が動いた。
現実世界。
また、その言葉。
藤原が、画面を覗き込んだ。
「……これ」
真壁も、顔を近付ける。
「……干渉元が不明?」
高瀬は、頷いた。
「うん」
その瞬間。
教室の窓が、静かに開いた。
風が吹き込む。
カーテンが揺れる。
机の上に、何かが落ちた。
コトン。
三人が、顔を上げる。
そこには、小さな紙片があった。
高瀬は、ゆっくり手に取った。
白い紙。
少し厚みがある。
表には、何も書かれていない。
裏返す。
そこには、短い文章があった。
『先生へ』
高瀬の胸が、強く鳴った。
その下。
『こっちは、まだ朝です』
高瀬は、息を止めた。
藤原が、口元を押さえる。
真壁も、動きを止めた。
そして。
最後の一文。
『でも、先生の世界は、もう夕方なんですね』
高瀬は、何も言えなかった。
こっちは、まだ朝。
先生の世界は、もう夕方。
その意味。
それは。
宮原が、どこか別の場所にいるということなのか。
高瀬は、紙を握りしめた。
そして。
静かに呟いた。
「……宮原」
返事はない。
けれど。
窓の向こうから、風が吹いた。
まるで。
遠く離れた場所から。
誰かが、返事をしたように。
◇
午後七時十三分。
高瀬の自宅。
もう一人の高瀬は、テーブルに置かれた紙片を見つめていた。
『こっちは、まだ朝です』
その文字。
男は、しばらく黙っていた。
「……蒼太の字だ」
高瀬が顔を上げる。
「……分かるのか?」
「うん」
男は、ゆっくり頷いた。
「……あいつ、ひらがなの『あ』が少し右に傾くんだ」
高瀬は、紙を見つめた。
確かに。
最後の『朝』の横に書かれた『あ』。
少しだけ、右に傾いている。
男は、少し笑った。
「……懐かしいな」
高瀬は、黙って聞いていた。
「……俺、あいつの字、何回も直したんだ」
男は、紙を指でなぞった。
「……でも、直らなかった」
高瀬は、少し笑った。
「……そっか」
男は、ゆっくり顔を上げた。
「……なあ」
「ん?」
「……俺、行きたい」
高瀬は、息を止めた。
「……どこに?」
「……蒼太のところ」
男は、まっすぐ高瀬を見た。
「……あいつがどこにいるのか、分からないけど」
少しだけ笑う。
「……会いに行きたい」
高瀬は、黙っていた。
男は続けた。
「……前は、怖かった」
「……うん」
「会ったら、また何かしなきゃいけないと思ってた」
高瀬は、頷いた。
「……でも、今は違う」
男は、紙片を見つめた。
「……あいつが、どんな場所にいるのか知りたい」
高瀬は、少しだけ笑った。
「……うん」
「……助けるためじゃなくて」
男は、ゆっくり言った。
「……会いたいから」
高瀬は、息を呑んだ。
会いたいから。
ただ、それだけ。
誰かを助けるためでもない。
誰かの代わりになるためでもない。
自分が、会いたいから。
それは。
この男が初めて、自分のために選んだことだった。
高瀬は、ゆっくり頷いた。
「……分かった」
男が顔を上げる。
「……え?」
「一緒に探そう」
高瀬は、笑った。
「蒼太がいる場所」
男は、少しだけ目を見開いた。
そして。
「……うん」
小さく笑った。
その時。
玄関の扉が開いた。
「……ただいま」
桐谷だった。
高瀬が振り返る。
「おかえり」
桐谷は、靴を脱ぎながら言った。
「……何かあった?」
高瀬は、紙片を見せた。
桐谷の表情が変わった。
「……これ」
「宮原からだと思う」
高瀬が答える。
桐谷は、紙を見つめた。
そして。
「……そっか」
小さく呟いた。
高瀬は、眉を寄せた。
「……桐谷?」
桐谷は、しばらく黙っていた。
そして。
「……俺も、似たような場所にいたことがある」
高瀬の指が止まった。
「……え?」
桐谷は、ゆっくりソファに座った。
「……消された後の話だ」
高瀬は、息を呑んだ。
桐谷は、少しだけ目を伏せた。
「……俺、しばらく帰れなかった」
高瀬が、静かに聞く。
「……どこにいた?」
桐谷は、しばらく考えた。
そして。
「……学校」
高瀬は、眉を寄せた。
「……学校?」
「うん」
桐谷は、ゆっくり頷いた。
「……でも、俺たちが知ってる学校じゃなかった」
高瀬は、息を止めた。
「……どういう意味?」
桐谷は、少しだけ笑った。
「……朝になっても、誰も来ないんだよ」
高瀬は、黙った。
「授業もない。チャイムも鳴らない」
桐谷は、窓の外を見た。
「……でも、教室だけはある」
もう一人の高瀬が、顔を上げた。
「……そこに、蒼太が?」
桐谷は、首を振った。
「分からない」
そして。
「……ただ、一つだけ覚えてる」
高瀬が、静かに聞いた。
「……何?」
桐谷は、ゆっくり答えた。
「……あの学校には、出口が二つあった」
高瀬は、息を止めた。
「……二つ?」
「うん」
桐谷は、頷いた。
「一つは、俺たちが知ってる廊下に繋がってた」
高瀬は、黙って聞いていた。
「……もう一つは」
桐谷は、少しだけ目を伏せた。
「……知らない場所に繋がってた」
高瀬の胸が、強く鳴った。
「……どんな場所?」
桐谷は、しばらく黙った。
そして。
「……空が、二つあった」
高瀬は、動けなかった。
空が、二つ。
その言葉。
何を意味しているのか、分からない。
けれど。
桐谷の表情は、冗談を言っているようには見えなかった。
「……俺、そこから戻ってきたんだ」
桐谷が言った。
高瀬は、息を呑んだ。
「……どうやって?」
桐谷は、少しだけ笑った。
「……お前のおかげだよ」
高瀬が眉を寄せる。
「……俺?」
「うん」
桐谷は、ゆっくり頷いた。
「……お前が、電話してくれただろ」
高瀬は、息を止めた。
あの日。
消えたはずの桐谷へ掛けた電話。
繋がるはずのない番号。
その電話が。
桐谷を、こちらへ戻した。
「……あれが、出口になった」
桐谷が言った。
高瀬は、何も言えなかった。
桐谷は、少しだけ笑った。
「……だからさ」
紙片を見つめる。
「蒼太にも、帰り道があるかもしれない」
高瀬は、ゆっくり頷いた。
「……うん」
もう一人の高瀬も、紙片を見つめていた。
その表情は、少しだけ明るくなっていた。
高瀬は、静かに言った。
「……探そう」
二人が顔を上げる。
「宮原の帰り道」
桐谷が笑った。
「……ああ」
もう一人の高瀬も頷いた。
「……うん」
その瞬間。
テーブルの上の紙片が、ふわりと浮いた。
三人が、息を止める。
紙片は、ゆっくり裏返った。
そこには。
さっきまでなかった文字が、浮かび上がっていた。
『先生へ』
『僕は、帰り道を見つけました』
高瀬は、息を呑んだ。
次の一文。
『でも、帰っていいのか分かりません』
もう一人の高瀬が、顔を上げた。
「……蒼太」
高瀬は、紙片を見つめた。
そして。
最後の一文を読んだ。
『だって、こっちにも先生がいるんです』
静寂。
高瀬は、動けなかった。
もう一人の高瀬も、何も言えなかった。
桐谷は、ゆっくり目を閉じた。
そして。
「……やっぱりな」
小さく呟いた。
高瀬が振り返る。
「……何が?」
桐谷は、紙片を見つめた。
そして。
「……あっちにもいるんだよ」
高瀬の胸が、強く鳴った。
「……誰が?」
桐谷は、静かに答えた。
「……高瀬悠介が」
高瀬は、息を止めた。
もう一人の高瀬が、ゆっくり顔を上げる。
二人の高瀬。
同じ顔。
同じ名前。
違う人生。
その二人が。
今、同じ部屋にいる。
けれど。
もし。
もう一つの場所にも、高瀬悠介がいるのだとしたら。
高瀬は、ゆっくり呟いた。
「……三人目?」
桐谷は、答えなかった。
ただ。
窓の外を見つめていた。
夜空には、月が一つ浮かんでいた。
その月が。
今夜だけは、妙に遠く感じられた。
【End】




