Review47「消された名前、残された声」
人が消える瞬間を、高瀬悠介は見たことがなかった。
正確に言えば、消えた後の世界なら知っている。
誰かの名前が記録からなくなる。
写真から姿が消える。
昨日まで一緒に笑っていた人間のことを、誰も覚えていなくなる。
まるで最初から存在しなかったかのように。
けれど、それは本当に「消えた」ということなのだろうか。
誰かの記憶から消えたことと、その人が存在しなくなったことは、同じなのだろうか。
高瀬は、真っ白になったスマートフォンの画面を見つめていた。
【削除処理】
完了。
たった二文字。
完了。
それだけで、一人の少年の人生が終わったことにされている。
「……ふざけんなよ」
声が、震えた。
隣にいたもう一人の高瀬が、画面を覗き込む。
「……蒼太が?」
「分からない」
高瀬は首を振った。
「まだ、分からない」
そう言いながら、指先は冷たくなっていた。
宮原蒼太。
六十九点の答案を持っていた少年。
先生が二人いることに気付き、どちらの苦しさも見ていた少年。
そして今日。
自分の足で、教室を出ていった少年。
その宮原が、消された。
高瀬はスマートフォンを握りしめた。
「……確認しよう」
もう一人の高瀬が顔を上げる。
「何を?」
「宮原が、本当に消えたのか」
高瀬は立ち上がった。
「Reviewの言うことだけで、決めたくない」
その言葉に、もう一人の高瀬は少しだけ目を見開いた。
そして、ゆっくり頷いた。
「……うん」
◇
午後十一時五十九分。
高瀬は、藤原へ電話を掛けた。
三回目の呼び出し音で繋がった。
『……高瀬先生?』
「ごめん、こんな時間に」
『どうしました?』
「……宮原が、消された」
電話の向こうで、息を呑む音がした。
『……え?』
「Reviewに、削除処理完了って出た」
短い沈黙。
そして。
『……今、どこですか?』
「家」
『分かりました。すぐ行きます』
「いや、待って。もう遅いし――」
『高瀬先生』
藤原の声が、少し強くなった。
『一人で何とかしようとしないでください』
高瀬は、言葉を止めた。
そして、小さく笑った。
「……そうだった」
『真壁先生にも連絡します』
「うん。ありがとう」
通話が切れた。
高瀬は、スマートフォンを見つめた。
以前の自分なら、誰にも連絡しなかっただろう。
夜中に学校へ向かい、宮原の名前を探して、何かが見つかるまで帰らなかったかもしれない。
でも。
今は違う。
自分には、相談できる相手がいる。
そして。
頼ることを、少しずつ覚え始めている。
◇
午前零時三十八分。
高瀬の自宅。
藤原と真壁が到着した。
桐谷も、眠そうな顔でリビングへやってきた。
「……何だよ、こんな時間に」
高瀬が事情を説明すると、桐谷の表情が変わった。
「……削除?」
「うん」
「……蒼太が?」
桐谷は、少しだけ目を伏せた。
その様子を、真壁が見ていた。
「……桐谷さん」
「ん?」
「何か知ってるんですか?」
桐谷は、しばらく黙った。
そして。
「……いや」
首を振った。
「今は、まだ」
高瀬が眉を寄せる。
「……今は?」
桐谷は答えなかった。
真壁が、静かに言った。
「……まず、整理しよう」
テーブルの上に、紙を一枚置く。
そして、三つの言葉を書いた。
『削除』
『記録』
『存在』
「……この三つ、同じ意味だと思うか?」
高瀬は、紙を見つめた。
「……違う、と思う」
真壁が頷く。
「俺もそう思う」
藤原が口を開いた。
「でも、宮原君が今どこにいるのか、確認しないと」
「それはそうだ」
真壁は頷いた。
「ただ、慌てて探しに行っても、何を探すべきか分からない」
藤原の表情が、少しだけ険しくなる。
「……でも、待っている間に何か起きたら?」
「だから、手順を決めようって言ってる」
「手順を決めている間に、宮原君が――」
「藤原先生」
真壁の声が、少し強くなった。
藤原は、口を閉じた。
高瀬は、二人を見つめた。
藤原は、宮原を心配している。
真壁は、状況を正確に把握しようとしている。
どちらも間違っていない。
そして。
どちらか一つを選ぶ必要もない。
「……二人とも」
高瀬が言った。
二人が顔を上げる。
「ありがとう」
藤原が、少し驚いた顔をした。
「……え?」
「宮原のこと、考えてくれて」
高瀬は、ゆっくり続けた。
「藤原先生の言う通り、今すぐ確認したい」
藤原が頷く。
「でも、真壁の言う通り、何を確認するか決めないと、同じところをぐるぐる回るだけになる」
真壁が、静かに頷いた。
「……そうだな」
「だから、分担しよう」
高瀬は紙を引き寄せた。
「まず、宮原が今日教室にいた証拠を確認する」
真壁が言った。
「ノートか」
「うん」
「それから?」
「俺たちの記憶」
高瀬は、もう一人の自分を見た。
「宮原が何を話したか、今のうちに書き出そう」
もう一人の高瀬が頷いた。
「……分かった」
藤原が、少しだけ笑った。
「……いいですね」
高瀬も笑った。
「だろ?」
真壁が、ため息をついた。
「最初からそうしろ」
「褒めてくれてもいいだろ!」
「褒めるのは終わってからだ」
桐谷が、横で笑った。
「……お前ら、いいチームだな」
高瀬は、少しだけ照れくさくなった。
「……まあな」
そして。
五人は、机を囲んだ。
◇
午前一時十二分。
高瀬は、宮原のノートを開いていた。
今日、教室で見つけたノート。
表紙には、確かに名前が書かれている。
『宮原蒼太』
高瀬は、ほっと息を吐いた。
「……残ってる」
藤原が、覗き込む。
「……本当ですね」
真壁も、確認した。
「文字は消えてない」
もう一人の高瀬が、ゆっくり手を伸ばした。
表紙に触れる。
「……蒼太」
小さく名前を呼んだ。
その瞬間。
ノートの文字が、滲んだ。
高瀬の表情が変わる。
「……え?」
インクが、水に濡れたように広がっていく。
そして。
少しずつ、文字が薄くなった。
「……待て」
高瀬が、ノートを持ち上げる。
藤原が息を呑む。
「……消えてる」
真壁が、すぐにスマートフォンを取り出した。
「写真を撮る」
シャッター音。
カシャ。
しかし。
画面に映ったノートの表紙には、何も書かれていなかった。
真壁が、眉を寄せた。
「……最初から白紙だ」
高瀬は、息を止めた。
目の前では、まだ名前が見えている。
でも。
写真には、映らない。
「……何で」
藤原が、静かに言った。
「……記録から、消えているんでしょうか」
高瀬は、ノートを見つめた。
宮原蒼太。
その名前は、まだそこにある。
けれど。
少しずつ、薄くなっていく。
もう一人の高瀬が、突然言った。
「……書こう」
高瀬が顔を上げる。
「……え?」
「名前」
男は、ペンを手に取った。
「消えるなら、書けばいい」
高瀬は、息を呑んだ。
男は、ノートの余白に文字を書いた。
『宮原蒼太』
その瞬間。
文字が、消えた。
男の手が止まる。
「……え?」
もう一度書く。
『宮原蒼太』
また、消える。
高瀬は、動けなかった。
Reviewは。
新しく書いた名前すら、消している。
男は、何度もペンを走らせた。
そのたびに、文字が消えた。
「……何で」
声が、震えた。
「……何でだよ」
高瀬は、男の肩に手を置いた。
「……待って」
「……でも」
「一回、止めよう」
男は、ペンを握りしめた。
そして。
ゆっくり手を止めた。
高瀬は、ノートを見つめた。
名前は、消えた。
記録も、消えていく。
でも。
自分たちは、覚えている。
宮原蒼太。
あの少年。
あの声。
あの笑顔。
高瀬は、ゆっくり息を吐いた。
「……まだ、終わってない」
藤原が頷いた。
「……はい」
真壁も、静かに言った。
「少なくとも、俺たちは覚えてる」
桐谷が、少しだけ笑った。
「……そうだな」
高瀬は、ノートを閉じた。
そして。
「……次は、記録じゃないものを探そう」
真壁が眉を寄せる。
「……記録じゃないもの?」
「うん」
高瀬は、ゆっくり言った。
「宮原が、ここにいたっていう証拠」
藤原が、少し考えた。
「……例えば?」
高瀬は、もう一人の自分を見た。
「……あいつが、誰かに残したもの」
男が、顔を上げる。
「……残したもの?」
「うん」
高瀬は、頷いた。
「名前じゃなくて、気持ちとか、言葉とか」
真壁が、少しだけ笑った。
「……曖昧だな」
「分かってる」
高瀬も笑った。
「でも、今はそれしか思いつかない」
桐谷が、静かに言った。
「……いや」
全員が顔を上げる。
桐谷は、少しだけ目を伏せた。
「……それ、間違ってないかもしれない」
高瀬が眉を寄せる。
「……どういう意味?」
桐谷は、しばらく黙っていた。
そして。
「……俺が消えた時も、そうだった」
高瀬は、息を止めた。
「……え?」
桐谷は、ゆっくり続けた。
「名前も、記録も、全部消えた」
高瀬は、黙って聞いていた。
「……でも」
桐谷は、少しだけ笑った。
「お前との約束だけは、残った」
高瀬の胸が、強く鳴った。
約束。
去年の十月。
桐谷が残した手紙。
そして。
友達でいるという言葉。
高瀬は、息を呑んだ。
「……約束」
桐谷が頷いた。
「……そう」
そして。
「Reviewは、記録を消せても」
少し間を置く。
「……誰かが誰かにした約束までは、消せないのかもしれない」
高瀬は、何も言えなかった。
藤原も、真壁も、黙っていた。
もう一人の高瀬は、ゆっくり顔を上げた。
「……蒼太」
小さく名前を呼ぶ。
「……あいつ、言ってた」
高瀬が振り返る。
「……何を?」
男は、少しだけ笑った。
「……今度は、ちゃんと帰ってきてくださいねって」
高瀬は、息を呑んだ。
宮原の最後の言葉。
今度は、ちゃんと帰ってきてくださいね。
それは。
約束だった。
男は、ゆっくり頷いた。
「……俺、帰るって言った」
高瀬は、黙って聞いていた。
「……だから」
男は、顔を上げた。
「……まだ、終わってない」
高瀬は、ゆっくり頷いた。
「……うん」
藤原が、少しだけ笑った。
「……きっと、そうですね」
真壁も、静かに頷いた。
「……調べる価値はあるな」
桐谷が、缶コーヒーを一口飲んだ。
「……よし」
そして。
「じゃあ、次は約束を探すか」
高瀬は、笑った。
「……ああ」
◇
午前二時四十六分。
五人は、ようやく作業を終えた。
宮原の名前は、ノートから完全に消えていた。
写真にも残らない。
新しく書いても消える。
それでも、五人の記憶には残っている。
少なくとも、今は。
高瀬は、ソファに座った。
疲れが、どっと押し寄せてきた。
藤原と真壁は帰宅し、桐谷は客用の布団へ戻った。
もう一人の高瀬は、窓際に立っていた。
「……なあ」
高瀬が呼ぶ。
「……何?」
「……寝よう」
男は、少しだけ笑った。
「……うん」
その時。
高瀬のスマートフォンが震えた。
――ブッ。
【Review】
本日の行動を評価します。
★★★☆☆
良かった点。
あなたは、削除された人物を
記憶し続けました。
改善点。
あなたは、まだ
削除の対象を
誤認しています。
高瀬は、眉を寄せた。
「……誤認?」
次の表示。
【削除対象】
宮原蒼太。
【削除範囲】
評価履歴。
高瀬は、息を止めた。
「……評価履歴?」
次の表示。
【補足】
存在そのものの削除ではありません。
高瀬の目が見開かれた。
「……え?」
もう一人の高瀬が、近付いてくる。
「……どうした?」
高瀬は、スマートフォンを見せた。
「……宮原」
声が、震えた。
「……消えてない」
男は、息を呑んだ。
「……本当に?」
「……うん」
高瀬は、画面を見つめた。
存在そのものの削除ではない。
つまり。
宮原蒼太は、まだどこかにいる。
高瀬は、ゆっくり息を吐いた。
そして。
「……よかった」
小さく呟いた。
その時。
スマートフォンが、もう一度震えた。
【Review】
補足事項。
評価履歴から削除された人物は、
通常の検索対象には含まれません。
高瀬は、眉を寄せた。
「……通常の検索対象?」
次の表示。
【検索範囲】
現実世界。
高瀬は、息を止めた。
現実世界。
その言葉が、妙に引っかかった。
今まで。
Reviewは、こんな言い方をしたことがあっただろうか。
高瀬は、画面を見つめた。
そして。
ゆっくり呟いた。
「……現実世界?」
もう一人の高瀬が、隣で顔を上げる。
「……どうした?」
高瀬は、スマートフォンを見せた。
「……これ」
男は、画面を見た。
そして。
少しだけ眉を寄せた。
「……変だな」
「……だろ?」
高瀬は、頷いた。
現実世界。
その言葉。
まるで。
現実世界以外にも、何かが存在するかのような。
高瀬は、ゆっくり息を吐いた。
そして。
「……なあ」
もう一人の高瀬が顔を上げる。
「……何?」
高瀬は、静かに言った。
「……俺たちがいる世界って」
少し間を置く。
「……本当に、一つだけなのかな」
男は、何も言えなかった。
窓の外では、夜が静かに更けていた。
高瀬は、スマートフォンを伏せた。
宮原蒼太。
あの少年は、まだどこかにいる。
そして。
その場所は。
自分たちが知っている世界とは、違う場所なのかもしれない。
高瀬は、ゆっくり目を閉じた。
まだ、答えは出ない。
でも。
一つだけ、確かなことがあった。
宮原は、消えていない。
それだけで。
今夜は、少しだけ眠れそうだった。
【End】




