Review45「おかえりを知らない人」
自分の家に、自分が二人いる。
冷静に考えれば、相当おかしな状況だった。
しかも、そこに高校時代からの友人まで泊まっている。昨日まで一人で暮らしていた部屋が、一晩で妙な共同生活の舞台になってしまった。
高瀬悠介は、午前六時十二分に目を覚ました。
いつもより少し早い。
目覚まし時計が鳴る前に起きた理由は、台所から聞こえてくる物音だった。
カチャ。
カチャカチャ。
何かが食器に当たる音。
続いて、小さな声。
「……いや、違う。これじゃ焦げる」
高瀬は、布団の中で目を開けた。
聞き覚えのある声だった。
というより、毎日聞いている。
自分の声だ。
「……何してんだ?」
身体を起こし、台所へ向かう。
そこで見た光景に、高瀬は思わず足を止めた。
もう一人の高瀬が、フライパンを握っていた。
エプロンを着けている。
しかも、なぜか片手には菜箸、もう片方にはスマートフォン。
画面には、卵焼きの作り方が表示されていた。
「……おはよう」
もう一人の高瀬が、気まずそうに笑った。
「……おはよう」
高瀬は、フライパンを見た。
黒い。
かなり黒い。
「……何作ってんの?」
「卵焼き」
「炭じゃなくて?」
「まだ食える」
「その自信どっから来るんだよ!」
もう一人の高瀬は、少しだけ笑った。
「……お前、朝飯ちゃんと食わないだろ」
「まあ、パンとか」
「だから、作ろうと思って」
高瀬は、黙った。
昨日。
もう一人の自分は、帰る場所がないと言った。
自分の家も、仕事も、名前も、全部こちらが持っていると。
そんな男が、今朝は台所で卵焼きを作っている。
誰かのために。
いや。
自分のために。
「……ありがとな」
高瀬が言うと、男は少し驚いた顔をした。
「……え?」
「朝飯」
「……まだできてないぞ」
「うん。でも、ありがとう」
男は、しばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「……そっか」
その時だった。
「……何か焦げ臭くね?」
背後から桐谷の声がした。
寝癖だらけの髪。
眠そうな目。
高校時代から変わらない、だらしない朝の姿。
高瀬は振り返った。
「おはよう」
「……おう」
桐谷は、台所を見た。
フライパン。
黒い卵焼き。
同じ顔の男が二人。
そして。
「……お前ら」
桐谷が、真顔で言った。
「朝からホラー映画みたいなことすんな」
「何がだよ!」
「寝起きに高瀬が二人いるの、まだ慣れねえんだよ!」
「俺らだって慣れてねえわ!」
もう一人の高瀬が、思わず吹き出した。
桐谷も笑う。
高瀬も、つられて笑った。
何でもない朝。
ただ、三人で笑っている。
それだけなのに。
もう一人の高瀬は、少しだけ目を細めていた。
◇
午前六時四十三分。
三人は、食卓を囲んでいた。
卵焼きは、結局作り直した。
最初の一つは、桐谷が「これは食べ物じゃなくて教材だ」と言い張ったため、残念ながら処分された。
「……で」
桐谷が、味噌汁を飲みながら言った。
「今日、どうすんだ?」
高瀬は、パンを齧る。
「俺は学校」
「知ってる」
「お前は?」
「仕事」
「……仕事?」
高瀬が顔を上げる。
桐谷は、当たり前のように頷いた。
「そりゃ働いてるよ」
「……何の仕事?」
「まあ、色々」
「雑すぎるだろ」
「説明すると長い」
高瀬は、眉を寄せた。
桐谷が消えたのは、去年の十月。
記録から消え、連絡先も失われた。
その桐谷が、今は普通に仕事をしているという。
当然、疑問はある。
でも、今すぐ全部を聞く必要はない。
高瀬は、パンを置いた。
「……そっか」
桐谷が、少し驚いた顔をした。
「……聞かねえの?」
「聞きたいけど」
高瀬は、笑った。
「飯食ってるし」
桐谷は、しばらく黙った。
そして、少し笑った。
「……変わったな、お前」
「最近よく言われる」
「昔なら、朝飯そっちのけで質問攻めだったぞ」
「反省してるんだよ」
「へえ」
桐谷は、味噌汁を飲んだ。
「……いいことだな」
その言葉に、高瀬は少しだけ笑った。
隣では、もう一人の高瀬が黙って食事をしていた。
高瀬は、そちらを見る。
「……お前は?」
「……え?」
「今日、どうしたい?」
男は、箸を止めた。
しばらく考える。
そして。
「……分からない」
正直に答えた。
高瀬は頷いた。
「そっか」
「……でも」
男は、少しだけ目を伏せた。
「……家にいてもいいか?」
高瀬は、思わず笑った。
「当たり前だろ」
男は、顔を上げた。
「……本当に?」
「うん」
「……何もしなくても?」
高瀬は、少しだけ黙った。
何もしなくても。
その言葉が、胸に引っかかった。
もう一人の自分は、ずっと誰かの代わりをしてきた。
誰かの役に立たなければ、ここにいてはいけない。
そんなふうに思っているのかもしれない。
「……何もしなくていいよ」
高瀬は、ゆっくり答えた。
「今日は、休め」
男は、しばらく高瀬を見つめていた。
そして。
「……うん」
小さく頷いた。
桐谷が、二人を見比べる。
「……何かさ」
「何?」
高瀬が聞く。
「お前ら、夫婦みたいだな」
「どこがだよ!」
「いや、同じ顔の夫婦」
「余計気持ち悪いわ!」
もう一人の高瀬が、声を出して笑った。
その笑顔を見て、高瀬は少しだけ安心した。
昨日より、表情が柔らかくなっている。
それが、何より嬉しかった。
◇
午前八時二十六分。
高瀬は、教室へ向かう廊下を歩いていた。
藤原が隣に並ぶ。
「……昨日、どうでした?」
「ん?」
「三人で過ごした夜です」
高瀬は、少し笑った。
「……変だった」
「でしょうね」
「でも、楽しかった」
藤原が、微笑んだ。
「よかったです」
高瀬は、少し考えてから続けた。
「……あいつ、今朝卵焼き作ってくれたんだよ」
「もう一人の高瀬先生が?」
「うん。真っ黒だったけど」
「……あはは」
藤原が笑う。
「でも、優しいですね」
「……そうだな」
高瀬は頷いた。
優しい。
もう一人の自分。
怖い存在だと思っていた。
自分の居場所を奪うかもしれない相手だと。
でも、今朝は卵焼きを作っていた。
ただ、それだけだった。
「……藤原先生」
「はい?」
「人ってさ」
高瀬は、少し考えた。
「何もしなくても、誰かと一緒にいていいんだな」
藤原は、ゆっくり頷いた。
「……はい」
「俺、最近ようやく分かった気がする」
藤原は、少し笑った。
「遅いですよ」
「ひどっ!」
「でも、気付けてよかったですね」
高瀬は、笑った。
「……うん」
その時、教室から生徒の声が聞こえた。
「先生ー!」
「おう!」
「今日、テスト返す?」
「返すぞ」
「うわ、最悪!」
「何でだよ!」
生徒たちが笑う。
高瀬も笑った。
いつも通りの学校。
いつも通りの教室。
でも。
今日は、少しだけ違った。
家に帰れば。
誰かがいる。
そのことが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。
◇
午後三時五十八分。
高瀬の自宅。
もう一人の高瀬は、ソファに座っていた。
テレビはついている。
けれど、何を見ているのか、ほとんど頭に入ってこなかった。
時計を見る。
午後三時五十八分。
あと少しで、学校が終わる頃だ。
高瀬は、まだ帰ってこない。
当然だ。
仕事がある。
自分にも、かつてはあった。
授業。
職員会議。
生徒指導。
保護者への連絡。
帰宅する頃には、いつも夜になっていた。
男は、膝の上で両手を組んだ。
何もしなくていい。
今朝、高瀬はそう言った。
でも。
何もしない時間が、こんなに苦しいとは思わなかった。
何かをしなければ。
役に立たなければ。
そう考えてしまう。
掃除をしようか。
洗濯をしようか。
夕飯を作ろうか。
そんなことばかり考えている。
「……休めって、言われたのにな」
男は、苦笑した。
休む。
たった二文字。
それが、どうしてこんなに難しいのだろう。
その時。
インターホンが鳴った。
ピンポーン。
男は、顔を上げた。
高瀬が帰ってくるには早すぎる。
宅配便だろうか。
男は、玄関へ向かった。
モニターを確認する。
そこには、一人の男性が映っていた。
六十代くらい。
少し白髪が混じった髪。
くたびれたジャケット。
そして。
手には、缶コーヒー。
男は、息を止めた。
「……先生?」
モニターの向こうで、男性が笑った。
『……よう』
聞き覚えのある声。
忘れられない声。
『久しぶりだな、高瀬』
男は、動けなかった。
中学三年の時の担任。
水野修司。
自分を教師にした男。
そして。
去年の十月。
旧校舎で会ったはずの男。
「……何で」
男の声が震えた。
「……ここに」
水野は、少しだけ笑った。
『話がある』
男は、息を呑んだ。
『お前にじゃない』
水野は、静かに続けた。
『もう一人の高瀬にだ』
男は、何も言えなかった。
◇
午後五時四十二分。
高瀬は、帰宅途中の道を歩いていた。
今日は、珍しく早く仕事が終わった。
藤原と真壁が、残りの仕事を引き受けてくれたからだった。
もちろん、最初は断った。
けれど、真壁に「お前は昨日、寝不足だろ」と言われ、藤原に「今日は帰ってください」と笑顔で念を押され、結局従うことにした。
高瀬は、コンビニの袋を揺らした。
中には、夕飯の材料。
もう一人の自分が、今日は何もせず休んでいるといい。
そんなことを考えていた。
その時。
スマートフォンが震えた。
着信。
表示された名前。
『高瀬悠介』
高瀬は、足を止めた。
「……え?」
自分の名前。
自分からの電話。
心臓が、少し強く鳴った。
通話ボタンを押す。
「……もしもし?」
『……高瀬』
もう一人の自分の声だった。
「どうした?」
『……今、どこ?』
「帰り道。あと十分くらい」
少しの沈黙。
そして。
『……早く帰ってきてほしい』
高瀬の表情が変わった。
「……何かあった?」
『……先生が来た』
「……先生?」
『水野先生』
高瀬は、息を止めた。
水野修司。
中学三年の時の担任。
去年の写真に写っていた、四人目の人物。
その男が。
今、自分の家にいる。
「……水野先生が?」
『うん』
「……何で」
『分からない』
もう一人の高瀬は、少しだけ声を落とした。
『でも、あの人……』
そこで、言葉が止まった。
「……何?」
高瀬が聞く。
電話の向こうで、男が息を呑んだ。
そして。
『……俺たちのこと、全部知ってる』
高瀬は、動けなくなった。
水野先生。
自分を教師にした男。
去年の十月に現れた男。
その人物が、二人の高瀬を知っている。
高瀬は、走り出した。
「……分かった。すぐ帰る」
通話を切る。
心臓が、激しく鳴っていた。
水野修司。
あの人が。
今になって現れた理由。
それは、何なのだろう。
◇
午後五時五十四分。
高瀬は、自宅の玄関を開けた。
「……ただいま!」
いつもより大きな声が出た。
靴を脱ぎ、リビングへ向かう。
そこには、二人の男がいた。
もう一人の高瀬。
そして。
水野修司。
中学三年の時の担任。
高瀬が教師になった理由の一つ。
あの男が、ソファに座っていた。
「……先生」
高瀬が呟く。
水野は、ゆっくり顔を上げた。
「……よう」
昔と変わらない声。
少しだけ皺の増えた顔。
そして。
相変わらず、缶コーヒーを持っている。
「……久しぶりだな」
高瀬は、何も言えなかった。
水野は、少し笑った。
「……何だよ」
そして。
「教師になったら、昔の担任に挨拶もできなくなったのか?」
高瀬は、思わず笑った。
「……いや」
目の奥が熱くなる。
「……お久しぶりです」
水野は、頷いた。
「……おう」
そして、もう一人の高瀬を見た。
「……二人とも、よく頑張ったな」
その言葉に。
高瀬は、息を止めた。
もう一人の高瀬も、俯いた。
水野は、缶コーヒーを机へ置いた。
「……さて」
少しだけ表情を変える。
「話をしようか」
高瀬は、ゆっくり頷いた。
水野は、二人を交互に見た。
そして。
「……まず、謝らせてくれ」
高瀬の眉が動いた。
「……え?」
水野は、静かに頭を下げた。
「……すまなかった」
高瀬は、動けなかった。
中学三年の時。
何度も叱られた。
何度も励まされた。
間違えたら謝れと教えてくれた。
その水野が。
今、自分たちに頭を下げている。
「……先生?」
水野は、顔を上げた。
その目は、少し赤かった。
「……俺は」
ゆっくり口を開く。
「お前たちを、助けられなかった」
高瀬は、息を呑んだ。
もう一人の高瀬も、黙っている。
水野は、続けた。
「去年の十月九日」
その日付に、高瀬の指が止まった。
「……俺は、あの学校にいた」
高瀬は、頷いた。
「……写真に写ってました」
「そうだろうな」
水野は、少しだけ笑った。
「……俺が呼ばれたんだ」
「……誰に?」
高瀬が聞く。
水野は、もう一人の高瀬を見た。
そして。
「……こいつに」
高瀬は、息を止めた。
もう一人の自分。
その男が、水野を呼んだ。
水野は、静かに続けた。
「……助けてくれってな」
高瀬は、動けなかった。
あの記録。
『俺だって、助けてほしかった。』
その言葉。
もう一人の高瀬は。
ちゃんと、助けを求めていた。
水野は、缶コーヒーを握りしめた。
「……でも、俺は」
声が、少しだけ震えた。
「……間に合わなかった」
高瀬は、何も言えなかった。
もう一人の高瀬は、俯いている。
水野は、ゆっくり息を吐いた。
そして。
「……だから」
高瀬を見た。
「今度こそ、間に合わせたい」
高瀬は、息を呑んだ。
水野は、二人を交互に見た。
「……お前たち、まだ間に合う」
静かな声だった。
けれど。
そこには、確かな強さがあった。
高瀬は、ゆっくり頷いた。
「……何に?」
水野は、少しだけ目を伏せた。
そして。
「……あの子だよ」
高瀬の指が止まった。
「……え?」
水野は、まっすぐ高瀬を見た。
「……宮原蒼太」
その名前に、高瀬の胸が強く鳴った。
宮原蒼太。
三十七人目の生徒。
No.001。
ずっと名前を思い出せなかった少年。
水野は、静かに続けた。
「……あの子は、まだ待ってる」
高瀬は、息を止めた。
「……どこで?」
水野は、少しだけ笑った。
「……お前が、最初に約束した場所だ」
高瀬は、動けなかった。
最初に約束した場所。
どこだ。
いつだ。
何を約束した。
頭の中で、記憶が激しく揺れた。
水野は、静かに言った。
「……思い出せ」
高瀬は、目を閉じた。
宮原蒼太。
あの少年。
六十九点の答案。
三十七人目の席。
そして。
『また明日』
高瀬の目が開いた。
「……教室」
水野が、頷いた。
「……そうだ」
高瀬は、息を呑んだ。
「……あいつ」
声が震えた。
「……教室で、待ってるのか?」
水野は、静かに頷いた。
「……ああ」
そして。
「……ずっとな」
高瀬は、動けなかった。
宮原蒼太。
あの少年は。
まだ、待っている。
自分が。
もう一度、教室へ来ることを。
高瀬は、ゆっくり息を吐いた。
「……行かなきゃ」
その瞬間。
「待て」
水野が言った。
高瀬は、顔を上げる。
「……何で」
水野は、静かに答えた。
「今のお前が行っても、会えない」
高瀬は、息を止めた。
「……え?」
水野は、もう一人の高瀬を見た。
そして。
「……あの子が待ってるのは」
ゆっくり言った。
「お前じゃない」
高瀬は、動けなかった。
水野は、もう一人の高瀬を指差した。
「……こっちだ」
静寂。
もう一人の高瀬が、顔を上げた。
「……俺?」
水野は、頷いた。
「……そうだ」
高瀬は、何も言えなかった。
宮原蒼太。
あの少年が。
ずっと待っていたのは。
もう一人の自分だった。
水野は、最後に言った。
「……あの子は、お前に言いたいことがある」
もう一人の高瀬は、息を呑んだ。
「……何を」
水野は、少しだけ目を伏せた。
そして。
「……それは、俺が言うことじゃない」
もう一人の高瀬は、黙った。
高瀬も、何も言えなかった。
水野は、二人を見つめた。
「……ただ、一つだけ言っておく」
その声が、少しだけ強くなった。
「今度は、どちらか一人で行くな」
高瀬は、顔を上げた。
水野は、続けた。
「……二人で行け」
もう一人の高瀬も、顔を上げる。
水野は、静かに笑った。
「……先生ってのはな」
少し間を置く。
「一人で全部背負う仕事じゃねえんだよ」
高瀬は、目を閉じた。
十五年前。
何度も聞いた言葉。
そして。
今の自分が、ようやく理解し始めたこと。
高瀬は、もう一人の自分を見た。
男も、こちらを見ていた。
同じ顔。
同じ名前。
でも。
違う時間を生きてきた二人。
高瀬は、ゆっくり手を差し出した。
「……行こう」
もう一人の高瀬は、少しだけ笑った。
「……うん」
そして。
二人は、手を握った。
水野は、その姿を見て、静かに頷いた。
窓の外では、夕日が沈みかけていた。
長い一日が、終わろうとしている。
けれど。
高瀬たちにとって、本当の一日は。
まだ、始まっていなかった。
【End】




