Review44「三人分の缶コーヒー」
約束の場所へ向かう時、人は何を考えるのだろう。
久しぶりに会う友人なら、何から話そうかと考える。謝りたい相手なら、最初の一言を何度も頭の中で繰り返す。ずっと会いたかった人なら、顔を見た瞬間に何も言えなくなるかもしれない。
高瀬悠介の場合、その全部だった。
しかも、会う相手の一人は自分自身だ。
人生で一度も経験したことのない再会を前にして、高瀬は朝から落ち着かなかった。
何を聞けばいい。
何を伝えればいい。
そもそも、もう一人の自分に向かって「久しぶり」と言うのは正しいのだろうか。
考えれば考えるほど分からなくなる。
それでも、一つだけ決めていた。
今日は、相手の話を最後まで聞く。
たとえ、自分にとって都合の悪い言葉だったとしても。
◇
午前七時五十二分。
「……三本?」
職員室に入ってきた藤原が、高瀬の机を見て首を傾げた。
机の上には、缶コーヒーが三本並んでいる。
すべてブラックだった。
「今日、桐谷に会うから」
「それは知ってますけど、三本なんですね」
「うん。桐谷と、もう一人の俺と、俺」
藤原は少し考えてから笑った。
「高瀬先生、ブラック苦手じゃありませんでした?」
「……よく覚えてるな」
「前に、苦いって言いながら飲んでましたよ」
「桐谷がブラックしか飲まないんだよ。昔から付き合わされてた」
「だったら高瀬先生の分は甘いのでいいのに」
「いや、今日はこれでいい」
高瀬は、三本の缶を見つめた。
昔、桐谷とよく飲んでいた缶コーヒー。
高校時代の担任も、いつも似たようなものを持っていた。
温くなったブラックを平気な顔で飲んで、人生もこんなものだと笑っていた。
その先生の名前は、水野修司。
中学三年の時に担任だった男だ。卒業後も何かと顔を出し、高瀬が高校生になってからも、進路に迷うたびに話を聞いてくれた。
口が悪く、余計なことばかり言う。
それなのに、誰かが本当に困っている時だけは、決して席を立たなかった。
高瀬が教師になった理由の一つだった。
「……何だか」
藤原が言った。
「遠足前の子どもみたいですね」
「俺が?」
「はい」
「こんな重い遠足ある?」
「確かに」
藤原が笑う。
そこへ真壁がやってきた。
「お前、今日は授業中に上の空になるなよ」
「分かってる」
「昨日も同じこと言ってた」
「昨日は大丈夫だっただろ」
「板書で『理由』を『理油』って書いてた」
「油断しただけだ!」
「上手いこと言ったつもりか」
藤原が吹き出した。
高瀬も、つられて笑った。
その時、スマートフォンが震えた。
桐谷からだった。
『今日は逃げんなよ』
高瀬は、思わず眉を寄せた。
「……あいつ」
すぐに返信する。
『逃げるか。コーヒー三本買ったわ』
数秒後、返事が届いた。
『俺の分、ブラックな』
『全部ブラックだわ』
『お前飲めないだろ』
『飲めるわ!』
『昔、砂糖三本入れてただろ』
「……覚えてやがる」
高瀬が笑うと、藤原が覗き込んだ。
「桐谷さんですか?」
「うん。相変わらず腹立つ」
「嬉しそうですよ」
「……まあな」
高瀬はスマートフォンを伏せた。
昨日まで、もう二度と会えないかもしれないと思っていた友人と、こんなくだらないやり取りができる。
それだけで、今日という日には十分な意味がある気がした。
◇
午後四時四十一分。
最後の授業を終えた高瀬は、教室の戸締まりを確認していた。
「先生!」
廊下から声がした。
昨日、友達とのことで相談に来た男子生徒だった。
「おう。どうした?」
「あの、昨日のことなんですけど」
「うん」
「謝りました」
高瀬は顔を上げた。
「そっか」
「裏切り者って言ったこと」
「うん」
「そしたら、あいつも謝ってきて」
「何て?」
「急にやめるって言ってごめん、って」
男子生徒は、少し照れくさそうに笑った。
「でも、やっぱり部活はやめるみたいです」
「……そっか」
「はい」
高瀬は、続きを待った。
男子生徒は、窓の外を見た。
グラウンドでは、部活動の準備が始まっている。
「正直、まだ寂しいです」
「うん」
「でも、明日一緒に帰る約束しました」
高瀬は、思わず笑った。
「いいじゃん」
「部活やめても、友達はやめなくていいかなって」
その言葉が、胸に残った。
友達はやめなくていい。
高瀬は、ゆっくり頷いた。
「……そうだな」
「先生、昨日言ってたこと、ちょっと分かった気がします」
「俺、何て言ったっけ」
「忘れたんですか!?」
「冗談だよ」
「絶対忘れてたでしょ!」
男子生徒が笑う。
高瀬も笑った。
そして、生徒が立ち去ろうとした時。
「……なあ」
高瀬は呼び止めた。
「はい?」
「友達に謝るの、怖くなかった?」
男子生徒は、少し考えた。
「怖かったです」
「うん」
「でも、謝らないまま終わる方が嫌だったから」
高瀬は、何も言えなくなった。
男子生徒は、軽く頭を下げて走っていった。
廊下に一人残された高瀬は、しばらくその背中を見送った。
謝らないまま終わる方が嫌だった。
自分も、そうなのかもしれない。
桐谷は謝るなと言った。
でも、それでも。
伝えなければならないことがある。
高瀬は、鞄の中の缶コーヒーを確かめた。
三本。
まだ、ちゃんと入っている。
◇
午後五時十七分。
旧校舎の相談室。
高瀬は扉の前で立ち止まった。
藤原と真壁が、少し後ろにいる。
「……緊張してます?」
藤原が聞いた。
「めちゃくちゃ」
「でしょうね」
「手、震えてるもん」
高瀬が両手を見せると、真壁が言った。
「帰るか?」
「帰らんわ!」
「なら入れ」
「もう少し心の準備を……」
「五分前から同じこと言ってる」
「心の準備に時間かかるタイプなんだよ!」
藤原が小さく笑った。
高瀬は深呼吸した。
そして、扉をノックする。
コン、コン。
「……どうぞ」
声がした。
聞き間違えるはずがない。
桐谷の声だった。
高瀬は、ゆっくり扉を開けた。
相談室の窓際。
丸テーブルに腰掛けていた男が、こちらを振り返る。
少し伸びた髪。
無精ひげ。
昔と変わらない、どこか人を食ったような笑い方。
「……よう」
桐谷が片手を上げた。
「遅かったな」
高瀬は、動けなかった。
写真ではない。
電話越しでもない。
目の前にいる。
桐谷が。
確かに、そこにいる。
「……お前」
声が掠れた。
「……生きてたのか」
桐谷は、少しだけ笑みを消した。
「……ああ」
そして、静かに答えた。
「生きてるよ」
高瀬の視界が滲んだ。
何か言おうとした。
でも、言葉が出てこない。
桐谷は椅子から立ち上がり、ゆっくり近付いてきた。
「……高瀬」
「……うん」
「久しぶり」
その瞬間。
高瀬は、桐谷の肩を掴んだ。
「……馬鹿野郎」
声が震えた。
「どこ行ってたんだよ」
桐谷は、何も言わなかった。
「……俺、ずっと」
言葉が詰まる。
「お前が死んだんじゃないかって」
桐谷の表情が、少しだけ歪んだ。
「……悪かった」
「謝るなって言ったの、お前だろ」
「俺が謝るのはいいんだよ」
「何だそれ……」
高瀬は、笑った。
涙が落ちた。
桐谷も笑った。
「……相変わらず面倒くせえな」
「お前もな」
二人は、しばらくそのままだった。
言いたいことは、山ほどあった。
聞きたいことも、数え切れないほどあった。
でも。
今は、ただ。
会えたことが嬉しかった。
高瀬がようやく手を離すと、桐谷は藤原と真壁へ視線を向けた。
「……そちらが?」
藤原が頭を下げる。
「藤原美咲です」
「真壁です」
桐谷は、二人を見て少し笑った。
「……ありがとう」
藤原が顔を上げる。
「え?」
「こいつ、一人で何でも背負おうとするだろ」
真壁が即答した。
「はい」
「即答すんな!」
藤原も頷いた。
「かなり」
「お前らまで!」
桐谷は声を出して笑った。
「……そっか」
そして、少しだけ真剣な顔になった。
「今度は、一人じゃないんだな」
高瀬は、黙った。
桐谷は、静かに頷いた。
「……よかった」
その一言が、妙に胸に沁みた。
◇
「……で」
高瀬は、鞄から缶コーヒーを取り出した。
「約束のやつ」
一本を桐谷に渡す。
「お、覚えてたか」
「当たり前だろ」
「ブラック?」
「ブラック」
「砂糖は?」
「ないわ!」
桐谷が笑った。
高瀬も笑う。
そして、残り二本を机に置いた。
一つは、自分。
もう一つは。
「……あいつは?」
高瀬が聞くと、桐谷の表情が変わった。
窓の方を見る。
「……いるよ」
高瀬の心臓が強く鳴った。
桐谷は、奥のカーテンへ視線を向けた。
「……おい」
静かに呼ぶ。
「来たぞ」
しばらく、何も起きなかった。
高瀬は、息を止めて待った。
やがて。
カーテンの向こうから、一人の男が現れた。
高瀬悠介。
自分と同じ顔。
同じ背丈。
同じ声を持つ男。
けれど。
その表情は、まるで違っていた。
目の下には深い隈があり、髪は少し乱れている。着ているシャツには皺が目立ち、ネクタイは緩められていた。
何より。
その目が、ひどく疲れていた。
高瀬は、言葉を失った。
もう一人の自分。
ずっと探していた相手。
その男が、目の前にいる。
「……久しぶり」
もう一人の高瀬が言った。
声は、自分と同じだった。
でも、どこか違う。
少し掠れていて。
長い間、誰とも話していなかったような声だった。
「……お前」
高瀬は、ようやく口を開いた。
「……本当に」
「ああ」
もう一人の高瀬が、少し笑った。
「本物だよ」
高瀬は、息を呑んだ。
目の前の男は、自分の顔で笑っている。
でも。
その笑顔が、ひどく悲しかった。
「……座れよ」
桐谷が言った。
三人は、丸テーブルを囲んだ。
藤原と真壁は、少し離れた場所に椅子を置いた。
高瀬は、もう一人の自分の前に缶コーヒーを置いた。
「……これ」
男が、缶を見る。
「俺の?」
「……うん」
「ブラック?」
「……うん」
男は、少しだけ笑った。
「……苦手なのに」
高瀬も笑った。
「お前もだろ」
「……そうだな」
そのやり取りに、桐谷が吹き出した。
「お前ら、ほんと同じだな」
「同じだからな」
もう一人の高瀬が答えた。
その声に、少しだけ温かさが戻った。
高瀬は、缶コーヒーを手に取った。
冷たい。
昔、三人で飲んだことがあっただろうか。
そんなことを考えてから、気付く。
三人で飲むのは、今日が初めてだ。
少なくとも、今の自分にとっては。
高瀬は、ゆっくり口を開いた。
「……聞きたいことがある」
もう一人の高瀬が頷く。
「分かってる」
「……何で残った?」
男は、少しだけ目を伏せた。
桐谷も、黙っている。
「俺を助けるためだったって、記録にはあった」
高瀬は続けた。
「でも、お前は……」
言葉が詰まる。
あの一文が、頭をよぎった。
『俺だって、助けてほしかった。』
「……本当は、どうしたかったんだ?」
もう一人の高瀬は、しばらく黙っていた。
缶コーヒーを指で転がす。
カラン、と小さな音がした。
そして。
「……帰りたかった」
静かに答えた。
高瀬は、息を止めた。
「……え?」
「帰りたかったんだよ」
男は、苦笑した。
「学校から」
高瀬は、何も言えなかった。
「教師を辞めたいとか、誰かを救いたいとか、そんな大きな話じゃなかった」
男は、缶コーヒーを見つめた。
「ただ、家に帰りたかった」
藤原が、少しだけ目を伏せた。
真壁も、黙って聞いている。
「……疲れてたんだ」
もう一人の高瀬が続ける。
「毎日、何かに追われてた。生徒のこと、保護者のこと、仕事のこと。帰っても次の日のこと考えて、朝になったらまた学校に行く」
男は、小さく笑った。
「……でも、誰かに助けてって言えなかった」
高瀬は、胸の奥が苦しくなった。
分かる。
全部、分かる。
自分も、同じだったから。
「……で」
もう一人の高瀬が言った。
「お前が、あの子を助けに行った」
高瀬は、顔を上げた。
「……うん」
「俺は、残った」
男は、少しだけ目を細めた。
「最初は、それでよかったんだ」
「……最初は?」
「ああ」
男は、ゆっくり頷いた。
「お前が戻ってくると思ってたから」
高瀬の指が止まった。
「……戻る?」
「そう」
男は、窓の外を見た。
「お前があの子を助けて、戻ってきたら。俺も帰れると思ってた」
高瀬は、息を呑んだ。
もう一人の自分。
置いていかれた先生。
彼は、永遠に残るつもりではなかった。
ただ。
少しの間、代わりを務めるつもりだった。
「……でも」
男の声が、少しだけ震えた。
「お前、戻ってこなかったんだよ」
高瀬は、動けなかった。
「……何日も」
男は、笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「……何日も、待った」
高瀬の胸が、締め付けられた。
「学校で、生徒の名前呼んで、授業して、笑って……」
男は、缶コーヒーを握りしめた。
「……でも、俺の昨日は、ずっと来なかった」
高瀬は、何も言えなかった。
あのアンケート。
『先生は、昨日と今日で違います』
『昨日の先生は、誰かを助けに行きました』
『今日の先生は、ずっと教室にいます』
全部が、繋がった。
もう一人の高瀬は、待っていた。
戻ってくるはずの自分を。
でも。
自分は、戻らなかった。
「……ごめん」
高瀬が呟いた。
その瞬間。
「謝るな」
もう一人の高瀬が言った。
声が、少し強かった。
高瀬は顔を上げた。
「……でも」
「謝られると、俺が間違えたみたいになる」
男は、ゆっくり首を振った。
「俺は、残るって決めたんだ」
高瀬は、黙った。
「お前が悪いって言いたいわけじゃない」
男は、少しだけ笑った。
「ただ……」
そこで、言葉が止まった。
長い沈黙。
やがて。
「……一回くらい」
男が、呟いた。
「帰ってきてほしかった」
高瀬は、目を閉じた。
胸の奥が、痛かった。
桐谷が、静かに缶コーヒーを机へ置いた。
「……高瀬」
どちらを呼んだのか、分からなかった。
二人とも顔を上げた。
桐谷は、苦笑した。
「……面倒くせえな、お前ら」
そして、もう一人の高瀬を見る。
「お前さ」
「……何だよ」
「俺にも言えよ」
男は、目を伏せた。
「……何を」
「帰りたいって」
沈黙。
桐谷は、続けた。
「俺、ずっと近くにいただろ」
男の指が、止まった。
「……でも」
「でも、じゃねえよ」
桐谷は、少しだけ声を強めた。
「お前、俺のこと何だと思ってたんだ」
男は、答えなかった。
桐谷が、ゆっくり言った。
「友達だろ」
その言葉に、もう一人の高瀬の表情が歪んだ。
「……違う」
小さな声だった。
桐谷が、眉を寄せる。
「何が」
「……お前の友達は」
男は、目の前の高瀬を指差した。
「……こっちだろ」
高瀬は、息を止めた。
桐谷も、黙った。
男は、苦笑した。
「俺は、代わりだ」
「……」
「お前が知ってる高瀬じゃない」
その言葉が、相談室に落ちた。
藤原が、口元を押さえる。
真壁は、腕を組んだまま黙っていた。
桐谷は、しばらく男を見つめていた。
そして。
「……馬鹿か、お前」
静かに言った。
男が、顔を上げる。
「……何だよ」
「俺が、そんなことで友達やめると思うか?」
男は、答えられなかった。
桐谷は、続けた。
「お前がどっちの高瀬だろうが、関係ねえよ」
「……」
「俺が話したのは、お前だろ」
男の目が、揺れた。
「一緒に缶コーヒー飲んだのも、お前だろ」
桐谷は、少し笑った。
「……俺のくだらねえ話に付き合ってくれたのも、お前だろ」
男の唇が、震えた。
「……でも」
「でも、じゃねえ」
桐谷は、まっすぐ男を見た。
「俺にとって、お前も友達だ」
沈黙。
もう一人の高瀬は、俯いた。
肩が、小さく震えていた。
「……ずるいな」
男が呟いた。
「……何が」
「そんなこと言われたら……」
声が、掠れた。
「……帰りたくなるだろ」
高瀬は、目を閉じた。
桐谷は、少しだけ笑った。
「帰れよ」
男が、顔を上げる。
「……え?」
「帰りたいんだろ」
桐谷は、当たり前のように言った。
「じゃあ、帰ろうぜ」
もう一人の高瀬は、何も言えなかった。
高瀬も、黙っていた。
帰ろう。
そんな簡単な言葉。
でも。
ずっと、誰も言ってくれなかった言葉だった。
藤原が、静かにハンカチを取り出した。
真壁は、窓の外を見ていた。
桐谷は、二人の高瀬を交互に見た。
「……お前らさ」
「……何」
二人の声が重なった。
桐谷が、吹き出した。
「ほら、そういうとこだよ」
高瀬も笑った。
もう一人の高瀬も、涙を拭いながら笑った。
そして。
三人は、缶コーヒーを開けた。
プシュッ。
プシュッ。
プシュッ。
小さな音が、三つ重なった。
高瀬は、一口飲んだ。
「……苦っ」
桐谷が笑った。
「だから言っただろ」
もう一人の高瀬も、笑った。
「……俺も苦い」
「お前までかよ!」
三人は、声を出して笑った。
相談室に、久しぶりに笑い声が響いた。
それは、誰かを救うための笑いではなかった。
誰かを励ますためでもなかった。
ただ。
三人で、同じ時間を過ごしていた。
それだけだった。
◇
午後六時二十二分。
相談室の窓から、夕日が差し込んでいた。
高瀬は、もう一人の自分を見た。
「……なあ」
「何?」
「これから、どうしたい?」
男は、少し考えた。
そして。
「……分からない」
正直に答えた。
高瀬は、頷いた。
「……そっか」
「でも」
男は、缶コーヒーを見つめた。
「……今日は、帰りたい」
高瀬は、笑った。
「……うん」
桐谷も頷いた。
「じゃあ、帰ろう」
藤原が、静かに言った。
「その前に、一つだけいいですか?」
三人が顔を上げる。
藤原は、もう一人の高瀬を見た。
「帰る場所は、ありますか?」
その言葉に、男は動きを止めた。
「……え?」
「家です。今夜、どこで休むんですか?」
沈黙。
高瀬は、はっとした。
もう一人の自分。
同じ顔。
同じ名前。
でも。
同じ家に帰れるとは限らない。
真壁が、静かに言った。
「……大事なことだな」
もう一人の高瀬は、少しだけ笑った。
「……ないよ」
高瀬は、息を止めた。
「……え?」
「帰る場所なんて、もうない」
男は、窓の外を見た。
「俺の家は、お前の家だから」
高瀬は、何も言えなかった。
男は続けた。
「俺の仕事も、お前の仕事」
ゆっくり。
「俺の名前も、お前の名前」
そして。
「……俺の居場所は、全部お前が持ってる」
高瀬の胸が、締め付けられた。
桐谷が、静かに目を伏せた。
藤原も、何も言えなかった。
もう一人の高瀬は、少し笑った。
「……だから」
その声は、穏やかだった。
「帰りたいって言っても、帰る場所がないんだよ」
高瀬は、動けなかった。
帰ろう。
そう言った。
でも。
帰る場所がない。
それが、もう一人の自分の現実だった。
高瀬は、ゆっくり息を吐いた。
そして。
「……じゃあ」
男が顔を上げる。
「……何?」
高瀬は、まっすぐ目を見た。
「俺ん家、来る?」
沈黙。
桐谷が、目を丸くした。
「……お前」
藤原も、驚いた顔をしている。
真壁が、ため息をついた。
「……高瀬」
「……分かってる」
高瀬は、頷いた。
「簡単じゃないのは、分かってる」
同じ顔。
同じ名前。
同じ記録。
現実的な問題はいくらでもある。
でも。
目の前にいる人間が、帰る場所を失っている。
それなら。
まず、今夜どうするかを考えたい。
「……ずっと一緒に住めって話じゃない」
高瀬は続けた。
「今日だけでもいい。明日、また考えればいい」
もう一人の高瀬は、黙っていた。
「……俺さ」
高瀬は、少し笑った。
「最近、ようやく分かったんだよ」
「……何を」
「全部、一日で決めなくてもいいってこと」
男の目が、揺れた。
「今日は帰って、飯食って、寝る」
高瀬は、ゆっくり言った。
「明日のことは、明日考えよう」
もう一人の高瀬は、俯いた。
しばらく、何も言わなかった。
そして。
「……いいのか」
小さな声で聞いた。
高瀬は、頷いた。
「うん」
「……俺、お前と同じ顔だぞ」
「知ってる」
「同じ名前だぞ」
「それも知ってる」
「……気持ち悪くないか」
高瀬は、少し考えた。
「……まあ、ちょっと」
「おい!」
桐谷が吹き出した。
藤原も笑った。
高瀬は、肩をすくめる。
「でも、慣れるだろ」
男は、しばらく高瀬を見つめていた。
そして。
ゆっくり笑った。
「……お前、変わったな」
高瀬は、首を傾げた。
「そうか?」
「うん」
男は、少しだけ目を細めた。
「前のお前なら、俺を助けるために、自分が家を出てた」
高瀬は、思わず笑った。
「……確かに」
「でも、今は一緒に帰ろうって言うんだな」
高瀬は、黙った。
もう一人の自分は、続けた。
「……それ、いいな」
高瀬は、ゆっくり頷いた。
「……うん」
桐谷が、立ち上がった。
「よし。決まり」
「何が?」
高瀬が聞く。
「今日は、俺も行く」
「……は?」
「久しぶりに集まったんだぞ。飯くらい食わせろ」
「何で俺ん家で?」
「お前ん家が一番都合いいだろ」
「勝手すぎる!」
桐谷は笑った。
「ピザでも頼もうぜ」
「缶コーヒーからピザって、胃が忙しいな!」
藤原が、笑いながら言った。
「私たちは、今日はここまでにしましょうか」
真壁も頷いた。
「そうだな。何かあったら連絡しろ」
高瀬は、二人を見た。
「……ありがとう」
藤原が微笑む。
「こちらこそ」
真壁は、少しだけ笑った。
「今夜は、ちゃんと寝ろよ」
「……分かってる」
三人は、相談室を出た。
高瀬。
桐谷。
もう一人の高瀬。
廊下には、三人分の足音が響いていた。
◇
午後七時十一分。
旧校舎を出たところで、もう一人の高瀬が足を止めた。
「……なあ」
高瀬が振り返る。
「何?」
「一つ、聞いていいか」
「うん」
男は、少しだけ迷った。
そして。
「……俺が家に行っても、本当に大丈夫か?」
高瀬は、笑った。
「大丈夫だって」
「……でも」
「でも?」
男は、目を伏せた。
「……俺が、お前の代わりになろうとしたら?」
高瀬の笑みが、消えた。
桐谷も、足を止める。
男は、静かに続けた。
「同じ顔で、同じ名前で、同じ家に帰る」
高瀬は、黙って聞いていた。
「……そしたら、俺」
男の声が、少しだけ震えた。
「また、お前になりたくなるかもしれない」
高瀬は、息を呑んだ。
男は、苦笑した。
「……怖いんだよ」
その言葉に、高瀬は動けなかった。
怖い。
もう一人の自分が、そう言った。
「……お前のことが、羨ましい」
男は、ゆっくり顔を上げた。
「帰る家があって、仕事があって、友達がいて」
そして。
「……俺には、何もない」
高瀬は、何も言えなかった。
桐谷も、黙っていた。
男は、少し笑った。
「……だから、怖い」
高瀬は、ゆっくり息を吐いた。
そして。
「……そっか」
それだけ答えた。
男が、顔を上げる。
「……え?」
「怖いんだな」
高瀬は、頷いた。
「……うん」
男は、少しだけ目を伏せた。
高瀬は続けた。
「俺も、怖いよ」
男の目が、揺れた。
「……何が」
「お前に、全部取られるかもしれないこと」
高瀬は、正直に答えた。
桐谷が、静かに二人を見ている。
「でもさ」
高瀬は、少し笑った。
「怖いからって、今日のお前を一人にしたくない」
男は、何も言えなかった。
「……だから」
高瀬は、ゆっくり手を差し出した。
「怖いままでいいから、一緒に帰ろう」
もう一人の高瀬は、差し出された手を見つめた。
しばらく、動かなかった。
そして。
ゆっくり、その手を握った。
同じ手。
同じ温度。
同じ形。
でも。
確かに、別の人間の手だった。
桐谷が、少し笑った。
「……やっとだな」
高瀬が顔を上げる。
「何が?」
「お前ら、ようやく会えたんだよ」
高瀬は、もう一人の自分を見る。
男も、こちらを見ていた。
そして。
二人は、少しだけ笑った。
夕暮れの校門。
三人分の影が、長く伸びていた。
◇
午後十一時五十八分。
高瀬の自宅。
テーブルの上には、食べ終えたピザの箱が置かれていた。
桐谷はソファで眠っている。
もう一人の高瀬は、客用の布団に横になっていた。
高瀬は、台所で水を飲みながら、二人を見た。
不思議な光景だった。
ずっと探していた友達。
ずっと恐れていた、もう一人の自分。
その二人が、今、自分の家で眠っている。
高瀬は、少し笑った。
「……変な一日だったな」
その時。
スマートフォンが震えた。
――ブッ。
【Review】
本日の行動を評価します。
★★★★★
良かった点。
あなたは、もう一人の自分を
排除しませんでした。
改善点。
あなたは、まだ
二人が同じ場所に存在することの
意味を理解していません。
高瀬は、眉を寄せた。
「……またそれかよ」
画面が変わる。
【Review Log】
高瀬悠介。
現在状態。
【選択済】
高瀬悠介。
【未選択】
高瀬悠介。
高瀬は、頷いた。
「……知ってる」
次の表示。
【補足】
二人の高瀬悠介が
同一空間に存在する場合。
評価の再統合が
可能になります。
高瀬の指が止まった。
「……再統合?」
次の表示。
【再統合条件】
両者の同意。
高瀬は、息を呑んだ。
同意。
二人が、同じ場所にいる。
そして。
どちらも、同じ人間。
再統合。
それは、何を意味するのだろう。
元の一人に戻るのか。
どちらかが消えるのか。
それとも。
全く別の何かになるのか。
高瀬は、眠っているもう一人の自分を見た。
その顔は、穏やかだった。
久しぶりに、安心して眠っているように見えた。
高瀬は、スマートフォンを伏せた。
「……今は、いい」
小さく呟く。
「今日は、寝かせてやってくれ」
その時。
背後から声がした。
「……見たよ」
高瀬が振り返る。
もう一人の高瀬が、布団から身体を起こしていた。
「……起きてたのか」
「うん」
男は、スマートフォンを見つめていた。
「……再統合」
高瀬は、黙った。
男は、少しだけ笑った。
「……それ、俺が消えるってことかな」
高瀬は、答えられなかった。
男は、しばらく考えていた。
そして。
「……もしさ」
静かに言った。
「俺が消えれば、お前は全部思い出せるんだったら」
高瀬は、息を止めた。
「……お前」
男は、ゆっくり顔を上げた。
「……俺、どうしたらいいんだろうな」
高瀬は、何も言えなかった。
同じ顔。
同じ声。
同じ名前。
でも。
目の前の男は、確かに別の人生を生きていた。
高瀬は、ゆっくり息を吐いた。
そして。
「……分からない」
正直に答えた。
男が、少し笑った。
「……そっか」
「でも」
高瀬は、続けた。
「今、決めなくていいだろ」
男は、顔を上げる。
「……え?」
「今日は、帰ってきたんだから」
高瀬は、少し笑った。
「明日のことは、明日考えよう」
男は、しばらく高瀬を見つめていた。
そして。
ゆっくり頷いた。
「……うん」
高瀬は、台所の電気を消した。
暗くなった部屋で、三人分の寝息が重なっていく。
明日、何が起きるのかは分からない。
でも。
少なくとも今夜は。
誰も、置いていかれていなかった。
【End】




