Review43「友達の資格」
人間には、助けてほしいと言える相手が必要だ。
そんなことは、教師になった頃から分かっていた。
困っている生徒には相談するように伝え、悩んでいる同僚には無理をしないよう声を掛ける。誰かが一人で抱え込もうとすれば、頼ることは悪いことじゃないと、何度も言ってきた。
それなのに、自分が助けを求める時だけは、どうしても言葉が出てこなかった。
迷惑を掛けたくない。
弱いところを見せたくない。
自分のことくらい、自分で何とかしなければならない。
そう考えているうちに、助けを求めること自体が、いつの間にか苦手になっていた。
高瀬悠介は、昨夜のノートを見つめていた。
『俺を助けたのは、俺だった。』
その下に書いた、もう一つの問い。
『でも、あいつは誰に助けてもらった?』
答えは、まだ見つかっていない。
ただ、一つだけ思い当たる名前があった。
「……桐谷」
高瀬は、机の上に置かれた写真を手に取った。
去年の十月八日。
旧校舎の職員室。
缶コーヒーを持って笑っている桐谷と、自分。
あの時、桐谷は何を知っていたのだろう。
そして。
もう一人の高瀬が残った後、あいつは何を見たのだろう。
◇
午前八時六分。
「……桐谷のことを調べたい」
高瀬がそう言うと、真壁は書類から顔を上げた。
「昨日まで調べてたのは何だったんだ」
「いや、そうなんだけど」
「今さら決意表明するな」
「ちょっとは乗ってくれよ!」
藤原が、隣で笑った。
「でも、確かに桐谷さんのことは、まだ分からないことが多いですよね」
「うん」
高瀬は頷いた。
桐谷の手紙。
去年の写真。
削除された記録。
そして、昨夜の相談室の記録。
それらを並べると、一つの疑問が浮かび上がる。
「……桐谷は、もう一人の俺を知ってたんじゃないか」
真壁が腕を組んだ。
「可能性はあるな」
「むしろ、二人とも知ってたのかもしれない」
「どういう意味ですか?」
藤原が聞いた。
「桐谷の手紙には、俺が教師を辞めようとしたことが書いてあった。でも、相談室の記録では、もう一人の俺が残るって言ってる」
高瀬は、ノートを開いた。
「もし桐谷が、その両方を知ってたとしたら」
真壁が言葉を引き取った。
「……どちらかが消えた後も、残された方を見ていた可能性がある」
「そう」
高瀬は頷いた。
「桐谷は、俺たちのどっちを友達だと思ってたんだろう」
その言葉に、藤原が少しだけ眉を寄せた。
「……高瀬先生」
「ん?」
「それ、どちらか一人じゃないと駄目なんですか?」
高瀬は、言葉を止めた。
「……え?」
「同じ名前でも、違う時間を過ごしている二人なんですよね」
「うん」
「だったら、桐谷さんにとっては、二人とも友達だったのかもしれません」
高瀬は、黙った。
考えてみれば、当たり前のことだった。
自分が二人いる。
その事実に、まだ慣れていない。
だから、どちらかが本物で、どちらかが偽物なのだと考えてしまう。
けれど。
桐谷にとっては、どうだったのだろう。
同じ顔。
同じ声。
同じ名前。
それでも、違う苦しさを抱えた二人。
もし桐谷が両方を知っていたなら。
あいつは、どちらを選んだのだろう。
「……そうだな」
高瀬は、ゆっくり頷いた。
「俺、また勝手に二択にしてた」
真壁が、ため息をついた。
「最近それ多いな」
「成長途中なんだよ」
「三十六歳で?」
「何歳でも成長していいだろ!」
藤原が笑った。
高瀬も笑う。
ただ、その笑いの奥に、少しだけ不安が残っていた。
桐谷が二人とも友達だと思っていたなら。
あいつは、二人分の苦しさを知っていたことになる。
そして。
どちらかが消える瞬間を、見ていたのかもしれない。
◇
昼休み。
高瀬は、職員室で一人の生徒に呼び止められた。
「先生、ちょっといいですか」
「おう。どうした?」
男子生徒は、周囲を気にしながら近付いてきた。
「……友達のことで」
「うん」
「俺、ちょっとひどいこと言っちゃって」
高瀬は、手にしていた書類を机へ置いた。
「どんなこと?」
「……あいつが、部活やめたいって言ってて」
「うん」
「俺、裏切り者って言った」
高瀬は、少し黙った。
男子生徒は、俯いている。
「だって、一緒に頑張ろうって言ってたんですよ。なのに、急にやめるって」
「そっか」
「でも、後から考えたら……」
生徒は、言葉を探した。
「……あいつ、最近ずっと元気なかったんです」
高瀬は頷いた。
「気付いてたんだな」
「……はい」
「でも、やめるって言われて腹が立った」
「……はい」
高瀬は、少し考えた。
裏切り者。
強い言葉だ。
相手を傷つけた可能性は高い。
けれど、目の前の生徒もまた、友達が離れていくことを怖がっていたのかもしれない。
「……その子に、何て言いたかったんだろうな」
高瀬が聞くと、生徒は顔を上げた。
「え?」
「裏切り者って言う前に、本当は何て言いたかった?」
生徒は、しばらく黙っていた。
廊下の向こうで、誰かが笑っている。
遠くから、昼休み終了を知らせる予鈴が聞こえた。
「……寂しい」
小さな声だった。
「……一緒にやりたかった」
高瀬は、頷いた。
「そっか」
「……でも、そんなこと言うの恥ずかしくて」
「うん」
「だから、怒っちゃった」
生徒は、唇を噛んだ。
高瀬は、その横顔を見つめた。
寂しい。
一緒にいたい。
離れてほしくない。
そんな気持ちが、怒りに変わることがある。
自分にも、覚えがあった。
誰かが去ろうとした時。
自分だけが取り残される気がした時。
素直に寂しいと言えず、相手の選択を責めてしまったことが。
「……謝りたい?」
高瀬が聞くと、生徒は頷いた。
「はい」
「じゃあ、謝ろう」
「……許してくれますかね」
「それは、分からん」
高瀬は、正直に答えた。
「でも、謝るかどうかは自分で決められる」
生徒は、顔を上げた。
「……はい」
「それと」
高瀬は、少し笑った。
「寂しかったってことも、伝えていいと思う」
「……え?」
「裏切り者って言ったのは間違いだった。でも、一緒にいたかった気持ちまで、間違いにしなくていい」
生徒は、しばらく考えていた。
そして、小さく頷いた。
「……分かりました」
立ち上がりかけた生徒が、ふと振り返る。
「先生」
「ん?」
「友達って、何なんですかね」
高瀬は、思わず笑った。
「難しいこと聞くなあ」
「先生でも分かんないんですか?」
「分かんないこと、いっぱいあるぞ」
「先生なのに」
「先生だからって、全部分かるわけじゃない」
高瀬は、少し考えた。
そして、答えた。
「……相手が自分と違う道に行っても、友達でいられることかな」
生徒は、首を傾げた。
「……それ、難しくないですか?」
「難しい」
「先生、適当じゃないですか」
「めちゃくちゃ真剣だわ!」
生徒が笑った。
高瀬も笑った。
そして。
ふと、桐谷の手紙を思い出した。
『辞めても、続けても、俺は友達だから。』
あいつは。
ずっと前から、知っていたのかもしれない。
友達でいるということは、相手を自分の思い通りにすることではない。
相手がどんな選択をしても、関係を終わらせないことなのだと。
◇
午後五時三十二分。
高瀬は、真壁と藤原に、一つの提案をしていた。
「……桐谷の連絡先、もう一回確認したい」
真壁が頷く。
「前に調べた時は、記録が消えてたな」
「うん。でも、今は少し状況が変わってる」
高瀬はスマートフォンを取り出した。
去年の写真。
桐谷から届いたメッセージ。
そして、削除された連絡履歴。
画面には、確かに桐谷の名前が残っていた。
「……これ」
藤原が覗き込む。
「送信元、桐谷さんになってますね」
「うん」
「でも、電話番号が表示されてない」
真壁が言った。
高瀬は頷いた。
「そうなんだよ」
以前なら、そこで諦めていただろう。
Reviewが消した。
記録がない。
だから、分からない。
でも。
今は違う。
「……電話番号が消えてても、俺の記憶以外に残ってる可能性はある」
真壁が頷く。
「紙の連絡先とか?」
「そう」
高瀬は、鞄から一冊の古い手帳を取り出した。
表紙は黒。
角が擦り切れている。
「……これ、家で見つけた」
藤原が目を丸くした。
「手帳?」
「昔から、連絡先だけは紙にも書いてたんだよ」
真壁が、少し笑った。
「珍しく役に立つ癖だな」
「珍しくって何だよ」
「普段は物を溜め込むだけだから」
「否定できん……」
高瀬は、手帳を開いた。
古い同僚。
大学時代の友人。
親戚。
そして。
最後の方に、一つの名前があった。
『桐谷』
高瀬の手が止まる。
「……あった」
藤原が、息を呑む。
「本当に……」
真壁が、身を乗り出した。
「番号は?」
「……ある」
高瀬は、数字を見つめた。
十一桁。
確かに、そこに書かれている。
桐谷の電話番号。
Reviewに消されたはずの連絡先が、紙には残っていた。
「……かける?」
藤原が聞いた。
高瀬は、少し考えた。
桐谷。
消えた友達。
自分が削除した評価。
そして。
もう一人の高瀬。
あいつが何を知っているのか。
何を見たのか。
聞きたいことは、山ほどある。
でも。
もし、電話が繋がったら。
最初に何を言えばいいのだろう。
久しぶり。
元気だったか。
ごめん。
何で消えたんだ。
どれも違う気がした。
高瀬は、ゆっくり息を吐いた。
「……かける」
真壁が頷いた。
「スピーカーにするか?」
「いや」
高瀬は、首を振った。
「最初は、俺が話したい」
藤原が、少し笑った。
「はい」
高瀬は、番号を入力した。
通話ボタンを押す。
耳に当てる。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
繋がらない。
高瀬は、息を止めた。
四回。
五回。
そして。
『……はい』
声がした。
高瀬の身体が固まった。
「……え?」
間違いない。
あの声。
少し眠そうで。
どこか面倒くさそうで。
でも、聞くだけで安心する声。
『……もしもし?』
高瀬は、言葉を失った。
桐谷。
あいつだ。
間違いない。
「……桐谷?」
震える声で、名前を呼ぶ。
数秒の沈黙。
そして。
『……高瀬?』
高瀬の目が見開かれた。
「……お前」
喉が詰まる。
何を言えばいい。
何から聞けばいい。
頭の中が真っ白になる。
すると。
電話の向こうで、桐谷が小さく笑った。
『……何だよ。今さら』
高瀬は、息を呑んだ。
「……今さら?」
『そうだろ』
桐谷は、少しだけ声を落とした。
『お前、やっと思い出したのか』
高瀬は、何も言えなかった。
思い出した。
桐谷のことを。
あの手紙を。
あの写真を。
でも。
まだ、全部ではない。
「……ごめん」
高瀬は、ようやく言った。
「俺、忘れてた」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
そして。
『……知ってる』
桐谷が答えた。
『だから、待ってた』
高瀬の胸が、締め付けられた。
「……待ってた?」
『ああ』
「……何で」
桐谷は、少し笑った。
『友達だからだろ』
高瀬は、目を閉じた。
たった一言。
それだけで、涙が出そうになった。
藤原が、心配そうにこちらを見ている。
真壁は、何も言わずに待っていた。
高瀬は、ゆっくり息を吐いた。
「……会えるか?」
電話の向こうで、桐谷が黙った。
数秒。
十秒。
高瀬は、息を止めて待った。
やがて。
『……会えるよ』
桐谷が答えた。
高瀬の目が見開かれる。
「……本当か?」
『ああ』
そして。
桐谷は、静かに続けた。
『ただし、一つだけ約束してくれ』
「……何?」
『俺に会っても、謝るな』
高瀬は、言葉を失った。
「……何で」
『お前、絶対最初に謝るだろ』
「……そりゃ」
『だからだよ』
桐谷は、少し笑った。
『俺は、お前に謝ってほしくて待ってたわけじゃない』
高瀬は、黙った。
『……高瀬』
「……うん」
『会ったら、普通に話そうぜ』
高瀬の目から、涙が一粒落ちた。
『昔みたいに、くだらない話してさ』
高瀬は、笑った。
「……お前、相変わらずだな」
『そっちこそ』
そして。
桐谷は、最後に言った。
『明日、旧校舎の相談室に来い』
高瀬の表情が変わった。
「……相談室?」
『ああ』
「……何時?」
『放課後』
桐谷は、少し間を置いた。
『俺だけじゃない』
高瀬の指が止まった。
「……え?」
『もう一人、待ってる』
高瀬は、息を止めた。
「……誰が?」
電話の向こうで、桐谷が静かに答えた。
『お前だよ』
高瀬は、動けなかった。
もう一人の自分。
選ばなかった方。
置いていかれた先生。
その高瀬が。
明日。
相談室で待っている。
「……本当に?」
高瀬が聞くと、桐谷は少し笑った。
『ああ』
そして。
『今度は、三人で話そうぜ』
通話が切れた。
高瀬は、しばらくスマートフォンを耳に当てたまま動けなかった。
藤原が、静かに聞いた。
「……高瀬先生?」
高瀬は、ゆっくり顔を上げた。
「……繋がった」
藤原の目が見開かれる。
「……桐谷さんに?」
「うん」
真壁も、驚いた表情を隠さなかった。
「……本当に本人だったのか?」
「……分からない。でも」
高瀬は、少し笑った。
「あいつの声だった」
そして。
ゆっくり言った。
「……明日、会える」
藤原が、息を呑んだ。
真壁が、静かに頷いた。
「……そうか」
高瀬は、スマートフォンを見つめた。
桐谷。
もう一人の高瀬。
そして、自分。
明日。
三人が、同じ場所に集まる。
何が起きるのかは、分からない。
でも。
今度は。
誰かを選んで、誰かを置いていくためではない。
三人で話すために。
高瀬は、ゆっくり息を吐いた。
「……行こう」
藤原が、頷いた。
「はい」
真壁も、少し笑った。
「今度は一人で行くなよ」
「……分かってる」
高瀬は、笑った。
そして。
心の中で、もう一度だけ呟いた。
桐谷。
待っててくれて、ありがとう。
今度こそ。
ちゃんと会いに行くから。
◇
午後十一時五十九分。
高瀬のスマートフォンに、一通のメッセージが届いた。
送信元。
『桐谷』
本文は、短かった。
『明日、遅刻すんなよ』
高瀬は、思わず笑った。
「……お前こそ」
返信を打つ。
『了解。缶コーヒー持ってく』
数秒後。
既読。
そして、返信。
『ブラックな』
高瀬は、笑った。
懐かしい。
何もかもが、懐かしい。
その時。
もう一通、メッセージが届いた。
『あと、高瀬』
高瀬は、画面を見る。
『明日は、絶対に一人で来るな』
笑みが、少しずつ消えた。
続き。
『俺が待ってるのは、お前だけじゃない』
高瀬は、眉を寄せた。
藤原。
真壁。
それとも。
別の誰か。
高瀬は、返信しようとして手を止めた。
その時。
最後のメッセージが届いた。
『お前が今まで頼ってきた人間も、連れてこい』
高瀬は、息を止めた。
桐谷は、知っている。
藤原のことも。
真壁のことも。
自分が、少しずつ人に頼れるようになったことも。
高瀬は、ゆっくり息を吐いた。
そして、返信した。
『分かった。三人で行く』
すぐに既読がついた。
返事は、一言だけだった。
『よかった』
高瀬は、スマートフォンを伏せた。
胸の奥が、少しだけ温かかった。
明日。
桐谷に会える。
もう一人の自分に会える。
そして。
今の自分には。
一緒に行ってくれる人がいる。
高瀬は、ノートを開いた。
今日の最後に、一行だけ書いた。
『友達でいるのに、資格はいらない。』
その文字を見つめ、少し笑った。
明日は、きっと長い一日になる。
でも。
今夜は、眠れそうだった。
【End】




