Review42「先生にも、先生が必要だ」
教師になって、最初に覚えたことがある。
子どもの前で、簡単に弱音を吐いてはいけない。
困っている生徒がいれば話を聞き、泣いている生徒がいれば理由を尋ね、間違えた生徒には次の方法を考えさせる。教室で何かが起きた時、最後に判断するのは自分なのだと、若い頃の高瀬悠介は思っていた。
だから、誰かに「先生、大丈夫?」と聞かれるたびに笑って答えた。
「大丈夫」
何度も繰り返すうちに、それが口癖になった。
いつしか、自分でも本当の答えが分からなくなっていた。
大丈夫だから笑っているのか。
笑っているから、大丈夫なことになっているのか。
その違いに気付いたのは、随分と後になってからだった。
◇
午前七時四十三分。
高瀬が職員室に入ると、藤原が窓際で花瓶の水を替えていた。
「おはようございます」
「おはよう。珍しいな、花なんて」
「昨日、生徒が持ってきてくれたんです」
花瓶には、小さな白い花が三本挿してあった。名前を聞かれても高瀬には答えられそうになかったが、朝日に照らされた花びらは、見ているだけで少し気持ちが和らいだ。
「いいな。俺も欲しい」
「高瀬先生には、昨日プリントが届いてましたよね」
「ああ、相談のやつ?」
「はい。あれも同じくらい嬉しいことだと思います」
高瀬は少し考えてから頷いた。
「……確かに」
生徒が、自分の悩みを話してくれる。
それは当たり前のことではない。
信頼してくれたからこそ、差し出してくれた言葉だった。
「そう考えると、俺、結構もらってるな」
「何をですか?」
「生徒から」
藤原は花瓶を窓際に置き、振り返った。
「だったら、ちゃんと受け取ってくださいね」
「受け取ってるつもりだけど」
「高瀬先生、感謝されるとすぐ『もっと頑張らなきゃ』って考えるじゃないですか」
「……あ」
「嬉しかったら、嬉しいでいいんですよ」
高瀬は、思わず笑った。
「藤原先生、最近俺の扱いうまくない?」
「十三年分の癖が、だいぶ分かってきました」
「真壁と同じこと言うなよ」
「真壁先生と意見が一致するのは珍しいですね」
「そこまで珍しくないだろ」
背後から声がした。
振り返ると、真壁が鞄を机に置いていた。
「お前の面倒くささについては、意見が一致する」
「朝から二対一やめてくれる?」
「多数決だな」
「人の性格を多数決で決めるな!」
藤原が笑った。
高瀬も笑う。
その何でもない朝の会話が、以前よりずっと好きになっていた。
去年の自分は、こんなふうに笑えていただろうか。
そして、もう一人の自分には。
こうして一緒に笑ってくれる誰かが、いたのだろうか。
◇
放課後。
三人は、旧校舎の相談室へ向かった。
管理職の許可を得て、昨年度の備品や保管資料を確認することになっていた。個人情報を含む記録は閲覧できないが、当時の部屋の使用状況や、残されている物品については確認できる。
第二資料室の隣。
廊下の突き当たりにある相談室は、長い間使われていなかった。
真壁が鍵を開けると、古い空気がゆっくり流れ出てきた。
室内には、小さな丸テーブルと椅子が四脚。壁際には本棚があり、窓には薄いクリーム色のカーテンが掛かっていた。
教室とは違う、少し柔らかな雰囲気の部屋だった。
「……懐かしいな」
高瀬が呟いた。
藤原が顔を上げる。
「来たことあるんですか?」
「分からない。でも、何か……」
高瀬は丸テーブルに近付いた。
椅子を一脚引く。
木製の脚が床を擦り、乾いた音を立てた。
その瞬間。
胸の奥に、奇妙な感覚が走った。
ここに座ったことがある。
誰かが向かいにいた。
その人物は、缶コーヒーを持っていた。
「……桐谷?」
思わず名前が漏れた。
藤原が近付く。
「何か思い出しました?」
「いや、まだ……」
高瀬は椅子に腰掛けた。
目の前の空席を見つめる。
桐谷。
高校時代の担任。
あの少年。
もう一人の高瀬。
この部屋に誰がいたのか、まだ分からない。
ただ、ここで何か大切な話をしたことだけは、身体が覚えている気がした。
「高瀬」
真壁が声を掛ける。
「無理に思い出そうとするな」
「……うん」
「今は残ってるものを確認する」
高瀬は頷いた。
以前なら、頭痛がしても記憶を追いかけただろう。
でも、今は違う。
思い出せないことを、無理に思い出す必要はない。
調べられることから調べればいい。
三人は手分けして、室内を確認し始めた。
◇
「……これ、何でしょう」
藤原が見つけたのは、本棚の下段に置かれた一冊のノートだった。
表紙は濃い青色。
角が少し擦り切れている。
学校名も、氏名も書かれていない。
ただ、中央に小さな文字があった。
『相談室 引継ぎ』
「業務用のノートか?」
真壁が近付いた。
最初のページには、部屋の使用方法や備品の管理について書かれていた。
破損した椅子の交換。
窓の施錠確認。
利用後の清掃。
どれも、ごく普通の引継ぎ事項だった。
しかし、ページをめくっていくうちに、記載の形式が変わっていった。
日付。
利用時間。
担当者。
相談内容ではなく、利用者が残した短い感想が書かれている。
『落ち着いて話せました』
『また使いたいです』
『誰にも聞かれない場所があってよかった』
高瀬は、その言葉を一つずつ読んだ。
相談室。
誰かが困った時に来る場所。
それは分かっていた。
けれど、そこに残されているのは、困り事そのものではなかった。
話した後の言葉だった。
「……いい部屋だったんだな」
高瀬が言うと、藤原が頷いた。
「そうですね」
真壁が、最後の方のページを指差した。
「去年十月の記録がある」
三人の視線が集まった。
十月七日。
十月八日。
そして。
十月九日。
利用時間は午後六時から。
担当者欄には、見慣れた名前が書かれていた。
『高瀬悠介』
「……俺だ」
高瀬は、思わず呟いた。
真壁が記録を確認する。
「勤務記録では休暇中だった日だな」
「うん」
「でも、こっちには名前がある」
藤原が、記載の下を指差した。
「利用者の感想もあります」
そこには、短い文章があった。
『話しても、何も変わりませんでした。』
高瀬の指が止まった。
次の行。
『でも、少しだけ楽になりました。』
高瀬は、しばらく文字を見つめていた。
何も変わらなかった。
でも、楽になった。
それは、決して矛盾ではない。
問題が解決しなくても、話したことで救われる瞬間はある。
昨日までの自分なら、その意味を十分に理解できただろうか。
「……これを書いたのは」
高瀬が呟く。
真壁は首を振った。
「名前はない。分からん」
藤原が、ノートをもう一度確認した。
「でも、担当者は高瀬先生です」
「……そうだな」
高瀬は、椅子に座り直した。
誰かが自分に相談した。
そして、少しだけ楽になった。
それだけなら、何もおかしくない。
けれど。
昨年十月九日。
その日、自分は学校を休んでいたはずだった。
もう一人の高瀬が、この部屋にいたのだろうか。
もし、そうなら。
誰の話を聞いていたのだろう。
◇
真壁が、ノートの最後のページを開いた。
「……待て」
高瀬と藤原が顔を上げる。
「どうした?」
「これ、筆跡が違う」
最後のページには、他の記録とは明らかに違う文字が残されていた。
少し乱れた、強い筆圧。
高瀬は、すぐに分かった。
自分の字だった。
けれど、今の自分が書いた覚えはない。
『相談者:高瀬悠介』
『担当者:高瀬悠介』
藤原が、小さく息を呑んだ。
「……二人とも、高瀬先生?」
真壁が頷く。
「少なくとも、そう記録されてる」
高瀬は、続きを読んだ。
『相談内容』
『教師を続ける理由が分からない。』
胸が、静かに締め付けられた。
その下には、もう一つ文章があった。
『辞めたいわけじゃない。』
『でも、明日も学校へ行く理由が見つからない。』
高瀬は、目を閉じた。
辞めたいわけではない。
でも、続ける理由が分からない。
その感覚は、理解できた。
仕事が嫌いになったわけではない。
生徒が嫌いになったわけでもない。
ただ、朝起きた時に身体が動かない。
昨日まで当たり前だったことが、突然重くなる。
それでも、自分には教師という役割がある。
だから、学校へ行かなければならない。
そう思うほど、苦しくなる。
「……これ」
高瀬は、声を絞り出した。
「もう一人の俺が書いたのかな」
真壁は、しばらく考えてから答えた。
「可能性は高い。でも、断定はできない」
「……うん」
高瀬は、最後の欄を見た。
『担当者からの助言』
そこには、一行だけ書かれていた。
『明日、学校に来なくてもいい。』
高瀬は、息を止めた。
「……え?」
藤原が、顔を近付ける。
「……来なくてもいい?」
真壁も、黙って文字を見つめていた。
高瀬は、何度も読み返した。
Reviewには、こう記録されていた。
『先生が、辞めるなと言ったから』
でも。
相談室のノートには。
『明日、学校に来なくてもいい。』
正反対の言葉。
高瀬は、ゆっくり顔を上げた。
「……どういうことだよ」
誰も答えなかった。
◇
午後五時五十六分。
三人は相談室を出る前に、最後の記録をもう一度確認した。
真壁が、腕を組む。
「……整理しよう」
「うん」
「Reviewには『教師を辞めるな』とある。でも、相談室には『明日来なくてもいい』とある」
藤原が頷く。
「両方、本当だった可能性もありますよね」
「どういうこと?」
高瀬が聞くと、藤原は少し考えてから答えた。
「教師を辞めることと、明日学校を休むことは、違います」
「……あ」
「ずっと続けるかどうかは、今決めなくてもいい。でも、明日は休んでいい。そういう意味だったのかもしれません」
高瀬は、ノートを見つめた。
辞める。
続ける。
その二つしかないと思っていた。
けれど、昨日の授業でも生徒と話したばかりだった。
休むという選択肢。
立ち止まるという選択肢。
今すぐ決めないという選択肢。
「……そうか」
高瀬は、小さく呟いた。
「俺、また二択にしてたんだな」
真壁が頷いた。
「そういうことだ」
高瀬は、相談室の椅子を見た。
向かい合う二脚。
どちらにも、同じ名前の人間が座っていた。
一人は、教師を続ける理由が分からなくなっていた。
もう一人は、その話を聞いていた。
そして。
どちらも、高瀬悠介だった。
「……なあ」
高瀬が言った。
「何だ?」
「もう一人の俺ってさ」
少し間を置く。
「俺より、ちゃんと自分の話を聞けてたのかもしれないな」
真壁は、すぐには答えなかった。
藤原も、黙っている。
高瀬は苦笑した。
「変な話だけど」
「……変じゃないですよ」
藤原が言った。
高瀬が顔を上げる。
「同じ人間だからこそ、分かることもあったのかもしれません」
「……うん」
「でも」
藤原は、椅子を一脚引いた。
高瀬の向かいに座る。
「一つだけ、聞いていいですか?」
「何?」
「高瀬先生は、どうして相談する側に座れなかったんでしょう」
高瀬は、言葉を失った。
藤原は続けた。
「誰かの話を聞くのは得意ですよね」
「……うん」
「でも、自分の話を聞いてもらうのは、苦手ですよね」
高瀬は、何も言えなかった。
真壁が、壁にもたれながら言った。
「お前、頼られると嬉しそうだもんな」
「……そうか?」
「ああ。でも、頼る時は申し訳なさそうな顔する」
高瀬は、思わず目を逸らした。
図星だった。
誰かに頼られることは嬉しい。
自分が役に立てることが嬉しい。
でも、自分が誰かに頼る時は。
相手の時間を奪っている気がする。
迷惑を掛けている気がする。
弱い人間だと思われる気がする。
「……何かさ」
高瀬は、ゆっくり口を開いた。
「教師って、助ける側だと思ってたんだよ」
藤原が頷く。
「はい」
「生徒が困ってたら助ける。保護者が悩んでたら話を聞く。同僚が大変そうなら手伝う」
高瀬は、自分の手を見た。
「それが仕事だと思ってた」
真壁が、静かに聞いた。
「で?」
「……自分が助けられる側になるのは、何か違う気がしてた」
言葉にすると、ひどく馬鹿らしく聞こえた。
教師だって人間だ。
疲れる。
間違える。
悩む。
そんな当たり前のことを、生徒には何度も教えてきた。
なのに。
自分にだけは、許していなかった。
「……俺、何やってたんだろうな」
高瀬が笑うと、真壁が答えた。
「教師」
「……え?」
「教師やってたんだろ」
真壁は、まっすぐ高瀬を見た。
「ただ、教師しかやってなかったんじゃないか」
高瀬は、動けなかった。
教師しか。
やっていなかった。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
藤原が、静かに続ける。
「高瀬先生」
「……うん」
「先生にも、先生が必要なんですよ」
高瀬は、顔を上げた。
「……先生に?」
「はい」
藤原は、少し笑った。
「教えてくれる人も、間違いを指摘してくれる人も、話を聞いてくれる人も」
真壁が、横から言う。
「あと、休めって言ってくれる人間もな」
「……お前、いつもそれだな」
「お前が休まないからだろ」
高瀬は、笑った。
でも。
笑っているうちに、目の奥が熱くなった。
十五年前。
嫌いだった担任が言った。
『高瀬、お前、先生になれ』
あの人は、自分が教師になることを勧めた。
でも。
教師になった後の自分に。
誰が教えてくれるのだろう。
困った時に。
失敗した時に。
もう無理だと思った時に。
誰が、隣に座ってくれるのだろう。
高瀬は、ゆっくり息を吐いた。
「……ありがとう」
藤原が微笑む。
「どういたしまして」
真壁は、少し照れくさそうに視線を逸らした。
「礼はいいから、そろそろ帰るぞ」
「……うん」
三人は、相談室を出た。
高瀬は最後に一度だけ、振り返った。
丸テーブル。
向かい合う二脚の椅子。
そこには、もう誰もいない。
でも。
去年の自分が、ここで誰かに話を聞いてもらっていたのなら。
その時間は、きっと無駄ではなかった。
そう思えた。
◇
午後九時四十八分。
高瀬は、自宅の机でノートを開いた。
今日分かったことを整理する。
昨年十月九日。
相談室。
相談者、高瀬悠介。
担当者、高瀬悠介。
『教師を続ける理由が分からない』
『明日、学校に来なくてもいい』
高瀬は、最後の一文を見つめた。
明日、学校に来なくてもいい。
その言葉を、去年の自分はどう受け取ったのだろう。
安心したのだろうか。
それとも。
自分にはもう居場所がないと感じたのだろうか。
「……難しいな」
高瀬は、呟いた。
同じ言葉でも、受け取り方は人によって違う。
同じ人間でも、その時の心の状態によって変わる。
だからこそ、話を聞く必要がある。
相手がどう受け取ったのか。
何を感じたのか。
それを確かめる必要がある。
高瀬は、ペンを取った。
そして、ノートの最後に書いた。
『もう一人の俺に、直接聞きたい。』
その時。
スマートフォンが震えた。
――ブッ。
【Review】
本日の行動を評価します。
★★★★★
良かった点。
あなたは、助けられることを
拒否しませんでした。
改善点。
あなたは、まだ
相談室の記録を
正しく読めていません。
高瀬は、眉を寄せた。
「……またかよ」
画面が変わる。
【Review Log】
昨年十月九日。
相談室利用記録。
相談者:高瀬悠介
担当者:高瀬悠介
高瀬は、頷いた。
「それは見た」
次の表示。
【補足記録】
相談者の発言。
『教師を続ける理由が分からない』
担当者の返答。
『明日、学校に来なくてもいい』
高瀬は、画面を見つめる。
その下に、新しい文章が現れた。
【相談者の追加発言】
『……じゃあ、あの子はどうなる?』
高瀬の指が止まった。
「……あの子?」
No.001。
あの少年だろうか。
画面は続く。
【担当者の返答】
『俺がいる』
高瀬は、息を止めた。
もう一人の自分。
相談者の自分に。
そう言った。
俺がいる。
だから、明日学校に来なくてもいい。
そういう意味だったのか。
高瀬は、ゆっくり息を吐いた。
「……そっか」
自分が休んでも。
もう一人の自分がいる。
だから、大丈夫。
そう言われたのなら。
安心できたかもしれない。
けれど。
次の表示を見た瞬間。
高瀬の表情が変わった。
【相談者の返答】
『……それじゃ、駄目なんだ』
「……え?」
高瀬は、画面を見つめた。
なぜ。
もう一人の自分がいる。
生徒の名前も知っている。
同じ仕事ができる。
それなのに。
駄目だと言った。
画面に、最後の記録が現れる。
【相談者の発言】
『あの子が待ってるのは』
『先生じゃない』
高瀬の呼吸が止まった。
続き。
『俺なんだよ』
高瀬は、動けなかった。
少年が待っているのは。
教師という役割ではない。
高瀬悠介という名前でもない。
自分。
あの子と話した自分。
あの子と笑った自分。
あの子に、また明日と言った自分。
その自分を、待っている。
高瀬は、スマートフォンを握りしめた。
「……そうだよな」
同じ顔でも。
同じ名前でも。
同じ仕事ができても。
代わりにはならない。
その人と過ごした時間だけは。
誰にも代われない。
高瀬は、目を閉じた。
あの少年。
No.001。
自分が、守ろうとした生徒。
その子が待っていたのは。
教師ではなく。
自分だった。
高瀬は、ゆっくり息を吐いた。
「……会いたいな」
小さく呟いた。
今度は。
先生としてではなく。
高瀬悠介として。
あの子に会いたい。
そう思った。
その時。
スマートフォンが、もう一度震えた。
【Review】
追加記録を確認しました。
【昨年十月九日】
相談室。
会話終了後。
高瀬は、画面を見る。
【担当者】
高瀬悠介
【最終発言】
『……分かった』
『じゃあ、俺が残る』
高瀬の指が止まった。
「……残る?」
次の表示。
【相談者】
高瀬悠介
【返答】
『……ごめん』
高瀬は、息を呑んだ。
もう一人の自分が。
残ると言った。
そして。
自分は謝った。
何に対して。
何を残した。
何を置いていった。
高瀬は、画面を見つめた。
最後の記録が表示される。
【担当者】
高瀬悠介
【最終記録】
『いいんだ』
『お前が明日も先生でいられるなら』
『俺は、先生じゃなくなってもいい』
高瀬は、動けなかった。
先生じゃなくなってもいい。
その言葉。
あの少年が恐れていたこと。
『先生が、先生じゃなくなるから』
全部が、繋がった。
もう一人の自分は。
自分を助けるために。
教師であることを。
手放した。
そして。
自分は。
そのことを、忘れていた。
高瀬は、スマートフォンを伏せた。
静かな部屋。
時計の音だけが響いている。
高瀬は、ノートを開いた。
そして、震える手で一行を書いた。
『俺を助けたのは、俺だった。』
その下に、もう一つ。
『でも、あいつは誰に助けてもらった?』
高瀬は、ペンを置いた。
目の奥が、熱くなった。
誰かを救うために。
自分を犠牲にした。
その姿は。
今までの自分と、何も変わらなかった。
高瀬は、ゆっくり息を吐いた。
「……今度は」
誰もいない部屋で、呟く。
「俺が、話を聞く番だ」
窓の外では、静かに雨が降り始めていた。
【End】




