Review37「嫌いだった先生」
『高瀬』
『お前、先生になれ』
十五年前。
放課後の教室。
窓から差し込む夕日が、机の表面を赤く染めていた。
黒板には、消し忘れた数学の公式。教卓の隅には提出期限を過ぎたプリントが積まれている。
その前に、一人の教師が立っていた。
高瀬悠介。
十六歳。
高校一年生。
制服のネクタイは緩み、椅子には浅く腰掛けている。
そして、目の前の教師に向かって、はっきりと言った。
『絶対嫌です』
教師は笑った。
『即答か』
『当たり前でしょ』
『何で』
『先生って、面倒くさいじゃないですか』
『まあな』
『給料決まってるし、残業多いし、変な親いるし』
『詳しいな』
『先生が毎日愚痴ってるからでしょ』
『そうだったか』
『そうですよ』
教師は、机に置いてあった缶コーヒーを手に取った。
一口飲んで、顔をしかめる。
『……ぬるい』
『知りませんよ』
『人生もこんなもんだ』
『急に何の話ですか』
『期待したほど甘くない』
『ブラック飲んで何言ってんですか』
教師は笑った。
高瀬は笑わなかった。
この人は、いつもそうだった。
真面目な話をしていると思ったら、くだらないことを言う。
怒っていると思ったら、突然笑う。
何を考えているのか、よく分からない。
そして。
高瀬は、この教師が嫌いだった。
◇
現在。
高瀬は、実家の床に座り込んでいた。
目の前には、開かれた卒業アルバム。
その隣に、藤原美咲。
スマートフォンには、真壁からの着信履歴が残っている。
「……高瀬先生」
藤原が、慎重に声を掛けた。
「聞こえますか?」
「……うん」
「私が誰か分かります?」
「藤原美咲」
「はい」
「同僚」
「はい」
「俺よりしっかりしてる」
「そこまで聞いてません」
高瀬が、かすかに笑った。
藤原も少しだけ表情を緩める。
「気分は?」
「最悪」
「正直でよろしい」
「★★★★★?」
「今日は三つです」
「厳し」
冗談を言える。
それだけで、藤原は少し安心した。
しかし、高瀬の顔色は悪い。
額には汗が浮かび、呼吸も浅い。
「……思い出した」
高瀬が言った。
「何をですか?」
「俺の担任」
「名前も?」
「うん」
高瀬は、卒業アルバムへ目を向ける。
そこには、先ほどまで空白だった担任名が、確かに記されていた。
「……嫌いだった」
「え?」
「この先生」
一拍。
「めちゃくちゃ嫌いだった」
藤原は、何も言わなかった。
高瀬が続ける。
「でも」
「はい」
「俺が教師になったの」
声が、少し震える。
「この人のせいだ」
◇
十五年前。
高校一年生の高瀬は、学校が嫌いだった。
勉強が嫌いだったわけではない。
友達もいた。
部活も、それなりに楽しかった。
ただ、教師という存在が苦手だった。
「将来のため」
「あなたのため」
「今頑張らないと後悔する」
大人たちは、決まって同じことを言った。
未来。
将来。
可能性。
そんなもの、誰にも分からないはずなのに。
なぜか教師だけは、知っているような顔をしていた。
ある日。
高瀬は、進路希望調査票を白紙で提出した。
『高瀬』
『はい』
『何で白紙なんだ』
『決まってないからです』
『そうか』
『……それだけ?』
教師は、紙を見つめた。
『じゃあ、決まってないって書け』
『は?』
『白紙だと、考えてないのか、考えた結果決まってないのか分からん』
『……』
『違うだろ、その二つは』
高瀬は、教師を見た。
『先生』
『何』
『何でそんな面倒くさいこと言うんですか』
『仕事だから』
『嫌な仕事ですね』
『おう。たまにな』
教師は、赤ペンで何かを書いた。
進路希望調査票。
第一希望。
【未定】
その下に。
【理由:まだ決められない】
『これでいい』
『……怒らないんですか』
『何を』
『進路決めてないこと』
『十六歳だろ』
教師は笑った。
『まだ決まってない人生に、勝手に名前つけるなよ』
高瀬は、何も言えなかった。
この教師は嫌いだ。
そう思っていた。
なのに。
この言葉だけは、妙に覚えていた。
◇
現在。
午後六時二十七分。
真壁が到着した。
「……遅くなった」
「十分早いだろ」
「お前が死にかける速度に合わせてられない」
「死にかけてない」
「藤原」
「顔色は悪いです」
「ほらな」
「裏切ったな」
真壁は、二人の前にしゃがみ込んだ。
そして、卒業アルバムを見る。
「これが例の担任か」
「うん」
「名前、戻ったんだな」
「……戻った」
真壁は、写真をじっと見つめる。
「で?」
「何が」
「お前は、この教師を知ってるんだろ」
「知ってる」
「去年、会った記憶は?」
「まだ曖昧」
高瀬は、首を振った。
「高校の時のことは思い出した。でも、去年の旧校舎で何をしたかは、まだ繋がらない」
「記憶復元率は?」
「100%」
「なのに思い出せない?」
「……うん」
真壁が、眉を寄せた。
「それ、おかしくないか」
「俺も思った」
「100%って何の100%だ?」
「……」
高瀬は、スマートフォンを見る。
【記憶復元完了】
確かに、そう表示されている。
「高瀬」
真壁が言った。
「お前、Reviewに質問してないよな」
「してない」
「偉い」
「子ども扱いすんな」
「なら考えろ」
真壁は、アルバムを指差す。
「去年の記憶が戻ったとは、一度も書いてない」
「……あ」
「復元対象は、担任に関する記憶だったんじゃないのか」
高瀬は、画面を見直した。
未復元記憶。
一件。
対象者との関係。
――担任。
「……そうか」
「全部の記憶が戻ったとは限らない」
藤原が頷く。
「だったら、去年のことは別に調べる必要がありますね」
「そういうこと」
高瀬は、深く息を吐いた。
ようやく一つ、整理できた。
分からないことは、まだある。
でも。
分からないまま、決めつけなくていい。
それを、今は知っている。
◇
十五年前。
ある日の放課後。
高瀬は、教室で一人の男子生徒を見つけた。
机に突っ伏し、動かない。
同じクラスの生徒だった。
特別仲が良いわけではない。
でも、顔と名前くらいは知っている。
『……おい』
返事はない。
『帰らんの?』
男子生徒が、顔を上げた。
目が赤い。
『……帰りたくない』
『何で』
『別に』
高瀬は、困った。
こういう時、何を言えばいいのか分からない。
慰めるべきなのか。
放っておくべきなのか。
『……先生呼ぶ?』
『やめて』
『何で』
『大ごとになるから』
男子生徒は、机へ顔を伏せた。
『俺』
小さな声。
『学校来るの、しんどい』
高瀬は、何も言えなかった。
その時。
教室の扉が開いた。
『おーい、まだいたのか』
担任だった。
『……何してる』
『別に』
高瀬が答える。
教師は、男子生徒を見る。
そして、何も聞かずに近くの椅子へ座った。
『腹減ったな』
『……は?』
高瀬。
『何か食った?』
『いや』
『じゃあ購買行くか』
『もう閉まってます』
『知ってる』
『何なんですか』
教師は、少し笑った。
そして。
男子生徒へ向き直る。
『帰りたくないなら、もう少しいろ』
男子生徒が、顔を上げた。
『……いいんですか』
『俺も仕事残ってるしな』
『……』
『ただし』
教師は、机を指差す。
『一人でここにいるな』
『……何で』
『帰りたくない時に、一人でいると』
少し考えて。
『余計帰れなくなることもある』
男子生徒は、何も言わなかった。
でも。
少しだけ。
肩の力が抜けた。
高瀬は、その光景を見ていた。
教師は、何か特別なことをしたわけではない。
正しい答えを教えたわけでもない。
説教もしていない。
ただ。
隣に座った。
それだけだった。
なのに。
高瀬は、妙に腹が立った。
『……ずるい』
思わず、呟く。
教師が振り返る。
『何が』
『何でもないです』
高瀬は、顔を背けた。
その時。
初めて思った。
こんな大人には。
なりたくない。
でも。
こんなふうに誰かの隣に座れる大人には。
なってみたい。
◇
現在。
高瀬は、思い出したことを二人に話した。
藤原は、静かに聞いていた。
真壁は、腕を組んでいる。
「……それで教師になったのか」
真壁が聞く。
「分からん」
高瀬は答えた。
「でも、影響は受けたと思う」
「嫌いだったんだろ」
「嫌いだった」
「矛盾してるな」
「そうなんだよ」
高瀬は、アルバムを見る。
「正論ばっかり言うし、面倒くさいし、人のことよく見てるし」
「高瀬先生みたいですね」
藤原。
「え?」
「面倒くさいところ」
「そこだけ?」
「正論も言いますよ」
「よかった」
「たまに」
「たまに!?」
真壁が、鼻で笑った。
「影響受けすぎだろ」
「うるさい」
三人の間に、少しだけ笑いが生まれた。
その時。
高瀬は、卒業アルバムの最後のページに目を止めた。
寄せ書き。
クラスメイトの言葉。
『また遊ぼう』
『元気でな』
『絶対同窓会しよう』
その中に。
担任の字があった。
『高瀬へ』
高瀬は、指でなぞる。
『正しい先生にならなくていい。』
『間違えた時に、謝れる大人になれ。』
その下。
小さく。
『お前は、誰かを助けようとして、自分を壊すな。』
高瀬は、動けなくなった。
「……何で」
藤原が、覗き込む。
「どうしました?」
高瀬は、答えない。
十三年前。
いや。
十五年前。
この人は、もう。
分かっていたのだろうか。
自分が、そういう人間になると。
それとも。
自分が、そういう人間だったから。
この言葉を残したのか。
「……先生」
高瀬が、呟く。
不思議だった。
あんなに嫌いだった教師の言葉が。
今。
胸に刺さっていた。
◇
午後七時四十一分。
三人は、実家を出た。
外はすっかり暗くなっている。
高瀬は、玄関先で二人に頭を下げた。
「……ありがとう」
藤原が、笑う。
「珍しく素直ですね」
「成長期だから」
「三十六歳で?」
「晩成型なんだよ」
真壁。
「遅咲きにも程がある」
「お前ら今日ずっと厳しくない?」
笑い。
高瀬は、顔を上げる。
「でも」
二人を見る。
「一人だったら、多分また無茶してた」
「知ってます」
藤原。
「だから来ました」
真壁。
「だから呼べって言った」
「……うん」
高瀬は、頷いた。
十五年前。
教室で。
帰りたくない生徒の隣に座った教師。
あの人は、何も解決しなかった。
でも。
一人にしなかった。
今。
自分も。
一人ではない。
「……そっか」
高瀬が、小さく笑う。
「俺」
「はい?」
藤原。
「こういう先生になりたかったのかもな」
藤原は、少し考えてから言った。
「もう、なってると思いますよ」
高瀬は、首を振る。
「いや」
一拍。
「まだ途中」
真壁が、呆れたように言う。
「また採点中か」
「便利な言葉だろ」
「使いすぎると減点だぞ」
「採点すんなって」
三人は、笑った。
◇
その夜。
午後十一時二十六分。
高瀬は、自宅でノートを開いた。
今日分かったことを書く。
・高校時代の担任を思い出した。
・教師になった理由に、その人が関わっている。
・昨年の旧校舎に、同じ人物がいた可能性が高い。
・記憶復元100%は、全記憶の復元を意味しない。
・過去の自分は、その教師を思い出すことを恐れていた。
最後。
高瀬は、ペンを止めた。
『思い出したら、今度こそ俺は教師を辞める。』
あの紙。
今の自分の字。
過去の自分が、残した警告。
「……何でだよ」
教師になった理由を思い出した。
それだけなら。
むしろ。
続けたくなるはずだ。
なのに。
過去の自分は。
辞めると書いた。
「……去年」
高瀬は、呟く。
「何があった」
その時。
スマートフォンが震えた。
――ブッ。
【Review】
━━━━━━━━━━━━
本日の行動を
評価します。
━━━━━━━━━━━━
★★★★★。
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良かった点。
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━━━━━━━━━━━━
あなたは、
過去の自分を
否定しませんでした。
━━━━━━━━━━━━
次。
━━━━━━━━━━━━
改善点。
━━━━━━━━━━━━
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あなたは、
一つの事実を
見落としています。
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「……またか」
高瀬は、画面を見る。
━━━━━━━━━━━━
あなたが思い出したのは、
教師になった理由です。
━━━━━━━━━━━━
一拍。
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教師を続けた理由では
ありません。
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高瀬の、指が止まる。
「……続けた理由」
十三年。
楽しいことばかりではなかった。
辞めたいと思った日も。
何度もあった。
それでも。
続けた。
なぜ。
高瀬は、考える。
生徒。
同僚。
保護者。
感謝されたこと。
救えたこと。
救えなかったこと。
色々ある。
でも。
過去の自分が。
『思い出したら教師を辞める』
そう書くほどの。
何か。
「……何なんだよ」
その時。
画面が変わった。
━━━━━━━━━━━━
【Review Log】
昨年十月九日
━━━━━━━━━━━━
高瀬の、呼吸が止まる。
旧校舎。
桐谷が消えた時期。
もう一人の高瀬が現れた日。
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記録対象
高瀬悠介
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行動記録
教師継続を選択。
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「……継続?」
次。
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選択理由
未確認。
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高瀬は、画面を見つめる。
去年。
自分は。
教師を続けることを。
選んだ。
それまで。
何を選ぼうとしていた。
――ブッ。
━━━━━━━━━━━━
補足記録。
━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━
昨年十月八日
高瀬悠介
退職意思を表明。
━━━━━━━━━━━━
「……は?」
高瀬は、声を失った。
去年。
自分は。
教師を辞めようとしていた。
記憶には。
ない。
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翌日。
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退職意思を撤回。
━━━━━━━━━━━━
高瀬の、心臓が速くなる。
そして。
━━━━━━━━━━━━
撤回理由。
━━━━━━━━━━━━
数秒。
沈黙。
━━━━━━━━━━━━
「先生が、
辞めるなと言ったから」
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「……先生?」
高校時代の担任。
あの人が。
去年。
自分に。
辞めるなと言った。
だから。
続けた。
高瀬は、息を呑む。
でも。
おかしい。
過去の自分は。
その先生を思い出したら。
今度こそ。
教師を辞めると書いている。
辞めるなと言われたから。
続けた。
なのに。
思い出したら。
辞める。
矛盾している。
「……何で」
画面。
最後。
━━━━━━━━━━━━
当該発言者の
本人確認を行います。
━━━━━━━━━━━━
高瀬が、眉を寄せる。
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発言者
「先生」
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照合結果
不一致。
━━━━━━━━━━━━
「……不一致?」
次。
━━━━━━━━━━━━
昨年十月九日。
高瀬悠介に
「教師を辞めるな」と告げた人物は、
━━━━━━━━━━━━
高瀬の、呼吸が止まる。
━━━━━━━━━━━━
高校時代の担任では
ありません。
━━━━━━━━━━━━
「……は?」
そして。
最後。
━━━━━━━━━━━━
発言者の氏名。
━━━━━━━━━━━━
一拍。
━━━━━━━━━━━━
――高瀬悠介
━━━━━━━━━━━━
高瀬は、動けなかった。
「……俺?」
去年。
教師を辞めようとしていた自分に。
辞めるなと言ったのは。
自分自身。
もう一人の。
高瀬悠介。
高瀬は、ノートを見る。
『思い出したら、今度こそ俺は教師を辞める。』
そして。
ようやく。
気付いた。
この文章の。
『俺』は。
今の自分とは。
限らない。
【End】




