Review38「辞めたかった理由」
昨年十月九日。
高瀬悠介は、教師を続けることを選んだ。
その前日、教師を辞めると決めていたにもかかわらず。
そして、その決断を変えさせたのは――高瀬悠介だった。
「……俺が、俺を引き止めた?」
深夜の自室で、高瀬はスマートフォンを見つめていた。
画面には、先ほど表示されたReviewの記録が残っている。
【Review Log】
昨年十月八日
高瀬悠介 退職意思を表明。
十月九日
退職意思を撤回。
撤回理由
「先生が、辞めるなと言ったから」
発言者
高瀬悠介
高瀬は椅子の背もたれに身体を預けた。
「……何でだよ」
問いかけても、画面は何も答えない。
去年の自分は辞めたかった。
それなのに、もう一人の自分は辞めるなと言った。
同じ人間なら、同じ苦しさを知っていたはずだ。
朝、目が覚めても疲れが抜けないこと。
休日になっても仕事が頭から離れないこと。
生徒の前では笑っていても、職員室に戻った瞬間、何も話したくなくなる日があること。
誰かに頼ればいいと分かっているのに、頼むくらいなら自分でやった方が早いと思ってしまうこと。
そして、そんな自分を変えられないこと。
全部、知っていたはずなのに。
「……何で続けろなんて言ったんだ」
高瀬はノートを開いた。
昨年の記録。
高校時代の担任。
桐谷。
もう一人の高瀬。
それぞれの名前を並べても、答えは出ない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
自分は、辞めたいと思ったことを忘れている。
いや。
忘れたことに、なっている。
高瀬はペンを握り直した。
そして、ノートの一番下に書いた。
『俺は、何から逃げたかった?』
その問いだけは、Reviewに送らなかった。
◇
翌朝。
「……で、結局寝たのか?」
真壁が、開口一番そう言った。
「寝た」
「何時間」
「四時間半」
「微妙だな」
「昨日までの俺なら優秀」
「昨日までのお前が異常なんだよ」
藤原が、二人の間にコーヒーを置いた。
「今日は少し顔色いいですね」
「ありがとうございます」
「でも、無理は駄目です」
「はい」
「返事だけ良くなってません?」
「教師だから」
「それ、理由になってません」
真壁が鼻で笑った。
高瀬は苦笑しながら、昨夜の記録を二人に見せた。
説明が終わる頃には、藤原の表情から笑みが消えていた。
「……去年、退職しようとしていたんですね」
「らしい」
「覚えてないんですか?」
「全然」
真壁が腕を組む。
「退職届は?」
「分からん」
「校長に話した記録は?」
「それも」
「じゃあ、まだ確定してるのは『退職意思を表明した』っていうReviewの記録だけだな」
「……そうなる」
「誰に表明したかも分からない」
高瀬は頷いた。
Reviewが示した事実と、現実に確認できた事実。
その二つは、必ずしも同じではない。
佐伯の一件で、嫌というほど思い知らされたことだった。
「まず、去年の勤務記録を確認したい」
高瀬が言うと、真壁が頷いた。
「管理職の許可を取る。見られる範囲だけだ」
「助かる」
「それと」
「ん?」
「辞めたいと思った理由が分かっても、すぐに『だから俺が悪かった』に戻るなよ」
高瀬は、思わず笑った。
「先回りすんな」
「お前の思考回路、十三年分くらい分かりやすいからな」
「付き合い長いみたいに言うな」
「面倒くささは年季が入ってる」
藤原が小さく笑った。
高瀬も笑う。
それから、少しだけ真面目な顔になった。
「……ありがとう」
真壁は答えず、書類を一枚差し出した。
「礼はこれ出してから言え」
「まだ言う!?」
「昨日の分もある」
「俺の人生、書類に追われすぎだろ」
そんなやり取りをしているうちに、始業のチャイムが鳴った。
◇
三時間目。
高瀬は、黒板に一つの問いを書いた。
『続けることと、やめること。どちらが正しいか』
道徳の授業だった。
予定していた題材の中に、ちょうど似た問いがあった。
生徒たちに考えを聞くと、最初は「続けた方がいい」という意見が多かった。
「途中でやめるのは、もったいないから」
「頑張った分が無駄になる」
「諦めない方がかっこいい」
高瀬は、それぞれの意見を黒板に書いた。
次に、反対の意見を求める。
一人の女子生徒が手を上げた。
「やめた方がいい時もあると思います」
「例えば?」
「頑張りすぎて、身体壊す時とか」
「なるほど」
「あと、嫌いになっちゃった時」
別の生徒が首を傾げた。
「でも、好きだったなら続ければいいじゃん」
「好きでも嫌になる時あるでしょ」
「そんなのある?」
「あるよ。友達とか」
「それはちょっと違くない?」
「似てるじゃん」
教室が少し騒がしくなった。
高瀬は、そのやり取りを聞きながら黒板に二つの言葉を書いた。
『好き』
『続けたい』
「この二つって、同じかな」
生徒たちが考え始める。
「違うかも」
「好きだけど、やめたいことあるし」
「逆もある?」
「嫌いだけど続けてること?」
「勉強!」
「それは全員だろ!」
笑いが起きた。
高瀬も笑った。
それから、ゆっくり言った。
「好きなことでも、しんどくなる時はある。逆に、嫌いだと思ってても、離れたら寂しくなることもある」
黒板に、もう一つ書き加える。
『今の自分』
「大事なのは、昔好きだったから続けなきゃいけないとか、今嫌いだから絶対やめなきゃいけないとか、そういうことじゃないと思う」
一人の生徒が聞いた。
「じゃあ、どうやって決めるの?」
高瀬はチョークを止めた。
以前なら、何か気の利いた答えを探していただろう。
努力は裏切らない。
諦めなければ夢は叶う。
続けることに意味がある。
そんな、どこかで聞いた言葉を。
でも、今日は違った。
「……分からん」
「先生なのに?」
「先生でも分からん」
「えー!」
「ただ」
高瀬は、教室を見渡した。
「決める前に、誰かに相談してもいいと思う」
「自分で決めるんじゃないの?」
「最後はな。でも、一人で考えたら、自分が見えてないこともあるだろ」
あの女子生徒が、手を上げた。
「じゃあ、先生も相談するんですか?」
高瀬は、一瞬だけ言葉に詰まった。
そして。
「最近、するようになった」
そう答えた。
「遅っ!」
「何歳ですか!」
「三十六」
「遅っ!!」
「二回言うな!」
教室が笑いに包まれた。
高瀬も笑った。
その笑い声を聞きながら、ふと思う。
去年の自分は、誰かに相談したのだろうか。
辞めたい。
その一言を、誰かに言えたのだろうか。
もし言えていたなら。
何かが違っていたのだろうか。
◇
放課後。
真壁が、数枚の資料を持ってきた。
「去年十月の勤務記録だ。確認できた範囲だけな」
「ありがとう」
「管理職には事情を説明してある。個人情報が関わる部分は見られない」
「十分」
藤原も隣に座った。
三人で、日付を追う。
十月七日。
通常勤務。
十月八日。
通常勤務。
十月九日から、三日間の病気休暇。
記録は、以前確認したものと一致していた。
ただし。
「……これ」
藤原が、一枚の書類を指差した。
十月八日。
職員室内の面談予定。
午後五時三十分。
相手は管理職。
用件欄には、短く書かれていた。
『勤務継続に関する相談』
「……あったんだ」
高瀬が呟く。
真壁が頷く。
「退職届が提出された記録はない。でも、相談の予定は残ってた」
「面談は?」
「実施されたかまでは確認できない。予定表だけだ」
高瀬は、日付を見つめた。
十月八日。
もう一人の高瀬が現れたとされる日。
自分が辞めると決めた日。
そして。
その翌日。
教師を続けることを選んだ日。
「……俺、本当に辞めようとしてたんだな」
藤原が、静かに聞いた。
「今はどうですか?」
「え?」
「教師を辞めたいですか?」
高瀬は、すぐには答えられなかった。
以前なら、迷わず「続けたい」と言ったかもしれない。
あるいは、苦笑いしながら「辞めたい日もある」と答えただろう。
でも、今は。
「……分からない」
正直に答えた。
「好きな仕事ではある。でも、ずっと続けるかって聞かれたら、まだ決められない」
藤原は頷いた。
「それでいいと思います」
「……いいの?」
「今すぐ決めなくても、明日の授業はできますから」
高瀬は、少し笑った。
「確かに」
真壁が資料を揃える。
「問題は、辞めたい理由じゃなくて、辞めると決めた後に何が起きたかだな」
「……うん」
「そして、もう一人のお前が何を知っていたか」
高瀬は頷いた。
今なら、その違いが分かる。
辞めたい理由。
辞めると決めた理由。
そして。
辞めるのをやめた理由。
全部、同じとは限らない。
◇
午後六時十二分。
三人は、旧校舎の資料室へ向かった。
管理職から、資料確認の許可は得ている。
以前、桐谷と高瀬が映っていた場所。
あの部屋だった。
扉を開けると、古い紙と埃の匂いがした。
窓際の机には、薄い傷が残っている。
高瀬は、その机を見た。
昨年の自分。
桐谷。
もう一人の高瀬。
高校時代の担任。
そして、あの少年。
複数の記憶が、同じ場所へ繋がっている。
「……ここで、何か決めたんだよな」
高瀬が呟く。
真壁は、部屋の隅にある書類棚を確認していた。
「去年の資料が残ってるなら、この辺だろうな」
藤原も、棚の反対側を調べる。
高瀬は、机の引き出しに目を向けた。
鍵は掛かっていない。
開けると、古い封筒が一つ入っていた。
表には、手書きの文字。
『高瀬へ』
高瀬の手が止まる。
「……これ」
藤原が近付く。
「誰の字ですか?」
「……桐谷」
見覚えがあった。
あいつの、少し右上がりの字。
高瀬は、封筒を持ち上げた。
中には、一枚の紙。
そして。
小さな写真が入っていた。
写真には、昨年の高瀬と桐谷が写っている。
職員室。
夜。
机の上には、缶コーヒーが二本。
高瀬は、思わず笑った。
「……あいつ、ほんと缶コーヒー好きだな」
藤原も少し笑う。
しかし。
写真の裏を見た瞬間、高瀬の表情が変わった。
そこには、日付と短い言葉が書かれていた。
『十月八日』
『辞めるって言った日』
高瀬は、紙を開いた。
桐谷の字。
短い文章だった。
『高瀬へ。
お前が辞めたいって言った時、俺は止めなかった。
止められなかったんじゃない。
止める理由がなかったからだ。
お前は十分やった。
生徒のためにって言いながら、自分の時間を削って、身体壊しかけて、それでもまだ足りないって顔してた。
俺は、そんなお前に続けろなんて言えない。
ただ、一つだけ聞きたい。
お前は教師を辞めたいのか。
それとも、今のまま教師を続けるのが嫌なのか。
その二つは、同じじゃないと思う。
答えは急がなくていい。
辞めても、続けても、俺は友達だから。
――桐谷』
高瀬は、最後まで読んだ。
もう一度、最初から読んだ。
そして。
紙を持つ手が、震え始めた。
「……あいつ」
声が掠れる。
「こんなこと、言ってたのか」
藤原は、何も言わなかった。
真壁も、書類棚から手を離した。
高瀬は、手紙を見つめた。
辞めても。
続けても。
友達。
桐谷は、自分の選択を採点しなかった。
正しいとも、間違いとも言わなかった。
ただ。
どちらを選んでも、関係は変わらないと言った。
高瀬は、目を閉じた。
「……何で忘れたんだよ」
桐谷の顔が浮かぶ。
笑っている。
缶コーヒーを差し出している。
『全部自分でやらないと死ぬ病気?』
『高瀬病』
『勝手に病名作るな』
あの声。
あの笑い方。
確かに、自分の友達だった。
「……ごめん」
高瀬は、小さく呟いた。
藤原が、隣にしゃがむ。
「高瀬先生」
「……うん」
「忘れたくて忘れたわけじゃないですよ」
高瀬は、首を振った。
「でも」
「はい」
「俺が消したって、Reviewに出てた」
藤原は、少し黙った。
そして。
「それが本当でも」
高瀬を見る。
「理由を知らないまま、自分を責めるのは違うと思います」
高瀬は、答えられなかった。
真壁が、静かに言う。
「桐谷は、辞めるなと言ってない」
「……うん」
「でも、Reviewには『先生が辞めるなと言った』とある」
「……うん」
「じゃあ、そいつは桐谷じゃない」
高瀬が顔を上げる。
真壁は続けた。
「もう一人のお前が、桐谷とは違う答えを出した。問題は、何でそうしたかだ」
高瀬は、手紙を握り直した。
その時だった。
紙の裏側に、何かが書かれていることに気付いた。
薄い。
鉛筆の文字。
桐谷の字ではない。
高瀬自身の字だった。
『桐谷の言うことは正しい。』
『でも、俺はまだ辞められない。』
その下。
『辞めたら、あいつを一人にする。』
高瀬の、呼吸が止まった。
「……あいつ?」
藤原が、紙を覗き込む。
「誰のことですか?」
「……分からない」
高瀬は、答えた。
桐谷ではない。
桐谷は、辞めても友達だと言った。
それなのに。
自分は、誰かを一人にすることを恐れていた。
高瀬は、あの少年を思い出す。
No.001。
三十七人目。
69点。
そして。
『先生に会えてよかったです』
胸が、嫌な音を立てた。
「……まさか」
その瞬間。
スマートフォンが震えた。
◇
【Review】
過去の記録を確認しました。
★★★★★
良かった点。
あなたは、他者の言葉を
自分の都合で書き換えませんでした。
改善点。
あなたは、まだ
「辞められない理由」を
「続けたい理由」と
混同しています。
高瀬は、画面を見つめた。
「……違うのか」
次の表示。
【Review Log】
昨年十月九日。
高瀬悠介。
教師継続を選択。
選択理由。
『あいつを一人にしないため』
高瀬は、息を呑む。
藤原も、真壁も、画面を見ていた。
「……あいつって」
藤原が呟く。
高瀬は、首を振った。
「まだ分からない」
その時。
画面に、もう一つの記録が現れた。
【関連人物】
No.001
「……!」
高瀬の指が止まった。
やはり。
あの少年。
自分が教師を続けると決めた理由。
その中心にいた。
しかし。
次の表示を見た瞬間、高瀬は言葉を失った。
【対象者の状態】
DELETED
高瀬は、画面を握りしめた。
「……また」
削除。
桐谷も。
少年も。
自分が大切にしていた人間ばかりが、記録から消えている。
そして。
その削除に、自分が関わっている。
「……何でだよ」
高瀬は、呟いた。
Reviewは答えない。
代わりに。
最後の記録が表示された。
【削除実行者】
高瀬悠介
藤原が、息を呑む。
真壁の表情も変わった。
高瀬は、画面を見つめる。
桐谷。
No.001。
二人とも。
自分が消した。
そう書かれている。
でも。
何のために。
その時。
机の上の写真が、目に入った。
十月八日。
桐谷と高瀬。
缶コーヒー。
二人とも、笑っている。
高瀬は、写真を手に取った。
そして。
小さく呟いた。
「……俺」
一拍。
「何を守ろうとしたんだ」
スマートフォンが、もう一度震えた。
【Review】
質問を確認しました。
高瀬は、画面を見る。
【回答】
あなたは、
二人を消したのではありません。
高瀬の、目が見開く。
【あなたが削除したのは】
一拍。
【二人に対する】
【あなた自身の評価です。】
「……評価?」
高瀬は、息を止めた。
藤原が、画面を覗き込む。
真壁が、小さく呟いた。
「……採点を消したのか」
高瀬は、動けなかった。
人間を消したのではない。
記録を消したのでもない。
自分が、その人間に下した評価。
それを。
消した。
でも。
なぜ。
それで二人がDELETEDになったのか。
なぜ、自分の記憶まで失われたのか。
まだ、分からない。
高瀬は、スマートフォンを伏せた。
「……帰ろう」
藤原が顔を上げる。
「いいんですか?」
「よくない」
高瀬は、正直に答えた。
「めちゃくちゃ気になる。でも、今日はここまでにする」
真壁が頷く。
「それでいい」
高瀬は、桐谷の手紙を丁寧に封筒へ戻した。
最後に、もう一度だけ。
写真を見る。
笑っている桐谷。
笑っている自分。
あの日の二人が、何を選んだのか。
まだ分からない。
でも。
一つだけ、分かったことがある。
桐谷は、自分を引き止めなかった。
もう一人の自分は、引き止めた。
そして。
自分は、誰かを一人にしたくなかった。
その誰かが、今。
どこにいるのかも分からない。
「……待ってろよ」
高瀬は、小さく呟いた。
誰に向けた言葉なのか。
自分でも、まだ分からなかった。
ただ。
今度は。
忘れたままにしない。
そう決めた。
【End】




