side:キーラン 3
それがおかしくなったのは、キーランとブリアンナの初夜のときだった。一年以内に子を、と言われたからには、これから毎日でもブリアンナと体を重ねる必要があるだろう、とキーランは覚悟しブリアンナの部屋へ向かった。そんなキーランの悲壮な覚悟すらも子爵にとっては興でしかなかったようだが。
そうして子爵に連れられキーランが部屋に招かれたとき、既にキーランが何のために自分があてがわれた部屋を訪れるのか理解していたのだろう。寝台の上で所在なげに座っているブリアンナ、は不安を極力押し隠そうとし、それでも完全に隠しきることには失敗した――そうとしか形容できないような表情を見せていた。
子爵が意味ありげな嗤いをキーランに向け、退室する。残されたキーランは、ブリアンナの正面に腰を下ろした。ブリアンナはそんなキーランと決して目を合わせようとはせず、ただ俯き寝台で向かい合って座るキーランの前で、ごめんなさい、とブリアンナは繰り返して泣いた。
そのブリアンナの静かにぽろぽろと涙する姿の、一体何と儚く美しかったことか。キーランは生まれて初めて余りの美しさに目が離せないという経験をした。影のある美しさ、というのをキーランはそのとき理解した気がした。
ぞくり、とキーランは己の肌が粟立つのを感じた。キーランは欲求を感じた。例えば、積もったばかりの処女雪を踏み潰したくなるような。例えば、ガラスの置きものを落としたくなるような。そんな衝動がキーランの中に確かに生まれる。
異性に対して抱くそれを何というのか、キーランは知っていた。――情欲、だ。
咽び泣いているブリアンナに欲情してしまった自分を、理性でキーランは激しく嫌悪した。ブリアンナを抱かなくてはならなくとも、こんなに辛い想いをしているブリアンナに欲情するなど最低だとしか思えなかった。
キーランは飽くまでもブリアンナの為を思って自ら泥を被る役目でなければならないのに、そこにキーラン自身の欲求などあってはならないというのに。
それにキーランは歪んだ愉悦を覚えてしまいそうだ。
キーランは己の中で生まれた、否定できない確かな欲を誤魔化すように、ブリアンナの柔らかな肢体を抱いた。
必死に声を噛み殺しキーランと侍女へ謝罪の言葉を繰り返すブリアンナに、キーランは掛ける言葉を見つけられなかった。
だって、何と返せばいいのだ。最早侍女のことよりブリアンナに惹かれている、など、キーランが王家に連なる公爵として身につけた常識に照らし合わせても相応しい訳がなかったし、ブリアンナには、あれほど応援してくれていたブリアンナに対する手酷い裏切りとしか映らないだろう。
それに、キーラン自身、ブリアンナをそういう目で見てしまう己を受け入れられそうにはなかった。
キーランは自分のすぐ隣でどのような形であれ自分の伴侶となった女性が涙するのを見て、顔を歪めた。先日、子爵はとうとう蜂起し、今日王城は墜ちるだろう。遠目にも火の手が上がっているのが見えた。
キーランとブリアンナの子はすぐに出来た。子が出来たと確証してからこちら、キーランはブリアンナの体を抱いていないし、子爵達がブリアンナに手を出したこともない。彼らにとって、本当にブリアンナはそのためだけの存在だった。子が出来、その子共々子爵の庇護下にいればキーランとブリアンナは何をしていても構わないらしい。軟禁状態ではあるが、少なくとも危険もなかった。
だから、今もこの子爵の屋敷でただかつて仕えた城の最期を見ている。ブリアンナに仕えた数年間しかその城と縁のないキーランとて何とも言えない気持ちになるのだ。そこに生まれたときから住み続けてきたブリアンナからすれば、胸が張り裂けそうにもなるだろう。そうして事実泣いているブリアンナは酷く綺麗で、いつもキーランの視線を釘付けにする。
さめざめと泣くブリアンナは何を想っているのだろうか。いずれ迎えるはずだった得られなかった未来を想ってか、それとも業火に包まれたかつての住まいを思ってか。はたまたキーランには到底思いつかないそれ以外のことを思ってなのかもしれない。
キーランは瞑目し、この先を思った。今は子爵が勢いで王家を圧倒しているからいい。だが、相手取っているのは国だ。幾年と続いてきた国に対して子爵が勝てる可能性などほとんどないだろう。そうして子爵が負けたときがキーランとブリアンナの終わりだろう。そのとき、きっとキーランとブリアンナは王家に対する反逆罪で死刑となる。それが脅しに屈した結果だろうといくら生まれの血が高貴だろうと、そこは覆せまい。
ブリアンナがそこに思い至っているのかどうかは分からないが、漫然と不安も感じているのだろう。その顔は青ざめている。キーランはすぐ隣で涙するブリアンナを抱きしめて、何も心配することなどないのだ、と慰めたかった。罪を背負うのはブリアンナ一人ではない、自分がいるから大丈夫だ、と。勿論、何の意味もないものでしかないことは理解している。
だが、それがブリアンナに対しても、かつて愛した女性に対しても不誠実である証のように思えてキーランはどうしても躊躇いを覚えてしまう。他の女を愛していたことを知っているブリアンナに、自分が今ブリアンナを愛しているのだと口にすることは軽蔑されそうな気がしたのだ。
ブリアンナが今何を思っているのか、キーランには少しも分からない。キーランはそれをいつも歯がゆく感じていた。己とブリアンナの間には子供すらいるというのに、ブリアンナの心の内が読めたことなどただの一度もないのだ。特に、この屋敷に軟禁されてからの数年間は。
だが、そもそも読めたとして、キーランはブリアンナの心を読むだけの決意が出来ただろうか、と自問する。
――きっと、キーランにはそうすることはできないだろう。
ブリアンナは恐らくキーランのことを恨んでいる。部下として、ただの騎士として見てきた男に純潔を奪われ、ましてその男の子種すら孕まされたのだ。キーランもまたブリアンナと同じく強制された立場であるとはいえ、それでも蹂躙されたブリアンナの心に傷を残した人間の中に、真っ先にキーランの名が挙がっていることだろう。
それを突きつけられれば、今ブリアンナを想っているキーランは立ち直れない気がしたのだ。
「姫」
だから、キーランはブリアンナの名を呼ばない。せめてブリアンナの前だけでも、キーランは姫を守るために最悪な選択をした騎士、その立場を貫かなければならないから。
キーランのことが好きだが自分が侍女との仲を引き裂いてしまったと思ってキーランに想いを告げることが出来ないブリアンナと、ブリアンナに恨まれているだろうと思うし自分でもブリアンナのことを好きだと思うのを許せないキーラン。
本当だったら結ばれるはずのない二人が陰謀で結ばれる、的なコンセプトでした。
評価等ありがとうございました。