第84話
魔法省へ戻ったときには、昼を少し過ぎていた。
正午を越えた王都には、昼の喧騒が広がっているはずだった。だが、魔法省の一室には外の気配がほとんど届かない。厚い壁と閉ざされた窓が、街の音を遠ざけていた。
その静かな部屋の中央に置かれた机の上で、二枚の赤い布が並べられている。
一枚は昨夜、もう一枚は今日のものだ。
どちらも、鮮やかな赤い布地に黒い糸で刺繍が施されていた。円の内側を、三本の線が斜めに走っている。単純な図形のはずなのに、並べて見ると不気味な統一感があった。
「同じ意匠だな」
ウェントスが低く言った。
「少なくとも、同じ紋章を使ってる」
アギトは二枚の布を机の上で少しずつ動かし、刺繍の位置や線の角度を見比べた。布の端には、逃走の際に引きちぎられた跡が残っている。昨夜のものも、今日のものも、まるで持ち主が意図的に残したかのようだった。
サテラは布を手に取り、指先で刺繍の裏側を確かめる。糸の通り方を確認するたび、彼女の表情がわずかに険しくなっていった。
「縫い方も似ています。ただし、糸まで同じかは専門家の鑑定が必要です」
「組織なのかな」
ファウラが尋ねた。
その声には、期待よりも不安が滲んでいた。もし同じ組織の紋章なら、今回の騒ぎは二人の個人的な行動では済まない。
「可能性はあります」
サテラは布を机へ戻した。
「ただ、紋章を使っていることと、組織に所属していることは別です。紋章だけを真似て、個人が作ったとも考えられます」
アギトは二枚の布を見つめた。
どちらも、逃げた人間が残していった。
偶然、同じ紋章を身につけていた。
偶然、同じように逃げた。
偶然、同じような場所へ向かった。
そう考えるには、共通点が増えすぎている。
「それで、何が分かった?」
アルバートが尋ねた。
机の向こうに立つ彼は、布ではなくアギトの顔を見ていた。報告の内容だけでなく、アギトが何を感じ、何を見落としているのかまで確かめようとしているようだった。
アギトは、看板の近くにいた黒い服の人物、火事と叫んだ人物、そして祭りの片付け中に現れた男について説明した。二人とも赤い布を残し、壁を越えて逃げたことも付け加える。
「二人とも壁を使ったのか」
「はい」
「王都では、壁を越えるより道を走った方が速い場所も多い」
アルバートは地図へ目を向けた。
「逃走に慣れているのかもしれんな」
アギトはその言葉を聞きながら、二人が壁を越えたときの動きを思い出した。迷いがなかった。足場を探す時間も、周囲を確認する時間もほとんどない。まるで、逃げ込む場所を最初から決めていたようだった。
「逃げた方向は?」
「昨日はここ。今日はここです」
アギトが地図の二か所を指す。
アルバートが身を乗り出し、ウェントスとファウラも机の周囲へ集まった。地図の上には、王都の通りと建物が細かく描かれている。アギトは二人の逃走経路を記憶から辿り、指先をゆっくり動かした。
「どちらも、最終的にはこの辺りへ向かっています」
指が止まったのは、商業区と住宅区の境目だった。
人の流れが多い大通りから、細い路地が複雑に入り組む地域へ変わる場所。昼間なら人目に紛れやすく、夜になれば姿を隠す場所にも困らない。
「逃走経路から活動場所を絞るつもりですか」
サテラが尋ねた。
「できるなら」
アギトは地図から目を離さなかった。
「二人とも、そこへ向かう理由があったのかもしれない」
「地図を出します」
サテラは棚へ向かい、巻かれていた王都の地図を取り出した。紙を机の上へ広げると、端が浮かないよう四隅に文鎮を置く。
アギトは二人の逃走方向を確認し、同じ地域へ線を引いた。
「この辺りです」
線は商業区の外れから西へ伸び、古い倉庫街の近くで重なった。
「偶然の可能性もあります」
サテラが慎重に言う。
「分かってます」
アギトは頷いた。
「だから、調べたい」
「危険です」
サテラの声がわずかに強くなった。
「昨日の件を考えれば、相手もこちらの動きを察しているかもしれません。こちらが追っていると分かれば、証拠を消す可能性もあります」
「だからこそ、先に動きたい」
アギトが答えると、アルバートはしばらく地図を見つめた。
やがて、地図の西側へ指を伸ばす。
「なら、ここへ行け」
「古い倉庫街ですね」
サテラが地図を確認する。
「現在はほとんど使われていません。昼間は人の出入りがありますが、夜は無人に近い場所です」
「怪しい」
ファウラが呟いた。
その声は小さかったが、誰も否定しなかった。
「怪しい場所ほど警戒しろ」
アルバートはアギトたちを見た。
「調査は許可する。ただし、異変があれば即座に戻れ。相手を見つけても、単独で接触するな」
「分かりました」
アギトが答えた直後、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。
次の瞬間、扉が勢いよく開いた。
「失礼します!」
息を切らした職員が入ってくる。額には汗が浮かび、片手には何枚かの書類が握られていた。
「報告があります。昨夜の祭りについて、新たな目撃者が見つかりました」
「何を見た?」
アルバートが促す。
職員は呼吸を整えながら、書類へ目を落とした。
「火事という声が上がる少し前、舞台裏へ入る人物を見たそうです」
「黒い服か?」
「いいえ」
職員は首を横に振った。
「灰色の外套です」
その言葉を聞いた瞬間、アギトの脳裏に一人の男の姿が浮かんだ。
魔法省を出たあと、王都でこちらを見ていた人物。
人混みの向こうに立ち、こちらが振り返ったときには、すでに歩き出していた男。
灰色の外套を着ていた。
「外套の特徴は?」
アギトは職員へ詰め寄るように尋ねた。
「少し長めだったそうです。膝に近いところまであったと」
「顔は?」
「見ていません。舞台裏へ入ったところを見ただけだそうです」
「男か?」
「はい」
アギトは椅子を引き、立ち上がった。
「前に、灰色の外套を着た男を見ました。魔法省を出たあと、王都で俺たちを見ていた人物です」
「どこで見た?」
アルバートの表情が変わった。
それまでの冷静な確認ではない。新たな情報を、過去の記録と照合しようとする目だった。
「魔法省の近くです。その後、いつの間にか消えていました」
アギトはそのときの光景を思い出そうとした。
男の顔は、はっきりとは見えていない。
ただ、こちらを見ていたことだけは覚えている。
偶然、視線が合っただけかもしれない。
だが、今となっては、その偶然さえ疑わしかった。
灰色の外套だけでは、まだ証拠にならない。
王都には、同じ色の外套を着る者が何人もいるだろう。
それでも、別々だった出来事が、少しずつ一つの線に繋がり始めていた。
「俺たちを見ていた奴かもしれません」
アギトが言うと、部屋の空気がわずかに重くなった。
「サテラ」
「はい」
「魔法省への出入り記録を確認しろ」
「承知しました」
「灰色の外套を着た人物が、最近この周辺に出入りしていないかも調べてくれ」
「分かりました」
アルバートは再び地図へ目を戻した。
「倉庫街の調査は今日行う」
「今からですか?」
ウェントスが尋ねる。
「そうだ」
アルバートの返事に迷いはなかった。
「時間を置けば、相手に先を越される」
アギトは地図を見下ろした。
赤い布。
3本の線。
灰色の外套。
王都西側の古い倉庫街。
地図の上で、それらが一本の線に重なっていく。
まだ確証はない。
相手の正体も、目的も分からない。
それでも、もう祭りの騒ぎだけでは済まされなかった。
王都のどこかで、誰かがこちらの動きを見ている。
そして、その誰かが次に何をするのかを、アギトたちはまだ知らなかった。




