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魔法異端見聞録  作者: 叢雲 朔
第2章王都篇

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第84話

魔法省へ戻ったときには、昼を少し過ぎていた。

正午を越えた王都には、昼の喧騒が広がっているはずだった。だが、魔法省の一室には外の気配がほとんど届かない。厚い壁と閉ざされた窓が、街の音を遠ざけていた。

その静かな部屋の中央に置かれた机の上で、二枚の赤い布が並べられている。

一枚は昨夜、もう一枚は今日のものだ。

どちらも、鮮やかな赤い布地に黒い糸で刺繍が施されていた。円の内側を、三本の線が斜めに走っている。単純な図形のはずなのに、並べて見ると不気味な統一感があった。


「同じ意匠だな」


ウェントスが低く言った。


「少なくとも、同じ紋章を使ってる」


アギトは二枚の布を机の上で少しずつ動かし、刺繍の位置や線の角度を見比べた。布の端には、逃走の際に引きちぎられた跡が残っている。昨夜のものも、今日のものも、まるで持ち主が意図的に残したかのようだった。

サテラは布を手に取り、指先で刺繍の裏側を確かめる。糸の通り方を確認するたび、彼女の表情がわずかに険しくなっていった。


「縫い方も似ています。ただし、糸まで同じかは専門家の鑑定が必要です」


「組織なのかな」


ファウラが尋ねた。

その声には、期待よりも不安が滲んでいた。もし同じ組織の紋章なら、今回の騒ぎは二人の個人的な行動では済まない。


「可能性はあります」


サテラは布を机へ戻した。


「ただ、紋章を使っていることと、組織に所属していることは別です。紋章だけを真似て、個人が作ったとも考えられます」


アギトは二枚の布を見つめた。

どちらも、逃げた人間が残していった。

偶然、同じ紋章を身につけていた。

偶然、同じように逃げた。

偶然、同じような場所へ向かった。

そう考えるには、共通点が増えすぎている。


「それで、何が分かった?」


アルバートが尋ねた。

机の向こうに立つ彼は、布ではなくアギトの顔を見ていた。報告の内容だけでなく、アギトが何を感じ、何を見落としているのかまで確かめようとしているようだった。

アギトは、看板の近くにいた黒い服の人物、火事と叫んだ人物、そして祭りの片付け中に現れた男について説明した。二人とも赤い布を残し、壁を越えて逃げたことも付け加える。


「二人とも壁を使ったのか」


「はい」


「王都では、壁を越えるより道を走った方が速い場所も多い」


アルバートは地図へ目を向けた。


「逃走に慣れているのかもしれんな」


アギトはその言葉を聞きながら、二人が壁を越えたときの動きを思い出した。迷いがなかった。足場を探す時間も、周囲を確認する時間もほとんどない。まるで、逃げ込む場所を最初から決めていたようだった。


「逃げた方向は?」


「昨日はここ。今日はここです」


アギトが地図の二か所を指す。

アルバートが身を乗り出し、ウェントスとファウラも机の周囲へ集まった。地図の上には、王都の通りと建物が細かく描かれている。アギトは二人の逃走経路を記憶から辿り、指先をゆっくり動かした。


「どちらも、最終的にはこの辺りへ向かっています」


指が止まったのは、商業区と住宅区の境目だった。

人の流れが多い大通りから、細い路地が複雑に入り組む地域へ変わる場所。昼間なら人目に紛れやすく、夜になれば姿を隠す場所にも困らない。


「逃走経路から活動場所を絞るつもりですか」


サテラが尋ねた。


「できるなら」


アギトは地図から目を離さなかった。


「二人とも、そこへ向かう理由があったのかもしれない」


「地図を出します」


サテラは棚へ向かい、巻かれていた王都の地図を取り出した。紙を机の上へ広げると、端が浮かないよう四隅に文鎮を置く。

アギトは二人の逃走方向を確認し、同じ地域へ線を引いた。


「この辺りです」


線は商業区の外れから西へ伸び、古い倉庫街の近くで重なった。


「偶然の可能性もあります」


サテラが慎重に言う。


「分かってます」


アギトは頷いた。


「だから、調べたい」


「危険です」


サテラの声がわずかに強くなった。


「昨日の件を考えれば、相手もこちらの動きを察しているかもしれません。こちらが追っていると分かれば、証拠を消す可能性もあります」


「だからこそ、先に動きたい」


アギトが答えると、アルバートはしばらく地図を見つめた。

やがて、地図の西側へ指を伸ばす。


「なら、ここへ行け」


「古い倉庫街ですね」


サテラが地図を確認する。


「現在はほとんど使われていません。昼間は人の出入りがありますが、夜は無人に近い場所です」


「怪しい」


ファウラが呟いた。

その声は小さかったが、誰も否定しなかった。


「怪しい場所ほど警戒しろ」


アルバートはアギトたちを見た。


「調査は許可する。ただし、異変があれば即座に戻れ。相手を見つけても、単独で接触するな」


「分かりました」


アギトが答えた直後、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。

次の瞬間、扉が勢いよく開いた。


「失礼します!」


息を切らした職員が入ってくる。額には汗が浮かび、片手には何枚かの書類が握られていた。


「報告があります。昨夜の祭りについて、新たな目撃者が見つかりました」


「何を見た?」


アルバートが促す。

職員は呼吸を整えながら、書類へ目を落とした。


「火事という声が上がる少し前、舞台裏へ入る人物を見たそうです」


「黒い服か?」


「いいえ」


職員は首を横に振った。


「灰色の外套です」


その言葉を聞いた瞬間、アギトの脳裏に一人の男の姿が浮かんだ。

魔法省を出たあと、王都でこちらを見ていた人物。

人混みの向こうに立ち、こちらが振り返ったときには、すでに歩き出していた男。

灰色の外套を着ていた。


「外套の特徴は?」


アギトは職員へ詰め寄るように尋ねた。


「少し長めだったそうです。膝に近いところまであったと」


「顔は?」


「見ていません。舞台裏へ入ったところを見ただけだそうです」


「男か?」


「はい」


アギトは椅子を引き、立ち上がった。


「前に、灰色の外套を着た男を見ました。魔法省を出たあと、王都で俺たちを見ていた人物です」


「どこで見た?」


アルバートの表情が変わった。

それまでの冷静な確認ではない。新たな情報を、過去の記録と照合しようとする目だった。


「魔法省の近くです。その後、いつの間にか消えていました」


アギトはそのときの光景を思い出そうとした。

男の顔は、はっきりとは見えていない。

ただ、こちらを見ていたことだけは覚えている。

偶然、視線が合っただけかもしれない。

だが、今となっては、その偶然さえ疑わしかった。

灰色の外套だけでは、まだ証拠にならない。

王都には、同じ色の外套を着る者が何人もいるだろう。

それでも、別々だった出来事が、少しずつ一つの線に繋がり始めていた。


「俺たちを見ていた奴かもしれません」


アギトが言うと、部屋の空気がわずかに重くなった。


「サテラ」


「はい」


「魔法省への出入り記録を確認しろ」


「承知しました」


「灰色の外套を着た人物が、最近この周辺に出入りしていないかも調べてくれ」


「分かりました」


アルバートは再び地図へ目を戻した。


「倉庫街の調査は今日行う」


「今からですか?」


ウェントスが尋ねる。


「そうだ」


アルバートの返事に迷いはなかった。


「時間を置けば、相手に先を越される」


アギトは地図を見下ろした。

赤い布。

3本の線。

灰色の外套。

王都西側の古い倉庫街。

地図の上で、それらが一本の線に重なっていく。

まだ確証はない。

相手の正体も、目的も分からない。

それでも、もう祭りの騒ぎだけでは済まされなかった。

王都のどこかで、誰かがこちらの動きを見ている。

そして、その誰かが次に何をするのかを、アギトたちはまだ知らなかった。

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