第83話
翌朝。
王都には、前夜の祭りが嘘だったかのような静けさが戻っていた。
昨夜まで通りを埋め尽くしていた人々の姿はほとんどなく、祭りの熱気だけが、冷めきらない空気の中に取り残されている。
屋台の並んでいた通りには、まだ片付けの途中らしい木箱が積まれていた。布を張っていた柱は取り外され、飾り付けに使われていた色とりどりの旗も、ところどころが破れたまま地面に落ちている。
地面には紙片や食べ物の包み、踏み潰された果物、割れた木皿などが散らばっていた。
昨夜、あれだけ多くの人間が集まっていたことを示す痕跡だけが、通りのあちこちに残っている。
しかし、そこを歩く人間は少ない。
祭りの後片付けをする者。
夜通し働いた警備兵。
そして、昨夜の騒ぎを知らないか、あるいは知っていても関わりたくないと考えている者たち。
誰もが、昨日の出来事を口にしようとはしなかった。
アギトは通りの端に立ち、周囲を見回した。
朝の光はまだ弱く、建物の影が長く伸びている。石畳には夜露が残り、歩くたびに靴底が小さく濡れた。
「……思ったより、普通だな」
アギトが呟く。
昨夜、あれほどの騒ぎが起きた場所とは思えない。
看板が倒れ、人々が逃げ惑い、火事だという叫び声が上がった。
その混乱の中で、黒い服の男が姿を消した。
さらに、アギトたちが拾った赤い布には、見たことのない紋章が刻まれていた。
それなのに、朝になれば王都は何事もなかったかのように動き始めている。
「祭りが終わったんだから、静かになるのは当然でしょう」
アクアが答えた。
彼女は腕を組みながら、周囲の様子を観察している。
「人は騒ぎが終われば、すぐ日常へ戻るものよ。昨日のことを引きずっているのは、私たちくらいじゃない?」
「それにしても、人が少ない」
アギトは通りの先を見た。
普段なら朝市へ向かう人々や、仕事へ急ぐ者たちで、もう少し賑わっている時間だ。
「昨日の反動じゃない?」
ファウラが言った。
「夜遅くまで祭りを楽しんでいた人たちが、まだ眠っているのかも」
「祭りを楽しんでいた、ね」
ウェントスが苦笑する。
「俺たちは、楽しむどころじゃなかったけどな」
「最初の方は楽しんでいたでしょう?」
ファウラがからかうように言う。
「屋台の串焼きを三本も食べていたじゃない」
「あれは腹が減っていただけだ」
「それを世間では、祭りを楽しんだと言うのよ」
アギトは二人のやり取りを聞きながら、通りの反対側へ視線を向けた。
昨夜まで屋台を出していた店主らしき男が、木箱を荷車へ積み込んでいる。
男は四十代ほどに見えた。日に焼けた顔に無精髭を生やし、祭りの間ずっと働いていたのか、目の下には濃い隈がある。
木箱を持ち上げるたびに、腰を押さえて小さく息を吐いていた。
アギトは男へ近づいた。
「すみません」
「……何だ?」
男が振り返る。
手にしていた木箱を荷車へ置き、アギトたちを見た。
「昨日、この辺で店を出していましたよね?」
「ああ。見ていたなら分かるだろ」
男は警戒するように、アギトたちの服装を見た。
冒険者だと分かったのか、わずかに眉をひそめる。
「少し聞きたいことがあります」
「警備兵じゃなく、冒険者が聞き込みか。厄介な話だな」
「厄介かどうかは、あなたの答え次第です」
アギトが言うと、男は露骨に嫌そうな顔をした。
「何を聞きたい?」
「昨日、看板が倒れた時のことを覚えていますか?」
男の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、アギトは見逃さなかった。
木箱を持ち上げたまま、男の指が固まっている。
視線も、アギトからわずかに逸れていた。
「ああ……あれか」
男はようやく木箱を荷車へ置いた。
「何か知っていますね」
「知っているも何も、看板が倒れただけだろ」
「固定具が外れていました。古くなって壊れたようには見えなかった」
「俺は屋台の準備で手いっぱいだった。看板の面倒まで見ていない」
「祭りの前に、誰かが触っていたのは?」
「知らん」
「倒れる直前、近くにいた人間は?」
「知らんと言ってるだろ」
男は早口で答えた。
しかし、言葉とは裏腹に、視線は何度も看板が立っていた場所へ向かっている。
そこには、倒れた看板の残骸がまだ残されていた。
木製の枠は割れ、金属製の固定具は外れている。
昨夜、アギトが確認した限りでは、単に古くなって壊れたという状態ではなかった。
固定具は、力を加えられたように歪んでいた。
「本当に、何も見ていないんですか?」
アギトが尋ねる。
男は答えず、通りの向こうへ視線を走らせた。
片付けをしている者。
近くの建物の窓。
誰かに聞かれていないか、確かめているような仕草だった。
やがて、声を落とす。
「……あんたら、何を調べてる?」
「昨日の騒ぎです」
「なら、手を引け」
ファウラが眉を上げた。
「ずいぶん親切ですね。何も知らない人にしては」
「忠告してるだけだ」
「誰に?」
「誰にでもだ。余計なことに首を突っ込むなってな」
「余計なことかどうかは、こちらで決めます」
ファウラが一歩近づく。
男は顔をしかめた。
「俺は何も知らん」
「何も知らない人は、そんなふうに脅すような忠告をしないと思いますけど」
「脅しているんじゃない。死にたくなければ黙れと言っている」
男の声が低くなる。
ファウラの表情から、軽い笑みが消えた。
アギトは男の手元を見た。
指先に細かな傷がある。
木箱を扱ってできた傷にも見えるが、右手の親指の付け根には、細い赤い線が残っていた。
布か、細い紐を強く引っ張ったような傷だった。
「看板が倒れる前、近くに黒い服の男はいませんでしたか?」
男の表情がわずかに変わった。
今度は、はっきりと分かる反応だった。
男はアギトを見た。
その目には、驚きと警戒が混じっている。
「……何のことだ?」
「黒い服を着た男です。看板の近くにいたという証言があります」
「俺は見てない」
「まだ、見たかどうかは聞いていません」
アギトが静かに返す。
男は口を閉ざした。
ウェントスが腕を組み、わずかに身を乗り出す。
「今の答え、少し早すぎないか?」
「何がだ」
「見ていないなら、まず『知らない』でいい。なのに、あんたは『見ていない』と言い切った」
「言葉尻を捕まえて何になる」
「尻尾が出るなら、十分意味がある」
男の目が鋭くなる。
「冒険者風情が、偉そうに」
「偉そうに見えるなら、図星なんだろ」
ウェントスが笑みを消した。
男は舌打ちし、荷車へ向き直った。
「もう話は終わりだ」
「まだです」
アギトが呼び止める。
男は振り返らなかった。
「火事だと叫んだ人間について、何か覚えていませんか?」
その瞬間。
男の動きが止まった。
今度は、先ほどよりも長かった。
荷車の上に置かれた木箱へ伸ばした手が、宙で止まっている。
「……声しか聞いてない」
男は低い声で答えた。
「男でしたか?」
「ああ」
「若い?」
「分からん」
「どこから聞こえた?」
「向こうだ」
男が指差した。
祭りの中央から少し離れた路地。
昨夜、アギトたちが黒い服の男を追いかけた方向とは反対側だった。
「顔は?」
「見てない」
「服装は?」
「知らん」
「声を聞いた後、何をしました?」
「逃げたに決まってるだろ。火事だと思ったんだからな」
「火の気配は?」
「そんなものを確かめている暇があったか!」
男は声を荒らげた。
近くで片付けをしていた人間がこちらを振り返る。
男は周囲の視線に気づくと、すぐに声を落とした。
「もういいだろ。俺は忙しい」
「火事だと聞いて逃げたのに、声の主がどこにいたかは覚えているんですね」
アギトが言った。
男の顔が強張る。
「指差しただけだ。何の証拠にもならん」
「証拠とは言っていません」
「なら、これ以上聞くな」
「あなたが何を知っているのか、確かめているだけです」
「俺は何も知らない!」
男は吐き捨てるように言った。
アギトは男を見つめた。
何かを隠している。
だが、今ここで無理に追及しても、男は口を閉ざすだけだろう。
「分かりました。ありがとうございました」
アギトは礼を言った。
男は返事をしなかった。
ただ、アギトたちが離れるまで、こちらを見ていた。
◇
「どう思う?」
少し離れた場所まで移動してから、ウェントスが尋ねた。
「何か知ってる」
アギトは即答した。
「俺もそう思う」
テラが短く言った。
「でも、話したくないみたいだった」
「話したくないんじゃない。話したら困るのよ」
アクアが言う。
「誰かに脅されているか、あるいは自分も関わっているか」
「犯人だと思う?」
ファウラが振り返った。
「そこまでは分からない」
アギトは首を横に振った。
「何かを見たのかもしれない。あるいは、何かを手伝わされたのかもしれない」
「看板を倒すのを?」
「それも含めて、まだ何とも言えない」
アギトは、先ほどの男の反応を思い返した。
看板の話をした時。
黒い服の男について尋ねた時。
そして、火事という声について聞いた時。
男は三度、明らかに動揺した。
特に、火事という言葉に反応した。
つまり、あの叫び声は、男にとって単なる騒ぎの一部ではない。
何か意味がある。
「次の証言を探す」
アギトが言った。
「一人の怯えた証言だけで決めつけるのは危険だ」
五人は、祭りの舞台があった方へ向かった。
舞台はすでに解体が始まっていた。
木製の床板が外され、柱が一本ずつ運び出されている。舞台の背後には、祭りの道具を保管していたらしい布張りの倉庫があり、そこにも数人の作業員が出入りしていた。
昨夜、看板が倒れたのは舞台から少し離れた場所だった。
しかし、舞台周辺には多くの人間が集まっていた。
演目を見ようとした観客。
出演者。
楽器を運ぶ者。
警備兵。
そして、祭りの運営を手伝う臨時の作業員。
証言を集めるなら、ここが一番いい。
「昨日のこと?」
次に声をかけたのは、祭りの舞台近くにいたという女性だった。
彼女は小さな子供を連れている。
子供は母親の服の裾を握りながら、アギトたちを不安そうに見上げていた。
「ええ。看板が倒れた時のことを聞きたいんです」
「看板……」
女性は少し考える。
昨夜の記憶を探るように、視線を空へ向けた。
「ああ、あれね。びっくりしたわ」
「倒れる前に、何か見ませんでしたか?」
「誰かが看板のところにいたような気はするけど……」
「顔は?」
「分からない。人が多かったから」
「服は?」
「……黒かったと思う」
アギトは目を細めた。
「黒い服?」
「ええ。でも、昨日は黒い服の人なんていくらでもいたでしょう?」
「その人は、看板に触れていましたか?」
「そこまでは見てないわ」
「では、何をしていた?」
女性は目を閉じ、記憶を辿るように考えた。
「看板の近くで立ち止まっていた。それから……しゃがんだように見えた気がする」
「しゃがんだ?」
「ええ。でも、子供が前にいたから、はっきりとは見えなかった」
女性の子供が、母親の服を引っ張った。
「お母さん、あの時怖かったよね」
「そうね」
女性は子供の頭を撫でた。
「急に大きな音がして、みんなが走り出したから」
「看板が倒れた音ですか?」
「たぶん。木が割れるような音だったわ」
「その直後、火事という声を聞きましたか?」
女性の顔が曇った。
「ええ。聞いたわ」
「どこから?」
「……舞台の方だったと思う」
アギトは、先ほど屋台の男から聞いた証言を思い出した。
屋台の男は、火事という声は舞台から離れた路地の方から聞こえたと言っていた。
証言が食い違っている。
「舞台の方、というのは?」
「人が一斉に動いたから、正確には分からないけど……声が、後ろから聞こえたの」
「後ろ?」
「ええ。私たちが舞台を見ていた時、背後から誰かが叫んだのよ」
女性は自分の背後を振り返った。
「火事だ、逃げろって」
「声は男でしたか?」
「男だったと思う」
「若い声?」
「分からないわ。大きな声だったから」
「その人の姿は見ましたか?」
「いいえ。振り返った時には、もう人が動き始めていたもの」
ウェントスとアクアが顔を見合わせる。
「看板の近くにいた人と、火事と叫んだ人は、同じ人物だと思いますか?」
アギトが尋ねる。
女性は困ったように眉を寄せた。
「分からないわ。ただ、看板の近くにいた人は、火事という声が聞こえた後には、もう見えなかった」
「どこへ向かっていましたか?」
「人の流れに紛れたんだと思う。でも……舞台の方へ戻っていたようにも見えたわ」
「黒い服の人物を、もう一度見たということですか?」
「いいえ。見えたのは背中だけ。だから、同じ人かどうかは……」
女性は言葉を濁した。
アギトは黙り込んだ。
看板を細工した人物。
火事と叫んだ人物。
黒い服の男。
同じ人物とは限らない。
むしろ、別々に動いていたと考えた方が自然なのかもしれない。
「……二人いる?」
アギトが呟いた。
「何?」
ファウラが聞き返す。
「いや」
まだ断定できない。
看板を細工した人物がいた。
その直後に、火事と叫んだ人物がいた。
さらに、その混乱の中で黒い服の男が動いていた。
もし三人が別々に動いていたのなら、昨夜の騒ぎは偶然ではない。
誰かが役割を分担していたことになる。
アギトは頭の中で昨夜の出来事を組み直した。
看板が倒れる。
人が騒ぐ。
火事という声が上がる。
人の流れが変わる。
警備兵が人々を誘導しようとする。
その混乱の中で、黒い服の男が何かをしていた。
もし、これが全部一つの計画だったとしたら。
あの騒ぎは目的ではない。
何かを隠すためのものだったのではないか。
あるいは、誰かを別の場所へ誘導するためのものだったのかもしれない。
「アギト」
ウェントスの声で我に返る。
「どうした?」
「向こう」
彼が指差した先。
祭りの跡を片付けている男が、こちらを見ていた。
男は舞台の脇に積まれた木箱を運んでいたが、作業の手を止め、こちらをじっと見ている。
目が合った瞬間、男は視線を逸らした。
「……知ってる顔?」
「いや」
アギトは首を振った。
「でも、向こうは俺たちを知っているかもしれない」
「なら、聞いてみましょう」
アクアが言った。
「逃げる前にね」
五人で近づく。
男は露骨にこちらを避けるように動いた。
木箱を抱え、舞台の裏側へ回ろうとする。
「すみません」
アギトが声をかける。
「昨日の祭りについて少し――」
「知らない」
「まだ何も聞いていませんが」
「知らないものは知らない」
男は荷物を抱え直す。
その袖から、何かが覗いた。
赤い布。
アギトの視線がそこへ止まる。
布は細く裂けた一片だった。
祭りの飾りに使われていた布にも見える。
だが、赤の色合いが違った。
昨夜、黒い服の男から落ちた布と同じ、暗い赤色だった。
男もアギトの視線に気づいたらしい。
すぐに袖を下ろした。
「……その布を見せてください」
「ただの布だ」
「ただの布なら、隠す必要はないでしょう」
「俺の物だ。あんたに見せる理由はない」
「昨夜、逃げた男が身につけていたものと似ています」
男の足が止まった。
ほんのわずかに、肩が揺れる。
「何の話だ?」
「その布について聞いています」
「知らない」
「まだ、あなたが何を知っているかは聞いていません」
アギトが言うと、男はゆっくり振り返った。
顔には苛立ちが浮かんでいる。
しかし、その奥には明らかな動揺があった。
「見せろとは言っていない。誰がそんなことを――」
「では、なぜ『知らない』と答えたんですか?」
アクアが遮った。
男の口が止まる。
「布の出どころを聞いただけよ。あなたが何も知らないなら、そう答えればいい」
「……冒険者が、ずいぶん細かいことを聞くな」
「細かいことを隠す人がいるから、細かく聞いているの」
アクアの声は穏やかだった。
だからこそ、男の顔から血の気が引いた。
テラが一歩前へ出る。
「その布を見せろ」
「断る」
「なら、荷物を見せてもらう」
「嫌だ」
「なぜだ?」
「俺の仕事道具だ」
「仕事道具なら、見られて困るものはないはずだ」
テラの低い声に、男は一歩後ずさった。
アギトは男の足元に置かれた荷物へ視線を向けた。
木箱の中には、祭りの飾りや道具が入っているようだった。
しかし、一番下に黒い布が見える。
祭りの道具にしては、妙に厚い布だった。
「何を運んでいたんですか?」
「片付けの道具だ」
「誰に頼まれた?」
「祭りの運営だ」
「担当者の名前は?」
「知らない」
「雇い主の名前も知らないんですか?」
男は答えなかった。
アギトは、男の沈黙を待った。
急かせば、また逃げる。
だが、黙っていれば、男の方から余計な反応を見せる。
「あなたは、祭りの関係者ですか?」
「臨時で雇われただけだ」
「いつから?」
「昨日から」
「誰に紹介された?」
「知らない」
「宿は?」
男の目が揺れた。
「……何だ、それが」
「働く場所を紹介されて、雇い主も知らない。宿だけは自分で見つけたんですか?」
「関係ないだろ」
「関係があるかどうかを決めるのは、あなたではありません」
アギトが言うと、男は唇を噛んだ。
その瞬間、アクアが荷物へ視線を向けた。
「その箱の中に、紋章のついた布が入っているの?」
男の顔が強張った。
「……何を言っている」
「入っていないなら、否定すればいいでしょう」
「知らない!」
突然、男が声を荒らげた。
周囲の人間が振り返る。
舞台を解体していた作業員たちも、手を止めてこちらを見た。
男はその視線に気づくと、荷物を地面へ置き、アギトたちを睨んだ。
「俺は何もしてない!」
「誰も、あなたが何かしたとは言っていません」
アクアが冷静に言う。
「なら、放っておけ!」
「放っておけないから聞いているのよ」
「俺は関係ない!」
「関係ない人間は、紋章の話をしただけでそんなに怯えないでしょう」
アクアの言葉に、男の顔が強張った。
男は一歩後ずさる。
アギトは、男の逃げ道を塞ぐように立った。
「落ち着いてください。あなたを捕まえるつもりはありません」
「嘘だ!」
「なら、逃げる必要もないはずです」
「近づくな!」
男は地面に置いた荷物を残したまま、突然走り出した。
「待て!」
アギトが追う。
男は舞台の裏を抜け、片付けをしている人々の間へ飛び込んだ。
木材が倒れ、誰かの怒鳴り声が上がる。
アギトは人を避けながら走った。
男の背中が見える。
赤い布が、袖口からわずかに覗いていた。
「止まれ!」
アギトが叫ぶ。
男は振り返らない。
通りへ出る。
朝の人通りは少なかったが、それでも何人もの人間が歩いていた。
男は人混みの中へ飛び込んだ。
肩がぶつかる。
人が避ける。
荷物を抱えた女性が悲鳴を上げる。
視界が何度も遮られる。
「アギト、右!」
ウェントスの声。
男が右手の路地へ入った。
アギトたちも続く。
路地は狭く、両側の建物から張り出した木製の棚が道をさらに狭めていた。
男の足音が前方から聞こえる。
アギトは速度を上げた。
だが。
路地の先には、誰もいなかった。
「……消えた?」
ファウラが息を切らしながら呟く。
アギトは周囲を見る。
一本道。
左右には建物。
正面は行き止まり。
逃げ込める横道はない。
地面には、男が落としたらしい木片と、泥の跡が残っている。
しかし、男の姿はどこにもなかった。
「上だ!」
テラが叫んだ。
建物の壁。
そこに、靴跡が残っていた。
壁を登った跡だ。
壁の途中には、古い排水管が通っている。
男はそれを足場にして、屋根へ上がったらしい。
「またかよ……」
アギトは壁を見上げた。
昨日と同じだ。
逃げた男も、壁を越えた。
そして今日の男も。
偶然なのか。
それとも、王都の裏道に詳しい者たちが、同じ逃走経路を使っているのか。
「追える?」
ファウラが尋ねる。
「屋根へ上がれば、まだ追えるかもしれない」
テラが壁へ近づく。
しかし、アクアが首を横に振った。
「やめた方がいいわ」
「なぜ?」
「相手は、私たちをここへ誘い込んだ可能性がある」
アギトは黙って壁を見た。
確かに、逃げ方が不自然だった。
男は人混みへ逃げ込み、わざと見える位置を走り、路地へ入った。
そして、一本道の行き止まりへ消えた。
最初から壁を越えるつもりだったのなら、もっと早く姿を隠すこともできたはずだ。
こちらを別の場所へ誘導するために、あえて追わせたのかもしれない。
「でも、逃げたのは事実だ」
ウェントスが言った。
「なら、何か残しているはずだ」
アギトは路地の地面を見た。
泥の跡。
木片。
壁際に落ちた小さな布切れ。
アギトはそれを拾った。
赤い。
黒い糸が一本だけ残っている。
昨夜拾った布と、同じ色だった。
「……やっぱり繋がってる」
アギトが呟く。
しかし、その瞬間。
「アギト」
アクアの声がした。
「何?」
「それ、裏を見て」
アギトは布を裏返した。
縫い目の近くに、黒い刺繍がわずかに残っていた。
円。
三本の線。
昨日の紋章と同じだった。
アギトは息を止めた。
昨夜の男。
今日の男。
そして、登録されていない紋章。
少なくとも一つだけ、確かなことがある。
この紋章を使っている人間は――。
王都の中に、まだいる。
アギトは布を握りしめた。
「戻ろう」
「え?」
ファウラが聞き返す。
「もう少し調べないの?」
「調べる。でも、ここで追いかけてもまた逃げられる」
アギトは壁の上を見た。
男が越えた先には、別の通りがあるはずだ。そこを探せば、何か手がかりが残っているかもしれない。
だが、今のままでは足りない。
相手は、こちらが動くより先に逃げ道を用意している。
ならば、次は逃げ道ではなく、逃げる前の場所を探すべきだった。
「まず、昨日の祭りの記録を確認する」
ウェントスが頷く。
「警備の記録か?」
「ああ。誰がどこにいたのか、少しでも分かればいい」
「でも、警備の連中が素直に見せてくれるかな」
テラが腕を組む。
「見せてもらう」
アギトは即答した。
「必要なら、昨日の騒ぎを止めた功績を使う」
「そんなもの、功績って言えるの?」
アクアが呆れたように言う。
「言えるだろ。少なくとも、何もしてない奴よりは」
「自分で言う?」
ファウラが小さく笑った。
そのときだった。
通りの向こうから、鎧を着た男がこちらへ歩いてくる。
王都の警備兵だった。
男は三十代半ばほどで、肩には王都警備隊の紋章が刻まれている。腰には短剣を下げ、片手には巻物の束を抱えていた。
歩き方には疲れが見える。
おそらく、昨夜からほとんど眠っていないのだろう。
男はアギトたちの前で足を止めると、周囲を確認するように視線を巡らせた。
「お前たちが、昨日の騒ぎに関わった冒険者か?」
「そうですけど」
アギトが答える。
「少し話がある」
「何か?」
警備兵は声を落とした。
「昨日の夜、祭りの後に、警備詰所へ妙な届け出があった」
「届け出?」
「紋章のついた布を拾ったという話だ」
アギトの手の中にある布へ、警備兵の視線が落ちる。
警備兵は、布そのものには触れなかった。
まるで、触れることさえ避けているようだった。
「それと同じものかもしれない」
アギトは布を差し出した。
警備兵は受け取らず、顔をしかめた。
「……それをどこで?」
「さっき、逃げた男が落としていった」
「逃げた男?」
「昨日の騒ぎに関係していると思います」
警備兵はしばらく黙っていた。
やがて、周囲に聞こえないよう、さらに声を落とす。
「その布を拾った者は、今朝から行方が分からない」
「え?」
ファウラが声を漏らした。
「誰が拾ったんですか?」
「祭りの片付けをしていた警備補助の男だ。詰所へ届けると言っていた」
「その人が、いなくなった?」
「ああ」
警備兵は頷いた。
「最後に目撃されたのは、今朝、詰所へ向かう途中だ」
「どこで?」
「南通りへ向かう角だ。詰所はその先にある」
アギトは、先ほどの男が走り去った方向を振り返った。
男が逃げた路地は、南通りへ続いている。
偶然ではない。
布を拾った男。
布を身につけていた男。
そして、紋章を使う者たち。
すべてが、少しずつ同じ場所へ向かっている。
「その補助の人の名前は?」
「ローディン」
警備兵は答えた。
「片付けの仕事をしていた。祭りの最中も、舞台の近くにいたはずだ」
「舞台の近く……」
アギトは女性の証言を思い出した。
看板の近くにいた黒い服の人物。
舞台の近くにいた片付けの男。
そして、今朝逃げた男。
もしかすると、あの男は最初から片付け役として祭りの中に入り込んでいたのかもしれない。
「ローディンは、どんな人物ですか?」
「無口な男だ。王都の人間ではない。祭りの時期だけ、臨時で雇われていた」
「出身は?」
「そこまでは知らない」
「雇ったのは誰ですか?」
「祭りの運営組合だ。毎年、臨時の作業員を何人か雇っている」
「身元の確認は?」
警備兵は苦い顔をした。
「簡単な確認だけだ。名前と滞在先を聞く程度だった」
「つまり、偽名でも雇われる可能性がある?」
「……否定はできない」
警備兵は周囲を見た。
「だから、今回の件を大きくしたくない者もいる」
「祭りの運営側が?」
「祭りの最中に、身元の分からない人間が入り込んでいたとなれば、責任問題になる」
アギトは黙った。
昨夜の騒ぎが、単なる犯罪者の行動ではない可能性が高まっている。
祭りの運営。
警備。
臨時作業員。
誰かが意図的に入り込むには、十分な隙があった。
「住んでいた場所は?」
アギトが尋ねた。
警備兵は少し考えた。
「祭りの関係者用に借りた宿がある。確か、南区の――」
「宿の名前は?」
「灰鐘亭だ」
アギトは仲間たちを見る。
「行こう」
「今から?」
アクアが尋ねる。
「ああ。ローディンがまだ戻っていないなら、部屋に何か残っているかもしれない」
「でも、相手が先に戻っていたら?」
ファウラが不安そうに言った。
「その可能性もある」
アギトは布を見た。
「だから急ぐ」
警備兵が手を上げた。
「待て。勝手に部屋を調べることはできない」
「なら、あなたも来てください」
「俺が?」
「行方不明者の確認です。警備兵なら問題ないでしょう」
「宿の主人が拒んだら?」
「その時は、正式な捜索として頼みます」
警備兵は渋い顔をした。
「俺は、まだ正式な捜索命令を受けていない」
「では、今から詰所へ戻って命令を取るんですか?」
「……」
「その間に、部屋の中身が消されるかもしれません」
警備兵は黙り込んだ。
アギトの言葉が正しいと分かっているのだろう。
やがて、警備兵はアギトの手にある布を見ると、頷いた。
「分かった。ただし、何か見つけても勝手に持ち出すな」
「分かっています」
「証拠に触れる時は、俺に確認しろ」
「それも分かっています」
アギトは布を懐へしまった。
その瞬間。
通りの反対側で、誰かがこちらを見ていることに気づいた。
人混みの中。
灰色の外套を着た人物だった。
顔は見えない。
外套のフードを深くかぶり、口元まで布で隠している。
だが、視線だけははっきりとアギトへ向けられていた。
その人物は、通りの端に立ったまま動かない。
周囲の人間がその横を通り過ぎても、まるで存在しないかのように誰も気に留めていなかった。
「……アギト?」
アクアが声をかける。
アギトが一歩踏み出した瞬間、灰色の外套の人物は人の流れへ紛れ込んだ。
「待て!」
アギトが走り出す。
しかし、今度は追わなかった。
追えば、また同じように逃げられる。
それに。
灰色の外套の人物が消えた場所には、黒い糸が一本、落ちていた。
アギトはそれを拾わず、じっと見つめた。
糸の先には、小さな金属片が結びつけられている。
円と三本の線。
紋章の一部だった。
「……見られてた」
ウェントスが呟く。
「ああ」
アギトは金属片を拾い上げた。
金属片は冷たく、表面には細かな傷が刻まれている。
裏側には、何か文字のようなものが刻まれていた。
だが、傷が多く、今の状態では読み取れない。
「これ、わざと落としたのかしら」
アクアが言った。
「それとも、外套の人物が落とした?」
「どちらにしても、俺たちに見つけさせるつもりだった可能性がある」
アギトは金属片を指先で回した。
「相手は、俺たちが紋章を追っていることを知っている」
「なら、これは罠かもしれない」
テラが言った。
「罠でも、手がかりにはなる」
「危険な考え方だな」
「危険じゃない手がかりなんて、今のところ一つもない」
アギトは金属片を布で包み、懐へしまった。
灰鐘亭。
行方不明になったローディン。
そして、こちらを監視していた灰色の外套。
調査は、ただ証言を集める段階を越えた。
相手もまた、こちらを見ている。
こちらが誰に話を聞き、どこへ向かい、何を見つけたのか。
すべてを把握している可能性がある。
次に消えるのは、証拠か。
それとも――。
アギトたちは、警備兵とともに南区へ向かった。
南区へ続く道は、王都の中心部よりも狭く、建物の間隔も近かった。
朝の光が届かない場所には、まだ夜の冷たさが残っている。
通りの両側には、古い商店や小さな工房が並んでいた。
祭りの後片付けをする人々の姿も少なく、時折、閉じた窓の向こうから物音が聞こえるだけだった。
アギトは歩きながら、何度も背後を振り返った。
灰色の外套の人物は、もう見えない。
しかし、見られている感覚だけは消えなかった。
「アギト」
ウェントスが小声で呼ぶ。
「何だ?」
「後ろを気にしすぎだ」
「分かってる」
「なら、前を見ろ」
ウェントスは南区の先を指差した。
古びた鐘楼が見える。
その下に、灰色の壁を持つ宿が建っていた。
入口の上には、錆びた看板が掛かっている。
そこには、鐘の絵とともに、かすれた文字でこう書かれていた。
――灰鐘亭。
アギトは足を止めた。
宿の二階。
閉じられた窓の一つに、赤い布が結びつけられている。
風に揺れる布の端には、黒い糸が見えた。
そして、その布には。
円と三本の線が、はっきりと刺繍されていた。




