第82話
王都収穫祭・前夜祭から戻った頃には、夜はすっかり深まっていた。
魔法省の廊下には、昼間とは別の静けさが降りている。磨かれた床に靴音が響くたび、それは長く伸びてから、暗がりの奥へ吸い込まれていった。
祭りの喧騒は、もう遠い出来事のようだった。
けれど、アギトの耳には、あの声がまだこびりついている。
『火事だ!』
叫び声が上がった瞬間、広場の空気は一変した。
人々は一斉に振り返り、互いの肩をぶつけながら、声のした方向から離れようとした。誰かが子供の手を引き、誰かが荷物を抱え直す。恐怖は目に見えないまま、人の波だけを押し動かしていった。
だが、煙はなかった。
炎もなかった。
夜気に焦げた匂いが混じっていたわけでもない。
それでも、人の流れは確かに変えられた。
「……偶然にしては、妙だよな」
隣を歩くウェントスが、低い声で言った。
彼は歩みを緩め、誰もいない廊下の先へ目を向ける。まるで、そこにまだ祭りの広場が続いているかのようだった。
「あれだけ人がいたんだ。火事なら、煙か炎を見た奴が一人くらいいるはずだ」
「それに、あの看板」
アクアが続けた。
彼女は腕を組み、考えを整理するように視線を落としている。
「固定具が外れていた。あれが倒れれば、通路は自然に塞がる。誰かが人の流れを変えるために細工した可能性がある」
「黒い服の男もいた」
テラが短く付け加えた。
その声はいつも通り落ち着いていたが、握られた拳には力がこもっている。
ファウラは不安そうに身を縮めた。祭りの明かりの下で見た男の姿が、まだ脳裏から離れていないのだろう。肩を抱くようにして、自分の腕をさすっている。
「……やっぱり、何かあったのかな」
「まだ決めつけるな」
アギトはそう言いながらも、自分の言葉に確信を持てなかった。
手の中にある赤い布へ目を落とす。
布は男が逃げた際、壁の突起に引っ掛かって破れたものだ。指先でつまむと、織り目の細かな糸がわずかに揺れた。上質とは言えないが、粗末でもない。何度も使い込まれた布地には、祭りの夜気と人混みの匂いが染みついている。
その端には、黒い刺繍が施されていた。
円の中を、三本の線が走っている。
単純な意匠だった。だが、線の重なり方には妙な規則性があり、偶然描かれた印には見えない。
王家の紋章ではない。
騎士団や魔法士団のものでもない。
少なくとも、アギトには見覚えがなかった。
「サテラさんに見てもらおう」
アギトが言うと、仲間たちは黙って頷いた。
魔法省へ戻ると、ほとんどの部屋はすでに消灯していた。廊下の壁に取り付けられた魔導灯だけが、青白い光を落としている。その光は弱く、柱の陰や曲がり角には濃い影が溜まっていた。
その中で、ひとつだけ明かりのついている部屋があった。
扉の隙間から、暖色の光が細く漏れている。
アギトは扉を二度叩いた。
「どうぞ」
返事を聞いてから、扉を開ける。
中にいたサテラが顔を上げた。机の上には書類が積まれ、傍らでは小さな魔導灯が静かに明滅している。彼女は疲れを見せながらも、姿勢を崩していなかった。
「お帰りなさいませ。随分遅かったですね」
「祭りで拾ったものを確認してほしい」
アギトは机の前まで進み、赤い布と、看板から外れた金属製の固定具を置いた。
金属片が机に触れ、乾いた音を立てる。
サテラはまず固定具を手に取った。指先で表面をなぞり、傷の位置を確かめる。続いて赤い布を持ち上げ、魔導灯の光へ透かした。
布の繊維が、淡い光の中で浮かび上がる。
彼女は刺繍の表面を見たあと、裏返して糸の通り方を確認した。さらに布の端を指で軽く引き、破れ方を調べる。
「見覚えはありません」
サテラは布を机へ戻した。
「私が把握している商会、騎士団、魔法士団の紋章にも該当しませんね」
「紋章としては?」
アギトが尋ねる。
「作りは粗末ではありません。糸の選び方も、縫い目の間隔も一定です。個人が思いつきで入れたものには見えません」
サテラは刺繍の線を目で追った。
「ただし、正式な紋章として登録されたものかどうかは別です。組織が独自に使っている印かもしれませんし、誰かが組織を装うために作った可能性もあります」
「組織のものか」
ウェントスが尋ねる。
「可能性はあります。ただ、布を落とした人物と、騒ぎを起こした人物が同一とは限りません」
サテラの言葉に、部屋の空気がわずかに重くなった。
「手掛かりにはなるが、決め手ではない」
アギトが言うと、サテラは静かに頷いた。
「ええ。ですが、記録を調べる価値はあります」
「なら、確認しよう」
背後から声がした。
扉が開き、アルバート・クラヴィスが入ってくる。夜遅くにもかかわらず、彼の足取りに疲れは見えなかった。室内へ入るなり、机の上の布と金属片へ視線を落とす。
「話は聞いた。祭りで拾ったものだな」
「はい」
アルバートは赤い布を手に取った。
彼は刺繍を一目見るだけで判断せず、布をゆっくりと裏返した。糸の結び目、破れた端、布地に残った汚れまで、順に確かめていく。
「私も知らない」
「アルバートさんでも?」
アギトの声に、わずかな驚きが混じった。
「ああ」
アルバートは布を机へ戻した。
「だが、知らないこと自体は証拠にならない。王都には、魔法省が把握していない集団も存在する。魔法省の記録にはあるか?」
「確認します」
サテラは立ち上がり、部屋の奥にある棚へ向かった。
棚には、年代ごとに整理された記録簿が並んでいる。背表紙には組織名や登録年が記され、古いものには何度も開かれた跡があった。
サテラは数冊を取り出し、机へ運んだ。
厚い記録簿が重なるたび、机が低く軋む。
商会。
魔法士団。
騎士団。
宗教関係。
王都に存在する組織から、過去に登録されていた団体、解散した団体まで、紋章の記録を一つずつ追っていく。
紙をめくる音だけが、部屋の中に続いた。
アギトは黙って待ちながら、赤い布を見つめていた。
円の中に、三本の線。
単純な意匠なのに、視線を外しても、その形が頭の中に残る。目を閉じれば、黒い線が暗闇の中に浮かび上がるようだった。
やがて、サテラが顔を上げた。
「該当する紋章はありません」
彼女は記録簿のページを指で押さえた。
「少なくとも、魔法省に登録された団体の中には」
アギトは布へ目を戻した。
「じゃあ、どこの紋章なんだ?」
問いは部屋の中へ落ちた。
すぐに答えられる者はいなかった。
アルバートは腕を組み、サテラは記録簿へ視線を落とした。仲間たちも、それぞれに布の刺繍を見つめている。
アギトは祭りで起きたことを、頭の中で一つずつ並べ直した。
看板。
偽の火事。
変えられた人の流れ。
黒い服の男。
そして、この紋章。
一つ一つなら、偶然で片付けられる。
看板の固定具が古かっただけかもしれない。
火事という叫び声も、誰かの勘違いだったのかもしれない。
黒い服の男も、祭りに紛れたただの客だった可能性がある。
だが、すべてを並べると、そこには偶然では説明しきれない流れが生まれていた。
誰かが人の視線を逸らし、通路を空け、何かを運ぶ。
あるいは、誰かを逃がす。
「……俺たちを狙っていた可能性は?」
ファウラが尋ねた。
声は小さかったが、誰も聞き流さなかった。
「否定はできない」
アルバートは即答した。
「だが、目的も標的も不明だ。現時点で断定するのは早い」
「なら、まずは事実を集めるべきですね」
ウェントスが言った。
彼は机の上に置かれた金属片を見下ろした。
「誰が騒ぎを起こし、誰が看板を動かしたのか。逃げた男はどこへ向かったのか。そして、この紋章が何を示すのか」
「私は看板の周辺を調べる」
テラが続けた。
「逃走経路と、他に残されたものがないか確認する。壁や地面に痕跡が残っているかもしれない」
「私は記録を整理する」
サテラが言った。
「目撃証言と照合できるようにしておきます。証言の時間と場所を分ければ、食い違いも見つけやすくなります」
「私は看板の構造を調べる」
アクアが金属片を手に取った。
「固定具が自然に外れたのか、細工されたのかを確認する。破損の方向を見れば、外側から力を加えたのか、内側から外れたのかも分かるかもしれない」
ファウラも控えめに手を挙げた。
「私は聞き込みを手伝う。人が多かったから、覚えている人もいるかもしれない」
彼女は少し考えてから、言葉を続けた。
「怖くて話したくない人もいると思うけど、私なら……少しは話してもらえるかもしれない」
アギトは仲間たちを見回した。
それぞれが、自分にできることを考えている。
不安は消えていない。
手掛かりも少ない。
それでも、立ち止まるつもりは誰にもなかった。
「明日から調べよう」
アギトが言うと、アルバートは再び布へ視線を戻した。
「聞き込みだけでは、記憶違いも混じる」
「それでも、何もしないよりはいい」
アギトが答える。
アルバートはしばらく黙っていた。
やがて、布を机へ置き、アギトをまっすぐ見た。
「……分かった。魔法省からも調査員を出そう」
「いいんですか?」
「王都で起きた騒ぎだ。放置する理由はない」
アギトは頷いた。
手掛かりは、赤い布と、登録されていない紋章だけ。
それでも、明日へ進む理由としては十分だった。
だが、部屋を出ようとしたところで、アルバートが呼び止める。
「一つ、忘れるな」
アギトが振り返る。
アルバートは机の上の紋章を見ていた。黒い三本の線が、魔導灯の光を受けて不気味に浮かび上がっている。
「知らないものを見つけたとき、人は二つの間違いを犯す」
「二つ?」
「存在しないと決めつけること。そして、存在するというだけで敵だと決めつけることだ」
アギトは黙った。
知らない。
怖い。
だから敵かもしれない。
そんな考えに逃げるのは簡単だった。正体が分からないものを敵と呼べば、警戒する理由も、戦う理由も、すぐに手に入る。
だが、それは事実を見たことにはならない。
「……気をつけます」
「それでいい」
アルバートはそれ以上、何も言わなかった。
部屋を出ると、廊下の冷えた空気が頬に触れた。
ファウラが隣へ並ぶ。
「明日、本当に聞き込みするの?」
「する。ファウラも手伝ってくれるんだろ?」
「うん。でも、少し探偵みたいだね」
ファウラはそう言って、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔には、無理に明るく振る舞おうとする気配があった。怖さを消せてはいない。それでも、前へ進むために表情を和らげようとしている。
「遊びじゃないぞ」
「分かってるよ。手掛かりを集めて、謎を解くんでしょう?」
「謎が解ければな」
アギトは苦笑した。
短いやり取りだった。
それでも、部屋の中で張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
だが、廊下の窓から王都を見下ろした瞬間、アギトの表情は引き締まった。
窓の外には、まだ祭りの明かりが見える。
通りには人影が残り、屋台の灯りが夜の底で揺れていた。笑い声はここまで届かない。それでも、遠くで人々が歩き、食事をし、今日という一日を終えようとしていることだけは分かる。
彼らは何も知らない。
祭りの中で誰かが人の流れを変えたことも。
黒い服の男が、何かを残して逃げたことも。
今日の出来事など、明日には忘れてしまうのかもしれない。
アギトは窓に映った自分と、その隣に立つ仲間たちを見た。
手元には、あの赤い布。
知らない紋章。
知らない誰か。
知らない目的。
それでも、明日になれば確かめに行く。
「……明日、行こう」
「うん」
ファウラが頷いた。
その声に応じるように、アギトの中でも考えが形を持ちはじめる。
目撃者を探す。
看板を調べる。
逃走経路を追う。
記録を照合する。
そして、紋章の正体を探る。
まだ何も分かっていない。
敵かどうかも、目的が何かも、彼らを狙っていたのかさえも。
それでも、明日へ進むための道筋だけは見えた。
決意を胸に、彼らは窓辺に立っていた。
そのとき、窓の外で祭りの明かりが一つ消えた。
続いて、また一つ。
屋台の灯りが消えるたび、王都の夜は少しずつ深くなっていく。光のあった場所が闇に呑まれ、人の気配も遠ざかっていった。
最後の明かりが消える直前、アギトは赤い布を握り直した。
布の端が指に食い込む。
闇の向こうに、まだ誰かがいる。
姿は見えない。
声も聞こえない。
それでも、祭りの終わった王都には、何者かの気配だけが残っていた。




