第85話
王都の朝は早い。
太陽が城壁の向こうから顔を出したばかりだというのに、商業区にはすでに人の流れができていた。石畳の上を荷車が行き交い、車輪が継ぎ目を踏むたびに、乾いた音が通りへ響いている。店先では開店準備に追われる商人たちが声を掛け合い、焼きたてのパンや香辛料の匂いが、冷えた朝の空気に混ざっていた。
その賑わいの中を、俺たちは黙って歩いていた。
昨日までなら、王都の景色を眺めながら歩く余裕もあっただろう。けれど、今は違う。祭りで起きた騒ぎと、そこに現れた灰色の外套の人物。その足取りを追った先にあるのは、観光客が足を運ぶような場所ではない。
商業区を抜けるにつれ、周囲の建物は少しずつ古びていった。
店の数が減り、人の声が遠ざかる。道幅も狭くなり、整えられていた石畳には土や砂が目立つようになった。やがて、目の前に現れたのは、壁の塗装が剥がれ、窓に板を打ちつけた古い倉庫の並ぶ一帯だった。
道端には木箱や使われなくなった荷車が放置されている。荷車の車輪には雑草が絡みつき、木箱の隙間からは乾いた土がこぼれていた。建物の壁には、かつて店や運送業者の名前が書かれていたのだろうが、雨風に削られて、今では読める文字もほとんど残っていない。
かつては王都の物流を支えた場所なのだろう。
しかし、今そこに漂っているのは、人の営みではなく、長い間忘れられていた場所特有の静けさだった。
「……こっちで合ってるんだよな?」
ウェントスが歩みを緩め、手にした地図を覗き込んだ。
何度も確認しているせいか、地図の端はすでに少し折れ曲がっている。彼は周囲の景色と紙面を見比べながら、眉を寄せていた。
「合ってる。昨日、逃走経路を確認した場所だ」
俺は地図の上に描かれた線を指でなぞった。
祭りの会場から伸びた二つの逃走経路。その先にある場所を重ねていった結果、浮かび上がったのがこの旧倉庫街だった。
もちろん、ここが本当に連中の拠点だと決まったわけではない。
人目を避けやすく、道も複雑で、逃げ込むには都合がいい。だからこそ、単なる偶然という可能性も残っている。
それでも、何も確かめずに放置するわけにはいかなかった。
「二手に分かれるのは?」
アクアが周囲を見回しながら尋ねた。
彼女の視線は、建物の窓や屋根の上を順番に移っている。誰かがこちらを見ていないか、逃げ道がどこにあるのかを確認しているのだろう。
「なしだ」
俺が答えるより先に、テラが言い切った。
短い言葉だったが、その声には迷いがなかった。
「相手が複数いる可能性がある。分かれれば狙われる」
テラは倉庫街の奥へ続く道を見つめたまま、淡々と続ける。
「それに、ここは道が多い。離れたら合流できないかもしれない」
「……そうだな」
ウェントスも地図を畳んだ。
いつもなら軽口の一つくらい挟むところだが、今日はそれをしなかった。彼も、この場所がただの廃倉庫街ではないと感じているのだろう。
俺たちは五人でまとまり、周囲を警戒しながら倉庫街の奥へ進んだ。
歩くたびに、靴底が細かな砂を踏む音が響く。周囲が静かなせいで、その音は必要以上に大きく聞こえた。風が建物の隙間を抜けるたび、どこかで吊り下げられた金具が揺れ、かすかな金属音を立てる。
窓から中を覗くと、埃をかぶった棚や崩れた木箱が見えた。天井から垂れ下がった布は、風もないのにゆっくり揺れている。どの建物も長く使われていないように見えた。
だが、見た目だけで判断することはできない。
人が使っている場所ほど、外からは使われていないように見せることもある。
そう考えながら歩いていたとき、一つの扉の前で俺は足を止めた。
「ここ、最近開けられてる」
扉そのものは、周囲の建物と変わらないほど古びている。木材は黒ずみ、蝶番には錆が浮いていた。
しかし、扉の前だけ、地面に積もった埃が途切れていた。
人が何度も通ったことで、そこだけ地面が露出している。さらに、鍵穴の周囲には細かな傷が残っていた。古い錠前を無理にこじ開けたようにも見えるが、傷の一部は比較的新しい。
「中に誰かいるのかな」
ファウラが扉を見つめながら尋ねた。
彼女の声は小さかった。静かな倉庫街では、それでも十分に響く。
「分からない。正面から入るより、裏を見てみよう」
俺は扉に手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込めた。
もし中に誰かいるなら、正面から近づくことで逃げられる可能性がある。逆に、裏口や窓があるなら、そこから様子を確認できるかもしれない。
俺たちは建物の側面へ回った。
建物と隣の倉庫の間には、日差しの届かない細い通路が続いていた。壁と壁の距離は、人が二人並んで歩くには狭い。足元には湿った落ち葉が溜まり、壁際には苔が生えている。
積まれた木箱の奥に、別の扉があった。
こちらは完全には閉じられておらず、わずかに隙間が開いている。
扉の隙間から、冷たい空気が流れ出していた。
テラが手を上げ、俺たちを止める。それから、音を立てないように一歩ずつ近づき、扉の向こうを覗き込んだ。
しばらくして、彼女が小さく頷いた。
危険がないという意味ではない。少なくとも、すぐ目の前に誰かがいるわけではないということだ。
俺たちは順番に中へ入った。
古い木材と埃の匂いが鼻をつく。外よりも空気が重く、長い間閉ざされていた場所特有の息苦しさがあった。床には壊れた荷箱が散らばり、壁際には使われなくなった棚が並んでいる。
奥には、布を掛けられた荷物がいくつも置かれていた。
布の表面には厚く埃が積もっている。だが、その一部だけが不自然にへこんでいた。最近、誰かが触れたのかもしれない。
そして、床には複数の足跡が残っていた。
埃の上に刻まれた靴底の跡は、一つではない。大きさも形も異なっており、少なくとも何人かがここを出入りしていることが分かる。
「……ここ、使われてるな」
ウェントスの声が低くなる。
彼は足跡を踏まないようにしながら、視線だけを奥へ向けた。
足跡は倉庫の奥へ続いていた。入口から奥へ向かうものもあれば、反対に戻ってくるものもある。中には、途中で方向を変えたような跡もあった。
だが、突き当たりにある扉の前だけ、床の埃が不自然に途切れている。
誰かがそこだけ掃いたのだろう。
足跡を消すためか。それとも、何かを引きずった跡を隠すためか。
「待ってくれ」
俺が手で制した。
全員の動きが止まる。
倉庫の中に、妙な緊張が広がった。誰も声を出していないのに、互いの呼吸音だけがやけに近く感じられる。
突き当たりの扉は閉じられていた。
扉の取っ手には新しい傷があり、周囲の木材にも何度か触れた跡が残っている。さらに、扉の下の隙間からは冷たい風が流れていた。
建物の外壁に、こんな風が通る隙間があるとは思えない。
つまり、扉の向こうには別の空間か、外へ繋がる通路がある。
そのとき、奥で乾いた音がした。
――カタン。
小さな音だった。
だが、静まり返った倉庫の中では、はっきりと聞き取れた。
何かが倒れたのか。木箱を置いたのか。それとも、誰かが足を引っかけたのか。
「……誰かいる」
ファウラが呟いた。
彼女の手が、無意識に杖へ伸びる。
俺は扉から目を離さなかった。
もし相手が一人なら、こちらの人数を見て逃げるかもしれない。複数いるなら、逆にこちらを待ち構えている可能性もある。
どちらにしても、慎重に動く必要があった。
続いて、扉の向こうから男の声が響いた。
「外にいるのは誰だ?」
落ち着いた声だった。
驚いた様子も、慌てた様子もない。まるで、こちらが来ることを最初から予想していたような声だった。
「倉庫の中を確認しに来ただけだ」
俺が答える。
嘘ではない。少なくとも、今の目的は倉庫の中を確認することだ。
扉の向こうで、しばらく沈黙が続いた。
男がこちらの人数を数えているのかもしれない。あるいは、逃げ道を確認しているのかもしれない。
やがて、低い声が返ってきた。
「そうか。なら、帰れ」
あまりにも簡潔な返答だった。
何もない場所なら、わざわざ帰れと命じる必要はない。まして、こちらが何者なのかも確認せずに追い返そうとするのは不自然だった。
「昨日の収穫祭について聞きたい」
俺は扉を見据えたまま言った。
灰色の外套。赤い布。三本線の紋章。
その言葉を出せば、相手が何か反応するかもしれない。
しかし、男が答えるより先に、奥で何かが倒れた。
今度は、さっきよりも大きな音だった。
木箱が床に叩きつけられたような音が、倉庫の中に響き渡る。
「おい、待て!」
俺たちは一斉に扉へ駆け寄った。
テラが先に手を伸ばし、扉を押し開ける。鍵は掛かっていなかった。
その事実が、かえって不気味だった。
扉の向こうには、狭い部屋があった。
壁際には空になった棚が並び、床には倒れた木箱が転がっている。部屋の奥には小さな窓があり、そこから朝の光が細く差し込んでいた。
だが、男の姿はすでに消えていた。
「窓だ!」
ウェントスが駆け寄る。
窓は開け放たれていた。外には、倉庫と倉庫の間を抜ける細い路地が続いている。路地の先は別の通りへ繋がっているらしく、遠くにわずかな人の声が聞こえた。
地面には、新しい足跡が残っていた。
埃を踏み荒らした跡が、窓の下から路地の奥へ続いている。逃げたばかりなのは間違いない。
テラが窓から身を乗り出し、周囲を確認した。
しかし、すぐに首を横へ振る。
「人影はない」
「追う?」
ウェントスが振り返った。
その声には、今すぐ飛び出したいという焦りが滲んでいる。
「いや、こっちを調べる」
アクアが部屋の中央を指した。
倒れた木箱の蓋が外れ、中から紙束が散らばっている。男が逃げる際に倒したものだろう。紙の一部は床に落ち、埃の上に滑った跡を残していた。
俺はしゃがみ込み、紙を一枚拾い上げた。
そこには、倉庫番号、日付、荷物の数量が記されていた。
数字と文字が規則正しく並んでいる。表面だけを見れば、ただの搬入記録や在庫帳簿にしか見えない。
だが、記録されている荷物の種類が妙だった。
食料や衣類のような一般的な品だけでなく、用途の分からない箱や、重量だけが記された荷物も混ざっている。いくつかの日付には、同じ印が繰り返し付けられていた。
「ただの倉庫の帳簿じゃないな」
アクアが紙面を覗き込みながら言った。
「この印、何か意味があると思う」
彼女が指したのは、数字の横に書かれた小さな記号だった。
俺は別の紙を拾い上げた。
そこには王都の地図が描かれている。
旧倉庫街を中心に、いくつかの場所へ印が付けられていた。印の一つは、俺たちが昨日訪れた収穫祭の会場。もう一つは、王城だった。
さらに、商業区や魔法省の位置にも、薄い線が引かれている。
地図の上で、いくつもの場所が繋がっていた。
「……何だよ、これ」
ウェントスが呟く。
その声には、困惑だけでなく、わずかな怒りも混ざっていた。
俺は紙を裏返した。
裏面には、乱れた文字がいくつも書かれている。急いで記したのか、文字の大きさや筆圧が揃っていない。途中で書き直された跡もあり、紙の端には黒いインクが滲んでいた。
その中に、最後の一行だけがはっきり残っていた。
――対象五名、監視継続。
息が詰まる。
五名。
俺たちのことだ。
偶然、祭りの騒ぎに巻き込まれたのではない。
少なくとも誰かは、俺たちが王都へ来る前から、その動きを追っていた。
いつから見られていたのか。
王都へ入ったときからか。それとも、もっと前からなのか。
俺たちが王都で何をしているのかを調べているのか。あるいは、俺たちが王都へ来ること自体を待っていたのか。
考えれば考えるほど、背中に冷たいものが走った。
「……魔法省に戻ろう」
俺は散らばった紙束をまとめた。
紙を折り畳む指先に、わずかな力が入る。
「これ以上、ここにいるのは危険だ」
男は逃げた。
だが、逃げたということは、俺たちがここへ来たことを誰かに伝える可能性がある。すでに伝わっている可能性だってある。
この倉庫街のどこかに、別の見張りがいるかもしれない。
誰も反対しなかった。
ウェントスは何度も窓の外を確認し、テラは入口へ続く道を警戒している。アクアは俺が持つ紙束を見つめ、ファウラは扉の向こうに残された足跡から目を離さなかった。
倉庫を出る前に、俺は一度だけ振り返った。
半開きの扉。
埃の積もった床。
倒れた木箱。
そして、逃走に使われた窓。
男は、俺たちが来ることを知っていたのか。
それとも、偶然ここにいたところを見つただけなのか。
答えはまだ分からない。
ただ、あの部屋に残された紙が偶然置かれていたとは思えなかった。
俺たちが見つけることを想定していたのか。あるいは、逃げる際に持ち出す時間がなかったのか。
どちらにしても、俺たちはすでに相手の視界に入っている。
倉庫街を出ると、遠くから王都の喧騒が聞こえてきた。
商業区では、いつも通り人々が行き交っているのだろう。店が開き、荷車が走り、誰もが自分の一日を始めている。
その日常のすぐ隣で、俺たちを監視する何者かが動いている。
そう考えると、さっきまでの王都の賑わいさえ、別の意味を持って見えた。
誰かがこちらを見ている。
人混みに紛れ、建物の陰に隠れ、俺たちの行き先を追っている。
俺は無意識に背後を振り返った。
そこには、古びた倉庫と、朝の光に照らされた石畳があるだけだった。
人影は見えない。
それでも、監視の目が消えたとは思えなかった。
王都へ来る前から、この街のどこかで何かが動いていた。
そして今、俺たちはその動きの中心へ、確実に近づきつつあった。




