第78話
通りの奥へ進むほど、人の密度は増していった。両脇の屋台から焼き肉や焦がし菓子、香辛料の匂いが流れ、人の体温と混ざって夜の冷気を押し返している。
肩や腕が何度もすぐそばを通り過ぎ、子供の笑い声や店員の呼び込み、楽器の音が重なって、通り全体が一つの生き物のようにざわめいていた。
頭上には色とりどりの布が渡され、風が吹くたびにゆっくりと揺れている。布の隙間から見える夜空は細く、遠くの星明かりは祭りの光にかき消されていた。
「おい、三人とも。絶対にはぐれるなよ」
ウェントスが振り返る。人の流れに押され、列が崩れかけていた。
「分かってるって」
アギトが手を上げる。
「その返事が一番信用できないんだよ。食べ物を見つけると、周りが見えなくなるだろ」
「それ、ファウラのほうがひどいだろ」
「え?」
ファウラが足を止めた。
「今、私の話をした?」
「した」
「してない」
二人の声が重なる。
ファウラは二人を見比べた。
「……どっち?」
「ウェントスが勝手に答えただけだ」
「お前も否定してるだろ」
「でも、ファウラのほうが食べ物に釣られるのは本当だろ」
「アギトも釣られる」
「俺は祭りを楽しんでるだけだ」
「私も」
「ほらな」
ウェントスがため息を吐いた。
「屋台を見つけても勝手に走るな。買いたいなら俺に言え」
「子供じゃないんだから」
「そう言う奴ほど走るんだよ」
直後、ファウラの視線が右手の屋台へ吸い寄せられた。炭火の上で串肉の脂が弾け、白い煙と濃い香りが立ち上っている。
串に刺された肉は表面が香ばしく焼け、刷毛で塗られた甘辛いタレが照明を受けて艶めいていた。店主が肉をひっくり返すたび、炭火が赤く燃え上がり、周囲から小さな歓声が上がる。
ファウラの足先がわずかに動いた。
ウェントスはすぐに肩を掴む。
「今、走ろうとしただろ」
「してない。見ただけ」
「目が完全に走ってたぞ」
「目は走らないよ」
「そういう問題じゃない」
ファウラは頬を膨らませ、今度はアギトの袖を掴んだ。
「じゃあ、これならはぐれない」
人混みでは、少し離れただけで互いの姿が見えなくなる。アギトは歩きながら、ファウラの手に自分の手を重ねた。
「それなら、俺が離さない」
「うん」
「……俺の話は聞いてるか?」
ウェントスが呆れた声を出す。
「聞いてる」
「なら、俺から離れるなよ」
「ウェントスも掴む?」
「俺まで繋がったら歩きにくいだろ」
「じゃあ、先に行かないで」
「お前らが遅れなければ済む話だ」
そう言いながらも、ウェントスは歩調を落とし、時折振り返って五人の姿を確かめた。
アクアは少し後ろから、屋台の明かりや行き交う人々を静かに眺めている。普段の警戒心は残っているものの、今夜は祭りの光に目を奪われているようだった。
彼女の視線は、屋台の品物だけでなく、そこに集まる人々の表情へ向けられていた。笑いながら酒を飲む男。子供の手を引く母親。売り物を並べ直す老人。客の注文を聞きながら、隣の店員と冗談を交わす若者。
誰もが忙しそうで、誰もが楽しそうだった。
「アクア、何か気になるものでもあるのか?」
アギトが尋ねる。
「別に」
「さっきからずっと見てるけど」
「見ているだけ」
「それを気になるって言うんじゃないか?」
「違う。……こういう場所に慣れていないだけ」
アクアは少しだけ目を伏せた。
「人が多い場所は、何が起きるか分からないから」
「でも、今は楽しそうだろ」
「楽しそうに見えることと、安全であることは別」
「それはそうだけどさ」
アギトは周囲を見回した。
確かに、人は多い。誰かがぶつかっても、すぐに別の誰かがその隙間を埋める。声はあちこちから飛び、視線を向けても、同じ顔を二度見つけることは難しい。
けれど、今のところ危険なものは見当たらなかった。
「それでも、少しくらい楽しんでもいいんじゃないか?」
「……少しくらいなら」
アクアはそう答えたが、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
やがて、通りの先が開けた。
人の頭越しに、木材を組んだ簡素な舞台が見える。周囲の椅子はほとんど埋まり、舞台上では演奏者たちが準備を終えようとしていた。
舞台の背後には大きな布が張られ、王都の紋章と祭りの名前が描かれている。文字の一部は風に煽られて折れ曲がり、照明の影が布の上で揺れていた。
「何か始まるみたい」
アクアが言う。
ファウラも屋台から視線を戻した。
「見ていくか?」
「私は見たい」
「俺も」
「なら決まりだな」
五人は人の隙間を縫い、広場の端へ移動した。
広場の中央には、舞台を囲むように低い柵が置かれていた。柵の前には立ち見の人々が集まり、後ろのほうでは子供たちが少しでも舞台を見ようと背伸びをしている。
ウェントスは周囲を見回し、比較的人の流れが少ない場所を見つけた。
「ここなら、何かあっても動ける」
「祭りを見に来てまで、逃げ道を探すのか?」
アギトが言う。
「祭りを見に来たからこそだ。人が多い場所では、逃げ道を確保しておくのが基本だろ」
「ウェントスらしい」
ファウラが頷く。
「褒めてるのか?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
アクアは舞台のほうを見たまま、静かに言った。
「でも、ここは悪くない」
「だろ?」
アギトが笑う。
「俺が見つけたわけじゃないけどな」
「自分で見つけたみたいに言うな」
ウェントスが肩をすくめた。
やがて、舞台の上で一人が手を上げる。
ざわめきが静まり、細い弦の音が夜気を撫でた。続いて太鼓の低い振動が加わり、石畳を通して足元を震わせる。
最初の音は、驚くほど小さかった。
広場に集まった人々の声に紛れてしまいそうなほど細く、頼りない音だった。だが、二つ目の弦が重なり、三つ目の音がその隙間を埋めると、旋律は少しずつ形を持ち始めた。
聞いたことのない曲だった。それでも旋律には不思議な親しみがあり、周囲の人々はすぐに手拍子を合わせ始めた。
曲には、王都の古い祭りにまつわる歌詞があるらしい。最初に歌い始めたのは舞台上の女性だったが、彼女の声に合わせるように、広場のあちこちから別の声が加わっていく。
歌詞を知っている者もいれば、知らないまま雰囲気だけで口ずさむ者もいた。音程を外す者もいたが、それを咎める者はいなかった。
子供が見よう見まねで叩き、隣の大人が笑いながら拍子を教える。誰かが歌い始めると、別の誰かが声を重ねた。
楽器も歌声も手拍子も、やがて広場全体を一つの音に変えていく。
アギトはその光景を見つめた。
王城や魔法省で見た王都は、立場や役目を背負った人々の場所だった。廊下を歩く者は皆、何かを決めるために歩き、何かを守るために言葉を選んでいた。
そこでは、誰もが自分の身分や所属を意識しているように見えた。
だが、ここにいる人々はただ音楽を楽しみ、隣の誰かと笑い合っている。
王都の中心でありながら、ここには王城の威圧感も、魔法省の張り詰めた空気もなかった。誰かが誰かを見張っているような気配もなく、少なくとも表面上は、誰もが同じ祭りの客としてそこにいた。
「……王都って、変なところだな」
「どういう意味?」
アクアが横目で見る。
「もっと偉い人ばっかりいる場所かと思ってた。でも、こういうのも王都なんだな」
「王都だからこそ、じゃない?」
「いろんな人がいるから」
アクアは舞台を見ながら続けた。
「王都には、地方から来た人も、商人も、兵士も、職人も、魔法使いもいる。誰か一人の場所じゃない」
「誰か一人の場所じゃない、か」
「だから、同じものを見ていても、感じ方は違うと思う」
「いろんな人……」
アギトはその言葉を繰り返した。
痣持ち。魔人。人間。王国から招かれた者。
どれも自分たちを表す言葉だ。けれど、それぞれに向けられてきた警戒や境界の意識がまとわりついている。
痣を持つ者として見られること。
魔人として恐れられること。
人間として扱われること。
王国から招かれた客として、丁寧に迎えられること。
どれも自分たちの一部でありながら、それだけでは自分たちを説明できない。
アギトは、舞台の前で手を叩く子供を見た。
その子供は、隣にいる大人が人間なのか、魔人なのか、どこの国から来たのかなど気にしていない。ただ音楽に合わせて手を叩き、拍子がずれるたびに楽しそうに笑っている。
その無邪気さが、アギトには少し眩しく見えた。
自分たちは、いつから相手の正体を気にするようになったのだろう。
いつから、相手の言葉の裏側を探り、視線の意味を考え、何かが起きる前に身構えるようになったのだろう。
それは必要なことだった。
これまで何度も、警戒していたからこそ助かった。信じてはいけない相手もいた。笑顔の裏に敵意を隠している者もいた。
だから、警戒を捨てることはできない。
それでも、今だけは考えなくていい気がした。
音楽が続いている間だけは、誰が何者なのかを決めなくてもいい。隣にいる者が敵か味方かを確かめなくてもいい。ただ同じ音を聞き、同じ場所に立っていれば、それで十分なのかもしれない。
アギトは隣のファウラの手を握り直す。
「アギト」
「ん?」
「これ」
ファウラが、さっき買った菓子を差し出した。
薄い紙に包まれた菓子は、彼女が一度かじったせいで端が少し欠けている。表面には砂糖がまぶされ、祭りの明かりを受けて白く光っていた。
「半分食べる?」
「もう食べただろ」
「もう一個買った」
「いつの間に……」
「祭りだから」
「その理屈、便利だな」
アギトは笑って受け取った。
菓子はまだ少し温かかった。外側は固く、中には甘い餡が入っている。口に入れると、香ばしい生地の味が広がり、さっきまでの緊張が少しだけほどけた。
「おいしい?」
ファウラが尋ねる。
「うん」
「なら、よかった」
「ファウラは食べないのか?」
「半分あげたから」
「一個買ったんじゃなかったのか?」
「これはアギトの分」
「いつの間にそんなことになったんだよ」
「祭りだから」
「またそれか」
ファウラは楽しそうに笑った。
ウェントスが呆れたように二人を見る。
「お前ら、さっきから祭りを理由にすれば何でも許されると思ってないか?」
「許されるだろ」
「許されない」
「でも、ウェントスも少し楽しそうだよ」
アクアが言った。
「俺は周囲を確認しているだけだ」
「それを楽しんでるって言うのか?」
「言わない」
「じゃあ、何て言うんだ?」
「警戒している」
「同じようなものじゃないか?」
「全然違う」
ウェントスはそう言ったが、舞台から聞こえる音楽に合わせて、指先がわずかに動いていた。
アギトはそれに気づいたが、あえて何も言わなかった。
曲が終わると、広場から大きな拍手が起きた。
演奏者たちは頭を下げ、次の曲の準備を始める。舞台の脇では、別の楽器を持った者たちが待機していた。
「次も見る?」
ファウラが尋ねる。
「俺は構わない」
アギトが答える。
「ウェントスは?」
「少しなら」
「アクアは?」
「……見る」
「全員見るんだな」
ウェントスが苦笑した。
次の曲は、先ほどよりも速いものだった。太鼓の音が強くなり、舞台の前にいた何人かが手を叩きながら踊り始める。
広場の端では、年配の女性が孫らしき子供の手を取り、ゆっくりと足を動かしていた。若い男たちは互いに肩を組み、わざと大げさな動きをして周囲を笑わせている。
ファウラも音楽に合わせて身体を揺らしていた。
「踊らないのか?」
アギトが聞く。
「踊ってる」
「それは揺れてるだけじゃないか?」
「アギトも同じ」
「俺は音楽を聞いてるんだよ」
「聞きながら揺れてる」
「……そうかもしれない」
アギトは否定しきれなかった。
そのとき、広場の向こうで誰かが叫んだ。
「危ない!」
鋭い声が演奏を断ち切る。
人々が一斉に振り返った。
舞台上の演奏者たちも手を止め、太鼓の余韻だけが広場の空気に残った。さっきまで一つになっていた音が途切れたことで、逆に周囲の小さな音がはっきりと聞こえる。
誰かの息を呑む音。
子供の泣き声。
屋台の鍋が煮立つ音。
遠くで別の楽器が鳴っている音。
広場の端で、屋台が片側へ傾いている。その横を、小さな子供が歩いていた。
屋台の主人が飛び出す。
「こっちへ来るな!」
子供が足を止めた直後、看板が支柱から外れ、地面へ叩きつけられた。
乾いた音と短い悲鳴が響く。
看板は子供のすぐ前に落ち、石畳の上で跳ねた。角が地面に当たって欠け、木片がいくつか周囲へ飛び散る。
幸い、誰にも当たらなかった。
子供は何が起きたのか理解できず、目を見開いたまま立ち尽くしている。すぐに母親らしき女性が駆け寄り、子供を抱きしめた。
「大丈夫? 怪我はない?」
「うん……」
「本当に?」
「うん……」
屋台の主人は顔を青くしながら、何度も頭を下げていた。
「申し訳ありません! 本当に、申し訳ありません!」
「子供に当たらなかったからいいものを」
「すぐに片づけます。もう近づかせません」
周囲からは安堵の声が漏れた。
「びっくりした……」
ファウラが息を吐く。
彼女の手が、アギトの手を強く握り返していた。
「大丈夫そうだな」
ウェントスは周囲を見回した。
屋台の主人が何度も頭を下げ、子供の親が駆け寄る。人々もすぐに緊張を解き、演奏者たちは楽器を構え直した。
だが、ウェントスの視線は屋台から離れなかった。
「どうした?」
アギトが尋ねる。
「……いや」
ウェントスは答えず、屋台の周囲を見ていた。
「何か変か?」
「まだ分からない」
ウェントスは低い声で言った。
「ただ、あの屋台はさっきから少し傾いていたように見えた」
「見てたのか?」
「人が多い場所では、周囲を見るのが基本だと言っただろ」
「それで、何か分かった?」
「分からない。だから見ている」
アクアも屋台へ視線を向けた。
「看板の落ち方が不自然だった」
「アクアもそう思うのか?」
「支柱が折れたなら、看板は屋台側へ倒れるはず。でも、あれは前へ落ちた」
「固定が外れたんじゃないか?」
「固定が外れたなら、片側だけが先に落ちる。あれは両方の留め具が同時に外れたように見えた」
アギトは屋台を見た。
人々が集まり、屋台の主人が看板を持ち上げようとしている。周囲には心配そうに覗き込む客や、騒ぎを聞きつけて足を止めた者たちがいる。
その中に、屋台の主人とは別の男が一人いた。
男は看板を見ているようで、実際には周囲の人々を見回していた。
目が合う前に、男は顔を背けた。
「今の男……」
アギトが呟く。
「どうした?」
「いや、あそこにいた奴が」
もう一度見る。
男の姿は、人の流れの中に消えていた。
赤い布を肩にかけていたように見えたが、似た色の服を着た者は何人もいる。背丈も、髪の色も、はっきりとは思い出せなかった。
「見失った」
「誰を?」
「屋台の近くにいた男」
「どんな奴だ?」
「赤い布を……いや、違うかもしれない」
アギトは言葉を濁した。
人混みの中で見た一瞬の姿だ。確信を持って話せるほどの情報はない。
「事故。
たぶん、それだけだ。
古い金具が外れ、看板が落ちた。それだけのことかもしれない。
だが、アギトは一瞬だけ見ていた。
屋台の裏側。看板を固定していた金具は曲がっておらず、木材が裂けた跡もない。ねじ山には新しい傷があり、外されたねじは一つも落ちていなかった。
看板を支えていた金具は、壊れたというより、外されたように見えた。
しかも、外れた金具の一つは地面に落ちていない。屋台の裏側にも、看板の下にも、周囲の石畳にも見当たらなかった。
誰かが外した。
そんな考えが浮かぶ。
けれど、誰が、何のために。
子供を狙ったのか。
屋台の主人を脅かしたかったのか。
それとも、別の誰かを巻き込むつもりだったのか。
考え始めると、いくつもの可能性が浮かんでは消えていく。
ただの事故かもしれない。
祭りの準備が急だったため、固定が甘かっただけかもしれない。
誰かが酔った勢いでぶつかり、金具が外れた可能性もある。
だが、アギトの目には、金具の傷があまりにも新しく見えた。
「……?」
アギトは足を止めた。
「どうした?」
ウェントスが振り返る。
「いや……」
アギトは屋台を見た。
赤や黄色の布、行き交う人の背中、紙灯籠。その向こうにあるはずの裏側は、もう見えない。
屋台の主人が看板を片づけている。誰かが手を貸し、別の誰かが子供を連れてその場を離れていく。
騒ぎは終わりつつあった。
人々はすでに次の楽しみへ戻ろうとしている。演奏者たちは楽器を構え、舞台の前では手拍子を始める者もいた。
「なんでもない」
「そうか?」
「ああ」
ウェントスはしばらくアギトを見た。
「本当に?」
「本当に」
「ならいい」
そう言いながらも、ウェントスは納得していないようだった。
アギトは歩き出した。
ファウラの手はまだ握ったままだった。ウェントスは少し前を歩き、アクアは黙って周囲を見ている。
アクアの視線は、先ほどから何度も後方へ向けられていた。
「アクア?」
「何?」
「何か見えるのか?」
「分からない」
「ウェントスと同じこと言ってるな」
「分からないものを、分からないと言っているだけ」
アクアは人の流れを見つめた。
「さっきから、同じ人が何度か近くを通っている気がする」
「同じ人?」
「確信はない。人が多すぎる」
「どんな奴だ?」
「黒い外套。背は高くない。顔は見えない」
「それだけじゃ、いくらでもいるだろ」
「だから確信がないと言った」
アギトは後ろを振り返った。
人の波が続いている。
屋台の明かりに照らされた顔が、次々と視界を横切っていく。笑っている顔、疲れた顔、酒に酔った顔、誰かを探している顔。
黒い外套を着た者も何人かいた。
そのうちの一人が、こちらを見ていた。
目が合った。
男はすぐに視線を逸らし、屋台の間へ入っていった。
「今の奴か?」
アギトが尋ねる。
「分からない」
「またか」
「でも、見ていた」
アクアの声が低くなる。
「私たちを」
ウェントスが足を止めた。
「追うか?」
「いや」
アクアは首を横に振った。
「ここで追えば、こちらが気づいたと伝えることになる」
「じゃあ、どうする?」
「気づいていないふりをする」
ウェントスは短く息を吐いた。
「祭りに来たはずなのに、結局こうなるのか」
「まだ何も起きていない」
アギトが言う。
「看板が落ちただけだ。黒い外套の奴だって、ただ祭りを見ていただけかもしれない」
「そうだな」
ウェントスは頷いた。
「だからこそ、決めつけるな。だが、忘れるな」
その言葉に、アギトは黙って頷いた。
祭りの音が、再び押し寄せてくる。
笑い声。楽器の音。足音。屋台から漂う肉と菓子の匂い。
何も変わっていない。
舞台では次の曲が始まり、周囲の人々は手拍子を続けている。さっきの騒ぎなど、最初からなかったかのようだった。
ファウラがアギトの袖を引いた。
「アギト」
「ん?」
「さっきのこと、気になる?」
「少しだけ」
「怖い?」
「怖くはない」
「本当に?」
「……分からない」
アギトは正直に答えた。
「怖いというより、嫌な感じがする」
「私も」
ファウラは握った手に力を込めた。
「でも、今は離れないから」
「ああ」
「絶対に?」
「絶対に」
ファウラは小さく頷いた。
その横で、アクアが舞台を見ながら言った。
「音が変わった」
「え?」
アギトが耳を澄ます。
確かに、先ほどまでの曲とは違う。旋律が変わり、太鼓の音が少し遠くなっている。
「そうじゃない」
アクアは首を横に振った。
「人の声。さっきより大きい」
アギトは周囲を見回した。
演奏が再開されたことで、広場の人々は再び声を上げている。だが、単に騒ぎが戻っただけではない。
人の流れが変わっていた。
屋台の前にいた人々が、少しずつ広場の中央へ押し出されている。逆に、舞台の周囲にいた者たちは、通りの奥へ流されていた。
誰かが人の流れを作っている。
そう思った瞬間、アギトの背中を冷たいものが走った。
「ウェントス」
「分かってる」
ウェントスはすでに周囲を見ていた。
「人が動かされている」
「誰に?」
「まだ分からない」
「またそれか」
「今度は本当に分からない」
ウェントスは低く続けた。
「ただ、自然な流れじゃない。広場の入口側で何かが起きている」
遠くで、別の声が上がった。
「押すな!」
「前に進め!」
「何が起きてるんだ!」
ざわめきが広がる。
舞台の音楽は続いているが、観客の一部が振り返り始めた。人々の視線が一方向へ集まり、広場の入口付近で何かを確認しようとしている。
しかし、人が多すぎて何も見えない。
見えないからこそ、不安だけが膨らんでいく。
「ここから出るぞ」
ウェントスが言った。
「でも、何が起きてるか確認しないと」
「確認するために近づくな。まず安全な場所へ移動する」
「どこへ?」
「舞台の裏手。あそこなら人の流れから外れる」
ウェントスが指した先には、舞台の脇へ続く細い通路があった。演奏者や関係者が使う場所らしく、一般の客はほとんど入っていない。
「行けるか?」
「行く」
アクアが答えた。
五人は人の流れに逆らわないよう、少しずつ横へ移動した。
ファウラはアギトの手を握り、アギトは彼女を人の肩や肘から庇う。ウェントスは先頭で道を作り、アクアは後方を確認していた。
広場の入口から、また叫び声が聞こえた。
「火事だ!」
その声に、人々の動きが一斉に変わった。
誰かが走り出す。
それにつられて、別の誰かも走る。
狭い場所で人が走れば、流れはすぐに乱れる。押された者がよろめき、倒れそうになった者を別の者が掴む。子供の泣き声が上がり、誰かが怒鳴った。
「走るな!」
だが、声は人の波に飲み込まれた。
アギトはファウラの手を強く握った。
「離れるな!」
「うん!」
舞台の上では、演奏者たちがようやく演奏を止めていた。
太鼓の音が消えたことで、広場の混乱はさらに大きく感じられた。人々の叫び声が直接耳へ入り、足音が石畳を激しく叩いている。
しかし、入口のほうから煙は見えなかった。
火の匂いもしない。
焦げた匂いの代わりに、いつもの肉や香辛料の匂いが漂っている。
「火事じゃない」
アクアが言った。
「煙がない」
「じゃあ、誰かが嘘をついたのか?」
「分からない。でも、火は見えない」
ウェントスが振り返る。
「それでも、ここにいるのは危険だ」
舞台裏の通路まで、あと数歩だった。
そのとき、アギトの視界の端で、黒い影が動いた。
先ほどの黒い外套。
男は人の流れに逆らい、広場の入口ではなく、舞台裏の通路へ向かっていた。
こちらと同じ方向へ。
「ウェントス」
「見えた」
ウェントスの声が低くなる。
「先に行くな。通路へ入ったら、右側に寄れ」
「分かった」
五人は通路へ入った。
舞台裏は、表の広場とは別の空気に包まれていた。祭りの明かりは届いているものの、屋台や観客の姿は少なく、木箱や楽器のケースが壁際に積まれている。
演奏者たちが慌てて楽器を運び、係員らしき男が何人かに指示を出していた。
「裏口はどこだ?」
ウェントスが尋ねる。
「そこの角を曲がって、倉庫の横だ」
係員が答えた。
「何が起きている?」
「入口で誰かが火事だと叫んだらしい。だが、火は見つかっていない」
「やっぱりか」
ウェントスが呟く。
アギトは通路の入口を見た。
人の波が押し寄せてくる気配はない。
黒い外套の男も、まだ姿を見せていなかった。
「来ないな」
アギトが言う。
「それが気になる」
アクアが答えた。
「私たちが通路へ入ったのを見ていたなら、追ってくるはず」
「追ってこないなら、別の目的があるのかもしれない」
ウェントスは倉庫の横へ進んだ。
そこには、祭りの備品らしき木箱が積まれていた。箱の一つには、王都の紋章が刻まれている。別の箱には、魔法灯用と書かれた札が貼られていた。
倉庫の裏手には、狭い路地が続いている。
表通りほど明るくはないが、人の声はまだ聞こえていた。
「ここまで来れば、少しは落ち着ける」
ウェントスが言った。
だが、その直後。
倉庫の奥から、何かが落ちる音がした。
金属が石畳に当たる音。
全員が振り返る。
「誰かいる」
アクアが呟いた。
ウェントスはすぐに腰の武器へ手を伸ばした。
「アギト、ファウラを頼む」
「分かった」
「俺も行く」
アギトが言う。
「お前はファウラとここにいろ」
「でも」
「何かあったら、すぐに逃げろ。確認は俺とアクアがする」
ウェントスとアクアが、倉庫の奥へ進んでいく。
アギトはファウラの前に立った。
倉庫の奥は暗く、祭りの明かりもほとんど届いていない。積まれた箱の隙間から、細い風が流れてくる。
「誰かいるの?」
ファウラが小声で尋ねる。
「分からない」
「また?」
「今度は本当に分からない」
アギトは周囲を見回した。
路地の入口。
倉庫の壁。
積まれた木箱。
舞台裏へ続く通路。
どこから誰かが現れてもおかしくない。
そのとき、ファウラがアギトの袖を引いた。
「アギト」
「どうした?」
「あれ」
彼女が指差した先に、木箱の陰から赤い布が覗いていた。
先ほど見た男の肩にかかっていたものと、同じ色に見える。
アギトは息を止めた。
布の端には、黒い糸で小さな紋様が刺繍されている。王都の祭りで使われる飾り布にも見えるが、見覚えのない形だった。
アギトが一歩近づいた瞬間、箱の向こうから声がした。
「……見つかったか」
低い声。
男の声だった。
ファウラが息を呑む。
アギトは反射的に彼女を背後へ庇った。
「誰だ?」
返事はない。
代わりに、箱の向こうで何かが擦れる音がした。逃げるつもりだ。
「ウェントス!」
アギトが叫ぶ。
倉庫の奥で、ウェントスが振り返った。
「どうした!」
「こっちに誰かいる!」
次の瞬間、木箱が倒れた。
男が箱の隙間から飛び出し、路地の奥へ走り出す。
黒い外套。
赤い布。
顔は深く被ったフードに隠れている。
「待て!」
ウェントスが追う。
アクアもすぐに続いた。
アギトはファウラの手を握ったまま、二人の後を追いかける。
路地は狭く、両側の壁から祭りの飾り布が垂れ下がっていた。男はそれを払いのけながら走り、時折振り返ってこちらを確認している。
「速い!」
ファウラが叫ぶ。
「逃がすな!」
ウェントスの声が響く。
男は路地の角を曲がった。
アクアが先に角へ到達し、壁に手をついて身体を止める。
「右!」
彼女が叫んだ。
ウェントスが右へ曲がる。
アギトたちも続いた。
だが、そこには男の姿がなかった。
路地は行き止まりだった。
正面には高い石壁。左右には閉じた扉と積まれた木箱。逃げ道はない。
「どこへ消えた?」
ウェントスが周囲を見回す。
アクアは地面へ視線を落とした。
石畳の上に、赤い布の切れ端が落ちている。
その隣には、細い金属片があった。
看板を固定していたものと同じような、ねじの一部。
「ここにいた」
アクアが拾い上げる。
「でも、今はいない」
アギトは壁を見た。
高い。
人が簡単に越えられる高さではない。
扉はすべて閉じている。
だが、正面の石壁の上には、祭りの飾り布を固定するための金具が並んでいた。布の一部が不自然に揺れている。
「上だ」
アギトが言った。
全員が見上げる。
石壁の上から、黒い外套の裾が一瞬だけ見えた。
次の瞬間には、もう消えていた。
「逃げられた」
ウェントスが拳を握る。
「壁の向こうは?」
「別の通りか、建物の裏手」
アクアが答えた。
「追えるか?」
「今からでは難しい」
ウェントスは落ちていた金属片を見た。
「看板の金具と同じか?」
「形は似ている」
アクアが答える。
「ただし、同じものかは分からない」
アギトは赤い布の切れ端を拾った。
布には、黒い糸で刺繍された紋様が残っている。
円の中に、三本の線。
それは王都の紋章ではなかった。
「これ、何の印だ?」
ファウラが尋ねる。
「分からない」
アギトは布を握りしめた。
祭りの喧騒は、壁の向こうからまだ聞こえている。
笑い声。
楽器の音。
屋台の呼び込み。
何も知らない人々は、今も祭りを楽しんでいる。
そのすぐ裏側で、誰かが看板を外し、火事だと嘘をつき、こちらを見ていた。
偶然にしては、重なりすぎている。
「戻るぞ」
ウェントスが言った。
「祭りは?」
ファウラが聞く。
「続いている。だが、俺たちはもう楽しめない」
「……そうだね」
アクアが頷いた。
アギトは壁の向こうを見た。
人の波は、何もかもを押し流していく。
笑い声も、騒ぎも、誰かが残した小さな痕跡さえも。
けれど、完全に消えるわけではない。
看板を固定していた金具。
赤い布の切れ端。
黒い糸で刻まれた、見覚えのない紋様。
そして、こちらを見ていた男の声。
人の波に紛れても、残るものはある。
アギトはそれらを忘れないよう、強く胸に刻みつけた。
祭りの夜は、まだ終わっていなかった。




