第57話
紅い月。
裂けた空。
そして。
門の向こうから注がれる、無数の視線。
だが。
そんなものに構っている暇はない。
今。
アギトの目に映るのは。
苦しむ一匹の狼だけだった。
「うおおおおおお!!」
走る。
ただ真っ直ぐに。
紫色の結晶へ。
「グルァァアアア!」
巨大狼が咆哮を上げる。
その声に。
怒りはない。
憎しみもない。
あるのは。
終わらない苦痛。
そして。
助けを求める悲鳴。
『人間』
頭の中に響く声。
『ありがとう』
「まだだ!」
アギトは叫ぶ。
「礼を言うのは早い!」
「絶対」
「助けるって言っただろ!」
ドクン。
左胸。
魔性紋が脈打つ。
赤い炎。
その中に。
僅かに混じる紫色。
「!」
クルデーリスの瞳が揺れる。
(やはり……)
(その炎は……)
しかし。
考えている時間はない。
「アギト!」
ファウラの声。
「右!」
「!」
巨大な爪。
間一髪。
アギトは身体を捻る。
「危ねぇ!」
「集中しろ!」
ウェントスの風刃。
「隙を作ります!」
テラが地面を隆起させる。
「任せて!」
アクアの水流が巨大狼の動きを鈍らせた。
「今だ!」
「はい!」
跳ぶ。
高く。
高く。
巨大狼の額。
紫色の結晶。
目の前。
『人間』
「!」
『もう』
『十分だ』
「何言ってんだ」
『疲れた』
『だから』
『終わらせてくれ』
「断る!」
アギトは笑った。
「俺は」
「諦めが悪いんだ!」
拳を握る。
「だから!」
「勝手に諦めるな!」
「一緒に生きろ!!」
そして。
拳が。
結晶に届く。
「砕けろおおおおお!!」
轟音。
眩い光。
紫色の結晶に。
亀裂が走った。
「!」
門の奥。
赤黒い瞳の主が。
初めて表情を変える。
『何……?』
『馬鹿な』
『ただの人間が』
『浄化した……だと?』
バキッ。
結晶が砕け散る。
その瞬間。
巨大狼を包んでいた禍々しい魔力が。
霧のように消えていった。
「グ……」
「ル……」
巨大な身体が傾く。
「!」
「危ない!」
アギトが駆け寄る。
倒れ込む狼。
その赤い瞳は。
もう穏やかだった。
『ありがとう』
「!」
『人間』
『アギト』
『お前達のおかげで』
『私は』
『ようやく……』
狼の身体が光に包まれる。
『眠れる』
「待て!」
『優しい人間よ』
『どうか』
『世界を……』
そこで。
声は途切れた。
静寂。
紅い月の下。
巨大狼の姿は。
無数の光となって。
夜空へ消えていった。
「……」
誰も何も言わない。
やがて。
ファウラが小さく笑った。
「やったな」
「……うん」
アクアも微笑む。
「助けられたね」
「はい」
アギトも笑った。
「助けられました」
その姿を見て。
クルデーリスは。
どこか懐かしそうに目を細めた。
「……全く」
「本当に」
「似ている」
だが。
その時。
パリン。
空から。
何かが割れるような音が響いた。
「!」
門。
巨大な亀裂。
それが。
ゆっくりと閉じ始めていた。
『ククク……』
赤黒い瞳の主が笑う。
『今回は』
『ここまでにしておこう』
『魔性の子』
『そして』
『紫炎使い』
『次に会う時を』
『楽しみにしている』
赤黒い瞳が消える。
そして。
巨大な門も。
まるで最初から存在しなかったかのように。
夜空から姿を消した。
残されたのは。
静かな森と。
紅い月だけ。
しかし。
誰も知らない。
この夜が
後に。
世界を揺るがす大事件。
【紅月の夜事件】
と呼ばれることを。
そして。
これが。
長き平和の終わりの始まりであったことを。




