第4話「五人の教え子(前編)」
ぐるりと私たちに首を向けた彼は、もうあの真剣な目をしていなかった。眠そうな半目で、灰皿に手を伸ばすも、そこにあるのは全てシケモク。吸い尽くしたタバコばかりだ。
それで私は失望感を味わったか。今思えばそんなことはないのだが、この時は「やっぱり大人は」と自分の心を無理やり整頓した。
「おーう、すまんすまん。仕事中でな」
「仕事ぉ? やってんの見た事ねぇけど」
「人に見せない仕事なんだよ」
フリッツの言葉をのらりくらりとかわし、彼はごそごそとジャケットを漁ってタバコを探し、やがて諦めた。隣の椅子に放りだした、軽量の義足を手に取り、かちゃかちゃと足に取り付けている。
「ご新規さんか? 国語算数理化社会に歴史。音楽と美術は駄目だな。教本ならあるから自習するんでもいいが」
大あくびと一緒に、うさん臭いことを言ってくる。何でも大丈夫だよと言っているのだろうが、この男は本当に勉強なんか教えられるのだろうか。
「おっと、自己紹介が遅れたな。俺はジョシュア・B・ブックス。まあジョシュアでもブックスでも好きに呼んでくれ」
ブックスと言う姓は、この山のような本を見れば、確かに名は体を表している。彼は原稿用紙を丁寧に書類入れに片付け、テーブルを叩く。まあ座れと言っているようだ。
「ねえ先生、いったい昨日の騒ぎはなんなのさ?」
フリッツが問う。それは自分も知りたかった。あんな焚書騒ぎに割り込んで、この男性にどんな得があると言うのか。
「それがなぁ。痛飲して帰る途中だったんだよ。楽しそうなことやってるなぁと。それから覚えてねぇんだわ」
「なんだよそれ」
フリッツが笑い、キャルが心配そうに見つめ、ハイジが何だこいつはという顔をした。ヴィルヘルミナ先輩さえ苦笑気味だ。私も酷く呆れた。しかし、彼の全てを切って捨てる気にはなれなかった。あの横顔を見てしまったから。
「まあいいじゃねぇか。フリッツとキャルは課題やってきたんだろうな?」
「おうよ!」
「ええと、はい」
二人は席に座り、少しだけ自信ありげに、鞄からノートを取り出す。彼らは、本当にここで勉強していたらしい。ジョシュア氏は、早速解答の添削を始めた。
「なるほど。ケアレスミスが減ってないな。公式までたどり着けてるから勿体ないぞ」
教師たちにあれこれ言われても、適当に言いくるめて投げ出すフリッツが、彼の言葉を素直に聞いている。そう言えば最近、二人が教師に小言を言われることが減っている。勉強面に限りだが。
「何か、裏があるわね」
ハイジがうさん臭そうに彼らを見ている。悪いが私も同意見だった。案の定というか、次の課題を受け取ったフリッツがぽつり漏らした。
「課題とかじゃなく、漫画だけ見せてくれりゃいいのにな」
「俺はそれでもいいけどな。最近のお前らが好きにやってるのって、成績が上がってるお目こぼしってことはないか?」
「うっ……次の課題も頑張るよ」
そう言って彼は、積みあがった本の中から漫画を物色し始めた。次に採点を受けているキャルも、それを羨ましそうに一瞥した。ああ、そう言うことか。
「漫画見たさにこんな丘を登って、うさん……知らない人と勉強してたの?」
「ハイジちゃん、その言い方は失礼よ?」
さっきから苦笑を崩さないヴィルヘルミナ先輩が、一応はたしなめる。確かにと、ハイジが頭を下げた。ジョシュア氏は手を振って気にしないよう伝える。
「でも姉さんもミナ先輩も模範生だろ? 先生に何を教わればいいんだろ?」
「別に私たちは、特に教えてもらわなくても」
ジョシュア氏は特に失望した様子はなく、素直にうなずいて、私に水を向けた。
「そっちのはどうだ?」
”そっちの”ってなんだよ? そう思った。そしてもちろん私は、何かを教わるつもりはない。
「そもそも勉強ってする必要あるか?」
ほんの一瞬だけ、彼の眉間にしわが寄せられ、それはすぐに苦笑に変わった。
「ふむ、どうしてそう思う?」
これには困った。いいからやれと言われることはあっても、どうしてそう思うか尋ねられたことはなかったからだ。私はなんとか言葉を手繰り寄せようとした。
「勉強したところでさ、別になんも変わらないじゃん。俺は一生工場で鉄板を運ぶ人生だ」
ジョシュア氏はしばらく考え、曖昧に「ふむ」と返した。
「まあいいんじゃね?」
「いいのかよ!?」
驚いて聞き返してしまったが、彼は本気で言っているようだ。
「ただな、勉強はテキトーにやればいいけど、”勉強のやり方”はある程度やっておけ」
「なんだよそれ?」
「勉強のやり方」などと言った教科など受けたことはないし、そんな単語教師たちから出たこともない。
「一夜漬けで良いんだよ。暗記のやり方とか、ノートの取り方とか。そう言うのを練習しておけば、将来本気で何かを好きになった時、自分で学ぶことが出来るからな」
「下らねぇ屁理屈だな」
可愛くない返事をしてしまう。この時の私には「将来」なんて分からなかった。カルロ・シューラーは自分を可愛くない子供だと思っていた。だから彼の言葉も分からなかったけど、実はもう、他の大人と違うと感じていた。
「まあいいじゃねえか。襟首掴んで机に向かわせるのはちゃんとした教師がやることだ。俺みたいないい加減なのは、テキトーに教えるさ」
ジョシュア氏は笑う。ハイジは彼を測りかねるのか、まだうさん臭そうだな表情だ。むしろ普段ガードが堅いはずのヴィルヘルミナ先輩は、何か興味深そうに彼を見ていた。
「そう言えば、昨日の騒ぎは何なんだ? かなり滅茶苦茶やられてたようだが」
彼が話題を振った時、フリッツから、せきを切ったように教師たちへの文句が噴き出した。
ここで振られた話題のおかげで、私たちの運命は良くも悪くもねじ曲がったのだったが。




