第3話「怠惰先生」
コーレンブルグの街は、梅雨になると霧に包まれる。工場から吐き出される魔法薬のカスと雨が化合し、もうもうとしたもやを発生させる。街人たちは、これをコーレンフォグと呼んでいる。
この日も、霧の濃い一日だった。
焚書騒ぎの翌日、私はフリッツ、キャルの二人に連れられて、人のいない山道を歩いていた。
フリッツは図体がでかく、キャルはちび。正反対の親友同士だった。彼らがなぜ私に構うのかよく分かっていなかったし、当時の私はそのありがたさを認識してはいなかったが。
木の間から丘を見上げると、それなりに大きな工場――ただし廃工場があった。十五年前の敗戦で、入植地をごっそりもっていかれ、景気は下向き。中小の工場は苦しい思いをしていた。しかしこんなところにポツンと工場があるのはおかしい、とは思った。
工場は稼働していない様子だ。煙突から魔法薬が燃える煤が吐き出されていないからだ。代わりに匂ってくるのは、そこら中に生えた草の香りだ。
「カルロもさぁ、やっと来る気になってくれたよなぁ。まあ面白い所だから安心しろ」
フリッツはご機嫌だが、私はどうだか、と思っていた。無論口には出さない。
キャルはと言えば、鼻をすすっている。まだ昨日燃やされた本のことを気にしているらしい。残念ながら生徒たちの機転で救われた本はごくわずかで、その中にキャルの技術書は入らなかった。流石の私も、たかが本で泣くなとも言えず、他にかける言葉もなかったので、特に何も言わない。
「まあ元気出せよキャル。俺が大会で優勝して、賞金で何冊でも買ってやるからさ」
その励まし方はどうかと思ったが、多少元気づけられたように見えたのは、二人の関係性ゆえか。フリッツが何度か参加している武道大会は規模が大きいらしい。彼が上位に食い込んだという話を、私は聞いたことがない。
「フリッツの賞金なんだから、フリッツが使わないと。菓子パンとか、ドーナッツとか」
キャルがそんな言葉を返したのは、照れ隠しが言わせたお礼代わりだろうか。そしてフリッツは急に立ち止まり、腹をさすった。
「ドーナッツって聞いたら腹減ってきた」
「先生のところに行くまで我慢だよ?」
キャルは調子を取り戻したのか、道を歩き出す。
「そう……。いっぱい勉強して、見返してやるんだ」
何が彼をそうさせるのか? 普段小動物のようにおどおどしている彼が、本やロボットのことで意固地になるのが分からない。
そして、二人がなぜ自分を執拗に誘うのかも分からない。
「これから勉強に行くのか? なら俺は帰るが?」
フリッツは苦笑し、キャルは慌てた。
「そうじゃないんだ。あそこにはね。技術書がいっぱいあって……」
キャルが付け加えようとして何かに気付き、小さく悲鳴を上げ、本当に小動物のように体を震わせた。木の間からがさがさと音がしたからだ。しかし、緊張はすでに解かれた。茂みから出てきたのは、上等の服を、草の種でいっぱいにした女子二人だったからだ。
「お、脅かさないでよ。姉さん」
涙目のキャルが抗議する。自分達を追いかけてきた二人組は、キャルの姉ハイジと、模範生のヴィルヘルミナ先輩だ。
「ハイジが勝手に追いかけて来るのが悪いんだろ?」
フリッツの抗議は、丁重に無視された。
「だって、こんな林の中に道があるなんて、ぺっ、ぺっ!」
それは全く、抗議への返答になっていなかった。そして矛先は弟に向かう。
「キャル、お姉ちゃんいつも言ってるでしょう? 男ならどんと構えてなさい」
「ご、ごめん」
「ほら、すぐ謝っちゃダメ」
栗色のポニーテールが揺れる。ハイジは、アーデルハイトという品の良い名前があるのに、幼名である「ハイジ」の名で呼ばれていた。普通は嫌がりそうなものだが、まったく気にしていないらしい。
「こっちこそ言ってるだろ? キャルほど勇敢なやつはいないよ」
「ほら、そうやって甘やかす!」
「あんだと?」
言い合いを始めた二人の間に、ヴィルヘルミナ先輩は慣れた様子で入り込む。
「喧嘩はやめましょう? キャル君も困ってるわよ?」
あくまで穏やかに、諭すように仲裁され、二人はばつが悪そうに離れる。そして彼女は終始にこにこ笑っている。
「追いつけて良かったじゃない。フリッツ君の言う通り、勝手に追いかけた私たちも悪いわ」
ヴィルヘルミナ先輩は、中等部最高学年の15歳。容姿端麗、芸術科の才女らしいが、なぜか自分たちの世話を焼こうとする。
私は正直、彼女が苦手だった。腹の内が読めないというか、巧みに自分を飾っている奴、という印象を持っている。それが嫌悪感に繋がらないのは、飾られた自分に陶酔している感じがしなかったからだろう。それでも何となく「ミナ先輩」と呼ぶのがはばかられて、略さずに呼んでしまうのだ。
そしてなぜ今彼女が、ここでハイジとフリッツをなだめているのか。私にはよく分からなかった。ヴィルヘルミナ先輩は悪戯っぽく笑う。
「絵本、あなたのベッドに届けておいたから」
私は渋い顔をした。どうやらやはり、まだあの本とはおさらばできないらしい。お礼を言いそびれたことに気付き、密かに後悔する。
「で、こんなところでどんな悪さ? 私たちも混ぜなさいよ」
ハイジが仁王立ちで尋ねる。当然、私も知らない。
彼女もまた模範生で、いわゆる上流の人間である。なのにフリッツらと一緒になって、色々馬鹿をやっている。無理やり付き合わされた虫取り大会で、カブトムシを満載した虫かごを見せびらかす彼女に、心底呆れたものだ。
「なにって、勉強だよ」
フリッツが悪びれず言い出した。案の定「ありえない」と言う反応。私とフリッツは勉強嫌い。キャルも好きな科目ばかりやっているから、元から信用されていない。
「まあ、まずは話を聞きましょうよ。ここから遠いの?」
「……すぐそこだけど」
不承不承、フリッツは二人を連れて行く事にしたらしい。どう考えてもろくでもない場所だろうに。
そして数分後私たちは、見事なまでに劣化したトタン屋根を見上げていた。
「ちょっと、こんなところに入るの?」
「大丈夫。ほら、中は片付いているよ?」
キャルの言うように、廊下は最低限の掃除がされていた。誰か住んでいるのか? 当然ながら、私は危機感を覚える。
「やばいとこじゃねえだろうな?」
「そうよっ!」
私の言葉にハイジがかぶせてきた。今度ばかりは彼女の方に味方すべきだと思った。
「でも魔導内燃機関の音がするわ!」
「じゃあ、本当に誰か住んでるんですね」
ヴィルヘルミナ先輩とハイジが推理の真似事をしている間に、フリッツとキャルはずんずんと廃工場を進んでいき、「守衛室」と書かれた開き戸を開けた。
目に入ったのは本、本、本だった。図書館よりずっと強い紙の匂いだ。よくわからない辞書みたいな本や外国語の本。その中に紛れて、絵本や漫画があった。
「せんせー、怠惰せんせー。来たぞー!」
フリッツが本をよけながら、奥の扉をノックする。多分、当直室だ。
「おー、入っていいぞ」
中から男の声がする。いや男か女以前に、「大人」にうんざりしていた私は、既に帰りたくなっていた。しかし嫌だとも言い出せず、フリッツに続いてドアをくぐった。
しかし「怠惰先生」とは酷い名前だ。生徒たちは嫌いな教師に渾名を付けはしたが、ここまでのはないであろう。昨日の姿を完璧に形容しているとは言え。
そして、私はそこで彼と再会した。
本が山積みされたテーブルで、一人の男性がひたすらに万年筆を動かしていた。昨日焚火の前で教師たちに食ってかかり、追い出された男だ。
ぼさぼさの赤毛と無精ひげ。とても信用できる外見ではない。だが、普通の大人と違うのは、目だった。
今の私が映画を見るとき、役者の目を見る。その人の目に、全ての人格、人生が現れるからだ。彼の目は、情熱とか真摯とか、そんな言葉では言い表せない。ただ何かに、大切な何かに魅せられた者だけが持つ瞳。私が初めて触れた、燃え上がるような熱量だった。
正直に言おう。この無精ひげでよれよれのシャツを着た、まさに「怠惰先生」の名が相応しいような男性。私は、彼に魅せられたのだ。
「おーい、カルロ君? どうしたの?」
ヴィルヘルミナ先輩が呼びかけてくれなかったら、私はずっとそうしていただろう。何でもねぇと、ぶっきらぼうに言い放った。聡い彼女に、自分の中の何かを見透かされないか、それが何故か怖かった。
私は、恋をしたのだった。




