第2話「生徒たちの失望、酔っぱらいの泣き言」
※本話には差別用語が含まれます。これは作中の差別行為を表現するためのものであり、差別的な意図や思想によるものではありません。
10年前 白銀暦15年 春
「――ル、シャルロッテ・シューラー! 返事をしなさい!」
目の前でぶつけられた怒鳴り声で、私の思考は戻ってきた。気だるそうに視線を上げると、大嫌いな体育教師が、校庭の焚火を指さして叫んでいた。
「その名で呼ぶんじゃねぇ!」
怒鳴り返した瞬間、ほっぺたがばちんと鳴って、ひりひり痛んだ。どうやらビンタを食らったらしい。そしてそれは、別に珍しいことでもない。
シャルロッテ・シューラー、つまり13歳の私は、この頃にはもう男性名である”カルロ”を名乗っていた。ぼさぼさな黒髪と三白眼。煤汚れたシャツと傷んだズボン。鹿撃ち帽は、卒業生が置いて行ったものをビンゴゲームか何かでものにした。特段趣味などではないが、これをかぶると女に見えないのが気に入っていた。
「お前の番だ。早く投げこめ」
体育教師は、私の右手を指さす。手の中には一冊の絵本。別に好きでも嫌いでもなかったが、事情があってなんとなく捨てられない本だった。彼は、私に自分の手でこれを火に投げ込めと命じたらしい。特に考えもせず、絵本を持った手を振り上げる。
そこで気付いた。生徒たちの何人かは、好きな漫画を永久に読めなくされて、暴れてビンタを食らい、すすり泣いていた。男子生徒のキャルなどは技術書を抱きかかえて教師たちに抵抗している。彼の家は金持ちだが、両親は息子のロボット好きに理解がない。こっそり貯めた資金でやっと買った物なのだろう。普段の気弱さにイライラさせられる彼だが、今日は頑張っている様子だ。それも多分無駄に終わる。
よく分からないが、ロボットが戦争にも使われるから燃やすらしい。そんなに戦争が嫌なら、銃や大砲を燃やせばいいのに。それで戦争がなくなるとは思えないが、少なくとも本を燃やすよりは発想は飛躍していないはずだ。
そう考えたら、言う通りにするのが馬鹿らしくなった。
「なあセンセー」
「何だ? 早くしろ」
不機嫌そうな体育教師を見て、思う。不機嫌ならやめればいいのにと。
「この本、何で燃やすの?」
彼はまたこの質問かとでも言いたげに、面倒くさそうに言った。
「この本には『乞食』がでてくるだろう? それは差別用語だ」
「ふーん」
彼の言うことはよく分からなかったが、差別用語と言うのが書いてある本は燃やされるらしい。とたんに、手の中の本が惜しくなった。
「これ、かあちゃんの形見なんで」
鬼の目にも涙とでもいうべきなのか、体育教師の表情が一瞬だけ、同情を帯びたものに変わる。しかし結局、彼は自分の使命を実行する事にしたようだ。
「形見なら、他にもあるだろう?」
もう形見は無い。そもそも親に捨てられた私には、この絵本に良い思い出があるわけでもない。だから捨てるべきか、持っておくべきか決めかねて、宙ぶらりんになっていた本だった。
だがである。これを燃やすのは、自分の意志によるべきで、いけ好かないセンコーの命令であってはいけない。そう思えた。
「そもそもさ、燃やさないといけないって誰が決めたの?」
「学長だ。早く燃やしなさい」
「じゃあ学長はなんで燃やさないとって思ったの?」
「そんなことは知らん。いい加減にしなさい」
「知らないのに燃やしてんの?」
体育教師の目がかっと開かれ、再び手のひらが振り上げられた。自分の体格では、彼に勝てない。子供なりにそれを理解しているから、抵抗はしなかった。目をつむってその時を待った。しかし衝撃と乾いた音の代わりに聞こえたのは、新人の女性教師が叫ぶ声だった。
「困ります! 部外者の方は!」
皆の目線が集中する。その先には、赤毛の男性がいた。よれよれで伸びきった襟付きのシャツを着て、ふらふら千鳥足でこちらに歩いてくる。変質者かと、皆が身構えた。
「なあ、やめてやろうぜ? もう十分じゃないか」
何を言っているのか分からなかった。少し時間を置いて、彼がこのお祭り騒ぎを非難していると気づく。恐らく皆もである。
「なんだあんたは? すぐに出て行ってくれ。警察を呼ぶぞ?」
男性は威圧されて初めて、体育教師に気付いたらしい、緩慢な動きでこちらにやってくる。
「なあ、もういいだろう? もう終わりにしようぜ? 子供はさぁ、大人に裏切られるのが一番つらいんだよ。あんたも分かるだろ? 昔はあんたも子供だったよな?」
それは抗議などではなく、お願いであった。何かを要求する態度としては情けないのかも知れない。しかし笑う者はいなかった。「子供は、大人に裏切られるのが一番つらい」それは、今この瞬間抱えている感情を一言で代弁するものだったであろうから。
男性がさらに体育教師に近づいた。コツコツと言う音がして、気が付いた。彼は義足だ。新大陸の戦争で受けた怪我だろうか? 私たちはそれで、彼の人生が決して愉快なものではないと察してしまった。
「いい加減にしないか!」
なけなしの我慢が限界に来たのか、体育教師が男性を突き飛ばした。男性はたちまち尻もちをつく。
「とっとと失せろ! このかたわめ!」
私はこの瞬間、体育教師を見限った。「乞食」と言う言葉に強権を振るう人間が、他人に「かたわ」などと吐きすてた。まさに「子供を裏切る大人」を体現したのだ。
男性は無言で立ち上がり、肩を落としてと去って行く。悲しそうな一瞥を残して。突き飛ばされたからではなく、誰も理解してくれなかったことに、ただ打ちひしがれているのではないか。そのような根拠のない思いにとらわれた。
だが生徒たちもそのままでは終わらない。体育教師の後ろ姿に、べーっと舌を出したのは模範生のハイジだ。彼女は男性がと立ち去る間、焚火に並んでいる生徒たちに、大げさな身振りで校庭にそびえるヒノキの大樹を指さした。意図を察した数名が、仲間の本を集めて走った。あそこの根元は本を隠せるくぼみがあるのだ。
それ以外の生徒たちは、ハイジに便乗して、体育教師に向けて変顔を始める。しかし要領の悪い者はいるもので、長くやり過ぎて振り返った彼に発見され、後ほど拳骨を頂戴するはめになった。
ふいに、右手の本が後ろからひょいと引き抜かれる。驚いて振り向くと、唇に人差し指を当てるヴィルヘルミナ先輩がいた。彼女は私の絵本を後ろ手に回し、更に後ろの女生徒がそれを受け取る。
たちまち絵本は姿を消す。余計なことをとも思ったが、とりあえず私の意地は守られたと感謝する。
「さあ、シューラー。早く燃やしなさい」
戻ってきた体育教師は、意地でも私の本を燃やす腹積もりらしい。私が校庭に唾を吐くより早く、気をつけをしたフリッツが大声で叫んだ。
「こいつ、意地張って燃やさないから俺が取り上げて放り込みましたよ」
凄いでしょ? と彼は胸を張った。彼は本当に口が回る。大柄なフリッツは、体育の教科”だけ”は優等生だ。それゆえ、強いことも言えなかったのだろう。体育教師は疑わし気に彼を見つめていたが、鼻を鳴らして他の被害者を探し始めた。私は今度こそ唾を吐き出す。もちろん絵本は、ヴィルヘルミナ先輩が何処かに隠してしまっている。しかし体育教師にそれを確認するすべはない。
フリッツが言った。
「貸しひとつな」
やっぱり余計なことをと思わないでもなかったが、機転を利かせて助けてくれたこと自体はありがたい、と思えなくもない。
「しかし、何やってるんだろ? 怠惰先生」
「怠惰先生」というのは、どうやらあの赤毛の男性のことを指すらしい。実にぴったりな形容だった。
「知り合いなのか?」
きわめて当然の、普通の問いだったが。フリッツは声をひそめ言った。
「詳しくは後で話す」
よく分からないが、私はとりあえず疑問を先送りする事に決めた。
彼が何者なのかよく分からない。でも彼が絞り出したお願いは、初めて響いた「大人の言葉」だった。
――子供はさぁ、大人に裏切られるのが一番つらいんだよ。あんたも分かるだろ? 昔はあんたも子供だったよな?




