第7話 天然ボケ1
深夜。
星月学の中央にそびえる双塔の頂上で、人影が一つ、屋根の縁に腰掛け、冷たい夜風に吹かれていた。
つまり、俺である。
二本の塔の間を夜風が吹き抜け、服の裾を激しくはためかせる。
しばらく星空を眺めていた。
そして、飽きた。
俺は立ち上がると、そのまま前へ一歩踏み出した。
当然、足元に道などない。
身体は一瞬で支えを失い、数百メートル下の地面へ真っ逆さまに落下していく。
耳元で風が唸りを上げた。
地面が急速に迫ってくる。
俺は片手を上げ、目の前を軽くなぞった。
次の瞬間。
落下していたはずの俺は、町の反対側にある建物の屋根へ突如として現れた。
靴底が瓦に触れると同時に、その勢いのまま前方へ駆け出す。
屋根を飛び越え。
煙突を蹴り。
建物から建物へと、高速で駆け抜ける。
通りの端までたどり着くと、俺は再び宙へ身を投げた。
今度は地面へ向かって、一気に急降下する。
両足が地面に触れる寸前、目の前の空間が大きく歪んだ。
視界が一度揺れる。
次の瞬間には、俺は再び星月学の双塔の頂上に立っていた。
そのまま危なげなく着地した。
「はぁ……」
俺は長いため息をついた。
魔法が当たり前で、天才も掃いて捨てるほどいるこの世界にあっても、俺の能力は唯一無二と言っていい。
空間属性。
四方と上下――あらゆる空間を「宇」という。
俺の能力を見た名付け親が、俺にぴったりだと選んだ名だ。
だが残念なことに。
俺が空間魔法を練習できるのは、こうして人目のない深夜だけだ。
空間能力は、あまりにも特殊すぎる。
誰かに知られれば、良くて、研究機関に研究対象として囲い込まれる。
さらに厄介なのは、学院で目立ちすぎた場合だ。
秘密裁判所が、これ以上俺を星月学に置いておくのは危険だと判断すれば、調査任務は即座に打ち切られる。
そして俺は、実働任務へ呼び戻される。
だから、よほどの事情がない限り、自分の魔法を知られるわけにはいかない。
俺が戦闘系の学科を選ばなかった理由の一つも、それだった。
遺跡へ入れるという条件があれほど魅力的でなければ、戦闘小隊に加わろうなどとは考えもしなかっただろう。
もちろん。
魔法を一切使わなくても、俺はAマイナス級の戦士だ。
普通のパーティーで適当に役目をこなすくらいなら、十分すぎる。
だが、空間魔法を使わずに未開発の遺跡へ潜るとなれば、話は別だ。
なのに晦朔の奴は、俺の苦労を少しも理解してくれない。
おかげで俺は、こんな時間に外で冷たい風に吹かれている。
この重い男め。
今、最も重要なのは、隊員募集の期限が終わるまで晦朔の追跡をかわし続けることだ。
さもなければ、自由どころか命まで危うい。
寮の自室であいつの魔力を感知した瞬間、俺はすぐに部屋を抜け出した。
あまりに急だったため、財布すら持ってきていない。
だからこうして、何もすることがないまま塔の上で夜風に当たっているのだ。
理論上は、部屋から本の一冊くらい手元に転送できる。
だが、そんなことをすれば魔力の痕跡を辿られる恐れがある。
特に晦朔は、俺の能力についてある程度知っている。
幸い、町に設置された魔力警報は、ほとんど飾り同然だった。
おそらく、面白半分で魔法を使う学生たちに壊されたか、誤作動を起こしすぎて誰も気にしなくなったのだろう。
おかげで、空間跳躍を使って夜の町を見て回るくらいはできる。
俺は目を閉じ、ゆっくりと魔力探知を展開した。
俺の魔力には、独特の空間属性が宿っている。
そのため、俺の魔力探知は普通の人間よりもはるか遠くまで届く。
相手に気づかれず、星月学と周辺の町を丸ごと探知範囲に収めることさえできる。
しかし、今夜の町は妙に平和だった。
寮でこっそり酒を飲んでいる奴。
訓練場で一人、居残り練習をしている奴。
それから、校舎裏で、ほとんど一つに重なるほど接近している二つの魔力反応。
これだよ。
俺が求めていた青春っていうのは。
俺は番組のチャンネルを切り替えるように、感知する場所を次々と変えていった。
そうして何度も「選局」を繰り返した末、ようやく、少し面白そうな気配を捉えた。
公園の隅で、一人の少女が三人の男子に取り囲まれている。
そのうちの一人は、少女の手首を強く掴んでいた。
どうやら、何か揉めているらしい。
とはいえ、魔力探知だけでは、何が起きているのかまでは分からない。
せっかく見つけた暇潰しだ。
俺はすぐさま塔から飛び降りた。
そして空間跳躍を使い、彼らの近くへ移動する。
揉め事が起きていたのは、公園のトイレに近い、人目につきにくい一角だった。
俺はトイレの裏側へ回り込み、壁に身を隠しながら、こっそり話を聞くことにした。
「ちゃんと払うから、先に放してよ……痛いよ」
少女の声には、はっきりとした動揺が滲んでいた。
彼女は腕を振りほどこうとしているが、手首を掴んだ男は一向に力を緩めない。
「はぁ? 手ぇ放したら、そのまま逃げる気やろ?」
「逃げないよ……」
「そんなん、誰が信じるんや?」
俺は壁の陰から、半分だけ顔を出した。
三人の男子。
囲まれた少女。
地面には、砕けた腕輪。
どう見ても、弁償金目当ての恐喝だ。
俺は彼らが言い争っている隙に、地面の破片を一つ、手元へ転移させた。
トイレガラの外に設置された照明術式へかざし、軽く確認する。
透明。
不純物なし。
百パーセント、純粋なガラスだ。
色をつける手間すら惜しんでいる。
さらに呆れたことに、恐喝をしている三人は星月学の制服を着ていた。
学校の名前を利用して、相手を油断させるためなのだろう。
だが、胸元の校章や家紋を見る限り、学生を装っているわけでもなさそうだ。
これは少し厄介だ。
魔力反応から判断すれば、三人とも笑ってしまうほど弱い。
とはいえ、彼らが星月学の学生であることに変わりはない。
ここでいきなり殴り飛ばせば、先に暴力を振るった俺の方が悪者にされ、学生会に訴えられかねない
その後に面倒事が続くのも、まず間違いない。
「さっき、この腕輪は数十聖樹貨だって言ったのに……どうして急に、そんなにたくさん払えって言うの?」
少女は、まだ自分が騙されていることに気づいていないらしい。
真面目に相手と話し合おうとしている。
よし。
今からこいつのことは、天然ボケと呼ぼう。
「俺が言うたんは数十万聖樹貨らの界隈じゃ、いちいち“万”まで言わへんねん」
先頭の不良学生は、少しも悪びれずに嘘をついた。
目の前の少女が、何を言っても信じるタイプだと、完全に見抜いているのだろう。
「そうだよ。これは聖山で採れる氷青石なんだぞ」
隣の子分もすぐに話を合わせた。
「俺たちは金に困ってるから、泣く泣く安値で売ってたんだ」
三人の口から、ただのガラス片にもっともらしい来歴が次々と付け足されていく。
「そうだ、そうだ、この石を探すために、俺のばあちゃんは聖山まで行ったんだ。崖のそばで足を滑らせて、今も入院してるんだぞ!ううっ……!」
小太りの男は、話しているうちに本当に涙を流し始めた。
最後には隣の仲間の肩へ顔を埋め、しくしくと泣き出す。
「そんなことがあったの……?」
天然ボケは、途端に申し訳なさそうな声を出した。
「ご、ごめんなさい。わたし、全然知らなくて……」
信じた。
それどころか、顔には明らかな罪悪感まで浮かんでいる。
「でも、わたし、本当にそんなにたくさんお金を持ってないの」
天然ボケは泣きそうな声で言いながら、財布の中身をすべて取り出した。
「今持ってる分は、全部渡すね。もう銀行も閉まってるから、残りは明日ちゃんと下ろしてくる。絶対に払うから!」
最初は、この場から逃げるための演技かと思った。
だが、ここまで来ると、三人の話を完全に信じているとしか思えない。
もはや、常識がないというだけでは説明がつかない。
どこかの貴族家で、過保護に育てられた箱入り娘なのだろうか。
そうでもなければ、いったいどんな環境で育てば、ここまで無防備になれるのか。
つい先ほどまで泣きじゃくっていた小太りの男は、金を見た瞬間に落ち着きを取り戻した。
涙を拭くことすら忘れ、天然ボケの金をひったくると、その場で数え始める。
驚異的な回復力だ。
彼の祖母にも同じ力があれば、とっくに退院しているだろう。
「なんや、これっぽっちか?」
先頭の男は眉をひそめた。
「こんなんじゃ、こいつのばあちゃんの入院代にもならへんわ!」
こいつまで、さっきの妙な設定を引き継いだ。
もう十分な額を巻き上げたはずだ。
それでも、向こうから金を差し出してくる絶好のカモを、ここで逃す気はないらしい。
「で、でも、わたし、本当にこれしか持ってないの……」
天然ボケは今にも泣き出しそうだった。
「わたしも星月学の学生だよ。逃げたりしないから」
「一緒に学校へ戻ろう? 寮の部屋に置いてあるお金を持ってくるから」
「制服も着てへんのに、ほんまに星月学の生徒かどうか分かるかいな」
「そうだ、そうだ」
三人が彼女と一緒に学院へ戻るはずがない。
学生会や警備員に見つかれば、この詐欺はそこで終わる。
それに、彼らにはまだ次の狙いがあるらしい。
「じゃあ……」
天然ボケは不安そうに三人を見回した。
「じゃあ、わたし、どうすればいいの?」
三人の男は、互いに顔を見合わせた。
長々と話を続けた末、ようやく狙いどおりの言葉を彼女の口から引き出した。
先頭の男の顔に、不快な笑みが浮かぶ。
彼はようやく天然ボケの手首を放すと、鞄から数個の水晶玉を取り出した。
それぞれの水晶の中には、淡い黄色の小型魔法陣が封じ込められている。
その時、彼の鞄の中から、何本もの腕輪がぶつかり合う音が聞こえた。
カチャカチャ。
かなりの数だ。
あの小太り、いったい何人ばあちゃんがいるんだよ。
「これは写真珠や」
先頭の男は一つを摘まみ上げ、内部の魔法陣を少女へ向けた。
「魔力を流せば、正面にあるもんを写真として記録できる」
水晶珠が強く輝いた。
しばらくすると、中の魔法陣が淡い黄色から青色へと変化する。
「もう一回魔力を流したら、さっき撮った写真を映し出せるんや」
再び青い光が瞬いた。
先ほどの天然ボケの姿が、水晶珠の上の空間に浮かび上がる。
先頭の男は、その出来に満足しているようだった。
普通なら、水晶が突然光れば反射的に顔を背けるものだ。
だが天然ボケは、ただ呆然とその場に立っていた。
以前にも写真珠を見たことがあるのか。
それとも、単に反応が追いつかなかったのか。
微動だにしなかったせいで、写真だけは妙に綺麗に撮れていた。
写真珠は決して安い品ではない。
これほど小さな水晶に写真術式を封じ込めるには、高位の術師が一つずつ作る必要がある。
しかも、一度しか使えない消耗品だ。
それを男は、使い方を説明するためだけに、ためらいなく一つ消費した。
それだけ、今回の投資では損をしないと確信しているのだろう。
天然ボケは、彼らが次に何を要求するつもりなのか、まだ分かっていない。
「今、金ないんやろ?」
先頭の男は、手の中の写真珠を軽く振った。
「服を脱いで、一枚撮らせろや」
「期限までに金を返したら、この写真珠はお前に返したる」
「けど、返さんかったら――」
男は口元を歪めた。
「返さんかったら、その写真を売って、足りん分を埋める。それでええやろ?」
「えっ?」
天然ボケは、ようやく相手の狙いに気づいたらしい。反射的に両腕で身体を抱え込んだ。
「し、知らない人に身体を見せるなんて、だめだよ……」
いくら世間知らずでも、こればかりは本能的に拒絶した。
「ほんなら金を返せや!」
「金もないくせに、文句ばっかり言うな!」
二人の子分が声を荒らげ、天然ボケに考える時間を与えまいとする。
「安心せえ」
先頭の男は急に声を柔らかくし、いかにも親切そうな顔を作った。
「期限までにちゃんと返せば、誰にも見せへん。約束したる」
天然ボケは明らかに迷っていた。
俯いたまま、右手で上着の一番上のボタンを不安そうにつまむ。
三人は、もうひと押しだと見るや、すぐに畳みかけた。
「嫌なら、警備官を呼ぶで!」
「警備官が来たら、もう俺たちにもどうしようもないからな!」
「こんな高い物を壊したんだ。下手すりゃ十年は牢屋だぞ!」
どの口が言ってるんだ!
「警備官は呼ばないで……」
天然ボケの声が震え始める。
「分かったから。わたし……ちゃんとするから、ちょっと待って」
ようやく決心したらしい。
震える指で、上着の一番上のボタンを外そうとする。
三人の不良は、天然ボケから目を離そうともせず、揃って生唾を飲み込んだ。
ジャアアアッ――!
突然、トイレの中から水を流す音が響いた。




