第8話 天然ボケ2
「お前、トイレを確認しとけって言うたやろが!」
あと少しで事がうまく運ぶというところを邪魔され、リーダー格の男は怒りの矛先をすべて小太りの男へ向けた。
「お、俺が見た時は、本当に誰もいなかったんだって……」
小太りの男はひどく不満そうだった。
しかし、その弱々しい弁解に返ってきたのは――
バシン!
頬への強烈な平手打ちだった。
「いやあ、すっきりした」
俺はズボンのベルトを締めながら、いかにも用を済ませたばかりという顔でトイレから出てきた。
外で四者四様の表情を浮かべている四人を見ると、俺は明るく片手を上げた。
「よう。こんな時間まで見回りか?」
リーダー格の男は一瞬きょとんとした。
しかし、俺が三人を学生会の人間だと勘違いしていると悟ると、すぐに話を合わせ、愛想笑いを浮かべた。
「いやいや、これくらい大したことあらへん」
そう言って、隣の小太りの脇腹を肘で小突く。
「あ、ああ。ちょっと学生会の用事を処理してるんだ。悪いけど、先に行ってくれないか?」
小太りもすぐに意図を察し、適当な嘘をついて俺を追い払おうとした。
「えっ? あなたたち、学生会の人だったの?」
天然ボケが驚いた顔で三人を見た。
俺を含む四人は、恐ろしいほどの連携を発揮して彼女の質問を無視した。
いつか、この誤解が解ける日が来ることを祈ろう。
「おや?」
俺はふと足元へ目を向けた。
地面に散らばる腕輪の破片を見つめ、まるで世紀の大発見をしたかのように目を見開く。
「おやおやおやおや――!」
俺はゆっくりと破片へ近づいていく。
三人の不良たちの表情が、目に見えて強張った。
「お前、何を――」
リーダー格の男が言い終えるより先に、俺は勢いよく地面を滑った。
膝で滑り込み、破片の目の前にぴたりと止まる。
全員が俺の行動を理解できず、唖然としていた。
俺は両手を震わせながら、地面に落ちたガラス片を壊れ物のようにそっと拾い上げる。
「君生まれし時、我いまだ生まれず」
「我生まれし時、君すでに砕けたり……」
俺は破片を胸元へ抱き、悲痛な表情を浮かべた。
「君たちは……これが何という宝石か知っているのか?」
「わ、分かるよ」
天然ボケがおそるおそる手を挙げた。
「さっき言ってた、氷青石でしょ?」
「違う!」
俺は勢いよく振り返った。
「大間違いだ!」
突然怒鳴られ、天然ボケは肩をびくりと震わせた。
近くで見ると、いかにも人を疑うことを知らなさそうな顔をしていた。
雪のように白い肌。
肩まで流れる淡い金髪。
涙の膜が浮かんだ青い瞳。
そして、顔中に「わたしは簡単に騙せます」と書いてあるような、無垢な表情。
その無邪気な顔立ちに反して、体つきには意外なほどメリハリがあった。
首には十字架が下がっている。
よく見れば、鞄の中には『聖約』らしき本も入っていた。
おそらく、神聖教に改宗した貴族家の令嬢だろう。
神聖教国で生まれた牧師の多くは、幼い頃を孤児院で過ごす。
早いうちから世間の複雑さに触れているため、ここまで純粋に育つとは考えにくい。
だが今は、彼女の出自を推理している場合ではない。
まだ芝居の途中だ。
「無知め!」
俺は破片を高々と掲げ、涙ながらに宣言した。
「これは伝説の――寒天雪原氷山凝霜インペリアル・ブルー!」
「星月国全土に、対を成す二石しか存在しない至宝だ!」
「最後に世に出たのは、姬皇女の十六歳の成人式!」
「その片割れは国宝として、星月帝陛下から姬皇女に直々に下賜された!」
俺は視線を落とし、掌の上にあるガラス片を見つめた。
声が震え始める。
「まさか……もう一石が、こんな場所へ流れ着いていたなんて」
「それが……」
「砕けてしまった!」
「うわああああん!」
最後には悲しみを抑えきれなくなったふりをして、破片を抱き締めながら大声で泣き始めた。
天然ボケの顔から、瞬く間に血の気が引いていく。
普通の宝石ではなく、とんでもない国宝を壊してしまったと思ったのだろう。
小動物のように、全身を震わせ始めた。
三人の不良も、俺が何を企んでいるのか理解できていないらしい。
ただ、話を聞く限りでは、俺は腕輪の価値を引き上げ、彼らに味方しているように見える。
リーダー格の男は、すぐに話へ乗ってきた。
「せ、せやせや! 俺らは今、国宝を壊した犯人を取り調べとるところや。せやから、お前は先に――」
最後まで言わせず、俺は男の胸へ勢いよく飛び込んだ。
「犯人を厳しく罰してください!」
涙と鼻水を、思う存分制服へ擦りつける。
「国宝を壊すような極悪人は、即刻死刑です!」
「ううっ……違う!」
「死刑なんて生ぬるい!」
「今すぐ、この場で処刑しなければ!」
「分かった、分かったから、はよ離れろ!」
リーダー格の男は顔を引きつらせ、必死に俺を押し退けようとした。
だが俺は腰へ両腕を回し、全体重を預けてしがみつく。
俺たちが揉み合っている最中――
ビリッ!
男が肩から斜めに掛けていた鞄に、大きな裂け目が走った。
直後。
中から、何十本もの同じ形をした「伝説の国宝」が飛び出した。
ジャラジャラジャラ――!
大量の腕輪が地面一面に散らばった。
目の前に並ぶ、量産型の国宝。
その光景を前に、全員が顔を見合わせた。
現場は、言葉では表現し難い気まずさに包まれる。
地面いっぱいに転がる「量産型ばあちゃん」を見て、小太りは何を思ったのだろう。
経験豊富な名俳優である俺は、当然ながら誰よりも早く我に返った。
大きく息を吸い込む。
そして、今出せる最高音を全力で響かせた。
「きゃああああああ――!」
「泥棒!」
「国宝泥棒だあああああ――!」
十拍にも及ぶE6の高音に、三人は完全にドン引きしていた。
近くに人影などほとんどない。
リーダー格の男は反射的に鞄を押さえ、三人揃って背を向けて逃げ出した。
「待て!」
「逃げるな!」
俺は捕まえるふりをして、数歩だけ追いかける。
同時に、彼らの背中へ向かって笑顔で手を振った。
さようなら。
二度と会わないことを祈ろう。
短い人生の中で、俺が学んだことが一つある。
「笑う顔に矢立たず」ということわざが本当かどうかは知らない。
だが、まともな人間が狂人に関わりたがらないのは、間違いなく本当だ。
「待ってください!」
背後から、天然ボケの焦った声が飛んできた。
彼女は勢いよく駆け出すと、逃げるリーダー格の服を背後から掴んだ。
「まだ、よく分かってないんだけど……」
「わたし、まだお金を払ってないよ!」
は?
俺の脳は、生まれて初めてと言っていいほど完全に停止した。
固まったのは俺だけではない。
無理やり引き戻されたリーダー格の男も、その場で硬直していた。
男はゆっくりと振り返る。
その顔は、俺以上に困惑していた。
「お前……」
俺は額を押さえた。
「本当に、こいつらがお前を騙しているって分からないのか?」
もう我慢の限界だった。
リーダー格の男も、ようやく俺の狙いを理解したらしい。
こちらへ顔を向けると、表情を険しくした。
「さっきから何を狂ったように演じとるんかと思ったら」
「俺らを追い払うためやったんか?」
天然ボケは、信じられないという表情で男を見た。
「じゃあ……」
「本当に、詐欺師さんなの?」
「はははははは!」
男はとうとう演技をやめ、腹を抱えて大笑いした。
「こんな騙しやすい奴、生まれて初めて見たわ!」
「この男があんだけ体張って、ようやく俺らを追い払ったっちゅうのに、お前、自分から引き戻しよった!」
「はははは! 俺がこいつやったら、お前のアホさに泣いとるで!」
正直、さっきまではそこまで腹も立っていなかった。
だが、ここまで面と向かって馬鹿にされると、さすがに腹が立ってきた。
「まあ、ええわ」
リーダー格の男は笑うのをやめ、肩を回した。
「そんなに英雄気取りで女を助けたいんなら、先にお前を痛い目に遭わせたる!」
男の右拳が、魔力に包まれた。
次の瞬間。
その拳が、一直線に俺の顔へ迫ってくる。
遅い。
俺は一歩も下がらなかった。
ただ右手を上げ、正面から拳を受け止める。
パンッ!
拳と掌がぶつかった。
俺は五本の指に力を込める。
拳を覆っていた魔力が、音を立てて砕け散った。
男の顔に浮かんでいた凶悪な笑みが、瞬時に固まる。
全力で放ったはずの一撃は、俺の掌に薄い血の跡を残しただけだった。
「その程度か?」
俺は無表情で男を見た。
「三下」
「失せろ」
男の顔が青ざめた。
反射的に二歩ほど後ずさる。
ここに至って、ようやく俺たちの実力差を理解したらしい。
これ以上戦えば、一方的に殴られるだけだ。
男は背を向け、逃げようとした。
その時だった。
「《祝福魔法》!」
俺の背後で光が瞬いた。
天然ボケは、自分に祝福魔法をかけたらしい。
「あなたが、エイディスの言ってた悪い人なんだね。もうほかの人を騙さないように、わたしがちゃんとお仕置きするから!」
祝福魔法をまとった天然ボケは、ストレートを打つ構えのまま、リーダー格の男へ向かって駆け出した。
なぜだ?
なぜこいつは、事態がうまく収まりかけるたび、必ず余計な問題を引き起こすんだ?
まったく理解できない。
男は最初こそ驚いていた。
しかし、すぐに勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
ここは、許可なく魔法を使うこと自体が禁じられている区域だ。
無許可での強化魔法。
そして故意の暴行。
この二つが揃えば、男たちは天然ボケが卒業するまで、いくらでも金を毟り取れるだろう。
「はぁ……」
これからは、馬鹿には近づかないようにしよう。
感情の上では、あの男に一発くらい痛い目を見せてやりたい。
だが理性に従い、俺は間一髪のところで男の前に割って入った。
天然ボケは、まともな戦闘訓練を受けたことがないらしい。
拳の軌道は、笑ってしまうほど真っ直ぐだ。
予測するのは簡単だった。
胸の前に掌を出し、向こうからぶつかってくるのを待てばいい。
これって、女の子と手をつなぐことになるんだろうか?
俺の掌が、彼女の拳へ触れようとした瞬間。
妙な感覚に襲われた。
周囲の時間が、急にゆっくり流れ始めたように感じる。
待て。
何だ、これは?
まさか走馬灯か?
冗談だろう。
まともな訓練も受けていない小娘の拳だ。
祝福魔法で身体能力を高めたところで、せいぜい――
待て。
あれ?
こいつの拳、少し……
いや。
少しじゃない。
とんでもなく――
くっそ重い!
重すぎる!
「ドゴォンッ――!」
拳と掌が接触した瞬間、恐ろしい魔力が爆発した。
衝撃が右腕を伝い、そのまま胸の奥へ流れ込んでくる。
空気が押し潰され、肉眼でも分かるほどの衝撃波が周囲へ広がった。
俺の背後にいたリーダー格さえ、吹き飛ばされかけている。
「えっ?」
天然ボケは、自分の前に立っている俺を不思議そうに見た。
「なんで、そこにいるの?」
そして俺の肩越しに、逃げていく男へ向かって叫ぶ。
「逃げないで! 今のはなし! 今度こそお仕置きするから!」
今度こそ、男は一度も振り返らずに逃げていった。
さっきの一撃が頭に直撃していたら――
まともな欠片すら残らなかっただろう。
天然ボケは、まだ男を追いかけたそうにしていた。
しかし、俺が片膝をついていることに気づくと、その場に残り、隣へしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
「さっき、どうして急にわたしの前に出てきたの?」
彼女は少し考え込んだ。
そして、ひどく真剣な顔で尋ねる。
「もしかして……あの人、あなたのお友達なの?」
ツッコミたいことは山ほどあった。
それはもう、山ほどあった。
だが今の俺には、右手の感覚がまったくない。
腕から流れ込んだ衝撃で、肋骨も何本か折れているらしい。
俺はもう、息も絶え絶えだった。
残された力を振り絞り、今一番伝えたい言葉を口にする。
「俺に……」
「治療魔法をかけてくれ」
「頼む」
天然ボケは、途端に気まずそうな顔になった。
俯き、両手の指を不安げに絡ませる。
「あのね……」
「一番近い教会の施療院まで、連れていこうか?」
よし。
こいつは完全に役に立たない。
今やるべきことは、さっさと彼女を追い払うことだ。
彼女さえいなくなれば、空間魔法を使って収納空間から治療薬を取り出せる。
俺は泣いているようにしか見えない笑顔を、無理やり作った。
歯を食いしばりながら答える。
「俺は大丈夫だ」
「元気だ」
「だから帰れ」
「俺のことは気にするな」
まともな判断力を持つ人間なら、今の俺を見て「元気」だとは絶対に思わない。
しかし天然ボケは、俺の「輝くような笑顔」を数秒じっと見つめたあと、本当に納得したように頷いた。
立ち去る前に、彼女は真剣な顔で頭を下げる。
「あなた、ちょっとおバカさんだけど……」
「わたしを助けに来てくれたんだよね?」
「ありがとう」
「……どういたしまして」
俺は歯の隙間から、どうにか言葉を絞り出した。
「早く帰ってくれ」
あと二言も話されたら、本当に命が危ない。
精神的にも。
肉体的にも。
天然ボケがようやく道の向こうへ消えると、俺は即座に収納空間を開き、治療薬を一本取り出した。
ゴクゴクゴク――!
一気に飲み干す。
足りない。
もう一本取り出した。
ゴクゴクゴク――!
二本目をすべて飲み終えたところで、胸を締めつけていた瀕死の感覚が、ようやく薄れ始めた。
学校という場所は、俺が以前いた世界よりも単純で平和なのだと思っていた。
どうやら、間違っていたらしい。
むしろ今までの俺こそ、象牙の塔で暮らしていたのだ。
あそこでは、問題が起きれば、相手を「ダダダダッ」と蜂の巣にして終わりだった。
それに比べて、人間社会はあまりにも複雑で恐ろしい。
どうして俺の前には、こんな人間ばかり現れるんだ?
治療薬を二本も飲んだというのに、肋骨にはまだ鈍い痛みが残っていた。
とはいえ、時間はすでに夜半を大きく過ぎている。
晦朔も、さすがにもう寝ているだろう。
俺は胸元を押さえながら、疲れ切った身体を引きずって寮へ戻った。
しかし、一階のロビーへ足を踏み入れた瞬間。
今、一番聞きたくなかった声が耳に入った。
「あっ、やっと帰ってきた!」
羽衣先輩は、足を引きずる俺を見るなり、慌てて駆け寄ってきた。
俺の腕を取り、身体を支えてくれる。
「どうしたの?」
「何があったの?」
「大丈夫?」
「元気です」
今夜起きたことなど、もう二度と思い出したくなかった。
「あ、そうだ」
羽衣先輩は何かを思い出したように、ポケットから折り畳まれた紙を取り出した。
「副会長から、宇くん宛てのメモを預かってるよ」
そう言って、俺の手に紙を押しつけてきた。
「待ってください」
「それ、先に――」
止めるより早く、紙が掌へ触れた。
次の瞬間。
紙面から、何本もの細い黒い影が勢いよく飛び出した。
小さな蛇のように、俺の掌の上を好き勝手に這い回る。
やがて黒い影は互いに絡み合い、一つの短い命令文を描き出した。
――部屋に戻れ。
あいつ、いつの間にこんな呪いじみた術まで覚えたんだ?




