第4話 入学式
夕方。
星月学名物の一つ――新入生全員参加の入学式。
俺もその洗礼を受ける時間がやってきた。
そして俺は、すでに遅刻していた。
とはいえ、ほんの数分だ。
そう慌てるほどのことでもない。
俺は相変わらずのんびりと、純白の大講堂へ向かって歩いていた。
なにしろ、少しでも長くベッドに居座るため、最後の最後まで全力を尽くした結果である。
長い列を作っていた新入生たちは、すでに全員会場へ入っていた。
講堂の前は閑散としており、重い足取りで入口へ向かっているのは俺一人だけだ。
受付を担当していた眼鏡の男子生徒が、とうとう我慢できなくなったらしい。
「そこの君、早くして! もう遅刻してるんだよ! 式が始まっちゃうから!」
「はいはい、今行きます。すみません」
俺はこれ以上ないほど申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
ただし、歩く速さは一切変えなかった。
眼鏡の男子生徒は入口に立ったまま、今にも地団駄を踏みそうな勢いで俺を待っていた。
ようやく彼の前までたどり着くと、すぐさま受付名簿を差し出される。
「名前と学科をここに書いて。早く!」
「了解です」
俺は素直に名前を書き、ペンを返した。
そして、そのまま来た道を引き返そうとする。
「ちょっと待って!」
眼鏡の男子生徒が慌てて俺の前に回り込んだ。
「どこへ行くつもり? 会場の入口はこっちだよ!」
「ああ、すみません」
俺は今初めて気付いたように頷いた。
「少し迷ってしまって」
入口は一つしかない。
我ながら、まったく説得力のない言い訳だった。
講堂へ入ったあと、背後から重いため息が聞こえた気がした。
あれほど抜けた新入生を見るのは、彼も初めてだったのだろう。
もっとも、俺としては、あのまま帰してくれた方がお互い楽だったのだが。
……悪かった。
講堂の内部は、外観に負けず劣らず壮麗だった。
高くそびえる丸天井は本物の夜空を思わせ、数百本もの魔法の蝋燭が宙に浮かんでいる。
星明かりのような光が、ゆっくりと明滅していた。
壇上の両側には、淡い紫色の拡声魔法陣が展開されている。
学生会魔法技術部の学生たちが陣の要所に控え、光が弱まり始めた術式へ時折魔力を補充していた。
この講堂を動かし続けるだけでも、相当な手間がかかるらしい。
だが今は、それよりも大切な問題がある。
俺は辺りを見回した。
講堂内の席は、ほとんど埋まっている。
眠るのに適した――いや、式典の話を真面目に聞くのに適した席を見つけるのは、なかなか難しそうだ。
きょろきょろしていると、遠くから誰かが大きく手を振っているのが見えた。
羽衣先輩だ。
あの様子だと、しばらく前から俺を探していたのかもしれない。
「見ろよ! 先輩が俺に手を振ってるぞ!」
「マジかよ、お前すげえな! 一日で落としたのか?」
「まあな。羽衣先輩でも、俺の魅力には抗えなかったらしい」
朝の列車で出会った、例の自信満々な二人組だった。
二人は最後列の席に座り、興奮した顔で羽衣先輩へ必死に手を振っている。
俺は見なかったことにして、羽衣先輩に手を振り返した。
俺がようやく気付いたと分かると、彼女はすぐさま壇上の反対側を力いっぱい指差した。
指先を追って視線を向ける。
私服姿の男子生徒が、メモ帳を手にした学生たちに取り囲まれていた。
以前よりかなり背が伸びている。
あどけなかった丸顔もすっかり引き締まり、今では輪郭が鋭くなっていた。
それでも、一目で分かった。
黎 晦朔。
おそらく、この学院で俺が唯一知っている人間だ。
こちらの視線に気付いたのか、晦朔が人垣の中から顔を上げる。
一瞬だけ、目が合った。
晦朔は驚きもしなかった。
ほんのわずかに片眉を上げただけだ。
まるで俺がここへ来ることなど、最初から知っていたかのように。
『まだ着席していない生徒は、速やかに席へ着いてください。間もなく入学式を開始します』
柔らかな女性の声が、壇上の両側に浮かぶ淡紫色の魔法陣から響いた。
俺は慌てて隅の席を探し、通路側に腰を下ろした。
出口から近い。
見晴らしもそれほど悪くない。
何より、うっかり眠っても目立ちにくそうだ。
完璧である。
一陣の風が天井付近を駆け抜けた。
丸天井の下に浮かんでいた魔法の蝋燭が、一つ、また一つと消えていく。
最後には、壇上を照らす柔らかな光だけが残った。
司会者が演台へ進み、入学式の流れを説明し始める。
学長挨拶。
学院幹部の挨拶。
名前を聞き取れなかった偉い人たちの挨拶。
そして最後に、学生会長の挨拶。
実に標準的だ。
そして実に長い。
やがて、白髪と白い髭を蓄えた老人が、杖をつきながらよろよろと壇上へ上がってきた。
おそらく、あの人が学長なのだろう。
一歩進むたびに、次の瞬間には転んでしまうのではないかと心配になる。
誰か一人くらい支えてあげればいいのに。
俺は心の中でそう呟いた。
学長はようやく演台へたどり着くと、その縁に手をついて一息ついた。
そして、ひどくゆったりとした老人らしい声で話し始める
「こほん……星月学に入学した皆さん、こんにちは」
「私が、この学院の学長です……」
その眠気を誘う話し方は、まるで俺のために用意された子守歌だった。
まだ数言しか聞いていないというのに、瞼が勝手に重くなっていく。
よし。
この調子なら、次に目を開けた時には式も終わっているだろう。
残念ながら、そう都合よくはいかなかった。
意識が夢の中へ沈みかけた、その時――
ガツン!
何か硬い物が、俺の額を勢いよく直撃した。
「いっ……」
俺は一瞬で目を覚まし、額を押さえながら机に伏せた。
痛みが少し引くのを待ってから、すぐさま身を起こす。
誰が俺を狙った?
周囲の新入生たちは全員、壇上を見ていた。
背筋を伸ばして真剣に話を聞いており、怪しい動きをしている者は見当たらない。
ただ、数列先に、俺と同じように机へ突っ伏している小柄な少女がいた。
どうやら、彼女も眠気に負けたらしい。
――いや。
それは違う。
なぜなら彼女は、わざわざ枕まで持参していたからだ。
今もその枕に頭を乗せ、実に安らかな寝顔を浮かべている。
天才だ。
俺が思いついても実行に移せなかったことを、いとも簡単にやってのけている。
その少女に心の底から感心していると、再び横から黒い影が飛んできた。
だが今度は準備ができている。
俺は片手を伸ばし、それを受け止めた。
手のひらを開く。
指の隙間から薄い黒煙がゆっくりと消え、中に包まれていた小さなペンのキャップが姿を現した。
この戦技。
そして、この命中精度。
思い当たる人間は一人しかいない。
俺は壇上の反対側へ目を向けた。
晦朔は人垣の端に立ち、何食わぬ顔で壇上を見つめていた。
こちらの視線に気付くと、わずかに首を傾け、唇だけを動かす。
――ちゃんと聞け。
俺は遠慮なく、あいつに向かって中指を立てた。
晦朔は特に気にした様子もなく、そのまま視線を壇上へ戻した。
ちょうどその時、学年主任の話が終わったらしい。
講堂内に拍手が響く。
続いて、白い絹のドレスをまとった少女が壇上へ上がった。
腰まで届く長い髪。
軽やかな衣装は、まるで重さを持たないかのようだった。
彼女の周囲を流れる風の魔素が、歩みに合わせて裾を程よく持ち上げ、その姿をいっそう優雅に見せている。
胸元の片側には、星月学の校章。
もう片側には、深い青の海を泳ぐ一頭の鯨をあしらった家紋が刻まれていた。
彼女は拡声魔法陣の中央へ進むと、演台の水晶へそっと手を置いた。
穏やかな微笑を浮かべた口元から発せられた柔らかな声が、たちまち講堂全体へ広がっていく。
「新入生の皆さん、こんばんは」
「第六十三期学生会長、オリティア・セトスです」
「これから、学内施設と各種学生支援制度についてご案内します」
オリティアは短い挨拶を終えると、まず学内施設の紹介を始めた。
まず紹介されたのは、図書館や訓練場、それに各種の学生団体だ。
合唱団、楽団、演出魔法。
さらに学生会の支援を受けて行われる、各宗教の活動についても説明があった。
役に立たない内容とは言わない。
ただ、学長や学院幹部による長い話が続いたあとだ。
新入生たちの集中力が、目に見えて切れ始めていた。
オリティアも、それに気付いたらしい。
一度言葉を切り、講堂内をゆっくりと見渡した。
「続いて、星月学における最も重要な制度の一つについて、詳しくご説明します」
「――戦闘小隊です」




