第31話 ヘルガ、大地に立つ
気づけば、黒沢渉は少し深入りしすぎていた。
すでにネゲントロピー全員の背後へ回り込んではいたが、もう少しすればギルダが煙を吹き散らす。
獲物を仕留める前に姿をさらすことになれば、かえって割に合わない。
煙のせいかどうかは分からないが、黒沢渉は周囲が妙に静かだと感じていた。
ここまで潜行してきたにもかかわらず、相手から何の妨害も受けていない。
あまりにも順調すぎて、逆に不安になる。
とはいえ、考えてみれば、相手がどんな妨害を仕掛けられるのかも思いつかなかった。
相手の牧師はただの飾りで、半人前の魔法使いはさっき大型魔法を使ったばかり。
もう一人の後衛は、後ろの二人を守らなければならない。
ただ、相手側の何人かがどこかおかしいことは認めざるを得ない。
特に、彼と交戦したあの魔法使いは、もはや魔法使いの近接戦術と呼べるものではなかった。
親に無理やり魔法使いをやらされているのだろうか。
彼には、そう考えるしかなかった。
そんなふうに手持ち無沙汰になっていた時、彼はふと、一人だけ離れた人影が、こちらに背を向けているのを見つけた。
どうして彼女が一人でここにいる。
罠か?
黒沢渉は、自分が通ってきた経路を慎重に思い返した。ここは、さっき魔法が放たれた地点だ。
彼はすぐに理解した。
牧師は後衛に守られながら、二人の前衛に祝福魔法をかけに行った。
残った魔法使いが、その場で魔力を回復しているのだ。
黒沢渉は一瞬、自分はまだ運がいいと思った。彼はこっそりその人影の背後へ近づき、ダガーを掲げた。
アサシンの役目は、一瞬で相手を一人落とすことだ。
「戦技・暗殺!」
「ガキン!」
それは明らかに、刃が皮膚にぶつかった時の音ではなかった。
黒沢渉は、柄を握る手が少し痺れるのさえ感じた。
「なんじゃ、どいつもこいつも人の眠りを邪魔しおって」
アパシャの不満そうな声が響いた。
「いや、失礼。俺はそちらの魔法使いを探しに来たんだけど、どうやら人違いだったらしい」
黒沢渉はそのまま話を合わせた。
「そちらの魔法使いは、さっきのでだいぶ疲れているはずだよね。どこで休んでいるのかな」
「あやつが何に苦労するというのじゃ。さっきのは、どう見てもわしの偽龍典・龍の息じゃろうが」
アパシャは不満そうにぶつぶつ言った。
「え? じゃあ、あの人たちはどうしてここにいないんだ。どこに行ったのかな」
黒沢渉は周囲を見回しながら、そのままアパシャと軽口を叩き続けた。
「知るか。出稼ぎにでも行ったのじゃろう。わしみたいな孤独な老人を一人で留守番させおって」
「それじゃ、俺は用があるので、これで失礼するよ」
後衛がここにいないと分かると、黒沢渉はすぐに踵を返そうとした。
だが足を上げた瞬間、自分の足が動かないことに気づいた。
振り返ると、自分の足はすでにアパシャの龍爪にがっちり押さえ込まれており、まったく抜け出せなかった。
アパシャの動きはあまりにも速く、彼は反応することすらできなかった。
「せっかく来たのじゃ。もう少し老人の話し相手になってもらおうかの」
アパシャは黒沢渉を見て、恐ろしい笑みを浮かべた。
黒沢渉は初めて、自分は少し運が悪いのかもしれないと思った。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ギルダは素早く隅へ走り、魔法の詠唱を始めた。
今、全員がどんな状況にあるのかは分からない。
唯一確かなのは、誰もが自分の魔法でこの煙を吹き散らすのを待っているということだ。
こういう危機のたびに、ギルダは自分が嫌になる。
もし自分が先天魔法使いだったらよかったのに。手を振るだけで魔法を放てるあの能力が、どれほど便利なことか。
ギルダは緊張で、手のひらに少し汗をかいていた。
よりによって、最も早く煙を吹き散らせるのは、自分があまり得意ではない雨神魔法だった。
彼女は、相手がこの煙に邪魔されて自分の魔力の揺らぎに気づかないこと、あるいは全員が仲間に足止めされていることを祈るしかなかった。
「ひぃ――やっ!」
当然、そんな幸運はただの幻想だった。
だが、向こうから彼女を探しに来た相手は、それでも予想外だった。
「ドンッ!」
ヘルガが空から落ちてきた。
周囲を見回し、やはりギルダを見つけた。
「あはっ、やっぱり宇さんの言った通りです。魔力の揺らぎが一番目立つ隅っこに隠れて、こっそり魔法を詠唱していました」
「牧師のあなたが、どうして空から落ちてくるの?」
ギルダは怪訝そうにヘルガを見た。ヘルガの体は白い光に包まれており、明らかに自分自身へ祝福魔法をかけていた。
だがヘルガは彼女の質問には答えず、そのまままっすぐ走ってきた。
「宇に言われました。まずあなたを押さえろって。時間を稼がせてはいけないって」
「ちっ」
ギルダは、ヘルガを片づけなければ雨神魔法の詠唱を続けられないと分かっていた。
「蒼藍魔法・氷槍!」
一本の青い氷の槍がヘルガに直撃し、彼女の全身を氷漬けにした。
「成功した?」
ギルダはまず、驚きと疑問を覚えた。
なぜ相手は、脅威のない牧師を自分のところへ向かわせたのか。
深く考えている時間はなかった。
仲間たちはまだ、彼女が煙を吹き散らすのを待っている。
相手の失策だと思うしかなかった。
「ピキ、ピキ」
ギルダが喜ぶ暇もなく、氷に亀裂が走った。
「パキィン!」
いくつもの亀裂が入ったあと、氷は丸ごと砕け散った。
飛び散る氷片で、ギルダは一瞬目を開けていられなかった。
視界の端で、ヘルガが氷を破ってすぐにこちらへ走ってくるのが見えた。
ギルダは迷わず、もう一度魔法を詠唱した。
「蒼藍魔法・氷槍!」
また氷槍が放たれ、またヘルガに命中した。
ギルダは、ヘルガに当てること自体は、普段練習している動く的よりも簡単だと感じた。
ただ、彼女の恐ろしいほど高い魔法耐性と、理不尽な怪力だけは、ギルダにもどうしようもなかった。
再びヘルガを凍らせたあと、ギルダは慌てて後ろへ走り、煙の中へ身を隠そうとした。
だが今回は、ヘルガもこの魔法にさらに慣れたらしく、ギルダが二、三歩も走らないうちに抜け出してきた。
「はっ!」
ヘルガは氷の中から飛び出し、わずか二、三歩でギルダへ迫った。
ギルダはもう一度氷槍でヘルガを凍らせようとしたが、振り返った時には、ヘルガはもう目の前にいた。
ギルダが観念して目を閉じたその時、背後から一筋の白い光が飛び出した。
「戦技・銀蛇一閃!」
白い長槍が軌道を曲げ、ギルダの体を回り込んで、まっすぐヘルガに命中した。
ヘルガは素早く反応して腕を上げて防いだが、それでも十数メートルも吹き飛ばされた。
「辰巳凌!」
ギルダの顔に、驚きと喜びが同時に浮かんだ。
「どうして私のところに来たの? 先にシヴァーナを助けに行って!」
「俺だってそうしたかったよ。こっちの方が見つけやすかったんだ」
辰巳凌はヒュンヒュンと槍を回しながら、ギルダの背後の煙の中から姿を現した。
「それにしても、この子、本当に頑丈だな」
辰巳凌は、すでにゆっくり立ち上がっているヘルガを見て言った。
「俺の一撃をまともに受けて、腕のかすり傷だけで済むのか。たしか彼女、牧師じゃなかったか?」
「幸い、避けるのは苦手みたい」
ギルダは辰巳凌の背後に立ち、杖を掲げてヘルガへ向けた。
「二人でやれば、璨星瓶を割って終わりにできる」
ヘルガは腕の包帯を巻き直し、突進の構えを取った。
一気にギルダのそばまで駆け込むつもりだった。
そもそも、彼女にはほかの手段がなかった。
ヘルガが無謀にもまっすぐ突っ込んでくるのを見て、辰巳凌は槍を脇に構え、腰を落とした。
「戦技・蛟竜突き!」
銀の槍が放たれ、白い閃光のように走った。
ギルダもその背後で詠唱を始めた。ヘルガが再び吹き飛ばされた瞬間、氷の罠を張り
、地面に縫い止めるつもりだった。
その電光石火の瞬間、
緑の炎をまとった一本の長棍が空から落ち、ちちょうど両者の間に割って入った。
「ゴォン――」
ヘルガの頭と辰巳凌の槍先が、同時に長棍へぶつかり、晩鐘のような重い音を響かせた。
「あうううう……」
ヘルガは頭を押さえ、痛そうにしゃがみ込んだ。
辰巳凌は長槍を引き、黒緑色の人影が高所から落ちてきて、長棍の上に軽々と立つのを見た。
「どうやら、ちょうどいい時に来たみたいだね」
ミュイレンは余裕の笑みを浮かべた。
もっとも、ミュイレンの内心は、見た目ほど落ち着いてはいなかった。
彼女は作戦会議で胸を張り、自分なら煙の中でも必ず辰巳凌を見つけられると宇に言い切っていた。ところが、始まってすぐ彼を見失っていた。
しかも危うくヘルガを片づけられるところだった。
思い返すだけで、まだ肝が冷える。
ミュイレンは、四方を走り回ったせいですでに乱れていた息を無理やり抑えた。
「うちの牧師をいじめるなんて、見逃せないね」
「一番痛いことしたの、ミュイレンさんなんですけど……」
ヘルガは恨めしそうにぼやきながら、頭を揉んでゆっくり立ち上がった。
「どうする?」
ミュイレンとヘルガの気の抜けたやり取りとは違い、ギルダの声には少し不安が混じっていた。
「こいつを相手にしたら、お前の方が勝ち目はない」
辰巳凌はミュイレンと黒沢渉の戦いを見ており、彼女の実力をよく理解していた。
「俺が彼女を倒す。お前はあの牧師を足止めしろ」
「それなら早くしてよ。私、長くは持たないから」
ギルダは杖の先に魔力を集め、詠唱を始めた。
「ふざけてる場合じゃないよ、ヘルガ! 来る!」
ミュイレンは表情を引き締め、攻撃の構えを取るギルダと辰巳凌を見据えた。
「ふざけてなんかいません。ヘルガは真剣です。やあああっ!」
ヘルガは叫びながらギルダへ突っ込んだ。
「蒼藍魔法・氷結牢!」
ヘルガの足元から氷でできた棘が伸び、トラバサミのように彼女の足をがっちり挟み込んだ。
「だからふざけてるって言ってるの。」
ミュイレンはヘルガを見て、どうしようもないという顔をした。
だが今のミュイレンに、ヘルガを気にしている余裕はなかった。
辰巳凌が槍尾を握って彼女の棍を跳ね上げると、ミュイレンの足元から支えが消えた。
辰巳凌は続けて戦技を放ち、そのままミュイレンを撃ち落とそうとした。
「戦技・飛竜天翔!」
竜の咆哮を帯びた突きが、ミュイレンへ迫った。
ミュイレンも慌てない。
まだ倒れきっていない棍に足先で軽く触れると、炎が脚を伝って棍の端へ絡みついた。
棍はまるで足裏に張りついたかのように動き、反対側の端からも緑の炎が噴き出した。
辰巳凌が攻撃に出たのを見て、ミュイレンは炎の勢いを借りて空中で身を翻し、蠍の尾のように足を振り抜いて、棍の先端で辰巳凌の槍を受け止めた。
「ガァン――」
棍の先端と槍先がぶつかり、緑の炎と白い光が弾けた。
周囲の煙さえ吹き散らされる。
両者は至近距離で打ち合い、わずか数秒の間に武器を何度もぶつけ合った。
衝突で生まれる気流も、絶えず外へ広がっていく。
二人が激しく打ち合っている一方で、
一方、ギルダは退屈な魔法の反復練習をしていた。
彼女は絶えずさまざまな氷結魔法を放っていたが、どれ一つとしてヘルガを十秒以上押さえ込むことができない。
ひどい挫折感を覚えさせた。
彼女はどこかで、毎朝巨石を山頂へ押し上げ、夜になるとその巨石がまた山麓まで転がり落ちる男の話を聞いたことがあった。
ギルダは、自分と目の前のヘルガが、その話の男のようだと感じていた。
ただ同じことを繰り返し、同じ結果を生み続けているだけだった。
唯一の慰めは、氷がヘルガにまったく効いていないわけではないことだ。
彼女の顔はすでに凍えて真っ赤になり、体の傷も増え続け、動きも鈍くなっていた。
「蒼藍魔法・小吹雪!」
ギルダは高速詠唱版の吹雪を使った。
ヘルガの頭上に雪雲が集まり、凍えるような風と雪がヘルガの体温を素早く奪っていく。
ヘルガは、たった今抜け出した氷の破片の中から起き上がろうとしたが、足を滑らせて転んだ。
「きゃっ!」
転んだヘルガは、そのまま雪の山に埋もれた。
起き上がろうとした時には、手足がまた凍りついていた。
これでしばらく時間は稼げるはずだ、とギルダは思った。
氷雪が少しずつヘルガを覆っていくのを見て、彼女の頭の中に、突然いくつもの考えが浮かんだ。
戦羊のほかの面々の前では、ギルダはいつもどうでもよさそうな態度を見せている。だが、その内側には、いつも一つの誇りがあった。
彼女は神啓を受けた人間だからだ。
まだ小学生だった頃、ある偶然から、彼女は蒼藍神そのものと出会った。
それは、外見だけなら彼女と同じくらいの年頃の少女だった。
すべてを凍らせる力を持っていた。
そして蒼藍神が見せた魔法は、彼女がこれまで見た中で最も美しい魔法だった。
彼女はその魔法を心に刻み込んだ。
だが、今に至るまで、その奇跡を再現することはできていない。
その魔法は、どの魔法書にも記されていなかった。
人間には、その神跡を真似ることが難しすぎるからだ。
成長して学校を選ぶ時期になった時、彼女はコロス学にはほとんど魔法研究がなく、あるのは魔法の応用だけだと知った。
心の中にあるあの魔法を再現するため、彼女は迷いなく故郷を離れる列車に乗り、遠く離れた星月学へやってきた。
今日に至っても、彼女の魔法は、あの日見た衝撃とは比べものにならない。
それでも目の前の、反撃してこない「独楽」のようなヘルガを見て、彼女はふと、その研究成果を試してみたい衝動に駆られた。
それが残りの魔力をすべて使い果たすかもしれないと分かっていても。
「蒼藍魔法奥義・氷神の衛兵」
ギルダの詠唱に合わせ、前方に巨大な青い魔法陣が現れた。
半膝をついた男が、足元から頭まで、ゆっくりと氷片で形作られていく。
その男は全身裸で、筋肉の線がはっきりしており、まるで古典彫刻のようだった。魔法の構築が進むにつれ、
彼の手にも、ゆっくりと一本の長槍が現れた。
衛兵を形作るだけで、ギルダはめまいを覚えた。それは大量の魔力を消費した結果だった。
今の彼女には、もうこの氷の衛兵を思い通りに操るだけの魔力は残っていない。だから彼女は再び詠唱した。
「蒼藍魔法奥義・衛兵の神槍!」
青い衛兵が立ち上がり、片足を前に踏み出し、腰を落とした。左手を前へ軽く突き出し、右腕を曲げる。
標準的な投げ槍の構えだ。
衛兵は一瞬動きを止めた。魔力が腕に集まり、体が青い光を放ち始める。
次の瞬間、衛兵は手にした槍を全力で前方へ投げつけた。
その速度と込められた魔力は、普通の氷槍とは比べものにならない。
ヘルガはまだ吹雪の中に押さえ込まれており、迫る投げ槍を避ける力もなく、かわす余裕などなかった。
「ドォン!」
投げ槍がヘルガに命中した瞬間、爆発して巨大な衝撃波を生み出した。
その一瞬で、その巨大な衝撃波は周囲の空気ごと凍りつき、巨大な氷山へと変わった。
美しい、とギルダは思った。
あの日の衝撃には及ばない。それでも、達成感がギルダの全身へ広がっていった。
魔力を使い果たし、ギルダはその場に座り込んだ。
「ヘルガ!」
ヘルガがあれほど巨大な蒼藍魔法を受けたのを見て、ミュイレンは思わず振り返って彼女を案じた。
だがその瞬間、辰巳凌の槍先が目の前に迫った。
鼻先まで、ほんの数ミリしかない。
ミュイレンは慌てて炎をまとった長棍で上へ払いつつ、その勢いで身を翻して距離を取った。
「ギルダ、まだ援護できるか?」
辰巳凌は槍を背後へ引き、ギルダのそばへ来て尋ねた。
「ごめん」
ギルダは首を横に振った。魔力の回復を待たなければならなかった。
「まさか隣が先に終わるとはな」
辰巳凌はミュイレンを見て笑った。
「さっき手加減してなかったら、そっちも終わってたけどね」
ミュイレンには分かっていた。
辰巳凌はさっきの一撃を当てられたはずだ。
だが彼は手を止めた。
「すまない。せっかくいい相手に会えたんだ。少し惜しくなった」
辰巳凌は少し照れくさそうに微笑んだ。
「それに、お前は普段、棒を使うわけじゃないだろう。動きは何かの薙刀術に近い。もし得意な武器に持ち替えていたら、俺はとっくに負けていたかもしれない」
「そんな仮定に意味はないよ。今の私は棒を使ってる。だからって手加減する必要はない」
ミュイレンは辰巳凌の眼力に少し驚いた。もっとも、彼が手を抜かなくても自分は勝てると思っていたが。
「俺の考えが甘かった。だが安心しろ。次はない」
辰巳凌は軽く頭を下げて謝った。
ミュイレンは心の中でだけ礼を言った。だが今の二人は、まだ敵同士だった。
「あなたとギルダは、わりとまともに見えるんだけど。なんであんなクズと組んでるの?」
「タカゴウのことか。俺とあいつは子どもの頃からの付き合いで、ギルダの家はあいつの家と知り合いだ。特別な理由はない」
辰巳凌は淡々と説明した。
だがすぐに何かを思い出したように、付け加えた。
「見た目はああだが、あいつには人と違う空気がある」
「あいつには、人を引きつける何かがある。クズの空気?」
「ああいう人間だからこそだよ」
辰巳凌は首を横に振り、どこか懐かしむような顔をした。
「あいつに、俺をあいつの矛にする代わりに、あいつは俺の盾になると言われた時、断れるわけがなかった」
辰巳凌は両手で槍を握り、体をわずかに沈めて構えた。
ミュイレンには、辰巳凌の気配が少し変わったことが分かった。
おそらく、次の一撃が切り札だ。
「これで最後だ。行くぞ!」
辰巳凌は再び槍尾を握り、前へ突き出した。
ミュイレンはタイミングを見計らい、棍を強く下へ押し込んで、辰巳凌の槍を封じようとした。
「もしお前元の武器を使っていたら、まだ勝機はあったかもしれない。だが今は……」
辰巳凌は前の手を支点にし、後ろの手で一気に押し下げた。
すると、ミュイレンの棍がそのまま跳ね飛ばされた。
辰巳凌は再び槍を引き、もう一度突き出した。
ミュイレンはタイミングを見計らい、槍先を踏んで跳び上がり、落ちてくる棍を受け止めた。
ミュイレンが武器を取り戻そうとする。
その瞬間こそ、辰巳凌が狙っていた隙だった。
辰巳凌の背後に、まばゆい星空が広がった。
周囲の煙でさえ、その光を覆い隠せない。
辰巳凌の手にある槍は、絶えず彼の魔力を吸い込んでいた。
その内側では、何かがうごめいているようで、かすかに龍の咆哮まで聞こえてくる。
「奥義・星龍の神槍!」
一突きとともに、星光をまとった白龍が槍先から奔り出た。
雷鳴を帯び、ミュイレンへ向かってまっすぐ突撃する。
ミュイレンは正面で両手を使い、棍を回し始めた。
長棍の両端から緑の炎が噴き出し、回転しながら緑の火輪へと変わる。
火輪の障壁と星の龍がぶつかった。
「ドォン――」
まったく足りない。
辰巳凌はミュイレンへ向けた長槍に魔力を注ぎ続けた。
星の龍の白い光もさらにまぶしくなり、次の瞬間にもミュイレンの防御を貫きそうだった。
だがミュイレンは、なおも棍を舞わせているだけだった。
しかも、その動きはどんどん速くなっていく。
ついに龍の頭がミュイレンの防御を打ち破り、ミュイレンを吹き飛ばした。
違う。
辰巳凌は異変に気づいた。
自分の龍槍がミュイレンの防御を砕いたのではない。
ミュイレンが機を見つけ、身を翻して龍の頭を飛び越えたのだ。
ただ避けたいだけなら、避けきれるはずがない。
辰巳凌は槍を振り、星の龍を反転させて、再びミュイレンへ向かわせた。
その時、ミュイレンの手にある長棍は、両端から緑の炎を噴き続けていた。
まるで一本の双頭鎌のようだった。
ミュイレン自身が一つの旋風となり、白龍の胴に沿って弧を描く軌道で走る。炎の刃で、星龍の身を削り始めた。
「煉獄連斬!」
ミュイレンは回転しながら、星の龍の体に、緑の炎をまとった傷を一つ、また一つと刻んでいった。
同時に辰巳凌へ素早く迫っていく。
ミュイレンが棍を辰巳凌の首元へ突きつけた時には、龍の体はすでに切り刻まれ、もはや形を保てなくなっていた。
「「パリン」」
白い巨龍は砕け散り、魔力の欠片だけが残った。
「俺の負けだ」
辰巳凌は率直に敗北を認めた。
一方で、ギルダは地面に座ったまま文句を言った。
「あなたが負けたら、私はどうすればいいのよ」
しかしその言葉が終わる前に、目の前の氷山が「ミシ、ミシ」と異音を立て始めた。
「嘘でしょ」
氷山に亀裂が入り、それは急速に広がっていく。
ギルダには信じられなかった。
ギルダが作り出した魔法の氷山は、その重さだけでも人間を押し潰すには十分だ。
まして、極寒の氷山の中心で動き続けられる人間などいるはずがない。
だが今、完璧に凍りついた氷山に、彼女の自尊心もろとも、底の見えない亀裂が走っていた。
ヘルガがその裂け目から這い出してきた。
髪も、まつげも、眉も、白い霜に覆われている。肌もすでに凍傷を負っているように見えた。
それでも彼女は、大地に立つ。




