第29話 盤外の一手
「「ネゲン! ネゲン!」」
小隊試験の時のように数人しかいなかった前回とは違い、今日の会場は人の声であふれていた。控室に入っただけでも、その声は聞こえてくる。
平民と下級貴族の学生たちが会場に集まり、大声で俺たちに声援を送っていた。
「どこからこんなに人が来たの?」
ミュイレンは控室の入口で、きょろきょろと外をのぞいていた。
「ドラゴンであるわしがここにいると聞いて、わしの雄姿を見に来たに決まっておる!」
アパシャは少し興奮しているようだった。
「戦羊が負けるところを見に来たんだと思う」
「その通りだ。タカゴウはこの数週間で、この学校の平民と下級貴族の学生の大半に喧嘩を売ったらしい」
俺は希珀に同意した。
「タカゴウが嫌われてるのは分かってたけど、まさかここまでなの?」
「俺は凡人に認められる必要などない」
ミュイレンがタカゴウの悪口を言っているちょうどその時、戦羊の全員が入ってきた。
「まさか怖くて震えているわけじゃないだろうな。それじゃつまらん」
「はっ。こんなに大勢の前であんたを殴れると思うと、興奮で震えてくるよ!」
「おや」
タカゴウはミュイレンが付け替えたばかりの家紋に気づいた。
「家紋まで変えたのか。お前の母親は、また新しい男に取り入ったのか?」
「ふざけんな!」
タカゴウの一言でミュイレンは怒り狂った。幸い、希珀が真っ先に彼女を止めた。
「覚えてなさいよ!」
ミュイレンは怒りが収まらず、手に持っていたコップをタカゴウに投げつけた。
タカゴウには当たらなかったが、飛び散った水が彼の靴にかかった。
タカゴウは余計なことを言わず、足を椅子の上に乗せ、偉そうに言った。
「拭け。そうすれば見逃してやる」
ミュイレンは彼の横柄な態度が我慢できず、力ずくで希珀を振りほどいた。
俺は手を伸ばして彼女を止めた。
タカゴウが申請したのは正式なパーティー決闘だ。つまり、規律を維持する教授がいる。
彼の目的は、ミュイレンを控室で暴れさせ、失格にして、こちらの人数を減らすことだ。
こういう下劣だが有効な手段こそ、タカゴウの大好物だった。
「大丈夫だ。俺が拭く」
俺は彼の前へ歩いていき、靴についた水を拭き取ろうとした。
「はっ」
タカゴウは冷笑し、足を引っ込めると、そのまま俺の足を踏みつけた。
「拭け」
こいつは、自分が格好いいとでも思っているのだろうか。こんないじめの手口、小学生の頃の俺でも使う気にならなかった。
俺は黙ってしゃがみ込み、制服の袖口で水気を拭き取った。
指が、彼の靴の側面にほんのわずかに長く触れた。
誰も気づかなかった。
「やはり、お前たちの隊長は物分かりがいい!」
タカゴウは満足そうに笑い、それから片手を俺の肩に置いた。
「最初からそのくらい従順なら、俺に仕えたいと頼みに来た時、家臣にしてやらんこともなかったのにな」
「それは結構だ」
俺は淡々と言った。
「俺はお前の師匠でいるだけで十分だ」
タカゴウは怒るどころか笑った。さらに何か言おうとしたところで、監督役の教授が入ってきたため、全員それぞれの席へ戻った。
「ルールは小隊試験の時と同じだ。全員、璨星瓶を忘れずに身につけること。訓練場に入ったら、司会者の指示に従うように」
教授は簡単にルールを読み上げた。
「「「レディース・アンド・ジェントルメン!」」」
「「「わずか数週間で、戦羊と、新たに名を改めたネゲントロピーの対決が帰ってまいりました!」」」
どうやら、前と同じ、仕事に情熱を持っている司会者らしい。
「「「どうやら前回の決着に、ネゲントロピーは納得していなかったようですね! 場外でもいろいろ因縁があるようですが、むしろそれは我々観客にとって幸運というもの! 前回を最初から最後まで見届けた司会として、皆さまに保証いたします。この戦いは間違いなく見応えのあるものになります!」」」
俺たちの装備は、前回とほとんど変わっていなかった。
ヘルガは俺の強い主張により、ようやく邪魔でしかない聖約を手放し、代わりに怪我防止のため、手に包帯を巻いていた。
俺がほっとするより先に、
彼女は治療魔法の不足を補おうとして、治療薬を一箱抱えて持っていくと言い張った。
俺はまた一時間かけ、「計画通りに進めば、誰も怪我をしない」という理由で、どうにか彼女を説得した。
ミュイレンは前回壊された杖をそのまま諦めて、中央が細く、両端が太い一本の棒を選んだ。両端には、細かい魔水晶が無数にはめ込まれている。
これはエルフ族の武僧が使う武器だ。大型魔法を放つことはできないが、魔法を絡めた近接戦に向いたミュイレンにはかなり合っていた。
俺たちと比べて、戦羊の装備は明らかに前回と違っていた。
タカゴウはもともとの中鎧を捨て、軽鎧を選んでいた。防御力を落とさないまま、俺との接近戦に適したものだ。
黒沢渉は、逆に装甲を少し厚くしていた。俺たちのパーティーの攻撃力が全体的に高くないことを知っているのだ。装甲を少し厚くされるだけで、こちらの後方で動き回られるとかなり厄介になる。
こうした変更は、タカゴウが見た目ほど相手を見下していないことを、あらためて証明していた。むしろ彼は、俺たちという相手をきちんと尊重している。そのせいで、彼らを倒すことはさらに面倒になっていた。
「ネゲン! ネゲン!」
俺たちが入場すると、周囲の学生たちから割れんばかりの歓声が上がり、ヘルガは驚いて少し後ろへ身を引いた。
一方、タカゴウが入場した時には、確かに会場一面からブーイングが起きた。だが彼は気にしないどころか、それを勝利の交響曲として聞いているようだった。
それもまた、貴族という身分が彼にもたらした傲慢さだった。
「両陣営の選手が入場しました! ご覧の通り、両者とも前回と同じ布陣です! ネゲントロピーが何か奇策を隠しているのか、それとも単に教訓を学んでいないだけなのか!」
司会者は毒舌で場内の空気を煽った。
「その答えは、すぐに明らかになります! それでは、三、二……」
司会者がカウントを始めた途端、俺は突然、自分の服のあちこちを探り始めた。まるで何かを忘れたかのように。
「何を探している。まさか璨星瓶を忘れたのではあるまいな」
タカゴウは俺の慌てたふりを見て、大声で嘲笑した。
俺は彼を無視し、そのまま探し続けた。そしてようやく、ほっとしたような表情で、上着のポケットから黒い取っ手を取り出した。取っ手には赤い小さなボタンがついていた。
爆弾か?
タカゴウは、俺たちが前回の失敗を受けて、先手を打つ方法を考えてくるだろうと理解していた。
だが、小さな爆弾一つ?
あまりにも人を舐めている。
自分でもシヴァーナでも、簡単に処理できる。誰の脅威にもなりはしない。
タカゴウが俺たちの浅い真似事を嘲笑していたその時、突然、頭の中を針で刺されたような感覚が走った。直感が、どこかおかしいと告げていた。
だが、いったいどこを見落とした?
「一」
俺の指は、すでにボタンの上に置かれていた。
タカゴウは自信ありげな俺の様子を見て、ようやくはっとした顔になり、自分の足元を見た。
「まずい!」
「開始!」
「ドォン!」
大量の煙がタカゴウの足元から、より正確に言えば靴から爆発するように広がり、瞬く間にフィールド全体を覆った。
俺を踏み台にするなら、それなりの代金は払ってもらう。
俺と希珀は合図と同時に動き出し、戦羊へ向かって駆け出した。
この黒い煙は、タカゴウと彼の仲間たちをすっぽり包み込み、普通の魔力探知ですら通らなかった。
これで、先に一人を落とすどころではない。俺たちに混乱に紛れて好き勝手されないようにすることが、最優先になる。
「全員、俺の近くに集まれ。俺が――」
タカゴウが言い終える前に、彼はネゲントロピーの後方に強大な魔力が集まっているのを感じた。
その魔力はあまりにも強く、煙の中でもはっきり感じ取れるほどだった。
「来るな! 全員散開して伏せろ!」
タカゴウは一網打尽にされるのを防ぐため、慌てて命令を変えた。
「ゴォッ!」
巨大な炎がネゲントロピーの後方から噴き上がり、一瞬だけ煙を突き破ると、扇形に広がって戦羊全体を覆った。
タカゴウは熱に押されて顔を上げられないながらも、火の光が周囲を照らした一瞬を逃さず、必死に観察した。
周囲の仲間たちは、魔法で防いだり、身をかわしたりして、誰も傷を負っていないようだった。
黒沢渉は逆に地面すれすれを走り、炎の出どころへ素早く突っ込んでいた。すぐに相手の陣形の中心へ突入する。
巨大な炎のせいで、タカゴウは後方のヘルガとミュイレンを一時的に見失った。だが、炎の光に照らされたことで、炎を隠れ蓑にして接近してくる俺と希珀には気づいた。
「シヴァーナ! ギルダ! 止めろ!」
タカゴウは素早く命令を出した。
「森林魔法・茨の牢!」
「蒼藍魔法・氷壁!」
二人の魔法使いも、最後の炎の光を頼りに、前方に堅牢な壁を築き上げた。
二人が魔法を使ったのとほぼ同時に、炎の光はようやく消えた。地面では、またいくつかの煙幕弾が爆発したらしく、煙が再び素早く全員を包み込んだ。
タカゴウはこの時になって、会場の歓声が聞こえなくなっていることに気づいた。おそらく、この煙には音を遮断する効果もある。
「だが、まだ甘い」
タカゴウは両手の盾を地面へ突き立てた。
「戦技・羚羊直感」
気配の薄い魔力が、タカゴウを中心に広がっていく。地面へ薄く広がった魔力が、ごくわずかな振動まで瞬時にタカゴウへ伝えていた。
彼はすぐに、左からだけ足音が伝わってくるのを感じ取った。そして即座に、その足音の方向へ突進した。
「ガキィン!」
盾とダガーがぶつかり合い、散った火花が一瞬、俺とタカゴウの顔を照らした。
「煙で戦場を切り分ける。畜生にしては、悪くない考えだ」
タカゴウは俺が彼の横を抜けてシヴァーナとギルダを狙おうとする試みを、再び阻止した。そして上から目線で評し始める。
「そんな小細工で俺たちを崩せると思ったか。むしろ逆だ。お前の魔法使いと牧師は、お前の浅知恵のせいで、すでに黒沢渉にやられている頃だろう」
「残念だが、俺たちの実力はお前たちより上だ」
視界の悪い状況は、アサシンにとって非常に有利だ。俺にとっても、黒沢渉にとっても、最高の環境と言える。
「もう探知は済んでいる。もう一人はお前と同じようには突破できなかった。そんな基本的な戦術すら実行できないとはな」
タカゴウは俺に同情するような口ぶりで言った。
「ギルダがすぐに魔法でこの程度の煙を吹き散らす。お前たちの努力はすべて、水の泡になる運命だ」
「ずいぶん仲間を信じているんだな」
俺は彼の嘲りには直接答えなかった。それがタカゴウを少し苛立たせた。
「ああ、そうだ。お前のところの役立たずどもとは違う。俺が指示しなくても、あいつらは自分の役目を果たせる」
タカゴウのような性格の人間にも、仲間との間にそれなりの絆はあるらしい。
だが、絆というものなら、俺たちだって学べる。
俺は攻撃の手を止め、彼を見た。
「ちょうどいい。俺も自分の仲間を信じている。なら、ここで待ってみるか。どちらが先に終わるか、な」
タカゴウはもともと、今の俺は劣勢に追い込まれ、焦って攻撃し、膠着を破ろうとするはずだと思っていた。
だが俺の提案は、逆に彼を戸惑わせた。俺に何か奇策があるのか、それとも単に攻撃を誘って隙を探そうとしているのか、一瞬判断がつかなくなる。
くそ。
こいつと戦うたびに、苦虫を噛み潰したような気分になる。
タカゴウは心の中で、そう悪態をついた。




