第28話 パーティー名は「ネゲントロピー」
「少し休むか?」
俺は希珀とヘルガを見た。
「私はまだ大丈夫です。左手があります!」
そう言いながら、ヘルガは左手を高く掲げた。
「じゃあ、お前はどうだ、希珀」
希珀はただ静かにうなずいた。
表情からは、彼女が何を考えているのか読み取れない。
俺が本当は考えていたのは、彼女に、無理せず棄権する気はないか確認することだった。
希珀は左利きだ。だが、さっきヘルガがドラゴン族よりも強い力を見せたあとでは、誰も希珀に勝ち目があるとは思っていなかった。
それでも彼女が続けることを選んだのなら、俺は当事者の意思を尊重するしかない。
「準備しろ。今回は俺がカウントする」
二人は、すでに荒れ果てた場の中心に座った。
「ヘルガ」
希珀がヘルガの手を握った、その時だった。彼女は突然、ヘルガに一つ頼みごとをした。
「始まったら、ずっと私の目を見ていてくれる?」
ヘルガは少し意味が分からない様子だったが、希珀への信頼からか、やはりこくりとうなずいて答えた。
「はい。ちゃんと希珀の目を見ます」
「準備はいいか?」
俺は二人に確認した。今回はすぐに終わるはずだ。
「三、二、一、開始」
「ぱんっ」
確かに、すぐに終わった。
だが、俺の予想とは逆だった。
希珀はヘルガが反応するより先に、その腕を倒していたように見えた。
終わるまで、ヘルガは呆けたような表情のまま、目をまっすぐ希珀に向けていた。
「え?」
あまりにも鮮やかな決着に、アパシャとミュイレンは一瞬、自分の目を信じられなかった。
二人は希珀が何らかの能力を使ったことだけは感じ取っていた。だが、まるで見当がつかない。
詳しく探ろうとすればするほど、背筋が寒くなるようだった。
希珀はヘルガの手を離し、場の外へ歩いていった。
その時、ヘルガの意識も体に戻った。
彼女はがたがたと震え始めた。
両手で自分の体を抱きしめ、まるで吹雪の中に放り出されたかのようだった。
そしてついに抑えきれなくなり、大声で泣き出した。
「……うわああああ!」
ミュイレンが慌てて駆け寄り、彼女をなだめる。
「ああ、大丈夫大丈夫。負けても、私たちはみんなヘルガの言うこと聞くから」
ミュイレンは、ヘルガが負けた悔しさで泣いているのだと思っていた。
ヘルガは何か言おうとしているようだったが、体の反応には逆らえない。今の彼女には泣くことしかできなかった。
俺は自分の上着を脱ぎ、ヘルガの肩にかけた。言葉で慰めても、今のヘルガの心には届かない。
希珀の能力を受けたことのある俺にだけは、体の内側から這い上がってくる悪寒が理解できる。
これは普通の恐怖ではない。
意識より先に、体が死を理解してしまう感覚だ。
ヘルガをミュイレンとアパシャに任せ、俺は希珀の方へ向かった。
「前に俺に使ったやつだな」
希珀はこくりとうなずいた。
俺は少し文句を言うように笑った。
「そんなに勝ちたかったのか? そんな奥の手まで使うなんて」
希珀の答えは、また少し俺の予想とは違っていた。
「大した能力じゃないから」
あまりにもあっさりした反応だった。
彼女という存在に、また一枚、謎のヴェールがかかった気がした。
そしてそれは、これ以上希珀に問い詰めても意味がないということでもあった。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ヘルガは泣いている途中で気を失い、ミュイレンに背負われて寮へ戻った。
俺は寮に着くなり、キッチンへ潜り込んだ。希珀は俺のそばで手伝ってくれていた。
副隊長の最初の仕事が、俺の料理の手伝いでいいのか。
とはいえ、うちのパーティーにはほかに頼れる人間もいない。
一日苦労したあと、食べ物で自分をねぎらうのは、俺が秘密裁判所でエージェントをしていた頃からの習慣だった。
同じ魔法で生成した食べ物でも、手間のかかる料理魔法と、出来合いの料理を直接生成するのとではまるで違う。
最後の一品は唐揚げだ。俺は新しく買った魔導具の円盤を取り出した。
切った鶏肉に粉をまぶして円盤の上に放り込むと、鶏肉はすぐに空中でくるくる回り始めた。
俺が円盤に魔力を注ぐと、左右に現れた魔法陣から、少し粘り気のある黄色い液体があふれ出し、鶏肉と混ざり合う。
続いて光の輪が現れ、その輪は黄色から赤へ変わった。
「ぱんっ!」
光が一閃し、黄色い液体は四方へ砕け散るように飛び散り、そのまま空中で消えた。
円盤の上には、黄金色の唐揚げだけが残っていた。
「おぬし、本当に料理魔法を使えたのじゃな」
アパシャも香りに誘われて厨房へやってきた。
「ようやくゴミみたいな魔法生成食を食わずに済むのじゃ」
「食材は魔法で生成したものだけどな?」
「それでもずっと香ばしいのじゃ」
その時、ミュイレンが突然、思わず声を上げるのが聞こえた。
「えっ? ヘルガって聖女候補だったの!?」
「しーっ! しーっ!」
ヘルガは慌てて指を口元に立て、必死にミュイレンを止めた。
「声が大きいです! 誰かに聞かれちゃいます!」
気を失っていたヘルガは、寮に戻ってからソファで少し眠った。目を覚ますと何事もなかったようで、さっき何が起きたのかを尋ねても、全部忘れていた。
時々、彼女のゴキブリのような生命力には感心せざるを得ない。
「本当なのか?」
俺が振り返ると、希珀も少し驚いた様子で俺を見ていた。
俺は肯定するようにうなずいた。
「聖女候補か。道理で、祝福魔法込みの力が、わしと並ぶわけじゃ」
アパシャは納得したように言った。
「いやいや、俺はむしろ祝福魔法にそんな効果がある方が例外だと思うんだが」
「隊長は聖女候補のことをよく分かっておらぬようじゃな。あれは最強の聖職者だけが持つ称号なのじゃぞ」
俺はため息をつき、アパシャとこれ以上言い争うのを諦めた。
彼女がこれから先、すべての聖女候補にそれほど大きな期待を抱かないことを願う。
四品のおかずとスープが出来上がり、全員が食卓の前に座った。
「わあ、いい匂いです!」
ヘルガはよだれを垂らしながら、並んだ料理を一つ一つ見ていた。
その隣にはミュイレンがいる。
俺が薬をミュイレンに渡してから、ヘルガはようやく彼女にぴったりくっついて座るようになった。
もっとも、俺にはまだ彼女の体に残っている妙な香水の匂いが分かるのだが。
ミュイレンの匂いが突然消えた時、ヘルガは一瞬だけ不思議そうにしていた。だが、単純な彼女はすぐに気にしなくなった。
「希珀、副隊長就任おめでとう」
俺が先に拍手すると、ヘルガはさらにアザラシのように手を叩いた。
「希珀副隊長」
ミュイレンは上目遣いで、希珀に甘えるように言った。
「隊長にちょっとお願いしてもいい?」
俺は別に構わなかった。
「直接言えばいいだろ?」
「この『宇の小隊』って名前、変えてくれない? ださすぎる!」
残りの全員が、そろって同意するようにうなずいた。
「隊長が名前を考えるのが面倒なのは分かります。でも、自分の名前を使うのはやっぱり変です」
ヘルガは俺を思いやりながらも、やはり受け入れられないようだった。
「そうだよ。私たち、まるであなたの眷属みたいじゃん」
この名前は、そもそもお前たちが寄ってこないようにするためにつけたものなんだが。
「じゃあ、お前たちが名前を選べ」
四人が一斉に手を挙げた。
「アパシャ、先に言え」
「ドラゴンと侍従」
「却下! 結局お前が主人になりたいだけじゃないか」
次はミュイレンだった。彼女はすべてを掌握しているような手つきをした。
「暗焔の魂」
「却下。中二病は早めに治せ」
俺はヘルガの方を向いた。
「えっと、えっと……祝福とか?」
「次からは考えてから手を挙げろ」
ヘルガは泣きながら、ミュイレンの胸に顔を埋めた。
「くまくまにしよう」
希珀は真面目な顔で言った。
「ちょっと可愛すぎないか」
ちょうどいい名前を考えるのは面倒だ。
これも、俺が名前を考えたくなかった理由の一つだった。
「はあ」
俺はため息をついた。
「正直に言うと、俺たちのパーティーは生まれた時から穴だらけだ。今日になっても、俺たちはかなりの変わり種だと思っている」
「だが、俺たちが変わり種であることは、弱点であると同時に強みでもある」
「ネゲントロピーにしよう。」
「意味は、本来なら乱れて壊れていくはずのものを、無理やり押し戻すことだ!」
俺は拳を突き出した。
「まあ、悪くないんじゃない?」
ミュイレンも俺に応じた。
「よく分かりませんけど、なんだか勢いがあります」
ヘルガはよく分からないまま、手を伸ばした。
アパシャと希珀もうなずき、手を伸ばした。
「俺たちは今日から、本当のパーティーだ。この状況をかき回して、天地をひっくり返すくらいやってやろう」
「隊長にやる気があるのはよいことじゃが……」
アパシャが冷水を浴びせた。
「わしらは本当に戦羊に勝てるのか?」
「それについても考えてある」
食後、俺は三十分かけて自分の計画を説明した。
「つまり、俺たちは手段こそ増えたが、それでも絶対に戦羊には勝てない。分かったか?」
俺は簡潔に結論を告げた。ミュイレンと希珀は考え込むようにうなずいた。
アパシャは最初から寝ていた。
ヘルガだけが、手を高く挙げていた。
「言え」
「分かりません、先生」
「どこが分からない?」
「私たちは人数が同じなのに、どうして少人数で多数を相手にするって言うんですか?」
ヘルガは無邪気な顔で疑問を投げてきた。
「それは最初から何も分かってないってことじゃないか」
俺のこめかみがまたずきずき痛み始めた。
これで説明するのは三回目だ。なぜまだそんな疑問が出てくるのか。
「いいか、簡単に言うと、あいつらは試合開始と同時に、こっちの一人に集中攻撃を仕掛けてくる。そうなれば、その一人は脱落する」
俺はすべての戦闘分析を省き、直接結論だけをヘルガに聞かせることにした。
「じゃあ、どうして私も相手の誰か一人を攻撃しちゃいけないんですか?」
「それは、うちの牧師と魔法使いにできるかどうかを聞くべきだな」
俺は真顔でヘルガを見て言った。彼女がどれだけ鈍くても、これで俺が何を示唆しているかは分かるはずだ。
横にいたミュイレンは、巻き添えを食ったせいで、ヘルガに少し恨めしそうな表情を向けた。
俺はさっきの分析を続けた。
「俺が相手なら、まず標的に俺や希珀は選ばない。俺たちは避けられるからだ」
「となると、あいつらは高確率でアパシャを狙う。そこからシヴァーナとギルダが一緒にヘルガを落とせば、俺たちは三対五という完全な劣勢に追い込まれる」
「さらに悪いことに、相手がこの戦術を使うと分かっていても、俺たちにはそれに対処する方法がない」
俺はもう一度補足した。今度は、さすがのヘルガも沈黙した。
「聞いてるだけで絶望的だね……」
ミュイレンは苦笑した。
防御手段も治療手段もなく、遠距離攻撃の手段すら足りない状況では、それが俺に思いつく唯一の可能性だった。
「だが、俺たちにまったく利点がないわけじゃない」
俺はそれでも、彼女たちに少しの希望を与えた。
「それがミュイレンとヘルガだ」
「お前たちがこれまで何一つまともに見せてこなかったおかげで、あいつらはお前たち二人の能力をほとんど知らない」
二人の顔に疑問が浮かんだ。俺が褒めているのか、けなしているのか分からないのだろう。
疑うな。俺はけなしている。
「あいつらは無意識に、お前たちを守るべき対象だと思い込む。そこでお前たちを前に出せば、必ず相手の意表を突ける」
ミュイレンとヘルガは、それを聞いて元気を取り戻した。すでに勝ち筋が見えたような顔をしている。
「でも、それだけじゃ足りない」
俺はうなずき、彼女の目を見た。彼女もすぐに察した。
「私がシヴァーナを倒す」
希珀は無表情だったが、その目には確かな決意が宿っていた。
どうやら、俺が多くを語る必要はなさそうだ。
「そして最後に、俺とアパシャの任務は……」
そう言いながら、俺は勢いよくアパシャの椅子を蹴った。眠っていて無防備だったアパシャは、そのまま床に転げ落ちた。
「お前たちに決闘の機会を作ることだ」
「おい、話すなら話せ! なんでわしを蹴るのじゃ!」
アパシャは床から起き上がるなり、すぐにぎゃあぎゃあ文句を言い始めた。だが、俺は聞こえなかったことにした。
「これから具体的な戦術を話す。必ず覚えて、その通りに動け!」




