第24話 聖女候補
「隊長、おはようございます」
ヘルガが少し緊張した様子で入ってきた。
「ほら、こっちへ来い」
俺はヘルガを呼び、サンドバッグの前まで連れていった。
「治療魔法が使えないと言っていたな」
彼女が明らかに緊張したのを見て、俺は言葉を足した。
「大丈夫だ。正直に答えればいい。責めたりもしないし、それを理由に追い出したりもしない」
俺の言葉を聞いても、ヘルガはしばらく迷っていたが、やがてうなずいた。
「なら、できるだけ強い攻撃力上昇の祝福を俺にかけてみてくれないか?」
ヘルガは素直に詠唱した。
「祝福魔法」
俺の足元に白い魔法陣が現れ、そこから放たれた光が俺の体を包み込んだ。力が少し強くなった。
試しにサンドバッグを一発殴ってみた。
それほど強力な祝福魔法ではない。以前の測定で感じたものと同じだった。
「牧師系の魔法以外に、何か使える魔法はあるか?」
望みは薄いと思いながらも、念のため聞いてみた。
案の定、彼女は黙って首を横に振った。
違和感がある。
ありすぎる。
彼女が幼い頃から暮らしていたニダロ修道院は、教廷が認める最高の修道院だ。
神聖教廷から派遣された牧師として、彼女は星月学とヘルブレッド学の両方から合格通知を受け取っている。
彼女の経歴は、どう見ても一流の牧師にふさわしいものだった。
だが、そのすべてが、ヘルガという人間とはどこかちぐはぐだった。
神聖教廷では、毎年一万人以上の牧師が資格を取得する。彼女程度の三流牧師なら、とっくに淘汰されているはずだ。
この個人ファイルと俺の常識。
どちらか一方が間違っている。
そして、この個人ファイルが間違っていないことは分かっている。
頭がおかしくなりそうだ。
いや、何かが意図的に隠されているに違いない。
「自分の実力をどう思っている?」
少しきつい聞き方になった。
ヘルガはひどく落ち込んだ表情を浮かべた。
「たぶん……あまりよくないと思います」
「なら、お前が隊長だったとして、お前とほかの牧師なら、どちらを選ぶ?」
「たぶん、ほかの牧師だと思います」
ヘルガの声からは次第に自信が消え、かすかに泣きそうな響きまで混じり始めた。
「自分でも断られて当然だと分かっているなら、どうして『もう断られるわけにはいかない』と言ったんだ?」
ヘルガは自分の実力が足りないことを理解している。
それなのに、それを理由に見下されると、いつも人一倍腹を立てる。
ちょうどいい。
そこを利用すれば、彼女の本音を引き出せる。
だが、口にした瞬間、自分が子どもを追い詰める悪い大人のようにも思えた。
ヘルガは唇を強く噛み、しばらく何も言えなかった。
「なら、質問はもうない。出ていっていい」
俺は冷たい顔で言った。
最後に少しだけ心理的な圧力をかける。
それでも話さないというのなら、俺にもどうしようもない。
「私……」
ヘルガがようやく口を開く決心をした。
彼女の心に残っていた最後の防壁が崩れる音が、かすかに聞こえた気がした。
俺は心の中で静かに懺悔するしかなかった。
ヘルガはスカートの裾を握りしめ、覚悟を決めたように言った。
「私は、今期唯一の聖女候補です」
――!
聖女候補。
よりによって、ヘルガが?
ヘルガは、神聖帝国における当代最高の聖職者、「聖女」の座を争う資格を持つ者の一人だった。
俺の常識は、またしても容赦なく踏みにじられた。
だが、これで今までの違和感には説明がつく。
聖女候補を普通の牧師に紛れ込ませておくのは、神聖教廷と異端審判局のいつものやり方だ。
彼女が星月学とヘルブレッド学の合格通知を受け取れたのも不思議ではない。
パーティー募集のとき、聖女候補でありながらあちこちで断られていたことを思うと、ヘルガがどれほどつらかったのか、想像に難くない。
ニダロ修道院は、昔から聖女候補の指定修行先だった。
俺も、まったくその可能性を考えなかったわけではない。
最も驚いたのは、彼女がこれほど弱いという事実ではない。
こんな特例が異端審判局の狂犬どもに外へ放り出された挙げ句、秘密裁判所の一員である俺のところへ回されてきたことだ。
狂犬とは、晦朔のことだ。
晦朔がわざとやったのでなければ、これは重大な失態になる。
聖女候補の選抜は、昔から教廷にとって最重要機密の一つだった。一般的には、最も才能に恵まれた牧師が選ばれると考えられている。
ヘルガという特例は、その選抜制度を研究するうえで重要な手がかりになる。
詳しく調べれば、制度の仕組みそのものを解き明かせるかもしれない。
だが。
考えてみれば、そこまで調べて何になる?
俺は気持ちを落ち着かせた。
今の俺は学生だ。
必要がないなら、仕事は増やさない。
「聖女候補が何か、知っていますか?」
俺が黙っているのを見て、ヘルガは俺が意味を理解していないと思ったらしい。
「聖女の候補だろ」
ところが、俺が淡々と答えると、ヘルガは逆に眉をひそめて怒り出した。
「『聖女の候補』って、それだけですか? 聖女様がどんな方か知っているんですか? 聖女様は大陸中で最も優れた聖職者なんですよ!」
「聖女様のそばにいて、姉妹として認められるんです! それがどれだけすごいことか分かりますか?」
自分が聖女候補であることを自慢するのかと思ったが、彼女が熱く語っていたのは聖女様のすごさだった。
だが、そこまで興奮しているのを見ると、俺は思わずまた罠を仕掛けたくなった。
「なら、名高い聖女候補様はいったい何ができるんだ?」
「ふん。みんなが私を見下すだけならまだしも、聖女候補まで見下すんですね」
ヘルガは怒りを込めて言った。
「もっと離れてください」
ヘルガは俺にサンドバッグから離れるよう指示した。
「よく見ていてください!」
ヘルガの足元を、白い光が次々と走った。
ほとんど一瞬のうちに、自分にいくつもの祝福を重ねていく。
一つ、二つ……五つ、六つ。
七つか八つ。
俺も目を凝らしていたが、彼女が祝福を重ねる速さには追いつけなかった。
「ふう……はっ!」
ヘルガは怒りを込めて力をため、拳を突き出した。
「ドォン!」
次の瞬間、サンドバッグが消えた。
いや、正確には光の筋みたいになった。
俺の耳元を一直線に通り過ぎ、壁に大穴を開けた。
巨大な音は建物中の人間を驚かせたらしい。
「ひゃっ!」
俺に当たりかけたことに気づくと、ヘルガの勢いは一瞬で消えた。
「当たりませんでしたか? 大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫だ」
俺は声が震えないように努めた。
そして、震えの止まらない右手を急いで背中に隠した。
今の一撃が本当に俺へ向けられていたら、空間跳躍で逃げるのが間に合ったという自信すらない。
「と、とにかく、聖女様の祝福魔法は、今の私が使ったものよりもっとすごいんです」
ヘルガは先ほどまでの勢いを失っていたが、それでも用意していた台詞だけは最後まで言い切った。
本当か、それ。
俺は再びヘルガの魔力測定レポートを開いた。
彼女の身体強度は、なんとCしかない。
つまり彼女は、祝福魔法だけで自分の身体能力をSランク以上まで引き上げていたのだ。
同じSランクのミュイレンでも、俺が防御している状態で肋骨を二本折るなど、絶対にできない。
同じ祝福魔法なのに、自分に使った時と俺へ使った時で、これほど大きな差が出る。
今日だけで、俺の常識は完全に書き換えられた。
「説明してくれ。今のはどういうことだ?」
俺は平静を装ったまま尋ねた。
「なぜかは分からないんですけど、私の祝福魔法は、自分に使う時だけすごくうまくいくんです。でも、ほかの人、特に男の人に使う時は、魔力の消費が激しいうえに、効きも悪くて……」
ヘルガは自分の手を見つめ、沈んだ声で言った。
「先生には、小さい頃から自分にかける練習ばかりしていたから、大きくなってもほかの人にうまく使えなくなったんだと言われました」
妙な説明だ。
だが、そこを深く考えるつもりはなかった。
「なら、どうして今まで俺たちに言わなかったんだ?」
「自分にしか祝福を使えない牧師は、牧師とは呼べないって言われたからです」
ヘルガは悲しそうに答えた。
誰が言ったのかは知らないが、俺は全面的に同意する。
「そのまま動くな。対魔力を調べる」
俺はヘルガの肩に手を置き、一定量の魔力を彼女の体内へ注ぎ込んだ。
それから目を閉じ、自分の体内に空間転移魔法陣を展開した。
「キィン」
俺はヘルガの体を強く揺さぶった。
それから目を開け、少し疲れたように息を吐き、手を離して尋ねる。
「何か感じたか?」
ヘルガは手を顎に当て、じっくりと思い出した。
「体を揺らされた感じがしました」
それは当たり前だ。
「それから、少し体が浮くような感じがしました」
ヘルガは必死に考えた。
「たぶん、それだけです」
俺はうなずいた。
ほかの人間なら、今頃は宇宙ゴミになっている。
ヘルガの対魔力は、怪力と同じくらい恐ろしい。
ともかく。
うちのパーティーの牧師は、実質的には戦士だった。
まあ、受け入れられなくもない。
そう考え、俺は彼女に尋ねた。
「戦技を習ってみないか?」
「嫌です」
今度はやけにきっぱりと答えた。
「どうしてだ? かなり役に立つと思うが」
ほかの人間がどう思うかは知らない。
だが俺には、彼女が毎回、罠に一直線に踏み込んでいく姿が強く印象に残っている。
「私は牧師ですよ。どうして戦技を習わないといけないんですか?」
ヘルガは逆に、俺の方を不思議そうに見た。
なんだ、その妙に筋の通った理屈は。
俺も、牧師が戦技を学ばなければならない理由を、すぐには見つけられなかった。
よし。
やはり受け入れられない気がしてきた。
「合格だ。ミュイレンを呼んできてくれ」
俺は痛み始めた額を押さえながら、彼女を訓練室から送り出した。
その直後。
体の疲労が少し消えたように感じた。
俺には、魔力回復の祝福がかけられていた。
振り返ると、ヘルガが扉の陰から顔だけをのぞかせていた。
俺に向かってべっと舌を出すと、すぐに扉を閉めた。
どこか嬉しそうだった。




