第19話 治療魔法、使えません
分かっている。
見た目にはかなり危ない状況だ。
だが、それでも俺には、まだ楽観できる理由があった。
ヘルガはあまり賢くない。
しかし牧師としての魔力測定の成績は、非常に優秀だった。
それどころか、俺たちの中で一番高い。
つまり、彼女こそが俺たちの隠し札なのだ。
彼女が治療魔法さえ使えれば、すべてはよくなる。
そう、俺は期待していた。
では、俺たち全員から期待を寄せられているヘルガは、今いったい何をしているのか。
彼女は完全にてんてこ舞いで、両手を所在なさげに胸の前で握りしめていた。
魔法を詠唱する気配など、欠片もない。
「「「宇の小隊の牧師、今日はどうやら調子が悪いようですね!」」」
「「「パーティーのメンバーが次々に負傷しているにもかかわらず、治療魔法を使う気配がまったくありません。まさか、何か大技を準備しているのでしょうか?」」」
「私がこいつを引き受けるから、あんたは早く三人を治療して!」
ミュイレンは黒沢渉を押し返し、氷越しにヘルガへ叫んだ。
「……」
ヘルガは申し訳なさそうな顔で、何かを小さくつぶやいた。
「どうしたの?」
ミュイレンには、ヘルガの言葉が聞き取れなかった。
「……使えません」
ヘルガは少しだけ声を大きくした。
だが、最後にはやはり声が小さくなっていく。
「何が使えないの?」
ミュイレンは一瞬、理解できなかった。
「彼女は、治療魔法が使えないと言っておる」
アパシャがヘルガの代わりに大声で伝えた。
全身を血に染まった氷の中に閉じ込められたままだというのに、声だけはやけに力強い。
「はあ!?」
ミュイレンは、自分の耳を疑った。
アパシャがヘルガの訓練相手だったことを思い出し、どうにか怒りを押し殺して彼女に尋ねる。
「このこと、知ってたの?」
アパシャは首を横に振った。
「確かに、わしに治療魔法を使ったことはなかった」
「じゃが、わしはあまり怪我をせん」
「俺、治療魔法使えるぜ。教えてやろうか?」
横で聞いていた黒沢渉も笑いながら、ミュイレンへ攻撃を仕掛けつつ茶々を入れた。
「黙って! こっちは今、めちゃくちゃイラついてるの!」
ミュイレンはその怒りを、目の前の相手へぶつけるしかなかった。
彼女は両手で杖を握り、黒沢渉のダガーを受け流す。
続けて杖尻を握り、勢いよく横薙ぎに振り抜いた。
黒沢渉は避けきれず、まともに打たれて吹き飛ばされる。
ミュイレンはその隙に杖を掲げた。
「ファイアボール」
その短い詠唱だけで、二つ、三つの火球が黒沢渉へ飛んでいった。
黒沢渉は左右に二歩跳ぶだけで、それを軽々とかわした。
「お前の棍術は確かに強い」
「だが魔法使いとしては、その程度の魔法じゃ人を説教できないな」
黒沢渉は宙返りするように身を翻し、逆手でミュイレンへ斬り下ろした。
ミュイレンは再び杖を掲げて受け止めようとする。
だが、それこそが黒沢渉の狙いだった。
彼は身を横へずらして肘を突き上げ、逆手に持ったダガーを垂直に下ろす。
そして、勢いよく押し込んだ。
「戦技·落槌斬!」
ダガーが鋭く振り下ろされる。
ミュイレンの杖は、中央から真っ二つに切断された。
二本の短い棒としてなら、まだ黒沢渉と渡り合うことはできるだろう。
だが、杖の魔法回路は破壊された。
つまり、彼女はもう大型魔法を使えない。
黒沢渉がミュイレンを出し抜いている頃、俺は爆笑が止まらないタカゴウの前で、どうにか立ち上がろうとしていた。
「ははははは……無理だ、腹、腹が痛い……!」
「まさか、まさかだな」
「役立たずパーティーは、牧師までとびきりの役立たずかよ!ははははは!」
彼は笑いすぎて、ほとんど腰を曲げていた。
これが戦闘中でなければ、タカゴウはたぶん地面を転げ回っていたはずだ。
反論できない。
俺以外に残っているのは、どうやら――
魔法もまともに放てない役立たず魔法使い。
治療できない役立たず牧師。
後衛を守りたがらない役立たず前衛。
そして今、氷の中でさぼっている役立たず後衛。
役立たずパーティー。
どうやら、不本意ながらかなり的確な評価らしい。
タカゴウの攻撃を受けたせいで、もともと耳鳴りがしていた。
そこへ背後の会話が聞こえてきて、耳の奥のざわめきはさらにひどくなった。
だが今、俺が一番したいことは、ヘルガを罵ることではない。
ミュイレンにインタビューして、脳が停止する感覚はあったかと聞いてみることだ。
俺は親切に警告しておいたのだから。
とはいえ、文句を言うのはすべて終わってからだ。
「やるのか、それともまだ無駄話を続けるのか?」
今、俺がまだ立ち上がれるのなら。
倒れている理由はない。
「「「なんと、宇の小隊の隊長が立ち上がりました!」」」
「「「どうやら、まだ最後の抵抗を見せるつもりのようです!」」」
司会者の声は、感動で震えていた。
「「「向かうところ敵なしの英雄が全員の憧れであることは、もちろん間違いありません!」」」
「「「しかし、最後まで諦めない小さな存在こそ、最高の物語なのです!」」」
タカゴウは、俺の言葉がよほど気に入らなかったらしい。
「ふん。負け犬なら、負け犬らしくしていろ」
「体面を保つ気がないなら、もっと惨めに死なせてやる!」
悪いな。
俺は死ぬつもりも、負けるつもりもない。
「ヘルガ!」
ヘルガは俺に呼ばれた瞬間、びくりと肩を跳ねさせた。
「お前が治療魔法を使えない件は、帰ってから話す」
「今は、自分の得意なことだけやれ!」
ヘルガはてっきり俺に怒鳴られると思っていたらしい。
俺の言葉を聞いて、最初はぽかんとした。
それから、力強くうなずく。
「はい!」
タン、タン、タン――。
ヘルガは、牧師としての面倒な作法にこだわるのをやめた。
牧師のローブと聖約を、そのまま脇へ放り出す。
足元に、祝福魔法の魔法陣がいくつも瞬いた。
「「「牧師がウォーミングアップを始めました!」」」
司会者は、どこで覚えたのか分からない流行語を口にした。
「「「宇の小隊の牧師、なんと牧師のローブと聖約をその場に投げ捨てました!」」」
「「「これは何という冒涜でしょうか!」」」
「「「仲間が頼りにならないと見るや、宇の小隊の牧師は自分にバフをかけ、まさかの自ら参戦!」」」
「「「これこそが、彼女がずっと溜めていた大技なのでしょうか!」」」
魔法陣の点滅が速すぎて、俺にも彼女が自分に何重の祝福をかけたのか分からなかった。
ヘルガは希珀へ向かって叫ぶ。
「希珀さん、助けに行きます!」
そう言って、彼女はなんと辰巳へ向かって走り出した。
「来ないで!」
希珀は慌ててヘルガへ叫んだ。
だが、すでに遅い。
地上の茨花だけではない。
地下にも、見つけにくい罠が仕込まれていた。
ヘルガは焦ったまま走り込み、たった一歩で地下に仕込まれた枝を反応させてしまった。
次の瞬間、彼女の周囲と近くの藤が一斉に地面から飛び出し、ヘルガをぐるぐる巻きに縛り上げた。
「あっ、離してください!」
藤に縛られたヘルガは、行動不能になった。
「「「宇の小隊の牧師、倒れました!」」」
は?
俺の指示のどこに曖昧なところがあった?
俺が言ったのは、“早く得意な祝福魔法を使え”という意味ではなかったのか?
いったいどんな頭をしていたら、あれを――
“自分で突っ込め”
と解釈できるんだ?
……はあ。
俺はその怒りを、無理やり飲み込んだ。
仕事に感情を持ち込んではいけない。
今の俺が戦い続ける唯一の理由は、この測定が勝敗だけを目的にしたものではないということだ。
俺はしっかり動いて、審査する教授陣の印象点を少しでも上げなければならない。
もっとも、十分前にさっさと降参していた方が、今より点数が高かった可能性すらある。
「お前らの茶番はもう見飽きた」
タカゴウは両手の盾を振り回しながら、俺へ攻め込んできた。
「おとなしく死ね!」
その攻撃は大振りだった。
まともに食らえば、そのまま意識を失ってもおかしくない。
彼が再び左手の盾を俺の頭へ振り下ろす。
俺は素早くしゃがみ、タイミングを見計らって胸甲を狙った。
だが、残ったのは浅い擦り傷だけ。
腹を立てたタカゴウは、今度はそのまま蹴りを放ってきた。
俺は腕を上げて受け止め、勢いを利用して後ろへ下がる。
……ん?
俺は違和感を覚えた。
これまでなら、俺が反撃するたび、シルヴァナの藤がすぐに戦闘の隙間を埋めていたはずだ。
だが、今回はない。
俺は視線の端でシルヴァナを見た。
彼女は両手で地面に突き刺した杖を必死に支え、絶えず魔力を注ぎ込んでいる。
杖の向こう側につながっているのは、ヘルガを包み込む枝だ。
ヘルガの周囲では、藤が次々に地面から伸び、一重、また一重と彼女に巻きついていく。
それでも、今にも内側から引き千切られそうな気配があった。
「この子、力が強すぎます! ギアンダ、手伝ってください!」
シルヴァナが歯を食いしばって叫ぶ。
「分かった! 凍らせる!」
ギアンダの杖の先から冷気が噴き出し、ヘルガの体へ浴びせられた。
白い霜が彼女の体を覆っていく。
おそらく、少しすればヘルガは丸ごと凍りつくだろう。
だが、この作業には時間がかかる。
そして今、二人はほかの魔法を使えない。
ヘルガは、なぜか奇妙な方法で、突然相手二人を足止めしていた。
なら、俺は――。
俺は、まだミュイレンと戦っている黒沢渉をちらりと見た。
一つ、思いついた。
「戦技·四連斬!」
俺はタカゴウへ猛然と斬りかかった。
シルヴァナの援護がなくなった今、タカゴウはこの速い連撃を一人で受けることになる。
さすがに少し戸惑い、二歩下がった。
その隙に、俺は手元のダガーをシルヴァナとギアンダへ向かって投げる。
タカゴウは、俺の飛刀がまた加速すると見て、慌てて両腕を上げ、防御に入った。
俺はその防御の隙を利用し、体を反転させる。
そして、黒沢渉へ向かって走った。
まさか、わざと飛刀を投げたのか?
シルヴァナとギアンダが援護できないこの瞬間を狙い、時間差を作って、先にミュイレンと二人がかりで黒沢渉を潰すつもりなのか?
タカゴウの顔に驚きが浮かぶ。
だが、それは長く続かなかった。
すぐに彼は、呆れたように笑った。
そんな分かりやすい小細工を、俺が見逃すと思ったのか?
まあ。
役立たずにしては、悪くない読みだ。
「戦技·不屈城壁!」
瞬間、幅十メートル近い魔力の壁が地面から立ち上がった。
数秒の間、あらゆる攻撃を阻む壁だ。
二本のダガーは、一瞬で弾き飛ばされた。
「戦技·牡羊踏破!」
タカゴウは両手の盾を掲げた。
同時に、大量の魔力を脚へ流し込む。
「ドン!」
重い踏み込みの音とともに、タカゴウが突進を始めた。
彼を包み込む魔力の外側に、牡羊のような影が浮かび上がる。
今のタカゴウは、速度が極めて速いだけではない。
進路上のすべてを粉砕する。
ほんの一瞬で、タカゴウは俺に追いついた。
背後からエルフ馬が突っ込んでくるような圧を感じる。
「死ね!」
タカゴウが俺へ迫る。
このままでは、四肢も胴もまとめて砕かれる。
俺たちが接触する、その寸前――。
俺は横へ転がって突進をかわした。
そして地面すれすれを滑るように、彼の背後――シルヴァナとギアンダのいる方向へ走る。
彼らのパーティーの本当の要は、エルフのシルヴァナだ。
彼女を落とせば、戦場制御も、治療も、分断も失われる。
そうなれば、残りを一人ずつ潰すのは難しくない。
「逃げ回るだけのネズミか!」
タカゴウは俺が往復するのを見て、慌てて足を止め、反対方向へ突進しようとした。
だが、次の瞬間、タカゴウの膝ががくりと折れた。
すれ違いざま。
俺はすでに、彼のふくらはぎへ二度斬りつけていた。
脚を傷つけられたせいで、タカゴウはすぐには突進戦技を使えない。
「シルヴァナ!」
シルヴァナは即座に意図を察した。
杖が光り、治療の枝が三方向からタカゴウへ飛んでいく。
二本は地下。
一本は空中で、壁を伝うように走る。
そんな機会を、俺が与えるはずがない。
「ドス、ドスッ!」
二度の斬撃で、地下の二本の枝を地面に縫い止める。
続けて、俺は体を翻し、その動きに乗せて袖口から滑り出たもう一本のダガーを投げた。
最後の枝も、壁に縫い止められる。
次の瞬間には、後ろ腰からさらに二本のダガーを抜いていた。
一連の動きは流れるようにつながり、俺の速度をほんの少しも鈍らせない。
「この程度の傷で!」
俺に誘導されたと気づいても、タカゴウは脚の傷など無視して、強引に力を溜めようとした。
「アパシャ、寝てる暇はない。リーダーを止めろ!」
「まったく、人使いが荒いのう、隊長!」
「バキィッ!」
アパシャを閉じ込めていた氷が砕け、巨大な龍爪がタカゴウへ振り下ろされた。
純粋な力では、アパシャは俺とは比べものにならないほど上だ。
タカゴウは両手の盾を上げ、全力で防御した。
それでもなお、彼の体はそのまま数メートル後方へ押し飛ばされた。
「蒼藍魔法·氷壁!」
タカゴウが短時間では抜け出せないと見て、ギアンダは急いで氷の壁を築き、俺の進路を塞いだ。
俺は跳んだ。
そして氷壁に片足を食い込ませ、そのまま足場にしてもう一度跳ぶ。
二回の動きで、氷壁の頂上へ上がった。
「そこです!」
俺が氷壁の上に顔を出した時には、ギアンダはすでに杖を構えて待ち構えていた。
俺が顔を出した瞬間、氷矢で狙撃するつもりだったのだろう。
甘い。
俺は迅雷の勢いでダガーを投げる。
彼女の魔法は放たれる前に砕け散った。
「うっ」
砕けた氷片が飛び散り、ギアンダは慌てて腕で顔をかばう。
俺は一瞬も足を止めず、そのままシルヴァナへ向かって突っ込んだ。
「森林魔法·茨花の牢!」
シルヴァナを囲むように地面を這っていた藤が、次々と花を咲かせる。
シルヴァナが魔力を注ぎ込むと、花々が一斉に弾けた。
そこから数本の枝が伸び、彼女を守る檻を作り上げる。
「ガン――!」
俺は一撃で斬り下ろしてみた。
だが、枝の手応えはほとんど鋼鉄だった。
地面からさらに多くの枝が伸び、俺を押し返す。
俺は一歩下がり、手にしたダガーを投げた。
枝の隙間へ直接ねじ込むつもりだった。
「蒼藍魔法·アイスブロック!」
ギアンダは、シルヴァナを包む枝の外側へ、さらに透明な氷の障壁を立てた。
これで、シルヴァナは完全に守られた。
おそらく彼らもよく分かっているのだろう。
シルヴァナの重要性は、パーティーのほかの誰よりも高い。
だが、俺はそれでも構わない。
標的を変え、今度はギアンダへ向かう。
「蒼藍魔法·流氷弾!」
防御用の魔法を失ったギアンダは、氷の弾丸を撃ち続けるしかない。
シルヴァナの枝と合わせ、どうにか時間を稼ごうとしている。
だが。
もう、誰が彼女たちを助けに来られるというのか。




