第16話 秘密裁判所
帝国法院の下部機関、秘密裁判所。
臨滄都から西へ二十分ほど行った郊外に、一つの低い建物がぽつんと建っている。
外観は、退屈なほど質素だ。
だが、敷地だけはやたらと広い。
正門の上には、一枚の漆黒の羽が描かれている。
その外側を囲む、金色の縁取り。
黒鴉の羽。
それこそが、この組織の象徴だった。
一部には正義を。
そして多くには、不幸を意味する。
外から見れば、普通の行政庁舎にしか見えない。
出入りしている者の多くも、行政を担当する文官たちだ。
ただ、時折、俺のように犯人を連行する黒服の男が現れることで、この機関の本質が垣間見える。
——帝国で最も恐ろしい暴力機関。
犯人の引き渡しを終えた頃には、ちょうど昼時だった。
裁判所の食堂は、人で溢れかえっている。
「こっち」
俺は辺りを見回した。
どうやら、その声が聞こえたのは俺だけらしい。
「こっちだって」
声がもう一度響いた。
声のする方を見ると、イツミが隅の席でこそこそと俺に手招きしていた。
イツミは一人で四人掛けの小さなテーブルを占領していた。
明らかに空席はあるのに、誰一人近づこうとしない。
何しろ、行動院の徽章をつけている。
ほかの部署の人間は、そもそも近づこうとしないし、相席などもってのほかだった。
俺が向かいに座ると、イツミはついでのように箸で卓面を軽く叩いた。
箸が触れた場所を中心に、見えない泡が広がっていく。
それは俺たち二人を包み込むところまで広がり、瞬時に内外の音を遮断した。
「なんでそんなこそこそしてるんだ」
俺は口を開くなり、彼を軽く刺した。
「あの女がいるの、見えなかったか?」
イツミが指した方向を見ると、行政部の女の子が同僚と話していた。
あれはイツミの元カノだ。
「あのイカれ女とは顔を合わせたくないんだよ」
イツミは苦々しい顔で、箸で茶碗の飯をつついていた。
俺はイツミに一切同情しなかった。
「自業自得だろ。三股なんかかけるからだ」
イツミはかつて、行政部で三人の女の子と同時に秘密交際していた。
それが発覚したあと、三人が揃って行動部まで押しかけてきた。。
最後に事態を収めたのは、俺だった。
その時、先頭に立っていたのが、彼が今指したこの女の子である。
「俺の話はいいだろ」
イツミは巧みに話題を逸らした。
「まさか、まだ所でお前に会えるとは思わなかったな。もうすっかり向こうの生活を満喫してるのかと思ってた」
「俺だってそうしたいよ。残念ながら、老いぼれが二週間に一度は戻って報告しろと言ってきてな。今さっき終わったところだ」
行動院院長。
秘密裁判所の実質的な指導者。
俺たちは普段、彼を“院長”と呼ぶ。
イツミと二人きりの時だけは、“老いぼれ”と呼んでいる。
何年経っても。
何度会っても。
俺は彼の前に立つと、まるで生まれたばかりの裸の赤子になったように感じる。
心の中に、自然と焦りと不快感が湧いてくる。
「老いぼれも本当にな。お前がやってるのは一応、潜入任務だろ? これじゃ邪魔してるようなもんじゃないか」
「仕方ない。人手はどんどん足りなくなってる。お前のおかげで、俺もどうにか老いぼれを説得して出てこられたんだ」
イツミは口が軽い。
女関係に至っては、救いようがないほどだらしない。
だが、仕事では非常に頼れる相棒だ。
俺が裁判所を離れる前にも、片づけきれなかった仕事の一部を彼に頼んでいる。
「なら、ちょうどいいな。次に戻ってくる時、星月学のかわいい子を何人か紹介してくれ」
「夢でも見てろ」
当然、俺は彼の要求すべてに応じるつもりはない。
イツミとは、男女関係に関してだけは価値観が大きく違う。
「なんだよ。美を追い求めるのは人類の本能だろ」
イツミは俺の皮肉を聞かなかったことにした。
「ああ、忘れてた。お前は年上のお姉さんが好きなんだったな。悪い悪い」
俺は彼に白い目を向けた。
「新生活には慣れたか? 非戦闘系の専攻を選んだって聞いたぞ」
「“魔法遺跡学”だ」
俺は真面目くさった顔で役人みたいな口調を作った。
「老いぼれには、仕事上必要だと言っておいた。今後、密輸品を見つけた時に、鑑定部の同僚にいちいち迷惑をかけずに済みます、と」
「ははは、よくそんなデタラメ言えるな」
「仕方ないだろ。人手が足りなさすぎるんだ。何か話を作らないと、老いぼれが放してくれなかった」
「じゃあ、戦闘パーティーには入ったのか? お前の実力で入らないのはもったいないだろ」
言うなよ。
自分の隊員のことを思い出した瞬間、新生活が一気に灰色になった。
話しているうちに、昨夜の会話を思い出す。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「訓練計画について話そう」
俺は全員を集め、簡単な切り出しをした。
「再来週には初めての小隊測定がある。そろそろ準備を始める必要がある」
晦朔は俺たちに、あれほどいい家を手配してくれた。
できれば、ひどい成績で彼の厚意を無駄にしたくない。
だが、なぜか全員、この訓練計画には興味が薄そうだった。
「加入する前に言ったよね」
最初に口を開いたのはミュイレンだった。
「私は一人で訓練したい」
「できれば、私も一人で訓練したい」
希珀もそう言った。
彼女も、どうやら自分の訓練している姿を他人に見られたくないらしい。
とはいえ、彼女は毎日鍛えている。
俺は彼女を信じることにした。
「なら、わしは寝る」
アパシャは加入前に言っていた通り、悪びれもせずそう言った。。
だが、彼女はドラゴンだ。
たぶん……大丈夫だろう。
俺は最後にヘルガへ視線を向けた。
ヘルガは残りの三人を見て、それから俺を見た。
「私は牧師です。誰も一緒にいなかったら、どうやって訓練するんですか?」
彼女の言うことはもっともだった。
「前は教会でどうやって練習していたんだ?」
「普通は、お互いに魔法を使います」
一般的な牧師は、チーム内で立ち位置や連携などを訓練する。
だが、今は明らかにそれもできない。
幸い、牧師の魔法は特殊だ。
実力のある相手がいなくても、練習そのものはできる。
「俺はこの二日、ここにいない。ヘルガは、とりあえずアパシャ相手に練習しておけ」
俺はアパシャを見た。
「わしは構わん」
俺は続けて一枚の表を取り出した。
「ここに書いてあるのが、標準的な小隊配置だ」
「俺と希珀が前衛。突撃を担当する」
「アパシャは後衛。ヘルガとミュイレンを守る」
「残りの二人は隊列の最後方で、魔法と支援を担当する」
「各自、自分の位置を覚えて練習しておいてくれ」
全員、分かったような顔で頷いた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ものすごく不安だ」
「?」
今回の測定は、そこまで重要なものではない。
みんなも自信満々に見える。
だが、俺は自分のメンバーの実力すら知らない。
イツミにはきっと想像もつかないだろう。
うちのメンバーが、どれほどの変人揃いなのか。
ため息をつく俺を見て、彼は本気で不思議そうな顔をしていた。
ここまで来た以上、あとは測定の日を待つしかない。
嬉しい驚きになるのか。
それとも、ただの驚愕になるのか。
その時、彼の腰のあたりで何かが光った。
“伝話水晶”。
奥秘魔法協会の最新発明だ。
イツミは手元の仕事連絡を見て、苦笑した。
「学校生活って、こっちよりはずっと楽なんじゃないのか?」
「そうとも限らない」
この件について深く考えるのはよくない。
一度考え始めると、肋骨がまた幻痛を訴えそうになる。
「ついでに、犯人二人の護送まで手伝ったしな」
そんな小さな仕事まで俺に回ってくる。
裁判所の人手は、そこまで足りなくなっているのか。
「最近、所の方はどうだ? 何かあったか?」
「まあ、普通だな。ほとんど雑用だよ。」
「皇宮から名簿が来たら人を捕まえに行く。」
「貴族の揉め事を収める。」
「こっそり審判廷の連中に嫌がらせをする。。お前も知ってるだろ」
「そうだ」
イツミは何かを思い出したように言った。
「お前の仕事を手伝ってる件、まだ飯を奢ってもらってなかったな」
「いいよ」
俺は彼がただの社交辞令で言っているのだと思った。
だが、彼は続けた。
「お前の仕事、もうほかの奴に回したから」
「おい。俺がわざわざお前を信頼して頼んだっていうのに」
だが、イツミは手をひらひら振った。
「違う違う。俺、二日後に出張なんだよ。自分の仕事も全部ほかに回した」
「出張? 遠いのか?」
「ずっと西だ。西極洋の沿岸にある、無魔力者の定住地だな」
イツミは遠慮なく言った。
「向こうの報告では、巨大な魔力異常が発生したらしい。巨大な氷像だか何だかがあって、すでに何人か凍死しているそうだ」
「氷像? 凍死? まさか……?」
俺の頭の中に、一つの可能性が浮かんだ。
「どう考えても“氷帽ちゃん”の仕業だろ。へへへ」
イツミは自分でつけたそのあだ名を、かなり気に入っているようだった。
蒼藍教の人間は、自分たちの信奉する神にイツミが“氷帽ちゃん”なんてあだ名をつけたと知ったら、いったいどんな顔をするのだろう。
「要するに、行って写真を撮って、報告書を書くだけだ。難しい仕事じゃない」
出張とはいえ、大した案件ではないらしい。
イツミはハンドルをひねるような仕草をした。
「俺のオフロード二輪に乗っていけば、早ければ一か月で戻れる」
「ハイストノス無魔力者保護区を通るなら、馬の方がいいと思うぞ」
俺はそう忠告した。
ハイストノス地区。
星月国の玄関口である龍星城を出て、さらに西へ進んだ場所。
そこは帝国中枢、北方諸国、星月国の境界にある。
同時に、神聖帝国最大の無魔力者保護区もそこにある。
もし道中で機械故障でも起きれば、点在する町ではオフロード二輪の修理など難しいだろう。
「平気平気。本当にそこまで運が悪かったら、車は捨てて、二本の足で走って帰ってくるさ」
イツミは気にしていなかった。
「
問題はな」
イツミはそこで話の向きを変え、自分の苦労を語り始めた。
「お前が出ていってから、院長が何をやってるのか知らないが、大量に人手を引き抜いてるんだ。」
「最後は急いで戻って、自分の仕事を自分で片づける羽目になりそうでな。」
「俺が出る前より、さらにひどくなっているように聞こえる」
「そうなんだよ」
イツミはやれやれと両手を広げた。
「この前も、妙に秘密めかした感じで何人か指名して連れていった。結果、戻ってきたのは院長一人だけだ。たぶん何かの秘密任務だろ」
俺は少し黙った。
戻ってこない人間は、おそらく死んだ。
秘密裁判所では、それほど珍しいことではない。
「出発する前に、髪を切りに行かないとな」
イツミは食べ終えた残りを片づけ始めた。
「途中で、綺麗な無魔力者のお姉さんと愛の出会いがあるかもしれないし」
「お前、本当に見境がないな」
貴族の目から見れば、それはすでに鬼畜級の異種恋愛である。
「ひひ。俺は博愛主義者なんだよ」
「そうだ。飯は俺が戻ってきてからな。忘れるなよ」
イツミは、得を取れる時だけは絶対に遠慮しない。
「ちっ」
俺は手を振り、さっさと行けと示した。
彼の背中が人混みの中に消えていくのを見送る。
無事で帰ってこいよ。
このろくでなしに、そう祈っておいた。




