番外編① 蝕影(エクリプス)
晦朔は俺を、とある住宅区画へ案内した。
そこに並ぶ連棟式の別荘こそが、星月学で最も上等な学生寮らしい。
彼は一つの扉の前まで歩き、扉横の魔法陣に魔力を注ぎ込んだ。
窓越しに中を覗くと、玄関の先には大きなリビングが広がっているのがぼんやり見えた。
中では、誰かが体操のようなものをしている。
さすがは星月学生徒会副会長。
住んでいる家も、ずいぶん立派だ。
この区画に住んでいるのは、武道会の候補パーティーがほとんどらしい。
多くの学生が、強い戦闘パーティーに入ろうと必死になる理由も分かる気がした。
この家は、外見が豪華なだけではなかった。
設備にも、かなり先進的な魔導化設計が使われている。
晦朔が壁にある小さな魔法陣に触れ、そこへ少しだけ魔力を注ぎ込む。
すると、玄関の両側に置かれた魔力蝋燭が順番に灯り、柔らかな光が入口全体を照らした。
「ただいま」
「おかえりにゃ!」
寝間着姿の女の子が、やたら元気よく床を蹴って後ろへ跳んだ。
そのままソファへ飛び乗り、背もたれを掴んで立ち上がる。
さらに、完全に重心を失っているようにしか見えない角度まで腰を後ろへ反らし、頭だけをこちらへ伸ばして、玄関の俺たちに挨拶してきた。
上半身の寝間着は限界まで引き伸ばされていた。
しかし、それでも彼女の身体の柔軟性には追いついていない。
結果として、へそと二つに割れた腹筋が丸見えになっていた。
だが、その不意に露わになった腹よりも目を引いたのは、彼女の頭にぴんと立った二つの猫耳だった。
そして、背後で左右に揺れている尻尾である。
俺の知る限り、動物に変身できる者なら、エルフ族のドルイドがいる。
だが、動物の特徴と人間の姿が融合している種族となると、南方森林の獣人族の集落くらいしか聞いたことがない。
現代の教科書では、もはや詳しく記載されることすらなくなった種族だ。
「友達を連れてきた」
晦朔はそう言うと、俺の方へ向き直った。
「紹介する。うちのパーティーの前衛、コシュカだ」
「やっほーやっほーにゃ」
コシュカは、猫科動物とは思えないほど元気だった。
「今年入学した後輩くんかにゃ? 珍しいにゃあ。晦朔が友達を家に連れてくるなんてにゃ」
コシュカの俺を見る目は、好奇心でいっぱいだった。
「ああ。これは宇だ」
晦朔は自然に俺を紹介する。
「俺が子供の頃から知っている親友だ」
俺もそれに合わせて、挨拶しようとした。
しかし、コシュカはその紹介を聞いた瞬間、表情を一変させた。
「にゃええええ――!」
その顔に浮かんでいたのは、驚きだけではなかった。
むしろ、少し恐怖すら混じっていた。
彼女はそのまま足を滑らせ、ソファの背もたれから頭から床へ突っ込んだ。
どん!
頭が床にぶつかり、すさまじい音が響いた。
家全体が揺れたような気さえする。
寝間着も重力に引っ張られてずり落ち、腹筋が完全に露出した。
だが、彼女は自分の格好など一切気にしなかった。
身軽にくるりと身を翻し、四つ足で着地する。
そして、上げかけたまま固まっていた俺の手を、両手で握った。
「き、き、君、本当にずっと前から隊長のことを知ってるにゃ?」
「まあ、七、八年前くらいからかな」
俺は彼女の勢いに驚いて、思わず本当のことを口にしてしまった。
「大変だにゃ! 隊長、十八歳より前にも存在してたにゃ!」
コシュカは俺の手を離すと、興奮した様子で手足を使い、リビング中を飛び回り始めた。
「俺は、今ここで突っ込むべきだったんだろうな」
俺はできる限り凶悪な目つきで晦朔を睨んだ。
「お前、いったい他人にどんな印象を残してるんだ」
「へへ」
晦朔は照れくさそうに笑いながら、頭を掻いた。
「褒めてないからな!」
「ねえねえ、隊長って昔は小太りだったって本当かにゃ?」
「まあ、そうだな……」
俺が答え終わる前に、次々と質問が飛んできた。
「隊長が十歳の時に一人で十人倒したって、本当かにゃ!?」
「隊長が小学生の時、学校の裏社会のボスだったって、本当の本当にゃ!?」
「隊長が魔族語を話せるって、本当の本当の本当かにゃ!?」
「へへへ。そんなに言われると、照れるな」
晦朔はますます照れくさそうに笑った。
だから。
褒めてないんだってば!
どたどたどたどた――!
俺が大量の質問に押し潰され、目を回しそうになっていた時、上の階から慌ただしい足音が聞こえてきた。
寝間着姿で髪も乱れた、明らかに寝ている途中だったらしい小さな女の子が、階段を駆け下りてくる。
彼女は手すりに掴まりながら、大声で尋ねた。
「何!? 何があったの!?」
コシュカは涙ぐんだ目で俺を指差し、その女の子に紹介した。
「リズにゃ! リズにゃ!」
「隊長を昔から知ってるっていう、生き証人がいるにゃ!」
リズは、固まっている俺と、にこにこ笑っている晦朔を見比べた。
そして一瞬で状況を理解したらしい。
彼女は呆れたように額を押さえた。。
「とにかく、その手を放しなさい。相手が怯えてるでしょ」
「でも、でも……」
コシュカは俺を見て、リズを見た。
まるで、一度手を離したら俺が消えてしまうとでも思っているようだった。
「神聖魔法・鎮静!」
詠唱が響くと、コシュカの身体に淡い緑色の光が走った。
さっきまで今にも部屋中を飛び回りそうだった彼女は、一瞬で静かになった。
俺の手を離し、両腕をだらりと下げる。
そのまま身体も床へ滑り落ち、うとうとと眠たげな顔になった。
「心配しなくていい」
リズの後ろから、ゆっくりと一人の男子学生が歩いてきた。
手には聖約を持ち、僧服をまとい、眼鏡を掛けている。
「これは本来、“興奮”状態を解除する魔法だ。少し休ませるだけだよ」
「効果が切れたあとは、疲労感を取り除く作用もある」
俺はどうにか笑顔を作って礼を示した。
宿舎の扉をくぐった瞬間から、超展開が一秒たりとも止まっていない気がする。
「隊長、いつまでぼうっとしてるの!」
リズが晦朔を指差して大声で叱る。
晦朔はそこでようやく我に返り、慌てて紹介を始めた。
「こちらは宇。さっき聞いた通り、俺の昔からの友人だ」
「こっちはリズ。うちのパーティーの魔法使い」
「そしてこっちがアンデス。うちのパーティーの牧師だ」
晦朔はさらに何か言おうとしたが、アンデスが手を上げてそれを遮った。
「宇くんもせっかく来てくれたんだ。お茶でも淹れて、ゆっくり話そう」
アンデスはリズの肩を軽く叩いた。
「君は先に着替えておいで」
リズはそこでようやく、自分が薄い寝間着一枚で慌てて飛び出してきたことに気づいたらしい。
顔を少し赤くし、振り返りもせず、たたたたっと部屋へ戻っていった。
晦朔は俺の方へ向き直り、どうぞという仕草をした。
「ようこそ、蝕影へ」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
四人で食卓を囲んで座った。
アンデスが淹れたばかりの茶を真ん中に置く。
リズは白いもこもこの上着を寝間着の上に羽織り、俺たちと一緒に席についていた。
一方のコシュカは、先ほど興奮しすぎたらしい。
今は本物の子猫のように、ソファの暖かい隅で丸くなって眠っている。
まるでこの家のペットである。
「驚いただろう」
晦朔は、俺が入ってきた時からコシュカの獣人らしい特徴に目を向けていたことに気づいていたようだった。
「さまざまな種族の学生を集めるために、前の世代の生徒会は、ほとんど大陸中を歩き回った」
「そうした集落を訪ねて、子供を学校へ送り出してくれるよう説得していたんだ」
「ただ、星月国自体の評判があまり良くないこともあって、そうした家族、とくに優秀な子供を持つ家族ほど、色々と不安を抱えていた」
「コシュカも、前の生徒会長が何度も足を運んで、何度も足を運び、何度も安全を約束して、ようやく南方森林から連れてくることができたらしい」
そう言って、晦朔は茶を一口飲んだ。
「でも、かなり馴染んでいるように見えるけどな」
部落育ちの子供というわりには、俺には彼女が何か悪い癖を持ち込んでいるようには見えなかった。
俺がそう言うと、残りの三人は明らかに苦笑した。
「入学したての頃は、ああじゃなかったの」
リズは何か嫌な記憶を思い出したような顔をした。
「当時のあの子は、毎日私と晦朔に喧嘩を売ることしか考えていなかった」
「うちのパーティーに入った理由も、手っ取り早く私たちに勝負を挑むため」
「動けなくなるまで戦って、アンデスが治療する」
「元気になったら、また戦いに来る」
ずっと戦い続けるのは、確かに疲れるだろう。
だが——
「それも訓練の一部ではあるんじゃないか?」
「場合によるだろう」
晦朔の顔にも苦さが浮かんだ。
「授業中に突然跳び上がって戦おうとする」
「食事中は、自分より食べるのが遅い相手に突っ込んでいく」
「それに、トイレに行っている時まで……」
俺は晦朔の言葉に従って想像してしまった。
そして、思わず身震いした。
「結局、リズが一週間特訓して、ようやく少し常識を覚えたんだ」
晦朔は感謝するようにリズを見た。
「その月、あの子は私を見るたび逃げてたけどね」
リズは諦めたように肩をすくめた。
「改めて、リズを紹介しておく」
晦朔は俺の方へ向き直り、リズを指した。
「彼女はうちのパーティーの副隊長であり、生徒会の魔法部長でもある」
「生徒会では、その……かなり助けてもらっている」
晦朔は最後の半句だけ、明らかに言葉を慎重に選んでいた。
だが、リズは“生徒会”という三文字を聞いた瞬間、分かりやすく怒気を滲ませた。
茶杯を握る手にも力がこもっている。
「助けてもらっている?」
リズの目が細くなった。
「私、もう誰が副会長なのか分からなくなるくらい助けてるんだけど?」
「毎日私を副会長室に座らせておいて、自分はたまに財政部へ行って雑談してるだけでしょう」
どうやら、リズの怨念はかなり深いらしい。
「あなたとオリティア、一日中どこで遊び歩いてるのよ!」
「私と周謹が毎日どれだけ仕事を処理してると思ってるの?」
「それだけじゃなく、あなたたち二人を探し回らないといけないんだけど?」
「すまない。俺が悪かった」
晦朔の態度は非常に誠実だった。
「これからは必ず、毎週一回は執務室へ行く」
俺には、彼が本気で改める気があるようには見えなかった。
「毎週!?」
リズの目が飛び出しそうになった。
ただでさえ寝不足気味の目が、今は完全に赤くなっている。
身長の都合上、彼女は椅子の上に立って机を叩くしかなかった。
その姿がどうにも滑稽で、俺とアンデスは思わず笑ってしまった。
俺たちが笑ったのを見て、リズも自分が少し取り乱したことに気づいたらしい。
彼女はため息をついた。
「はあ……あなたが副会長なんだから、仕方ないけど」
「本当に、手がかかるんだから」
俺は、入学式での照明と拡声魔法の調整を思い出した。
あれだけの式典を成立させるには、魔法部長の働きが不可欠だったはずだ。
本人の魔法能力が高いだけではなく、指揮能力も相当なものだろう。
ただ、リズの小学生のような姿を見ていると、やはり少し疑問が湧いてくる。
聞くべきではないと分かっていても、俺は口を開いた。
「あの、失礼かもしれないけど、一つ聞いてもいいか?」
「聞かないで」
リズは明らかにその質問を何度もされているらしい。
しかも今はまだ怒っている。
俺が最後まで言う機会すら与えてくれなかった。
そこで晦朔が、場を取りなすように口を挟んだ。
「リズはこう見えて、星月学に来る前にはもう戦艦の艦長だったんだ」
やはり、人は見かけによらない。
俺はそう思った。
彼女の振る舞いや歩き方には、確かに軍人の影がある。
さっきから、軍人本人か、あるいは軍人家庭の出身ではないかとは思っていた。
いずれにせよ、彼女の年齢を見た目だけで判断するのは危険だ。
これほど若くして艦長になった以上、家柄と実力の両方が必要だったはずだ。
そして、おそらく軍功もある。
三水海戦か。
彼女の年齢については、二つの推測ができる。
一つは、見た目通り本当に子供であるという可能性。
もう一つは、彼女の魔力があまりにも膨大だという可能性。
学界ではすでに、魔力量の異なる者同士では、受ける時間の流れも異なることが証明されている。
魔力量が多ければ多いほど、時間の流れは緩やかになる。
そのため、魔力に満ちた強魔力者の中には、すでに四十代、五十代になっていても、外見だけは二十代、三十代の魔力が最も充実していた頃に留まっている者も多い。
もしそうだとすれば、彼女は小学生ほどの年齢の時点で、大陸の大半の人間を超える魔力量を持っていたことになる。
成人へ向かう成長の過程すら遅くなるほど、膨大な魔力を。
どちらにせよ、それが意味することは一つだけだ。
彼女は、怪物じみた実力者である。
リズの紹介を終えると、晦朔は今度はアンデスの方を向いた。
「アンデスは、神聖教国から遊学に来ている牧師だ」
「俺たち三人と違って、もう三年生でもある」
「生徒会で役職に就いてはいないが、うちの学校の神聖教団では首席神父として、教会活動を取り仕切っている」
「興味があるなら、君も活動に参加してくれると嬉しい」
アンデスの顔には、ずっと人当たりのいい柔らかな笑みが浮かんでいた。
隣に住む優しい兄のような温かさがある。
だが、その人畜無害な顔の裏には、確かに強い実力が隠れている。
先ほど彼は、基本的な寧神魔法一つだけで、高い魔法抵抗力で知られる獣人族を静かにさせ、半ば昏睡に近い状態まで落とし込んだ。
そんなことは、どの牧師にでもできる芸当ではない。
「宇くん?」
アンデスがまだ俺の返事を待っていることに気づき、俺は慌てて思考を戻した。
「ああ、すみません」
「信仰とか、そういうのはあまり向いていない気がします」
それに、秘密裁判所のエージェントである俺が神聖教を信仰するなど、内部では重罪である。
晦朔が俺の身分を明かしていなくて本当に助かった。
アンデスは気にした様子もなく、話題を変えた。
「それにしても、生きているうちに本当に隊長の旧友に会えるとは思わなかった」
「本当にね」
リズも同意した。
「隊長の過去なんて、もう学院七不思議の一つになってるもの」
「そこまで大げさじゃないだろう。俺だって話したことはある」
晦朔本人も、さすがに聞き流せなくなったらしい。
リズはその場でジト目を向けた。
「あなたの口から出る話でしょう?」
「あなた、自分は救世主の生まれ変わりで、衆生を救うために下界へ来たとか言ってたじゃない」
「当時、隊長はあまりにも謎が多かったからね」
アンデスがさらに説明した。
「学校の地下賭博場では、賭けまで開かれていたよ」
「何の賭けだ?」
「卒業までに、隊長が入学前から本当に存在していたと証明できる人間が現れるかどうか」
アンデスは自分とリズを指した。
「ちなみに、僕とリズは“存在しない”に賭けていた」
「コシュカだけは隊長を信じていたけどね」
「くそっ。せめて三年は持つと思ってたのに、一年で……」
そこまで言ったリズは、ふと何かを思いついたように、期待を込めた目で俺を見た。
「あなた、隊長と知り合いだって、ほかの誰かに言った?」
「あの……羽衣先輩はもう知っています」
本当は、そんなことよりも、生徒会ぐるみで賭博しているのはいいのかと突っ込みたかった。
「ああああああ!」
リズは絶望したように自分の髪をぐしゃぐしゃにした。
「羽衣が賭けてたのは“存在する”の方よ!」
「絶対もう連中に知らせてる!」
晦朔は何事もなかったように紹介を続けた。
「俺の背景については、君も知っている通りだ」
残りの二人が、揃って首をぶんぶん横に振った。
どうやら晦朔は、彼らに対してもまだ相当な神秘性を保っているらしい。
「今年はもう一人、新入生が加わっている」
晦朔はそのまま続けた。
「律生という。敵の感知を担当している」
「今はたぶん、まだ生徒会で手伝いをしているはずだ。次の機会に紹介しよう」
専門の感知系職業は、かなり特殊だ。
弱いパーティーにとっては、いても活かしきれない職業になりがちだ。
そもそも数も少ない。
だが、複雑な環境や現代軍隊では、感知系職業が先敵発見において決定的な役割を果たすことがある。
感知系職業を持つパーティーは、しばしば「発見即撃破」を実現できる自信を持っている。
晦朔の言葉に偽りはない。
エクリプス隊は確かに、生徒会会長オリティアの“星月”と星月学最強の座を争えるだけの戦闘力を持っている。
彼らに加入しなかったのは、正しい判断だった。
だって俺は、ただ遺跡考古学科で、ほどほどに学生生活をやり過ごしたいだけの人間なのだから。




