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錦糸公園  作者: 府雨
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六章

六章


 一般的に言って、あえて無視し続けるのは、無視できない重要性があるからだということを鈴瀬はわかっていた。


 受験の時もそうだった。

 重要なことだとわかっていたから、本を捨てたのだ。


 ほとんど初めて歩く渋谷の住宅街にはいささかも親近感を覚えなかったし、千鶴の実家の邸宅は、大きかったけれど小さく見えた。それは本当にどうでもいい、鈴瀬には全く関係ないものだった。


 鈴瀬は、まず花山を訪ねようと思った。LINEしてみた。

 渋谷で待ち合わせなんて、したことなかったけれど、花山の今住んでいる場所も知らないし、錦糸町に出向くのは嫌だったから我慢した。

 当日、花山は会えないと言ってきた。


「よく考えたんだけれど、義理立てすべき人がいるから」


 むしろ鈴瀬は安心した。最初から自分には何もないという物語を採用する障壁がなくなったから。

 鈴瀬は、メトロに乗って、ゆっくりと呼吸を整えて、錦糸町へ向かった。

 東京まで来て、実家を避ける意味もない。


「ああ、郁馬にあげる京菓子を買ってくればよかった」


 喉を縛る緊張と、凱旋のような意味合いを持つ誇らしさ。気持ちが一貫していないし、そもそもその二つは、本当の感情ではなかった。

 錦糸町駅の出口から出て、東京スカイツリーを見上げた。


「恋愛小説じゃなかったんだ」


 鈴瀬は、花山を思い出して、二ヒリスティックにはなれなかった。自分を冷笑できるほど、客観的な事実として、不遇ではないことをよく理解していたから。

 一時的に避難した京都にいられる時間にはリミットがあった。


 就職しないなんて選択肢も、大学院に行く学力も持ち合わせておらず、また袋小路に迷い込んだかとも思った。

 でももう、全てを決められる年齢だった。


 錦糸町の季節の香りは、昔と変わらなかった。

 洗濯されたコットンの匂い、石鹸で手を洗った男の子の手の香り。

 少し重いリュックサックを背負い、家への道を歩いた。


 目に映る景色は、昔と変わらないのに、ずいぶん新鮮だった。

 喉が狭くなり、洟を二回すすった。

家の前に来ても、鍵を開ける気が起きなかった。それに、鍵は、そもそも来る気がなかったから、持ってきていなかった。

 しばらく立ち尽くしていたけれど、諦めて帰ることにした。勇気がなかった。


 鈴瀬はその帰り道で、弟とすれ違ったことに気づいた。

 魂が遊離して、生を苦しみとなすような、沈み切った面持ちで、下を向く弟に、声をかけることはできなかった。ランドセルはいかにも重く、両手で肩にかかる重みを握ることで支えている。ランドセルというよりは、自分自身を背負っていた。


 声をかけようとは思わなかった。

 弟の人生にもう二度と干渉したくなかった。

 四歳かそこらの記憶を取り出して突きつけられるなら話は違うけれど、不可知の領域にある弟の記憶に自分が刻まれているなんて、信じたくなかった。


 渋谷の羽田邸に戻る途中で、何度も弟の鎮痛な面持ちを思い出した。

 もう一度実家にという意思は、電車代と面倒臭さによってかき消され、それを自覚して、情けなくもあった。


 そこはもう自分の故郷ではないとか、そんな単純なことではなかった。

 自分が何かを損なったとか、喪失したとかいう感覚は、かなりセンチメンタルで、単純で、屈託を表現するにはわかりやすすぎた。何かを否定することで、自己を肯定しようとする、心理的なレトリックだ。


 鈴瀬は他人を見下したり、逆に卑屈になったりしない代わりに、比較するようなステレオタイプがなく、それが、彼女を悲しませ、悩ませた。

 もう彼女の手に、弟の感触はなかった。愛したいと思っていても、その対象が弟だったことを健忘していた。


 憎しみさえあれば、それを反転させることで、容易に物語を作ることができて、自分を納得させられたのに、誰かを憎むだけの感情のドライブも、またその対象も、鈴瀬のこれまでの人生には一度も登場しなかった。

 もし、資本主義が、心に食い込むほどの「敵」だったとしたら。

 もし、家族が冷たくて、うまくコミュニケーションができない不都合な存在だったとしたら。

 いかばかりか楽だっただろう。


 怒りをエネルギーにして、それらを否定するだけで良かった。

 家族は、生きていただけだ。家族の愛を打ち消すことは、鈴瀬にできるはずがなかった。


 東京への短い、そして気の進まない帰省の任務を果たした千鶴は、満足そうに、帰りの新幹線で眠っていた。


「お父さんに褒められた」


 東京駅へ向かう中央線で、そう嬉しそうに言っていた。何を褒められたのかはわからなかったが、畏怖の対象の気まぐれに喜んでいるのは、少し滑稽だった。


 鈴瀬は相変わらず本を読んでいた。心は弟に囚われていたけれど、読まないわけにはいかなかった。いつもイヤホンで音楽を聴いている人と同じだ。

 未知の刺激と既知の行為に縛られていないと、体が弛緩してしまう。


 鈴瀬は今、何の見栄もプライドもなく、隣で寝ている千鶴と境遇を比べることもなく、虚心に本を読んで考えていた。

 自分が現在どこにいるのか。そればかりじっと同定しようとしていた。

 新幹線はやがて京都へと到着した。黙って待っていればつくものだ。

 鈴瀬はそう思って自嘲した。

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