五章
五章
久々に東京に帰るのだと、千鶴は鈴瀬を帰省に誘った。
錦糸町に帰る気がないと言うと、うちに泊まればいいと嬉しそうに提案してくれた。
鈴瀬は、何か千鶴に心配事があるのだと直感した。
二人は同じ新幹線に乗り、品川から山手線で渋谷へ出た。
鈴瀬の荷物がリュックサックひとつだったのに対して、千鶴はトランクを抱えていた。
鈴瀬は道中サリンジャーを読み、千鶴はカントを読んでいた。道中はほとんど言葉を交わさずに、お互い本を読む邪魔をしなかった。
新幹線は五月の休日で、満席だった。車内では駅弁を食べ、飲み物を口にするほかは、音一つ立てない。
松濤までは、渋谷駅からタクシーを使った。ゴールデンウィークの渋谷をトランクを運びながら移動することはできない。
奥澁谷と呼ばれる地区。瀟洒な住宅が立ち並ぶ。その中ではやや小さめと見られる邸宅のインターフォンを千鶴は押した。表札には羽田とあった。
玄関に出たのは千鶴の母親だった。
おかえり、という挨拶に、鈴瀬は、どの母親も持っている娘への愛情を感じ取った。
「ただいま」
予想に反して千鶴の返事も快活だった。
「こんにちは」
鈴瀬はぺこりと頭を下げた。
「鈴瀬さんね。羽田ママです」
羽田ママは千鶴のトランクを預かって中へ引き入れると、鈴瀬をリビングに通した。
床は磨かれた大理石で、渡されたスリッパからもよく滑りそうな感触が伝わってきた。
この広い羽田家に、人はほとんどおらず、来客も珍しい。
家長は仕事に忙しく、子ども達は、各々別の場所にいる。リビングの椅子に座っていると、羽田ママは上等なケーキをテーブルに置いた。
瑞々しい苺のショートケーキだった。
羽田ママは気さくで話しやすく、また美しい人だった。若い頃の容貌が容易に想像された。おそらくは、千鶴より人の耳目を集める特別な存在だったはずだ。四十代の半ばを過ぎている、なんならほとんど五十代だというのに、腰はくびれていた。
化粧の匂いを漂わせていたが、それは年齢相応で、厚化粧というまでには至らなかった。
話を聞くと、羽田ママは一橋を出ているらしい。社会学で修士号を持っているとか。
哲学が好みの千鶴と専攻こそ異なっているけれど、ただのママではなかった。
学部を青山学院で過ごした息子のことを、ことさら可愛いと思っているのが伝わってきた。逆に、一橋に行った長女のこと、そして、京都で悠々自適に勉強している千鶴のことは、ライバルと見ているらしかった。口癖は「後世恐るべし」。
純真でボードゲームが好き。三人でモノポリーをしながら、世間話に興じた。
千鶴の部屋にはたくさんの乙女文庫が収蔵されていた。三条の家にないことを考えると、きっと卒業したのだろう。埃ひとつない。羽田ママは掃除を怠ってはいない。
荷物を置き、上着を脱ぐ。東京は少し暖かかった。
鈴瀬は午後の散歩に誘われた。
渋谷のスクランブル交差点を抜け、宮益坂を上がる。青山の方へ足を向けた。
「どこへ行くの?」
「青山ブックセンター」
「何そのエモい名前」
「知らない? 知らないよね」
「聞いたことない」
「中高時代は友達とよく行ってた。『じゃあ、しょーせつの時間』なんて言って背伸びして。楽しかった。そこが青山学院大学。お兄ちゃんの母校」
青山ブックセンターは静かだった。人が少なくて、新宿の大型書店なんかとは全然違う。
言われた通り、この辺りを地元にするような中学生が、マンガや小説のコーナーにいた。実に楽しそうで、鈴瀬はすぐにここでの暮らしを羨ましく思った。
「なんか一冊プレゼントするよ」
「いい。貰ってばかりだから。千鶴は本当に渋谷が地元なんだね」
「高くてナンセンスなファッションブランドが並ぶ、かっこつけの街だよ」
「まるで特権的に言うのね」
「特権的?」
「免れているように言うのね」
「おっしゃる通りだ。私だって、ブランドの服飾は買うよ」
「私はそんなお金ない。最初から蚊帳の外」
「音乃はそんなものがなくても、いつも綺麗だよ」
「口説いているの?」
「だめ?」
「ダメじゃない」
「それに私たちだって、三条の丸善で子供のようにはしゃいでいる」
「それは千鶴だけだよ」
ゴールデンウィークの表参道は、実に混雑していた。
「お手洗い行くなら、ここで済ませたほうがいいよ、渋谷の散歩はお手洗いを探すのが結構大変」
千鶴はそのまま鈴瀬を代々木公園へ連れて行った。
代々木公園駅近くの日本料理屋で、二人は夕食をとった。
鈴瀬は、清家と会った茶店で、千鶴の「やり口」は慣れていたから、今度はその格式にもそんなに驚かなかった。
「こんばんは」
板前さんはカウンターに座った大学生二人に、嫌な顔も見せず笑った。
「こんばんは、久しぶりです」
「きれいになりましたね」
「嬉しいです」
「京都に行ったと、お母様から聞きました。ご友人は?」
「京都の同回です。彼女は錦糸町に実家があります」
板前さんは鈴瀬に向いた。
「何か、苦手なものはありますか?」
鈴瀬は首を振った。
「おまかせで」
千鶴は言った。
「よく来ているの?」
「高校以来。一人で来てたよ」
「ふうん」
「もちろんランチだけど」
「気後れしちゃわない? 肝が据わってる」
「立派なお客さんですよ。羽田のお嬢さんも、もちろんご同回の方も」
予約の客がチラチラと入ってきて、テーブルは一杯になった。カウンターは変わらず鈴瀬たち二人しかおらず、板前さんと話しながら魚を食べていった。
「京都はいかがですか?」
「特別なことはないです。でもみんな仲間ですから。もう受験は終わりましたし」
「何を学んでいらっしゃる?」
「私は美学」
「私は日本哲学です」
「文系でいらっしゃる。出世しますね。羽田のお嬢さんはお母様の血を濃く引いていらっしゃる」
「それはあまり嬉しくない褒め言葉です」
「失礼、僕は、年寄りなもので」
鈴瀬は特に話すべきネタを持っていなかったから、黙々と料理を楽しんだ。
その料亭の客は、やはり渋谷の土地柄か、文化人や経済人が多く、上品だがややもすると上滑りな会話を耳にした。でも鈴瀬にとっては、だからどうこうということはなく、後ろに座っているのがNHKの重役だと知れても、特別なこととはもう思わなかった。そんなことは、千鶴の隣にいれば、ありふれたことだ。
「千鶴ちゃん、久しぶりじゃない」
入店した奥様の一人が声を上げた。「どこ行ってたの?」
「京都ですよ」
板前さんがその女性にさりげなく言った。
一人でカウンターに座ると、千鶴にマシンガンのように話しかけた。話から、その女性が女優であることがわかった。町兼と聞いて、鈴瀬は見ないまでも、その女優の名前を思い出した。
町兼は話好きでチラチラと鈴瀬を見ながら、千鶴とやりとりを交わした。
「きれいな子ね」
「音乃ですか?」
「目は細いけど、肌がきれい」
鈴瀬は失礼にならない程度に会釈して、それを無視した。
「京都じゃあ、千鶴ちゃんは無敵でしょ?」
「どうでしょう?」
「それにしてもきれいな子ね」
鈴瀬は、町兼のそれが、容姿だけを言っているわけではないと、ようやく気づいた。
「今日日、こんなにきれいな子、見ないわよ」
「私がですか?」
「お名前は?」
「鈴瀬です」
「鈴瀬さんも、京都? あなたきっとモテるわよ。こっちに来ない?」
「こっち?」
「きっと楽しい。違いないわ。絶対そうよ」
「音乃はテレビには出ませんよ」
千鶴は、鈴瀬を庇った。
「テレビじゃなくてもいい。キャスターでも、編制でも、脚本でも、カメラでも。あなた、モテるわよ!」
「千鶴……、私モテるらしいけど」
「男にも、女にもね」
食い込むように町兼は続けた。「右ならフジ、左なら朝日の報道部がいいわ。決まりね。大丈夫。あなたは一流になれるわ。若い子も紹介する。気に入った子と仲良くなりなさい。嗚呼、興奮してきた」
「町兼さん、音乃は……」
「テレビの人たちは頭のいい子が好きなの。学部は? 文? 女の子らしくていいわね。日本哲学? 知らないけど、私たちはもっと楽しいことをやっているの。間違えないで。私があなたに紹介する男女が主じゃないの。あなたが主で、その子たちが従。あなたには華がある。ああ、こんなことってあるのね」
「町兼さん!」
「ごめんね千鶴ちゃん。名刺渡しておくから。男でも女でも、あなたを求めている人は、星の数ほどいる。忘れないで」
鈴瀬は会計をしようとすると、町兼はそれを制して言った。
「私が払うわ」
「不思議な人ね」
松濤まで歩く道すがら、富ヶ谷商店街。
「町兼さん。女優さんだよ」
「知っている。有名な人だよね」
「あんなふうに言うなんて、音乃に何を見たのかな」
「さあ、処女にでも見えたんじゃない?」
「そうだとしてもさあ、変だよ」
山手通りを横切って、神山町に入る。
家に着くと、鈴瀬はシャワーを借り、千鶴の部屋で下着姿で、しばらく話していたが、やがて眠気に襲われ、眠り込んでいた。
朝、鈴瀬が暖かい日差しを感じて目覚めた時、千鶴は下着にパーカーを羽織って、ヨギボーに背中をあずけて、本を読んでいた。メルロ=ポンティの『知覚の現象学』だった。
「あの女優さんは、一体何を言っていたの?」
食事の最中からの疑問だったが、話題にするには、あの場は、あまりに熱気がこもっていた。
「なんだろうね」
「妄想か何かなの?」
「たぶん、事実なんだと思うよ。きっと音乃はモテるし、権力を虜にできるって、町兼さんは言っていた。でも私も、話していて不思議に思ったけど、だから何なんだろうね?」
「お金がもらえるってことなのかな?」
「でもなんか、売春みたいなニュアンスじゃなかった?」
「それに、言い慣れている」
鈴瀬は名刺を取り出して、眺めて、言葉を行為として現実に干渉させる力を持つ人に会ったことに、溜息をついた。




