四章
四章
日本哲学史研究室は、上野教授と三人の大学院生、一人のアメリカ人留学生と、二人の学部生から構成されていた。
学部を慶應で過ごした大学院生は綾宮綴。井筒俊彦の研究をしていると鈴瀬は聞いていた。
横浜から来ているからてっきり共通の関東圏コミュニケーションスタイルを共有していると思っていたが、例によって付属の中高出身で、階級差はなんとなくうっすらと見えた。
かなりの紳士でよくご飯を奢ってくれた。特に下心も見透せない。
青山の千鶴と違って、鈴瀬の出身中高の立ち位置をわかっていた。親戚が都立を受験していたから、そのレベルもほとんど当事者の鈴瀬と認識の相違がなかった。
綾宮は、脳と身体の連関が密で、所作に隙がなかった。鈴瀬がノートを作るのに対して、今風に、パソコンで何もかもを管理していた。そのメモはとても体系的で、気の利いたアプリによって構築されていた。脳内のマップはいつも明るみのもとにあって、参照される知識は、瞬時に引用されて口に上った。
鈴瀬はその先輩、五歳は離れている男性と、友情とも恋情とも異なる、京都らしいやり取りを重ねた。鈴瀬の容貌は単に好みではなかったのだろう。それは、鈴瀬の立場からしても同じだった。
自然二人のやりとりは、学術的なものになり、それでも知能を競い争うような、衒学的な要素が介在することはなかった。
ただそれは、男同士の先輩後輩関係ではなかった。
男女の間柄につきまとう言語上の折り合わせは、鈴瀬と綾宮の間の「気楽な緊張感」として常に漂っていた。
綾宮は何度となく鈴瀬の胸の膨らみに視線を向けた。
それは彼にとってはいつも不意のことで、鈴瀬もそれを咎める気にはならなかった。
話し口はあくまで「さん」づけだったし、指一つ触れない徹底した意識で、綾宮は鈴瀬に接遇していた。
日本思想、日本哲学という切り口で興味あるテクストを取り扱うのは、自由で間口が広かった。上野先生は王道の西田幾多郎の国際的な研究を応用的に進めていた。留学していたフランスやイタリアのテクストを横断的に扱い、重層的な興味を授業やゼミに反映させていた。
ただ英語は少し苦手なのか、英米の学者とは、たどたどしい英語でコミュニケーションをとっていた。フランス語がいいなとたまにこぼす。
鈴瀬の全集癖は、日本哲学史研究室でも遺憾無く発揮された。
研究室に日参して、大テーブルの椅子に座って、全集を読んでいった。鈴瀬は内容ではなく読んだ感想を章ごとにまとめてノートに綴った。
およそ千字くらいの短い感想で、またそれは備忘録とは異なる役割を担っていた。
読んだ時の体調や同席していた人など、瑣末とも言える情報を鈴瀬はそこに好んで挿入した。
日記の役割に近い。
さかしらぶって、半端な知識を口にすることはなかった。その営為は、さながらお稽古事のようで、半ば手順が確立されていて、ややもすると玄人芸のように他人の目には映った。
鈴瀬は触手を伸ばすように、文章で表現する場を広げていった。
大体三日もすれば、無印で買ったノートは文字で埋まった。
几帳面に日付が記されたノートは、鈴瀬の健康で狂人な心身をあからさまに物語っていた。
鈴瀬は寝食を忘れて全集に耽った。そのために彼女は、躊躇せず授業を切った。
文学部には留年がなかったので、専修の配属には遅れなかった。二回生の終わりで五十単位。著しい落ちこぼれではなかった。
気前のいい綾宮に、鈴瀬はお菓子をお返しした。
研究室に入り浸る鈴瀬は、部屋の共用のポットを使いすぎて壊し、二回の冬前に弁償する羽目になった。茶葉は一保堂のものを買い、先輩方に恭順を示す。
上野先生の国際学会への出張の後は、欧米の菓子が、机の上に置かれていた。鈴瀬は人数分避けると、残りのほとんどを読書のお供にした。
大学祭で屋台をはしごしていると、鈴瀬は知らない男に声をかけられた。
「知らない人だ」
と、一言呟いて、鈴瀬はまたはしごを再開した。
「肝が据わっているわね」
「千鶴、助けてくれてもよかったのに。でも、ううん、ごめん。千鶴と一緒だったら、一緒に喰われちゃうね」
「二人だとあいまいにある。やっぱり一人の方が、毅然と対処できるものよ」
「千鶴が、かっこいいかも、って思うかもしれないしね」
「そうね……、ないけど」
二人はそのまま大学を出て、あても歩き始めた。神宮丸太町で、京阪電車に乗り、四条で降りた。茶屋の方へ進んで、千鶴は奥まったところにある店の戸を開けた。
ちょうど舞妓さんが食事をしていた。
「千鶴はん」
「こんにちは」
「その子は、お友達どすか?」
「音乃ちゃん。大学の同回生」
「ようこそ音乃はん。うちは清家いいます」
「なんかあんまりよくわかっていないけど、お昼ご飯の邪魔しちゃ悪いよ、千鶴」
「構いませんえ。お弁当どす。音乃はんも東京の方でっしゃろか」
「下町です。錦糸町という」
「あいにく、東京のことをは何にも分かりまへんけども、千鶴はんが連れて来はる人ですから、よっぽどの方。うち白粉も落としてますし、もしよければ三人で御霊さんにお参りでも」
「御霊さん?」
「上御霊神社どす」
からりと、店を後にすると、軽装の着物を纏った清家を挟むように、三人で歩く。
タクシーで行こうかと千鶴は聞いた。
「贅沢は敵どすえ」
と、清家は断った。
四条から烏丸四条まで阪急で行くと、烏丸線で鞍馬口まで上がった。道中で和菓子を買うと、参詣した。格式の高い神社であることはすぐにわかった。厳かで静謐が保たれている。
「清家さんはよく来るの?」
「御霊さんが一番好きどす」
「神社に好みってあるんだ」
「音乃、ないの?」
「ない」
「男の好みがあるようなものだよ」
「その通りどす」
賀茂川へ出て、和菓子を食べながら、三人で男の話をする。
清家は男のことをよく知っていた。職業柄なのかもしれなかったが、洞察力も持ち前で、非常に優れていた。
「千鶴とはどこで知り合ったの?」
「祇園に呑みに来はる女の子、めずらしおす」
「清家、私といる時には、標準語なのに、音乃に遠慮しているの?」
「千鶴」
「ん?」
「サービスだよ」
鈴瀬は言った。清家はほおを膨らませて、彼方へ向いた。恥ずかしそうに。
「よくわかるね」
清家は鈴瀬を見ずに、言葉を砕いた。
「標準語はどこで?」
「NHK。大阪人と違って、京都人っていうのは標準語くらいわかるもんです」
切れ長の目が視線を流していた。「西に行く人は変人って言われない? どうして京都に?」
「変ではないよ。京都は、日本で一番やりやすい大学だから」
「入る前にどうしてそれがわかるの?」
千鶴と清家は鈴瀬をそばに置いて、会話を始めた。
鈴瀬は鴨川を見ながら、水筒の日本茶を飲んだ。コポコポと音がする。
「飲んでもいい?」
千鶴が聞いた。
「清家も、気にならないなら」
「ありがと」
鴨川のデルタまで下ると、清家は京阪電車に乗って帰った。鈴瀬はまた大学に戻り、千鶴は鈴瀬とも、清家とも別れ、違う方へ足を進めた。
研究室には綾宮がいた。
「こんにちは、綾宮さん。NFは楽しめました?」
「サークルに入っているわけでもないし、賑やかなのは落ち着くけどね。このお祭り、心をかき乱されることがないから」
「お」
声がして戸の方を向くと、学部四回生の樹城普が入ってきた。
「樹城さん、お菓子ありますよ」
「鈴瀬さん、いつもありがとう。やっぱりいるんだね。今日はNFだよ?」
「それを言うなら、樹城さんだって」
「僕は鈴瀬さんの読書習慣の恩沢にあずかろうとしただけ。綾宮さんもそうでしょ?」
「そう。俺も最近はよく勉強している」
樹城は、名古屋出身の男で、西谷啓治の研究をしていた。スタンフォード大学に留学したこともある。国際的な研究の進行を管理するのに一役買っていた。
文献研究が得意で、大学という研究機関にマッチしていた。
樹城は綾宮と仲がよかった。鈴瀬とはあまり話さないが、それは単に恋人のいる樹城の、李下に冠を正さない振る舞いだということを、鈴瀬はわかっていた。
さっき言っていた恩沢云々も、言ってしまえばお世辞のようなもので、アメリカ帰りの個人主義が樹城の個性だった。
京都学派に関する英語論文の検討会が、樹城によって、研究室の部会として開催されて、鈴瀬もそれに参加した。
鈴瀬は読書家だが、論文の読解の要諦はまだよくわかっていなかったから、最初はかなり負荷がかかった。
鈴瀬はしかしシリーズとして英語を読むようになり、いくつかの重要な英単語や概念を知識として組み込むことができるようになった。専門分野の論文を早い段階である程度のスピードで読めるようになった。
読むのが彼女の人生だった。
大学三回生の春から、よく出町座というミニシアターに通って、一人映画を観るようになった。昔よくオリナスの映画館に行ったことを思い出した。
すぐ近くにあった体育施設にもよく行った。
まだ弟が産まれていなかった小学生の頃、夏、友達とプールへ。
……京都で、大学生活を送る必然性は、もうこの時点でなかった。
大学は、鈴瀬に本を読むことを許した。それだけで彼女はよかった。
就職活動を進める気が起きないのは、決して仕事をしたくないからじゃなかった。
周囲が静かに沸き立つような、大企業への片道切符の使い方がわからなかった。
だから、特に何もしなかった。
ゼミ形式の授業が増え、発表の機会が回ってくることも多くなった。
レジュメを作り、引用リストを作成する。
膨らんだ読書の記憶は徐々に活用され始め、鈴瀬は優秀な学生の一人と目されるようになった。それは一つの成熟の証でもあった。意味ある読書という資格だった。
大学院への進学を考えているわけではなかった。
言っても東京下町の貧乏な家の生まれで、城南で豪邸を持つ千鶴の家とは違っていた。
とはいえ、真面目に就活するほど。機に聡くはなかった。
東京を離れて二年が経ち、自分に染みついた弟の匂いが、幾分か薄まったように思っていた。
でも、眠る時、自分の上に被さる布団の匂いを嗅ぐと、常にそこには弟がいた。
やわらかい胸に埋まった、可愛い弟の、森のように清らな匂いが。




