三章
三章
京都では岡崎公園の近くに下宿した。近くにある京セラ美術館や南禅寺によく通うようになった。
心理的な空漠は常に感じられた。京都という風景に、自分の新しい意味を落とし込みたかった。
文学部のクラス分けで、二組になった鈴瀬は、ペアワークで東京の渋谷出身だという女の子、羽田千鶴と仲良くなった。
「音乃はさー」
という口調で、彼女は鈴瀬に話しかけた。
実家は松濤で、経済人の家の次女だった。上に兄と姉がいる。実家が太い上に継ぐ必要もないから、悠々自適に学問ができる。
中高は青山学院の中高等部。
徒歩で通っていたらしい。
都立の事情には疎くて、鈴瀬の高校のことは知らなかった。彼女は鈴瀬の理解が及ばない生活をしていたし、彼女が鈴瀬の生活を想像することも、おそらく困難だった。
千鶴は下宿ではなく、三条に親類が持っているマンションに住んでいるのだから。
千鶴はよく、鈴瀬を家に誘った。
彼女は鈴瀬のことを気の合う東京人と思っていた。
東京人というのは事実に違いなかったが、本質は全く違っていた。
ただ偶然、歌舞伎や相撲が話題に及び、認識の共有が奇跡的に行われると、その度ごとに、千鶴の鈴瀬への共感と親近感は増していった。
当然ながら、鈴瀬は、松濤に行ったことも、宇田川町や神山町を歩いたこともなかった。
三条のスーパーで買い物をして、食事を二人で作ったりするだけで、鈴瀬は千鶴の信頼を勝ち得ていった。
千鶴の部屋の本棚には、図書館でも見たことのない新刊の哲学書が入っていた。
本棚が壮麗だと思ったのは、久々のことだった。
一室が読書室になっていて、自分以外は入れないのだと、千鶴は言った。
「どうして人を入れないの?」
「下着姿で読むから」
「私を入れさせてくれたのは?」
「単に自慢したかったの」
「私、本は読まないよ」
「そう?」
「特に哲学なんてムリだよ。文学でも手に余るのに」
「どうして文学部に来たの?」
「大学に向いていないから」
「実にいい理由。やっぱ音乃のこと好き」
「好きとか、高校のノリかよ」
「京都に来たのは? っと、当ててあげる。I guess you don’t like your hometown.」
「ビンゴ」
「そういう顔してる」
「でも千鶴と話していて思うのは」
「ん、なんやぁ?」
「千鶴は私の比じゃなく故郷を憎んでいる」
真顔になった千鶴を見て、鈴瀬は思わず目を逸らした。
「タバコ吸う?」
「吸ったことないし、私たちまだ未成年だけど」
「気になる?」
「少しは」
「タバコの味は、五歳上のお兄ちゃんが教えてくれた。青山からどこにも行けなくて、青山を出られなかった、気のいい男の子。お姉ちゃんは一橋だから、ある程度はもう、お姉ちゃんに任せる。タバコ? お姉ちゃんは吸わないよ。昨今はタバコは弱さの象徴だからね」
スマホと財布だけ持って、二人で鴨川ぞいを歩いた。
千鶴は鈴瀬にさまざまな質問をした。
彼氏がいるかとか(いた)、子供は欲しいかとか(わからない)、好きな文学者は誰かとか(三島由紀夫)、鈴瀬にとってはどうでもいいことばかりだった。
千鶴には権力性みたいなものが常に見え隠れしてた。
所有に関わるそれらの質問に、千鶴の特権的意識があった。
不思議なことに、鈴瀬は、貧しい家庭で育った事実はありつつも、その特権意識を共有しているように錯覚していた。
全く異なる東京を同じ東京だと無批判に認識する。でもそれは、誤謬でも何でもない、一つの明確な共通項だった。
京都駅までの道を歩く気力は流石になく、二人は戯れにバスに乗った。
陽の光を刻みとる木々の枝と、走ることで色を車内に入れるバスが、万華鏡のように外の景色をプリントした。
まるで映画のシーンだと、それも、深刻にものを考えているシーンだと鈴瀬は思った。
バスにはほとんど乗らなかったから、京都のバスはとても新鮮だった。
「バスっていいよね。私はよく京王バスに乗って、中野まで、友達の家に遊びにいったんだよ」
「バスで?」
「電車より安かったの」
四条河原町から乗ったバスは、外国人観光客を連れて、夜の京都を走った。
くらやみはきれいな色で満たされていた。
バスがカラカラと走る。極上の夜の音。
大阪へ向かう新快速へ飛び乗る。
京都発、6:58の新快速は、大阪へと向かう人流を一手に引き受けていた。5月だというのに、熱気をはらんでいた。
「東京の電車と違って」
「ん?」
「蛍光灯が白いね」
「私もそう思った」
関西の乗客は、京都の大学生、外様の言うことなんか、そよ風の如く聞き流して、スマホを見ることもなく目を伏せていた。
高槻で人が乗り降りし、できた隅のスペースに鈴瀬は背中をあずけた。
「ごめっ」
揺れたはずみで千鶴の手が、鈴瀬の胸に当たった。
「わざとじゃないよ」
「わざとだったら困る」
「細い」
「そう?」
「それにやわらかい」
周囲の人に聞かれないように、千鶴は声量をコントロールする。
「お好み焼き?」
「そうね。なんばで、なんて私、どうして知っている風を装っているのかな」
「私は錦糸町を出たこともなかった」
「私だって渋谷の外は知らない」
「似たもの同士だね。なんて言うの、おこがましい?」
「どうして?」
「だって渋谷だよ?」
「ただの住宅街だよ」
そう言った千鶴の表情は明暗を半ばして、味わいがあった。新快速から解放されて、新大阪のプラットホームに降りる。御堂筋線でなんばまで。
外に出ると夜風が気持ちよかった。
「もう少しお淑やかな子と思っていた」
鈴瀬は言った。千鶴は、それを殊更面白がって笑った。
「食べ方はよく言われる。大食いなの」
「一口が大きいよね。千鶴、たくさん食べていいよ」
「ありがとう。ねえ、私、今日何も言わなかったけど、どうして大阪までついてきてくれたの?」
「気晴らしになるから」
「私は逃げてきたの。音乃もそうでしょ?」
鈴瀬はあいまいに笑った。
渋谷でも京都でも、今いるところから逃げたいと思うのは、変わらない。
「お父さんは、帰ってこないんだよ」
千鶴は、お好み焼きを頬張り、もぐもぐしながら、箸先を鈴瀬に向けた。
「お母さんはお金にうるさい。兄弟仲は、もちろん悪いし」
「平板で単純だね」
「音乃は?」
「弟の体温で、張り詰めた心がメルトダウンしそう」
「弟が好きなの?」
「嫌いなわけないよ」
「私は、鎖に繋がれて、檻に入れられて。でも、私の心まで鎖で縛ることは、できない」
誰かとその事実を分かち合うことで、千鶴の心は、少し軽くなった。
「ハルカスでも上る?」
「時間は?」
「音乃がいいなら」
天王寺駅前では路上ライブをやっていて、気に入ったのか、千鶴は千円さして、CDは受け取らなかった。
千鶴はポケットからタバコを取り出すと、手慣れた手つきで火をつけた。
指に挟んだタバコを一本鈴瀬に咥えさせると、おもむろに火をつけた。
中指の腹が鈴瀬の唇をなぞる。
まるでネックレスを首にかけてあげるような仕草だった。
「ハルカスは高いね」
「本当に」
「でも、ヒカリエとかスクランブル・スクエアより気品があるね。青い龍だ」
鈴瀬は少し首を傾げた。
ヒカリエもスクランブル・スクエアも、見たこともないし、聞いたこともなかった。
ハルカスの夜景、宝石が埋め込まれている、光の芝生。
隣のカップルが関西弁で場所の確認をしている。
「はあっ」
息を吐くと、鈴瀬はしゃがみ込んだ。
「どうしたの?」
「空気薄くない?」
「まさか」
「泣いちゃいそうで」
「どうして?」
「私、東京にいた頃、渋谷にも行かなかったのに、京都に来てひと月で、電車に乗って大阪の、ハルカスにも上って。きれいだ、本当に美しい」
展望フロアにはそんなに長い時間いたわけじゃなかった。降りて、ハルカスのジュンク堂に立ち寄って、千鶴は本を一冊買った。
鈴瀬は本を眺めることもなく、千鶴についていった。
「本屋嫌い?」
「昔は好きだった。受験で読まなくなって、今も、全然読まない」
「何か一冊買ってあげるよ。大阪まで付き合ってくれたお礼」
「一冊」
「何でもいいよ。一冊七千円でも」
「千鶴のおすすめがいい」
「『ロックフェラー回顧録』か『力 美的人間学の根本概念』、どっちがいい?」
千鶴は本を探すと、鈴瀬に見せた。
鈴瀬は一見して専門書に見える二冊の本に、けおされることはなかった。
文学全集のボリュームを体感したのは数年前にせよ、それらを読むイメージが掴めないわけじゃなかった。
どちらを選んでもよかった。何も変わらない。
表紙が綺麗だからと、『力』を選んだ。
「ふむふむ、キミはヒトカゲを選ぶんじゃね」
「うん。ありがとう」
「大事に育てるんじゃよ」
終電近くなった新快速で今度は京都まで戻り、二人はタクシーで三条のマンションまでつけた。
「泊まっていきなよ」
千鶴がそう言うので、鈴瀬はシャワーを借りて、軽くまぶしていた化粧を落とした。鈴瀬が下着姿で出ると、千鶴は書斎に鈴瀬を読んだ。
「一緒に本読も?」
「いいの?」
「悪いなんてことないよ」
「人は入れないんじゃなかったの?」
「音乃はいいよ」
壁三方向が天井まで届く本棚になっている。
本を取り出す台があり、コレクションとしての価値を誇るように、美しい背表紙をこちらに向けていた。
その日から、鈴瀬は、また図書館で全集を借りてきて読んだ。
二人して、下着姿で夏休み、冷房を効かせながら。
書斎でやるのは読書だけで、勉強は自宅や附属図書館でやった。
千鶴の部屋以外の場所で、平生は、鈴瀬に本を読む気はなく、大学の勉強に集中した。
大学の単位や成績評価で信頼できるデータを持ち合わせている人が見つからなかったから、鈴瀬はある程度余して、単位を取っていった。
千鶴は逆に少し手を抜いていた。
千鶴の部屋は、礼拝所のように、神聖で、紙のこすれる音だけが聞こえる静寂な場所だった。
時折鈴瀬は千鶴とそこに籠り、オキアミを食べるクジラのように、活字を飲み込んでいった。
中高時代と同じことをやっている気でいたが、実際は少しそれと異なっていた。
一つ明確な差異として言えるのは、今の鈴瀬には参照すべき過去が「ある」ということだった。何もない荒野ではなく、湿り気を帯びた草地で、種草を育てることができるはずだった。
高校時代の、あの参照すべきものがない闇雲な読書は、記憶に残るとっかかりがなく、意味づけは極端に困難だった。
そういう高校時代を後ろに置くと、最近千鶴と呼んでいる本は、鈴瀬に安心をもたらしていた。
生きるためのがむしゃらな読書ではなく、知性の開発という、かつて徹底的に否定していた位置付けの読書を、心変わりしたように自然に受け入れていた。
入学前の印象と異なって、大学という空間は、一応の生活実感を鈴瀬にもたらした。
小説の中のキャラクターのように、学業に何らかの卓越を示すわけではないけれど、そもそも学業に卓越している必要は、鈴瀬にはなかった。
ただ没入する感覚を、かつてと異なる形で得られたのは、この上ない幸せだった。
大学の付属図書館では、多くの学生が自習席で勉強していた。
気後れすることはなかった。優越感も覚えない。
全集をただひたすら読み進める。それが彼女のライフワークなのだ。
大学の授業の押し出しのなさ、その表面性と、暗記を強要しないソフトな感じは、少なくとも一回生の間は持続的だった。
鈴瀬は専修を決めかねていたし、腐心する文学に必ずしも執着しているわけではなかった。
専修選択にはまだ時間があった。
夏休みは千鶴と旅行に行くほかは、バイトなんかもせず、日々を過ごした。
鴨川を歩き、岡崎公園ではしゃぐ子どもを眺めた。
京セラ美術館や京都国立博物館で油を売る。
鈴瀬はその間、まるで病人のように生気がなく、流れていく風景に噛みつくことも、記憶に刻むこともなく、ただ穏やかな大学生活を過ごしていた。
それは特段問題になるような性情ではない、多かれ少なかれ大学生が経験する、モラトリアムの一つの変種でしかなかった。
鈴瀬は昔からの癖で、喫茶店にはほとんど足を向けなかった。
千鶴はやたらとお茶したがるから、いつも苦笑いで、付き合ってあげた。
コーヒーのおいしさはわからないし、その時間の区切られ方、つまりロウソクが消えるまでの時間というような、カップの物理的な計測に、正直嫌気がさしていた。
コーヒーなんか家で好きなだけ入れればいいのに、一杯数百円。
二人はよく寺町通の進々堂でケーキを食べた。朝そこで待ち合わせすることもあったし、千鶴がそこでパンを買って、鈴瀬の部屋を訪ねることもあった。
鴨川を今出川通まで上り、出町座で映画を観る。
洋書の楽しみを教えてくれたのも、千鶴だった。
大学で読まされる「Oxford Very Short Introduction」シリーズから始めて、鈴瀬は洋書を読むようになった。
論文集なんかを辞書を引いて読むのは、彼女にとって極めて好ましい行為の一つになった。そこで得た知識や、覚えた英文なんかを共有する相手がいるのも、実にありがたいことで、大学生としての基礎を鈴瀬は着実に築いていった。
それらのことに、千鶴は主に認識論的な観点で返答することが多かった。
一回生の冬、岡崎公園にも雪が降った。
水筒に入れた熱いコーヒーを啜りながら、鈴瀬は久々に錦糸町のことを思った。
どうしようもない鉄屑になった寂寞の気分を味わった。
すべてが客観化される、静止した雪の風景。
誰も対象にならない、動揺を排した、無感動。
風景と混ざり合う体と外界の境界のざわめき。
自分の無価値さに、今更辟易するなんてこともない。
溶けてしまいたいとも、沈み込みたいとも思わなかった。
錦糸公園のことを重ね合わせた。
熱気と笑顔の花が咲いていたあの公園には、鈴瀬の記憶では観光客もそう多くなかった。
平らな飛行場を思わせる錦糸公園と、「閉じた霊性」としての岡崎公園に近いものはなかった。
懐かしいと感じないのは、錦糸公園での出来事が鈴瀬の心のどこにも格納されていない事実によるものだった。コーヒーを、水筒から口に移す。
鈴瀬は白い息を吐いた。濃密な三島の文を想起した。
灰銀の安部公房でも、黒緑の大江健三郎でもなく、鈴瀬は三島が好きだった。
赤橙が色を濃くする、筆致の整った文章。
逃げおおせただろうか。
私は錦糸町の嘘偽りのない、人同士の交わりから抜け出せただろうか。
あるいは、鈴瀬はそこにいただけで、錦糸町の街には、何も受け取ってないのかもしれない。
実は、読んだと思っている全集群も空っぽの化粧箱だけだったのかもしれない。
鈴瀬は、何を以て読んだとするのか、定義していなかった。
鈴瀬は正月、実家に帰省しなかった千鶴と一緒に、正月料理を作り、それを食した。
二人はまさか「帰らなくていいの?」なんて口にするはずがなかった。
その姿勢はどちらかというと、鈴瀬より千鶴の方が顕著だった。
外は凍てつくくらい寒かった。
二人は家族の話をしなかった。徹底的にそれらを避けていたが、二人の会話は女子の話題選択という意味では、全く自然なことで、矛盾もなかった。
二人の両親の顔は、二人の振る舞いから浮かび上がっていくにしても、である。
二人が代わりに話題にしたのは、中高時代のことだった。
千鶴が青山で傑出していたのに対して、鈴瀬は、成績はともかくとして穏当だった。都立の多様なあり方に比べて、青山はある種のカラーがあり、千鶴はそこで空気を自分の養分に変え、精神的には肥えていた。自尊感情は丁寧に磨かれ、大学で息継ぎをしなくても、その四年間を過ごし切ってしまいそうな勢いだった。
千鶴は鈴瀬の高校時代の話を興味深そうに聞いた。
スカイツリーを臨む街というのが、千鶴には想像できなかった。
錦糸町の明暗、街にたたまれた光と闇は、わかりやすい渋谷の明暗とは絶妙に異なっていた。
外部世界と接続することが常である渋谷と、親密圏を凝縮したような錦糸町のあり方は、ことごとく違う。
千鶴は、中高で彼氏を作らなかった。とりわけ目立つ目鼻立ちではないが、品があって愛らしい瞳をしているから、さぞ人気があっただろうに、である。
「そうは言うけど、音乃、音乃は本当にきれいよ」
「そう?」
「ストレートの髪の黒と肌の白が、化粧なんかしなくても匂い立ってる」
鈴瀬は嬉しくもなんともないという風を装っていたが、千鶴に評価されるのは、まんざらでもなかった。
二人は今、そばに男がいなくても、全く惨めじゃなかった。
友情は厚く、孤独はちょうどよく緩和されて、何も気にならなかった。
というより、限られた人間関係は、少なくとも鈴瀬にとってはありがたく、関わる領域のこぢんまりとした感じは、一種のステータスみたいなものだった。
そういえば二人は大学祭もスキップしていた。
図書館に行こうとして賑わいに圧倒されたのを、鈴瀬はよく覚えている。
同じクラスの男子数人に声をかけられ、一緒に回らないかと誘われたが、用事があると言って断った。ただこの大学の男子学生たちのいいところとしては、何の気なしに誘っていることで、断られたことを笑い話にこそすれ、痛痒を感じることがない。鈴瀬もそれを知っていて、気まずく思うことも、恐縮するようなこともなかった。
大学というのは、他者と関わるいい機会でもあるけれど、同時に内省に耽る絶好の時期でもあった。専修を仮登録することになった鈴瀬は、たまたまその時日本哲学の本を読んで、日本哲学史研究室に遊びにいくことが増えた。
大学院生の先輩は、学部が慶應だった横浜の人だったことも合わさって、気軽に通うようになった。
千鶴は美学の研究室に決めているようだった。
二人は徐々に関係をときほぐし、道は段々枝分かれしていった。




