二章
二章
一番大切な人や物事を犠牲にして、どうして幸せが掴めると思うのだろう。
安易に競争に駆り立てられて、一体いくつ、大切なものを失っただろう。
その競争は単に人を序列化して、効率的に人員配置するためだけの理由で行われているに過ぎない、便宜的なシステムの要請であるだけなのに。
あれほど温かさに満ちていてた、錦糸町の街は、鈴瀬の目にはもうただのネオン街だった。
東京スカイツリーはただの電波塔で、浅草寺は外国人好みの東京のレプリカだった。
鈴瀬は、なんとかしてこの薄汚れた街から出なければと思った。
親を殺そうと思ったら、手近なところに包丁があったみたいに、家を出ようとしたら、手近なところに学力があった。
ゾクゾクとする符合だ。鈴瀬は喜びに打ち震えた。
文学も、錦糸町の街も、勘違いだった。
無価値で因習的で、未開で、野蛮なノスタルジーだった。
大学に行けば本が読めるなんて、嘘だということもわかった。
きっとそんな気分にはならないだろう。花山の言うことは、単にその場しのぎの誤魔化しでしかない。
仮に日本の大学が、人材を発掘するという高邁な理想を掲げていようと、研究のために行われる読書に、人間に資する価値なんかない。個人的な営みとしての読書が、大学と、それらが行う受験によって、壊滅的な被害を受けているのは、わかりきったことだった。
でもそれがわかったところで、鈴瀬にとってはもう、全てがどうでもよかった。
高校二年生の夏から受験までの一年半ばかり、鈴瀬は塾にも通った。
中学入試を乗り越えた鈴瀬には、大学入試は全く大したものではなかった。どこの大学に行くかだけが、彼女の悩みだった。
錦糸町という小さな世界を出たことのない彼女の、言ってしまえば狭い視野は、この世界から離れるという出発点はあっても、どこに行くかという到達点は、はっきり言って、皆目見当もつかない状況だった。
親や教師に相談することはあっても、問題点は共有されることがなかった。彼女の問題意識は、客観的な学力ではなく、ごく個人的なことだった。
「姉ねえの邪魔しちゃダメだよ」
弟は母からそう言われていた。
「いつまで?」
「姉ねえの受験が終わったら、きっと姉ねえは、たくさん遊んでくれるよ」
弟は自分でマンガを読み、お絵描きをして、時間をつぶした。
できたものを姉に見せたかったけど、我慢した。
塾の自習室から帰らない姉を待つこともだんだんしなくなって、狂ったように勉強する姉を、何かが変わってしまったように感じて、恐れるようになった。
鈴瀬は単純に、弟を無視した。構っている暇ない。暇があっても、その気がない。
鈴瀬は日に日に冷酷になった。
母は鈴瀬を慮って、種々の家事を押しつけなくなった。
家族としての生活時間帯は、一時間後ろ倒しになった。鈴瀬はそういうわけで、受験前の一年半、読書に費やす時間をなくし、ロボットのように勉強することで、京都の文学部に入学する奇遇を得た。どうして京都にしたのかは、彼女にとってはあまり重要なことではない。
単なる模試の合格判定の指標を参照し、親の説得が容易な大学を選んだに過ぎなかった。
引越しには服を持っていくだけでよかった。
家具は向こうで買うように、十万円渡された。
引越しの準備をしていると、弟が不思議そうに鈴瀬を見た。
「ねえねえ、受験は終わった?」
「うん。終わったよ」
「そろそろ、小学校の運動会なんだよ! 姉ねえも」
「ごめん。これから京都で大学生やるの」
「でも、運動会……姉ねえのは、僕行ったよ。だから」
「そうだった? よく覚えていない」
「受験が終わったら、姉ねえはまた姉ねえに戻るって、お母さん言ってたよ」
「戻る? 何それ?」
「また一緒にマンガ読んでくれるって、お母さん言ってたよ」
「悪いけど、私、これから京都だから」
「一緒に、小学校の勉強してくれるって」
「ごめん。よくわからない」
「京都にはね、六年生の修学旅行で行くから、姉ねえ、姉ねえ、行かないでよ。行かないで、行かないでよ」
まとわりつく弟を鈴瀬は突き飛ばした。
弟は大泣きした。姉のことが大好きだから。
「姉ねえ、姉ねえ、ねえね、行かないで、行かないで、行かないでよ」
弟は鈴瀬の腰にまとわりついた。
引き剥がそうとして、手が弟の髪に触れた。柔らかくてサラサラした黒髪に触れて、静電気が走ったわけでもないのに、手が弾かれた。
記憶のようなものが脳裏を掠めた。
でもそれは像を結ばず、鈴瀬はまた弟を突き飛ばした。
弟は立ち上がると、鈴瀬に突進し、姉の腕を噛んだ。鈴瀬は声をあげず、弟を抱きしめるようにうずくまった。
「ごめんね。郁馬のお姉ちゃんはもう優しくないんだよ」
「優しくなくてもいい! 京都に行かないで! お母さんは言ってた。また一緒に、ッ」
手ではたいたのにも罪悪感はなかった。
そうさせたのは、自分ではないことを鈴瀬は自覚していた。
過去は不可逆的で、遡れない。
「またお祭り行く。姉ねえと、去年は忙しいってお母さん言ってた。でももう大丈夫って、大丈夫だって、うわーぁん」
結局姉にとって、弟は人生における余分でしかなくて、弟にとって姉は、絶対的な愛着の形成に寄与していたという見方を、鈴瀬は覆すことができなかった。姉にとっては切り分けられる人間関係が、弟にとってはそうでなかった。
自分のせいではない。
まるで状況依存的で、鈴瀬の行為を統御しているのは、もはや自分自身ではなかった。
「泣きたいのはこっちだよ」
弟へのつぶやきには、かつて愛したすべてのものに対する否定が詰まっていた。
錦糸町の街から見えるスカイツリーは、昔は自慢だった。
なんで今は、余計に思われるんだろう?
公園で笑う家族はいつからうるさく感じられるようになったんだ?
毎年行っていた隅田川の花火大会は?
なんでそういうものが自己検閲されたんだっけ?
最初はおかしいと思っていたのに、ただ「それら」に従順だっただけで、すべてが、変わらないまま、鈴瀬にとってだけ変貌してしまった。
事実でなく意味の上だけで起きた変化を事実上の変更だと捉え、鈴瀬はそのように振る舞った。今を正当化するなら、弟を抱きしめながら、マンガを一緒に読んだことは否定されなければならない。
意味に合わせて、事実を脚色し、捻じ曲げる動機を、鈴瀬は十分に持ち合わせていた。
十八の時、視界の端にいた六歳の弟は、とうとう視界に入らなくなった。
京都の部屋を借りるために、泊まった京都の七条で、父に「よく頑張ったな」と言われた。
娘はそれに応答しなかった。
「鳶が鷹を産む」
「別に」
父は娘の心が酷く凍りついているのに気づいていても、どうするすべも持たなかった。
「郁馬のことが嫌いになったのか?」
「最初から好きじゃなかった」
「そんなことないだろう」
「どうでもいい話をしないで」
「まあそうだよな。何の対価もない大学受験なんてないよな」
「まるで、私に何か、差し出せる優しさみたいなものが、あったみたいに言うんだね、お父さん」
「違うのか?」
「違うよ。全然違う。事は非常に簡単で、私はひんやりした本来性を、取り戻しただけだよ……何?」
「郁馬のこと、あんなに可愛がっていたのは」
「そんなの現象でしかないよ。私の本心は、おとうさんにはわからないよ」
「俺からは、こう言うことしかできない。いつでも帰ってきていい。そして、帰ってきたらきっと、郁馬は喜ぶ」
「もう錦糸町に用はないよ」
父はその言葉を噛み締めてから、「それでもだよ」と言った。




