一章
一章
錦糸町の映画館に鈴瀬音乃はよく行く。二つあるそのどちらにも。恋人と行くこともあるし、家族と行くこともある。
彼女はその辺りに住んでいる。
歳の離れた弟がいて、十六歳の彼女は弟のことをとても可愛がっていた。
弟は四歳だった。
抱っこもしてあげるし、お風呂も入れてあげる。弟に、持っている少年マンガを、絵本代わりに読んであげる。公園でボール遊びにも付き合ってあげる。
仕事が忙しくて帰りが遅くなる父母の代わりに、ご飯を作って一緒に食べることもしばしばあった。
手をつないで一緒にスーパーに行き、制服のまま錦糸町の街を歩いて帰路につき、肉じゃがやらおでんやらを作った。
ご飯を終えて、皿洗いを済ますと、鈴瀬は弟を風呂に入れる。その後でリビングの机に向かって宿題を片付けると、弟と一緒に父母の帰りを待った。
リビングで弟がうとうとしていると、抱っこして弟を自室の弟用ベッドまで持ち上げて寝かしつける。それから鈴瀬は本を読んだ。
学校の図書館で借りている本がほとんどだった。
近くの都立中高に通う鈴瀬は、優秀すぎるとまでは言わないが、十分に知的で、かつ優しい女の子だった。
マンガは読むけれど、ラノベは読まない。映像も、YouTubeや映画のサブスクなんかは嫌いで、映画館に行って観るのを好んだ。
同級生に恋人がいて、花山東輝という名前。同じく十六歳だった。
鈴瀬と花山は家が近いこともあって、中学の、付き合う以前から互いの家を行ったり来たりしていた。最初は気の合う友人で、二人とも遊ぶ金がなかったから、家に母親がいた花山の家に、鈴瀬がお邪魔するような形が多かった。
鈴瀬の弟は花山のことが大好きで、花山もボールや昔使っていたグローブを鈴瀬の弟にあげて、公園で一緒に遊んでやった。
花山のお小遣いで、三人はよくどら焼きを食べた。おいしい店があったのだ。
スカイツリーに歩いて行くのが、鈴瀬と花山のよくあるデートコースだった。そのまま浅草まで足を伸ばすこともしばしばだったが、スタバに行くようなゆとりはなく、鈴瀬が魔法瓶に入れたお茶を分け合うような感じだった。
二人はそれぞれ違う部活に入っていた。文武両道で有名なその都立中高では、時折遅くまで練習があった。弟は鈴瀬の帰りが遅いのを嫌がった。
弟は「姉ねえ」のことが大好きだったから。
墨田区に住む鈴瀬にとって、新宿や渋谷は全く縁のない場所だった。
そういう世界はなにか、怪物じみた人がうごめいている、奇妙で奇怪な空間だった。そこで穏やかに遊べるイメージが鈴瀬には結べなかった。
メトロに乗れば、渋谷には三十分程で行ける。でも通っている都立中高で、渋谷に遊びに行く人は滅多にいない。
鈴瀬は渋谷のスクランブル交差点と新宿東口の景色を明確に区別していなかった。両方を区別できる程の回数、渋谷や新宿には行っていない。日本好きの外国人の方が、まだ城南地区をよく知っているだろう。
彼女はせいぜい神保町に出かけるくらいで、本なんかも錦糸町のくまざわ書店で十分すぎる程だった。
父親はJRの職員で、母親は保育士だった。
父の家は祖父が残した小さな一軒家で、中は母によって機能的にリノベーションされていた。
鈴瀬は弟と同じ部屋。二段ベッドの下に弟が寝て、鈴瀬は上で寝た。
机は自室にはなく、全ての書類仕事は、みな、リビングで行った。
鈴瀬は両親の帰りを待ちながら、勉強や読書をリビングでした。「おやすみ」を言うために、紙をめくる音を聴きながら、しんみりとした夜を楽しんだ。
同級生からのLINEは一律二十二時に返事をして、その返信を見ずに眠る。
朝、部屋の外に置かれたアイロン済みの制服に袖を通し、彼女は学校に行く。
学校の図書館で借りる本は、小説であることが多かった。全集をちまちまと舐めた。
大江健三郎、三島由紀夫、安部公房らの全集は、中高六年間のうちに読破した。
大学入試の赤本でも、国語の「東大・京大二十五ヵ年」みたいなものは読み物として読了した。それは彼女にとって、全く予期せぬ受験勉強として、後々彼女を楽にした。その入試問題から気になった著者は図書館で探した。
中高はアカデミックというより、質実剛健で、その雰囲気に従って、塾に行くなんてこともなく、生活に勤しんだ。
鈴瀬は剣道部に所属していた。特別強いわけじゃないけど、周囲から慕われていた。
弟のことをよく話題にあげて、写真なんかを共有する。その弟思いの人柄は、他の人を安心させた。
体育祭で、弟が、鈴瀬のそばに寄って鈴瀬に抱っこをせがむのを見るのは、同級生からすると、心温まるものであり、ある種の眼福ですらあった。
鈴瀬はそういう意味で、人間関係の回路を複数持っていた。それは冷ややかな疎外をもたらすものと対極にある、温かくて愛に満ちた家族関係であり、無理解と野蛮を完全に無化した、人間性と調和を感じさせる友人関係。そして愛を持続的に注ぐことのできる、大きな器としての弟。根源との対話としての読書だった。
質素な生活は生まれた時からそうだったし、愛は常に充溢していた。
消費にシンボルやアイコンを求めることはなく、容姿に対する執心もあまり見られなかった。
服は母親のものを共有で使わせてもらうこともあり、化粧はほとんどしなかった。
鈴瀬は、可愛さか美しさかと問われると、美しさにややかたよる容姿で、肌は白く柔らかい。
背は150センチ台で高いわけではなかった。
目は細すぎるわけではなかったが、ぱっちりとはしていない。
髪はストレートで光沢があった。
気温がある時でも制服の上からセーターやベストを着ることが多い。
スクールバッグには何の装飾もないけれど、通っている中高の感じからすると、女子でも特段それが珍しいわけじゃなかった。
花山との恋愛はいつも隅田川だった。
花火を見たり、桜を眺めたり、川面に雪が吸い込まれていくのを、ただ目の当たりにするのは、彼女の故郷への想いを深めていった。
鈴瀬は錦糸町という世界で、心地よさと安心を得ていた。
まるで楽園のような空間で、公園に提灯がぶら下がって、連なっているのを見ると、異界の情趣としか言えなかった。
駅前にあるたくさんの呑み屋もその情緒の一端を担っていた。
鈴瀬家は呑み屋には行かないが、そこで呑んでいる人たちのことを、何となくわかっているつもりだった。時代に置いていかれてしまった、祭りの時だけ元気なおじさんたちを、毎年目にしていたから。
鈴瀬家は、浅草松屋や東京ソラマチで休日の買い物や食事をした。鈴瀬も、弟もそれを虚心に楽しんだ。弟は鈴瀬と手を繋いで満足そう。
浅草寺のおみくじをひと月に一回引く。大吉が出たことは二回くらいしかない。
雨が降る錦糸町は一層の風情があり、傘の中で花山と一緒になるのは、大きな幸せだった。
都会派の人と違って、街中で手を繋ぐこともあった。でも、それでも溶け合うことはしなかった。
カラッとしたコミュニケーションはさまざまなことに意味を求める東京城南の人とは全く異なっていた。
錦糸町は東京では珍しく、十字に街路が整備されている。道は広く平らだった。
陸上部の花山に付き合って、鈴瀬は土日の朝、恋人の走り込みに並走した。走るのは嫌いじゃなかった。
鈴瀬の父は将棋が好きで、部屋には何冊も指南書があった。
小学生の時、暇を持て余した鈴瀬は、それを読破して、中学生の時、父を破った。
父はとても悔しそうだったが、同時にまた嬉しそうでもあった。
将棋が好きな男の子と話せるのは、鈴瀬にとっては実に楽しいことだった。
都立には、将棋が好きな男子が何人もいたから、昼休み盤を挟んで指すこともあった。
鈴瀬は実力者だった。
花山の家族にはよく、相撲や歌舞伎に誘われる。観戦・観劇の費用は、花山の家族には受け取ってもらえずにいる。そういう場にふさわしい服装がわからないから、いつも制服なのだ。
部活が終わると、鈴瀬はカバンを担いで帰宅する。
電車に乗って帰る友達と、JRの駅まで連れ立って歩き、駅で別れる。
今日は母が非番で、ご飯はできている。
弟の食事の面倒を見る。食器の使い方を教える。
父が帰ってきて、母が食事を温める。
「コンビニスイーツでも買ってくる?」
「いってらっしゃい」
「姉ねえ、僕も行く」
「夜は危ないよ」
「だから、僕が守るの!」
母はその可愛らしいせりふに顔をほころばせた。
姉弟二人で近くのコンビニまで行く。
鈴瀬はシュークリームを人数分と、自分用にコーヒーを買った。
シュークリームの入った袋を持つ弟の、反対の手は、しっかり鈴瀬によって握られていた。
眠くなるまで、ベッドでマンガを読む。最近「葬送のフリーレン」にハマっている。
何度も繰り返し読む。
勉強をしなくてはならないと、思い詰めたことは一度もない。
日常的に短い時間勉強はしている。受験を意識するなんてことも、特になかった。
テストや成績を気にしたこともない。
面談で「国語がよかった」と、言われる程度。模試を受けて青ざめることもあるけれど、概ね部活に熱中していた。
鈴瀬の通う都立は、伝統ある進学校という一面もある。
東大に進学する生徒も毎年一定数いる。
そんな事情には、特段関係していないと、鈴瀬は思っていた。
テストの点もせいぜい七、八割だから大したことないだろうと。
でもその都立では、十分高得点だった。彼女は学業に対してはとても謙虚だったから、嫌味になることもほとんどなかった。
それより関心は読書にあり、時間があれば図書館で本を読んでいた。
花山は数学が得意だった。読む本は岩波の海外文庫と古典文庫ばかり。二人で屋上で本を読んでいる姿は、誰もがお似合いだと思わずにはいられなかった。茶化す人も、都立はいなかった。茶化すに鈴瀬は人柄が良すぎた。
休みの日は、少し背伸びをして、神保町に行き、自分と相性のいい古本を二人で探した。
お昼は、神保町のカレー屋に並んで、二人でガツガツとカレーを食べた。お小遣いを使う、珍しい機会だった。
鈴瀬の両親は、忙しくしていたのもあって、本は読まない。
弟は姉が本を読んでいると、構ってほしいと甘えてくる。
「お絵描きは?」
「つまんない! 姉ねえと遊ぶの!」
「一緒にマンガ読む?」
「うん!」
特別上手じゃないけれど、鈴瀬は弟にマンガを音読してあげた。
漢字の読めない弟は、鈴瀬が読み上げたせりふを、自分でなぞって繰り返した。
十六歳の冬、弟と錦糸公園の雪を踏みしめた。
夜に降った雪は数センチ積もって、公園は綺麗に白く染め上げられていた。
体の大きくなった弟に、子供用のダウンジャケットを買ってきて、と、母親からお金を渡された。ついでに外食でもして来なさいと、少し余分に。
この街を出るのだろうか。
弟と離れて暮らすのだろうか。
ここは、自分の故郷なのだろうか。
ふと、思った。
「姉ねえ?」
「なんでもないよ」
弟の手をぎゅっと握る。気づいたら逆に、弟を心理的な支柱にしていた。
幸せとも違うこの風景が、心に残るわけでもないのに、やたら意味を感じ取ってしまう。
東京なのに広い空。
川向こうには浅草寺。見上げれば東京スカイツリーがある。
箱庭のように配置された建物や人が、こんなにも現実感なく笑っている。
子供の声は途切れることなくこの「小さな世界」に響き渡っていた。
花山と北へ歩く。
スカイツリーを目指して、てくてくと。
花山は背が高くて、韓流スターみたいな整った顔つき。
女子に人気だから、鈴瀬にはいつも、自分では釣り合っていないんじゃないかという疑念がまとわりついてた。
「逆だけどな」
花山は言った。
「逆?」
「いつ愛想尽かされるかなって、俺はいつも怖い」
「そんなことありえないよ」
一見して名のあるブランドのものとわかる服を、花山は着ていた。
鈴瀬はほとんどファストファッション。
家を行き来する限りでは、明確に所得の差がわかるわけではないけれど、鈴瀬は何となく恥ずかしかった。高校二年生の春、学年は上がったばかりで、桜花は隅田川を彩り、街は花見の客でいっぱいだった。
英語で道を聞かれると、二人で知恵を絞ってなんとか答えた。
彼らの語学力はそこそこだが、道は誰よりも知っている。
実際に英語を使ってコミュニケーションする機会はこういう場に限られるが、鈴瀬たちの学力は、少し込み入った内容の会話を可能にしていた。
オドオドする英語の話せない日本人像は、少なくとも、彼女らには当てはまらなかった。
でもそれは、知的に卓越して、鼻にかかる、私立の帰国子女のような知性とは異なるものだった。
流暢でない知性。彼女らはカリキュラムから多くのことを学び受け取る。
思想改造のような能力開発ではない、マイルドな成長曲線に、二人は十分満足している。
鈴瀬は四月七日に十七歳の誕生日を迎えた。
「何かプレゼントが欲しい?」
花山は鈴瀬に訊いた。
「予算は?」
「五千円」
「平野啓一郎の『三島由紀夫論』がいいな」
「日本文学好きだよな」
「ほどほどに。でも、ふふ、私誕プレ期待してたよ」
「すぐ答えたもんな」
「あさましくてごめん。悪い彼女だ」
「まさか。ブランドもののバッグをねだったりしない」
「そんな女に実存的価値はないよ」
「確かに恋人の実存的価値は、その文学性によって決まる」
「私は女流作家読まないけど、大丈夫?」
「村上春樹読み出したら少し自信無くすけど」
「自信? 私の読む作家が、花山に何か関係があるの?」
「内向的じゃん。心配かけているとか、頼りないと思われている気がする」
二人とも村上春樹を読まない。錦糸町に村上春樹は似合わないから、坂口安吾を読む。東京が、ハルキ的な空虚性・二ヒリスティックな都市に帰着されるという言説に抗して、むしろ日本文学が描いてきたノスタルジックな都市に見出される言説の方を、鈴瀬は信じていた。
奪われて失われてしまうかもしれない「牧歌的」な都市の姿を心に留めておきたかった。
土曜日、午前授業が終わり、図書館で借りた本を教室で読む。
福田恒存の評論が模試に出てきたので、面白かったから読んでいる。
本当は買って線を引いて、書き込みができればいいのだが、目についた本を買いまくっていたら、百万円でも簡単に吹っ飛んでしまう。だからノートに書き抜きを残している。この書き抜きは彼女の命とも言えるくらい大事なものだ。人に見せることも、貸すこともない。
学校では、受験がチラチラ話題に上るようになった。
金銭的に国公立しか選択肢がない鈴瀬に対して、花山は私大の理系を受ける構えだった。
花山が理系の専門科目に本気で、学習意欲も高かったのに、鈴瀬は娯楽兼教養としての読書しかやりたいことがなかった。だから受験の話になると、鈴瀬はかなりしょんぼりした。傷つきやすい心を荒漠としたアスファルトの上に置いてけぼりにする。
学校生活がどんどん空虚になっていった。
目的を明確に持つ人が、どんどん遠くへ行ってしまったように、鈴瀬には思われた。
自分の心を犠牲にしながら、やりたいことだと、脳を勘違いさせながら。そうやって「大人」になっていく同級生を見て、泣けてくるものがあった。実際に泣いたわけではなくても、怖くて孤独になった。
頭がいいことを至上とする、この場限りの世界のことわりに、鈴瀬は嫌気がさした。
でも、ずるずると足を引っ張られるように、数学と英語をやるのが、彼女の日常になっていき、本を読む時間と気力はごっそり奪われていった。
断片的な情報、分析的な知識は、雑然としてまとまりがなく、鈴瀬はかなり混乱した。
解かせるために作られた問題に、不満を持つという表現では、足りない気がした。
大学入試の過去問を解いてみると、人の知性をバカにしているか、端的に言ってポルノを観ているかのような、作り物の感が拭いきれなかった。
自分の周囲の人や物や事が、徐々に偽物になっていく。
何の反省も自覚もそこには介在していなかった。叫びたい。
ファシズムに囚われた仲間がだんだん死地に赴いていくような光景で、見ていると腹が立ってくる。
あの、自由で知的で、優しかった同級生の顔つきが変わり、単純なこと、点数や順位、偏差値ばかりを話題にするようになった。
鈴瀬は閉口して、心を閉ざした。参ってしまった。皮肉を言うこともできない。
正しいとか正しくないとか関係ない、時間の経過的な変化に、正しくなさを強く感じた。
「大学に行けば、また元に戻るよ。一時的なことだし、鈴瀬にできないことじゃないよ」
「そんなこと、慰めにもならない」
「変わらないことはあるよ。でも俺は、それを至上のこととは思わない」
「私が言っているのは、変わる変わらないじゃない。受験で私は損なわれる。毀損されるって言ってるの。私も、私の街も」
「俺との関係持ってことだよね?」
「そう」
「でも、不愉快でも仕方ないよ」
「花山は諦めているだけ」
「仕方ないよ」
鈴瀬は奥歯を噛み締めた。花山はすでに大人になってしまった。諭すような口調は、鈴瀬をただただ苛立たせた。苛立って、苦しかったのに、彼女はなんとか勉強をやってのけた。本を読む時間を誠実に削り、学業をそれに充てた。
もう二週間も読んでないなと思った次の瞬間には、もう二ヶ月図書館に通っていない現実に打たれ、気づいたら洗脳は完了していた。鈴瀬もある時から、高偏差値に安堵するようになっていた。
忘れまいとした故郷の景色も、ただの背景として忘却された。
弟は、姉にマンガを読んでくれるようねだることをやめた。
「姉ねえ」
そう呼ばれて、ハッとした。
弟が寝言を言っているのだとわかった時、鈴瀬は歯を喰いしばりながら、泣いた。
悔しくてたまらなかった。
「姉ねえ」
「ごめんね。お姉ちゃんはもう、死んじゃったんだよ」
「姉ねえ」
「ごめんね」




