第9夜:摩耗する轍
ええ、どうも。怪談師の『忌部 骸』です。
……ふふ、いやですねえ、そんなに引かないでください。
これでも本名は『佐藤 留吉』なんていう、とんだ昭和の隠居老人みたいな名前なんですよ。
あまりに名前がシブすぎて、死神ですら「あ、この人はまだいいか」と素通りしていくくらいでしてね。
まあ、私の元妻たちが皆、一周年を待たずにいなくなってしまったのは、死神の仕業というよりは……おっと、この話はやめておきましょう。
さて、今日は「車のタイヤ」についてのお話をしましょうかね。
皆さんは、車を運転されますか?
あるいは、深夜の道を歩いているとき、背後から迫るロードノイズに恐怖を感じたことは?
これは、あるIT企業に勤める阿部さん(仮名)から聞いたお話です。
阿部さんは半年ほど前、念願だった黒の大型SUVを中古で購入しました。
前の持ち主が急死したためとかで、相場よりもかなり安かったそうですが、阿部さんは「ラッキーだ」としか思わなかったそうです。
納車された車はピカピカで、タイヤも新品同様。溝も深く、グリップ力も申し分ない。
……ですが、乗り始めて一週間ほど経った頃です。
深夜、仕事帰りに静かな住宅街を走っていると、妙な音が聞こえてくるようになったんです。
「ペチャ……。ペチャ……」
分かりますか?
何か粘り気のある、濡れたものを踏んでいるような音です。
窓を開けても、外からは聞こえません。
車内の、それも足元……左後ろのタイヤのあたりから、規則正しく響いてくる。
最初は、ガムでも踏んだのかと思ったそうです。
翌朝、阿部さんはタイヤを調べました。
しかし、溝には小石一つ挟まっていない。泥すらついていない。
不気味なほど、その左後ろのタイヤだけが「黒々」としていたそうです。
それからも、音は止みませんでした。
それどころか、日を追うごとに音は生々しくなっていった。
「グチャッ……。ボキッ……」
まるで、生木を折るような、あるいは……人の……。
阿部さんは怖くなり、ディーラーに車を持ち込みました。
ですが、整備士は首を傾げるばかり。
「どこも異常ありませんよ。タイヤも、これ……本当に中古ですか? 溝の形が、見たこともないほど複雑で、美しいくらいだ」
整備士が指差したタイヤの溝の模様を、阿部さんは初めて凝視しました。
そこには、幾何学模様というにはあまりに歪な……。
まるで、細い指を何本も絡め合わせたような、あるいは苦悶に歪む「顔」が連なっているような、そんな模様が刻まれていたんです。
その夜のことです。
阿部さんが自宅の駐車場で車を停め、エンジンを切ったときでした。
ふと、サイドミラーに何かが映りました。
車の下から、白い、細い「手」がぬぅっと伸びていたそうです。
その手は、左後ろのタイヤを、愛おしそうに、撫で回していました。
しかし、次第に指先がアスファルトを掻きむしり、爪が剥がれる音まで聞こえてくるようになりました。
阿部さんは背筋がから大量の冷や汗をかきながら、悲鳴を上げて車から飛び出しました。
そして、這いつくばりながらも、恐る恐るタイヤを振り返りました。
しかし……そこには、何もいませんでした。
ただ、アスファルトの上に、黒い「脂のようなシミ」が、轍となってずっと後ろまで続いていたのです。
自分が走ってきた道、その全てに。
阿部さんはその日のうちに、車を別の業者に売り払いました。
もちろん、二度と車には乗っていません。
ですがね、阿部さんは今、別の恐怖に怯えているんです。
彼の家の玄関。
朝起きると、必ず「黒い脂のついた轍」が、ドアの前まで続いているとか。
そして、耳を澄ますと、ベランダの外か、あるいは天井の裏か……。
「ペチャ……ペチャ……」と、何かが這い回る音が、ずっと聞こえてくるそうです
……どうやら、あのタイヤが踏み潰していたのは、道路だけではなかったようですねぇ。
ふふ……。
さて、皆さんも、ご自分の車のタイヤをよく見てみてください。
その溝に刻まれているのは、本当にメーカーが設計した模様でしょうか?
もし、見知らぬトレッドパターンだったら……。
それは、もう……。
今夜、お帰りの際はお気をつけて。
暗い足元、あなたの影を「踏んでいる」者が、いないとも限りませんから……。
それでは、また金曜日の20時にお会いしましょう……。




