第10夜:傘の記憶
ええ、どうも。怪談師の『忌部 骸』です。
……ふふ、そんなに肩をすぼめないでください。私のこの「忌部 骸」という芸名、少々不気味に過ぎますか?
ええ、自覚はありますよ。
ですから、本名の「佐藤 留吉」という、どこにでもいる隠居老人のような名で、ひっそりと息を潜めているんです。あまりに名前がシブすぎて、怪異のほうが遠慮して寄ってこないくらいでしてね。
かつて復元納棺師として、損傷の激しい仏様を「整えて」いた頃は、この平凡な本名だけが、こちら側の世界に留まるための細い命綱でした。……もっとも、バツ4となった私の周りから人が消えるたび、その綱はどんどん細くなっているようですがねぇ。
さて、今宵お話しするのは、雨の降る「13日の金曜日」にまつわる、ある遺物の物語です。
都内のIT企業に勤める、三木さん(仮名)という男性がいました。
深夜の残業を終えた彼を待っていたのは、バケツを引っくり返したような土砂降りの雨でした。
予報になかった豪雨に、彼は駅のホームで途方に暮れていました。
ふと足元を見ると、ベンチの脇に一本のビニール傘が立てかけられていたんです。
持ち手にはこれといった特徴もなく、どこにでも売っている安物。
「どうせ誰かの忘れ物だろう。少しの間、借りるだけだ」
三木さんは軽い気持ちでその傘を手に取り、広げました。
……その瞬間です。
胃の腑が、氷を押し当てられたように、ズンと冷たくなるのを感じました。
傘を差して歩き出すと、街の喧騒が嘘のように遠のき、世界から色が消えて灰色に沈んだように感じられたそうです。
おかしいな、と思いながら、何気なく傘の内側……透明なビニール越しに空を見上げると……。
そこには、太いマジックで書いたような黒いインクで、びっしりと文字が書き込まれていたんです。
それは、過去にこの傘を差したであろう人間たちの、「死の記録」いえ、「記憶」とでもいいましょうか。
『六月十四日。田中(仮名)。駅のホームから転落。
――背中を押された感覚。でも、振り返っても誰もいなかった。ただ、雨の匂いがしただけ』
『九月二日。高橋(仮名)。自宅浴室にてヒートショック。
――お湯が、あんなに熱かったのに、一瞬で氷のように冷たくなった。心臓が、握りつぶされる音がした』
『十一月十八日。小林(仮名)。階段から足を踏み外す。
――一段、足りなかった。宙を蹴った瞬間の、あの浮遊感。首の骨が鳴る音が、妙に澄んで聞こえた』
『一月六日。渡辺(仮名)。路地裏でのひき逃げ。
――ライトが眩しくて。でも、あの運転手の顔、どこかで見たことがある。ああ、鏡の中の自分だ』
『二月十一日。伊藤(仮名)。自室での孤独死。
――壁の隙間から、ずっと誰かが覗いていた。ようやく中に入れてあげられた。さようなら』
三木さんは息を呑みました。
読み進めるうちに、文字はどんどん新しく、生々しくなっていきます。
そして、まだ何も書かれていない場所に、テラテラとした黒いインクが、じわりとビニールの表面に浮き出てきました。
『三月十三日。三木(仮名)。』
そこから先は、まだ空白でした。
しかし、彼の耳元で、傘の内側から「カサ……カサ……」と、爪でビニールを引っ掻くような音が聞こえ始めたそうです。
まるで、不可視の誰かがペンを握り、三木さんが「感想」を書き終えるタイミングを、すぐ隣で待っているかのように。
三木さんは今も、その傘を差したまま、雨の中を歩き続けているといいます。
傘を閉じれば、その瞬間に「空白」が埋まってしまう。
そんな確信があるから、彼はもう二度と……。
……ふふ。
さて、今夜の空模様は確認されましたか?
そうですか、降っていませんか。
でも、お気をつけなさい。
もし明日、玄関の傘立てに見覚えのない「ビニール傘」が混ざっていたら。
……それは、誰かがあなたに、自分の「続き」を書いて欲しくて置いていったのかもしれません。
あなたなら、どんな「感想」で締めくくるおつもりですか?
また、金曜の20時にお会いしましょう。
それでは、良い夜を……。




