表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
元・特殊清掃員の怪談師『忌部 骸』が語る、胃の腑が冷える現代夜話  作者: 一 十


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/16

第11夜:天空の指先

ええ、どうも。怪談師の『忌部いんべ むくろ』です。


……ふふ、そんなに身を硬くしないでください。これでも本名は『佐藤さとう 留吉とめきち』なんていう、近所の公園で鳩に豆でもやっていそうな、実に無害な名前なんですから。

あまりに平凡な名前なもので、怪異のほうが「お門違いだ」と避けて通るくらいでしてね。


まあ、私の四人の元妻たちが、結婚して一年経たずに全員「いなくなって」しまったのは、名前のせいだけではないかもしれませんが……。

特殊清掃の現場で、壁にこびりついた「誰かの成れの果て」を削ぎ落とし、冷たくなった肌に化粧を施す仕事を長くしておりますと、どうにも世間様との温度差を感じてしまうようで。


さて、今日は「高所恐怖症」にまつわるお話をご所望だと伺いましたよ。ふふ。


高い場所。足がすくみ、内臓がせり上がってくるような、あの感覚。

あれは生物として正しい「警告」です。

誠に残念ながら、その警告を無視してしまった男のお話です……。


中堅建設会社の役員、安田さん(仮名)という方がいました。

彼はひどい高所恐怖症でしたが、それを克服することが「真の成功者」への道だと信じ込み、都内の一等地に建つタワーマンションの最上階を購入したそうです。


全面ガラス張りのリビング。

地上百メートルを優に超える天空の城。


「ここは強化ガラスで守られている。絶対に落ちることはない」


彼はそう自分に言い聞かせ、眼下の夜景を見下ろしては優越感に浸っていました。


ある、ビル風が不気味に唸る夜のことです。

安田さんがリビングで酒を飲んでいると、窓の外に、白く濁った「筋」のようなものが見えました。


最初は汚れかと思いましたが、恐る恐る窓際へ歩み寄り、自身の吐息で白く曇るガラスを掌で拭うようにして、近づいてよーく見てみると……それは「指の跡」でした。


五本の指が、外側からガラスを必死に掻きむしったような、生々しい脂の跡。


「……ひっ!?」


安田さんは、心臓を直接掴まれたような衝撃に襲われ、反射的に数歩飛び退きました。

椅子をなぎ倒し、尻餅をつきながら、荒い息をつく。

ありえない。ここは空の上だ。外側に指の跡がつくはずがない。


「見間違いだ。疲れているんだ」


そう自分に言い聞かせ、震える膝を叩きながら、彼は磁石に吸い寄せられるように、再び窓へと視線を戻しました。


そして、ふと気づいたのです。

先ほど指の跡があった、そのすぐ下の暗がりに、何かが「張り付いて」いることに。


窓枠の縁に、青白い指先がかけられています。

耳を澄ませば、ガリ、ガリ、とガラスを削るような音が響いてくる。

そして、その隙間から、ゆっくりと、ゆっくりとせり上がってくる顔。


それは、数年前、安田さんが工期を優先するために安全対策を怠り、現場で転落死した若い職人の顔でした。


男の体は強風に煽られ、紙切れのように虚空に舞っています。

しかし、その顔だけはガラスにべったりと押し付けられ、極限の恐怖で引き攣ったまま、安田さんを凝視していました。


男は、ガラスに額をこすりつけ、掠れた声でこう繰り返したそうです。


「……た、かい。……こわ、い」


安田さんは、今度こそ声も出せずに絶句しました。

恨み言を言うわけでも、謝罪を求めるわけでもない。

ただ、自分が死んだ瞬間の「高さ」に囚われ続け、永遠に終わらない墜落を繰り返している。その純粋な、剥き出しの恐怖だけが、窓を通り抜けて安田さんの脳内に響き渡ります。


「……高い。……怖い。」

「……高い。……怖い。」

「……高い。……怖い。」

「……高い。……怖い。」


次第に、窓の外には無数の「手」が増えていきました。

かつてその高さから振り落とされた者たちが、地上への唯一の手がかりを求めて、安田さんの部屋に縋り付いてきたのです。


バキッ、パキッ……。

絶対に割れるはずのない強化ガラスに、網の目のようなヒビが走ります。

外からの凄まじい風圧と、死者たちの「執念」によって。


安田さんは、部屋の隅で耳を塞ぎ、うずくまりました。

しかし、最後にはリビングの床そのものが消え去り、自分自身が「底のない空」へと放り出される感覚に襲われたといいます。


数日後、職場に来ない安田さん不審に思った社員が、自宅の居間で、心筋梗塞で亡くなっている安田さんを発見しました。


窓ガラスには一切の傷も、指紋も残っていなかったそうです。

ただ、彼の遺体は、凄まじい怨念の圧力に押し潰されたかのように、体中の骨が粉々に砕けていた……と、清掃に入った同業者が震えながら教えてくれました。


ええ、恐ろしいですねぇ。

高所恐怖症というのは、もしかしたら「空に呼ばれている」ことに気づいてしまう、鋭敏な感覚のことなのかもしれませんね……。


……ふふ。


お話はこれでおしまいです。


……ところで、あなたの今いるその部屋。

足元のフローリングの下には、ちゃんと「地面」がありますか?


ふと窓の外を見たとき、宙に浮いた誰かと目が合ってしまったら……。

どうか、視線を逸らさずにいてあげてください。

彼らはただ、一人でそこにいるのが、怖くて、怖くてたまらないだけなのですから。


また金曜日の20時にお会いできることを切に願います。


それでは、良い夜を……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ