第11夜:天空の指先
ええ、どうも。怪談師の『忌部 骸』です。
……ふふ、そんなに身を硬くしないでください。これでも本名は『佐藤 留吉』なんていう、近所の公園で鳩に豆でもやっていそうな、実に無害な名前なんですから。
あまりに平凡な名前なもので、怪異のほうが「お門違いだ」と避けて通るくらいでしてね。
まあ、私の四人の元妻たちが、結婚して一年経たずに全員「いなくなって」しまったのは、名前のせいだけではないかもしれませんが……。
特殊清掃の現場で、壁にこびりついた「誰かの成れの果て」を削ぎ落とし、冷たくなった肌に化粧を施す仕事を長くしておりますと、どうにも世間様との温度差を感じてしまうようで。
さて、今日は「高所恐怖症」にまつわるお話をご所望だと伺いましたよ。ふふ。
高い場所。足がすくみ、内臓がせり上がってくるような、あの感覚。
あれは生物として正しい「警告」です。
誠に残念ながら、その警告を無視してしまった男のお話です……。
中堅建設会社の役員、安田さん(仮名)という方がいました。
彼はひどい高所恐怖症でしたが、それを克服することが「真の成功者」への道だと信じ込み、都内の一等地に建つタワーマンションの最上階を購入したそうです。
全面ガラス張りのリビング。
地上百メートルを優に超える天空の城。
「ここは強化ガラスで守られている。絶対に落ちることはない」
彼はそう自分に言い聞かせ、眼下の夜景を見下ろしては優越感に浸っていました。
ある、ビル風が不気味に唸る夜のことです。
安田さんがリビングで酒を飲んでいると、窓の外に、白く濁った「筋」のようなものが見えました。
最初は汚れかと思いましたが、恐る恐る窓際へ歩み寄り、自身の吐息で白く曇るガラスを掌で拭うようにして、近づいてよーく見てみると……それは「指の跡」でした。
五本の指が、外側からガラスを必死に掻きむしったような、生々しい脂の跡。
「……ひっ!?」
安田さんは、心臓を直接掴まれたような衝撃に襲われ、反射的に数歩飛び退きました。
椅子をなぎ倒し、尻餅をつきながら、荒い息をつく。
ありえない。ここは空の上だ。外側に指の跡がつくはずがない。
「見間違いだ。疲れているんだ」
そう自分に言い聞かせ、震える膝を叩きながら、彼は磁石に吸い寄せられるように、再び窓へと視線を戻しました。
そして、ふと気づいたのです。
先ほど指の跡があった、そのすぐ下の暗がりに、何かが「張り付いて」いることに。
窓枠の縁に、青白い指先がかけられています。
耳を澄ませば、ガリ、ガリ、とガラスを削るような音が響いてくる。
そして、その隙間から、ゆっくりと、ゆっくりとせり上がってくる顔。
それは、数年前、安田さんが工期を優先するために安全対策を怠り、現場で転落死した若い職人の顔でした。
男の体は強風に煽られ、紙切れのように虚空に舞っています。
しかし、その顔だけはガラスにべったりと押し付けられ、極限の恐怖で引き攣ったまま、安田さんを凝視していました。
男は、ガラスに額をこすりつけ、掠れた声でこう繰り返したそうです。
「……た、かい。……こわ、い」
安田さんは、今度こそ声も出せずに絶句しました。
恨み言を言うわけでも、謝罪を求めるわけでもない。
ただ、自分が死んだ瞬間の「高さ」に囚われ続け、永遠に終わらない墜落を繰り返している。その純粋な、剥き出しの恐怖だけが、窓を通り抜けて安田さんの脳内に響き渡ります。
「……高い。……怖い。」
「……高い。……怖い。」
「……高い。……怖い。」
「……高い。……怖い。」
次第に、窓の外には無数の「手」が増えていきました。
かつてその高さから振り落とされた者たちが、地上への唯一の手がかりを求めて、安田さんの部屋に縋り付いてきたのです。
バキッ、パキッ……。
絶対に割れるはずのない強化ガラスに、網の目のようなヒビが走ります。
外からの凄まじい風圧と、死者たちの「執念」によって。
安田さんは、部屋の隅で耳を塞ぎ、うずくまりました。
しかし、最後にはリビングの床そのものが消え去り、自分自身が「底のない空」へと放り出される感覚に襲われたといいます。
数日後、職場に来ない安田さん不審に思った社員が、自宅の居間で、心筋梗塞で亡くなっている安田さんを発見しました。
窓ガラスには一切の傷も、指紋も残っていなかったそうです。
ただ、彼の遺体は、凄まじい怨念の圧力に押し潰されたかのように、体中の骨が粉々に砕けていた……と、清掃に入った同業者が震えながら教えてくれました。
ええ、恐ろしいですねぇ。
高所恐怖症というのは、もしかしたら「空に呼ばれている」ことに気づいてしまう、鋭敏な感覚のことなのかもしれませんね……。
……ふふ。
お話はこれでおしまいです。
……ところで、あなたの今いるその部屋。
足元のフローリングの下には、ちゃんと「地面」がありますか?
ふと窓の外を見たとき、宙に浮いた誰かと目が合ってしまったら……。
どうか、視線を逸らさずにいてあげてください。
彼らはただ、一人でそこにいるのが、怖くて、怖くてたまらないだけなのですから。
また金曜日の20時にお会いできることを切に願います。
それでは、良い夜を……。




