第21夜:網膜の檻
ええ、どうも。怪談師の『忌部 骸』と申します。
……おや、そんなに肩をすくめなくてもよろしいのに。
皆さんは私のこの芸名を聞くと、決まって顔を曇らせるのですが、安心してください。
役所に登録されている私の本名は『佐藤 留吉』という、どこか長屋の片隅で盆栽でもいじっていそうな、実に枯れた名前なんですよ。
あまりに名前の威勢が良すぎて、役所の若い職員さんに呼ばれるたびに、こちらが恥っずかしくなってしまうくらいでしてね。
まあ、私の名前はどうでもいいのです。
かつて私が特殊清掃の現場で、孤独に腐敗した方々の「お顔」を復元していた頃……。
どれほど丁寧に汚れを落とし、生前の面影を繋ぎ合わせても、その瞳の奥にある「虚無」だけは、どうしても修復できなかった。
人間、一度何かに『中身』を明け渡してしまうと、もう二度と元には戻れないのかもしれませんねぇ。
……ふふ、独り言ですよ。
さて、本日は「スマートグラス」についてのお話をひとつ。
目元に装着するだけで、現実の風景に様々な情報を重ねて表示してくれる、あの便利な未来の眼鏡。
まるで世界が自分中心に拡張されたような、奇妙な全能感を味わえるのだそうですよ。
ある地方都市で、市議会議員を務める入江さん(仮名)という男性のお話です。
彼は実直で、政策も悪くないのですが、唯一にして最大の欠点がありました。
「演説が、とてつもなく下手」だったのです。
大勢の前に出ると、顔は真っ赤になり、手足は震え、用意した原稿は頭から吹き飛んでしまう。
聴衆の心には響かず、次の選挙での落選は確実。とまで言われておりました。
そんなある日、彼は視察で訪れたIT企業のブースで、一台の新型スマートグラスと出会いました。
「これだ……これがあれば、カンペが読める!」
入江さんはそのグラスを購入し、アプリケーションで、レンズの隅に演説用の原稿が表示されるように設定しました。
最初はただのカンペだったのですが、そのアプリには画期的な機能が備わっていたそうです。それは……。
「視覚最適化モード」
あがり症の原因となる「聴衆の視線」をリアルタイムで解析し、威圧感のある顔を、爽やかな「風景」や「抽象的な図形」に書き換えてくれるのです。
次の週末、駅前での街頭演説することとなりました。
入江さんがグラスを装着すると、黒山の人だかりは、まるで美しい草原に咲く色とりりとりの花のように見えたそうです。
視界の隅には、鮮やかな緑色の文字で、完璧な原稿がスクロールしていく。
「……私は、この町の……」
彼の言葉には、これまでにない力強さが生まれました。
聴衆の顔が見えないからこそ、彼は臆することなく、理想を叫ぶことができた。
演説が終わった瞬間、広場は割れんばかりの拍手に包まれました。
彼は、生まれて初めて、大衆を支配する快感を味わったのです。
この日から、入江さんはグラスを一時も手放せなくなりました。
彼にとって、グラスを通さない現実は、あまりに生々しく、毒気に満ちた「不完全な世界」に感じられるようになったのでしょう。
しかし、その「最適化機能」が、徐々に奇妙な進化を始めたのだそうで。
ある日の市議会中、彼を厳しく追及する対立候補が現れました。
激しい罵声、歪んだ顔、向けられる敵意。
その瞬間、入江さんの網膜に警告が走りました。
──ピピッ。
『不快な視覚・聴覚情報を検出。精神保護のため、ノイズキャンセリングを実行します』
対立候補の顔が、突然、激しい「デジタルノイズ」で塗りつぶされました。
そして、彼が吐き出す醜い怒鳴り声は、心地よい、せせらぎのような美しい電子音に変換されていきます。
入江さんは、もはや相手の言葉が聞こえなくなりました。
怒号が飛び交い、騒然とする議場の真ん中で、彼はただ一人、耳元に流れるせせらぎの音にうっとりと耳を澄ませ、自分だけの美しい殻に閉じこもってしまったのです。
ゼンマイの切れかかった人形のように、穏やかな笑みを浮かべながら、原稿に書かれた美しい政策のフレーズを、ただ一方的に、優雅に繰り返し呟き続けたのだそうです。
激昂する相手を完全に無視し、誰もいない虚空を見つめて微笑み、独り言を囁き続ける彼の姿は、議場にいた人々を言葉にできない気味悪さで凍りつかせました。
しかし本人は、これまでにない「深い安らぎ」を感じていたそうです。
そして、その最適化機能はついに、彼の私生活にまで及び始めました。
自宅に帰った入江さんを待っていたのは、多忙で家庭を顧みない彼への、妻の恨み言でした。
「ねえ、聞いてるの? 娘のことも、少しは……」
夕食のテーブル越しに投げられる言葉は、疲弊した入江さんの脳には、鋭い刃物のように突き刺さりました。
ああ、うるさい。私は今「完璧な自分」であるはずなのに、なぜこの場所はこんなに「汚れて」いるんだ。
その時、グラスが彼の内なる欲望に応えるように、冷たく光りました。
──ピピッ。
視界の中で、妻の顔に「修復不能なエラー」という真っ赤な警告灯が点滅しました。
彼女が口を動かすたび、そこから汚泥のような黒いノイズが溢れ出し、リビングの美しい大理石風の壁紙を汚していきます。
グラスが見せている幻であることに気付きもせぬままに…。
『不快なオブジェクトを検出しました。環境を最適化しますか? [YES / NO]』
入江さんは、震える指先で……いえ、視線だけで「YES」を選択しました。
途端に、目の前の妻の姿が、灰色のごみ袋のような、ドットの粗い「汚れ」に置き換わった。
「ああ……そうか。これは、僕の人生に必要な『清掃』なんだ」
入江さんは、不思議なほど晴れやかな気分でキッチンへ向かい、鈍色に光る、あまり切れ味の良くなさそうな包丁を手に取りました。
彼は鼻歌を歌いながら、リビングに佇む「大きな汚れ」に歩み寄ります。
包丁を振り下ろすたびに、網膜には「清掃中……頑固な汚れを分解しています」という爽やかな進捗バーが浮かびます。
グチャリ、という肉を断つ不快な手応え。
それは、切れ味が悪いゆえに、骨に刃が何度も引っかかり、嫌な油脂と肉の繊維を無理やり押し潰すような、鈍く重い抵抗として右腕に伝わってくるはずでした。
しかしそれらは、グラスの触覚フィードバックの補正なのか、あるいは彼の脳の麻痺なのかわからぬまま、「湿った古い絨毯をゆっくりと剥がしていくような、心地よい達成感」へと美しく変換されていきました。
返り血が顔に飛んでも、グラス越しには「エフェクト:キラキラとした光の粒子」にしか見えなくなり、足元を濡らす赤い海は、ただの「洗浄液」として青く透き通って見えました。
隣の部屋で泣き叫んでいた「小さなノイズ」も、彼は丁寧に、一つずつ、進捗バーが100%になるまで処理していったそうです。
「清掃率……80%……90%……」
やがて、部屋からあらゆる「不快なもの」が消え去りました。
かつて妻だったものや、娘だったもの。
それらはすべて、グラスの完璧な処理によって、磨き上げられた純白の空間へと書き換えられました。
『清掃が完了しました。完璧な環境です。お疲れ様でした』
最後に表示されたその文字を見て、入江さんは満足げに頷きました。
死臭の漂う、血の海となったリビングの真ん中で、彼は優雅に椅子に腰を下ろした彼の視界には、陽光が差し込む、チリ一つない真っ白な理想の部屋が広がっていたそうです。
入江さんは、床に転がった割れたカップに鮮血を掬い取り、「完璧な紅茶」を口に運び、ゆっくりと喉を鳴らしました……。
ええ、お話はここで終わりです。
その後、通報を受けた警察が踏み込んだとき、入江さんは「掃除したばかりなので、汚さないでください」と、穏やかな笑みを浮かべていたそうですよ。
彼の網膜には、今もまだ、この世で最も清らかな景色が映っているのでしょうねぇ。
効率化、最適化、すると清掃。
不都合なものをすべて消し去った後に残る「完璧」な世界。
……それは、死者の瞳に映る景色と、一体何が違うのでしょうかねぇ。
……ふふ。
おや。
今、あなたの視界の隅。
……少しだけ、色が「薄く」なっている場所はありませんか?
もしかしたら、もう「清掃」が始まっているのかもしれませんよ。
それでは、良い夜を……。
⭐︎次回(6/5 20時)の更新をもちまして、最終回とさせていただきます。
残り1話となりますが、お読みいただけますと幸いです。引き続き、よろしくお願いいたします。




