第17夜:愛の煮凝り(閲覧注意・残酷描写強め)
ええ、どうも。怪談師の『忌部 骸』です。
……ふふ、あまりそんなに、汚物を見るような目で見ないでください。
これでも本名は『佐藤 留吉』という、どこにでもいる隠居老人のような名前なんですよ。
あまりに平凡で、あまりに無害な名でしょう?
元・特殊清掃員なんていう、孤独死の現場でこびりついた脂を削ぎ落とすような仕事をしていた男には、不釣り合いなほどに。
私の四人の元妻たちも、最後はこの名……『留吉』と呼ぶ声すら掠れさせて、逝ってしまいました。
彼女たちが何を遺し、私が何を「清掃」したのか……それはまた、別の夜にお話ししましょう。
さて、今宵は「コーヒー」にまつわる、酷く切ない、そして醜いお話です。
都内のオフィス街の路地裏に、看板も出さず、ただ静かに豆を挽く音だけが響く喫茶店がありました。
そこを彷徨うように訪れたのは、最愛の妻を病で亡くしたばかりの岡田さん(仮名)という男でした。
妻を亡くしてからの岡田さんの世界は、まるで灰を被ったように色を失っていました。
朝、隣に誰もいない冷え切った布団で目覚めるたび、彼は自分の半分がもぎ取られたような鈍い痛みに悶えるのです。
仕事も手につかず、ただ彼女の遺した衣類に鼻を押し付け、消えかかった残り香を必死に啜る日々。
けれど、香りは日を追うごとに薄れ、彼は自分が「彼女を二度殺している」という絶望的な恐怖に支配されていきました。
そんな彼が、導かれるようにその店の扉を叩いたのは、もう死に場所を探しているような土砂降りの夜でした。
その店のマスターは、まるで喪に服しているような黒いエプロンを纏い、一滴一滴、己の命を削り出すように静かにドリップを行っていました。
落ちる雫の音だけが響く静寂の中、マスターは岡田さんの瞳の奥に広がる、出口のない暗闇をじっと見つめました。
そして、マスターは何も言わず、カウンター越しに小さな、乳白色の小瓶を差し出したのです。
岡田さんは、怪訝そうにその小瓶を手に取りました。
中身が何であるか、説明はありません。
ただ、促されるままにその蓋をひねりました。
「……ッ、」
瞬間、岡田さんの身体が硬直しました。
鼻腔を貫いたのは、香料でも、珈琲の香りでもありません。
それは、彼が死ぬほど愛し、そして失った、彼女固有の「匂い」でした。
石鹸と、使い古した枕と、彼女が好んでいた花の香りが混ざり合った……世界にたった一つしか存在しない、あの愛おしい残り香。
小瓶の中には、灰よりも白く、真珠よりも冷たい、微細な粉末が詰まっていました。
言葉など必要ありませんでした。
岡田さんの脳裏には、彼女の柔らかな肌の感触、囁き声が、鮮烈な色彩を伴って爆発したのです。
マスターは、独自のルートで火葬場や遺族から「遺り滓」を買い取っては、それをコーヒーに混ぜて供していたのです。
岡田さんは、涙を流しながらその粉をカップに落としました。
一口啜れば、喉を焼く熱さと共に、彼女の存在そのものが胃の腑にじわりと広がっていく。
それは紛れもない「再会」でした。
けれど、飲めば飲むほど、彼の心には底知れない泥沼のような飢えが広がっていきました。
「足りない。これだけじゃ、彼女を抱きしめたことにならない……」
一滴の雫に、一生分の愛を込めようとしても、しょせんは過ぎ去った過去の亡霊。
喉を通る瞬間の多幸感は、飲み干した瞬間に「彼女が再び消える」という、さらに深い絶望となって彼を襲いました。
ある雨の夜、岡田さんは閉店後の店でマスターの足元に縋り付き、嗚咽しました。
「もう嫌だ……彼女が消えていくのを見るのは耐えられない。いっそ、私を殺して彼女の中に混ぜてくれ!」
そんな彼を、マスターは感情の消えた、硝子玉のような目で見下ろして言ったのです。
「ならば、あなたが彼女を包む『器』になりなさい。生きたまま、彼女と同じ『粉』になれば、保存瓶の中で永遠に重なり合えますよ」
その言葉は、絶望の淵にいた岡田さんにとって、福音にも等しいものでした。
彼は泣き笑いの表情で服を脱ぎ捨て、店の奥にある銀色の、巨大な減圧乾燥機の重い扉を開けました。
自らその冷たい金属の檻へと這い入り、胎児のように丸まったのです。
……ここからは、目を背けたくなるような、残酷な愛の儀式です。
重厚な扉が閉じられ、機械が作動すると、槽内の気圧が急激に下がっていきます。
真空に近い状態。まず襲ってきたのは、全身の粘膜から水分が沸騰し始める、地獄のような熱さと痛みでした。
「あ、が……あ、あああぁッ!」
声にならない絶叫。
気圧の差に耐えきれず、岡田さんの眼球は大きく隆起し、やがて「パンッ」という乾いた音と共に内側から弾け飛びました。
毛細血管という毛細血管が破裂し、毛穴からは真っ赤な血の汗が噴き出します。
体内から空気が引き抜かれ、肺は潰れ、意識は遠のくのに、心臓だけが「彼女に会いたい」という執念だけで拍動を続ける。
細胞のひとつひとつから、強引に水分が奪われていく。
ふっくらとしていた彼の肉体は、見る間に赤黒く萎び、革細工のように凝縮されていきました。
骨が軋み、パキパキと折れる音が、静かな店内に虚しく響きます。
岡田さんは、光を失い、どろりと溢れ出した視神経の奥底……もはや剥き出しになった脳髄が見せる幻覚の中で、マスターが瓶に残った「妻の粉末」を、自分の体に振りかけるのを確かに感じ取りました。
「ああ……やっと……混ざり……あ……」
数時間後、乾燥機から取り出されたのは、かつて人間だった、無残に乾ききった赤茶色の塊でした。
それをマスターは、祈るような手つきで石臼に入れ、微細な粉末へと挽いていったのです。
岡田さんの肉体、血液、そして執念……そのすべてが、最愛の妻の灰と混ざり合い、ドロドロとした「究極の愛の煮凝り」が完成しました。
それ以来、その店では、以前よりもずっと「コク」の深いコーヒーが供されるようになったそうです。
……ふふ。
誰かを愛しすぎるということは、自分を粉々に砕いて、相手の胃の中に消えてしまいたいと願うことなのかもしれませんね。
おや?どうされました?
あなたのそのコーヒー、いつの間にか冷めてしまっていますよ。
冷めたコーヒーの表面に映る、ご自分の顔……。
なんだか、背後に知らない誰かが立って、あなたのそのカップを覗き込んでいるように見えませんか?
「自分も、混ぜてほしい」
……そんな声が聞こえたら、決して振り向いてはいけませんよ。
それでは、良い夜を……。




