お屋敷の皆のおかげ
菫の髪飾りをひとしきり眺めたあと、マダムはほうっとため息を吐いた。
「ジュリエッタお嬢さま、新しいドレスをとのことですが――この髪飾りには前回お作りした薄紫のドレスがお似合いになると思いますよ。というより、あのドレスのために誂えられた髪飾りのように思いますが」
マダムの言葉に私は唇を噛む。
本当にそう思う。
あの薄いラベンダー色のドレスがあったらとてもよかったのに。
「あのドレスは今はないの。だから、本当に新しいドレスはいらないわ」
「ねえ、ジュリエッタ。だったら、もう一度同じドレスを作ってもらうのはどうかしら? あなたが気に入っていたドレスとまったく同じ色同じデザインで。マダム、同じ生地を仕入れることは出来るの?」
ベラ伯母さまが私の背中を優しく撫でたあと、そんなことを提案してくれた。
伯母さまはドレスがマリに奪われたことをサマーから聞いたのかもしれない。
「申し訳ございません、今からの発注では難しゅうございます。あの生地は染色がとても難しくて、特に最近流行の繊細なお色は出にくいのです。時間をかければ出来なくはないのですが……。お色だけは変更なさった方がよろしいかと思います」
「ジュリエッタ、どう? 少し色が違ってもいいかしら」
伯母さまに訊ねられて私は眉尻を下げる。
「色が違うのは別にいいの。その……ごめんなさい。あのドレスだから気に入っていたの。楽しい思い出がいっぱいつまったドレスだったから。だから同じドレスを作ってもらっても、私――」
それに今あのドレスはマリが持っている。
マリとお揃いになるドレスはあまり着たくない。
「では、この髪飾りに合うドレスを新しくお作りになりませんか? こちらが菫の髪飾りとのことですから、お色は……そうですね、灰菫なんていかがでしょう?」
「灰、菫……?」
ミアンの言葉に私はハッと顔を上げた。
「最近読んだ古い染色の本に載っていたんです。紫菫の花というものがあるそうです。濃い紫色の神聖な花らしいのですが、灰菫というのはその紫菫の花にあやかって名付けられたごくごく淡い紫です。霧が出た朝に見る紫菫の花をイメージしたらしく――明るい灰色がかった薄紫で、しっとりと落ち着いた色になります。前回のドレスの薄紫色に似ていますし、今の流行からは外れますが、昔からある染色なので色は出しやすいはずです」
「素敵な色の名前! 私、菫の花が大好きなの。紫菫の花も見たことがあるわ。紫菫の木はとても大きくてね、風に乗って花がたくさん上から降ってきて驚いたのよ。まるで紫菫の花のシャワーみたいだったわ。菫の花が雨のようにざあざあと降る中でミアンが作ってくれたあのドレスを着てくるくる回って踊ったの。今思い出しても楽しくなっちゃう、ふふっ」
王宮の精霊の庭で体験した紫菫の花のシャワーを思い出して話して聞かせる。
ベラ伯母さまもマダムもミアンも皆うっとりした顔で聞いてくれた。
「そんな思い出があったからドレスを気に入っていたのねえ」
伯母さまは困ったようないたわしいような複雑な顔をする。
一方ミアンは目をきらきらさせ始めた。
「あの、あのっ! でしたら、菫の花を模してこんなドレスデザインで――」
うずうずした顔のミアンはもどかしいような手つきでデザイン帳を捲ると、瞬く間にドレスをデザインしていく。
肩から胸元にかけてたくさんの菫の花が溢れる愛らしいドレスだ。
前で結ばれたリボンのウエスト切り替えも可愛いし、ふんわりしたスカートにも菫の花が散りばめられていた。
ミアンの説明では花の飾りは濃いめの紫を中心に色の変化を付けたいとのこと。
まさに菫の花が降り注ぐドレスになりそうだ。
が、少し派手すぎないかと心配になる。
前世のウエディングドレスのような豪華さだった。
「まあまあ、いいわね! ミアンも灰菫なんて古典染色をよく思い出したこと。灰菫は落ち着いたお色ですから、このくらい華やかなデザインの方がジュリエッタお嬢さまにはお似合いになるでしょう。ただ――」
マダムも頷いたけれど、少しだけ心配そうな顔をする。
「このデザインではちょっと手間がかかりすぎるんじゃないかしら。もう少し飾りを減らすなり何なりした方がいいと思うわ」
「いいえ、どうか私にお任せください。ジュリエッタお嬢さまに最高のドレスをお作りしたいんです。全力でもって私が仕上げてみせます!」
私が戸惑っている間に、渋るマダムをミアンが熱意で押し切る。
ベラ伯母さまは最初から乗り気だった。
「それでは採寸と参りましょう」
ようやく終わったかと思うと、今度は大事な採寸作業だ。
オーダーメイドのドレスのためか毎回細かく採寸が行われる。
「ずいぶんお痩せになったと思っていましたが、想像以上です」
呟いて眉を顰めたミアンが丁寧に採寸していく。
この屋敷に来てひと月近く、最近になってようやく体調が戻ってきた。
回復がこんなに遅くなったのは、これまでのストレスが大きかったせいらしい。
というのも、昼間は散歩の距離がぐんと伸びたり多少走っても息切れしなくなったりとどんどん元気になっていくのに、夜になるとなぜか熱が出るのだ。
高い熱ではないけれど、屋敷の皆にはずいぶん心配をかけてしまった。
お医者さまからは心因性の発熱だろうとのこと。
けれど蔦のお屋敷に来てストレスなんて感じたことがない。
そうお医者さまに訴えると、この屋敷でリラックス出来たことで気が緩み、これまで抑え込んでいた疲れやストレスが一気に出ているのだろうと診断を受けた。
時間が解決してくれるはずだからゆっくり養生しなさいと。
お医者さまのおっしゃるとおり、最初は数日おきにあった発熱がどんどん少なくなっていった。
今では熱が出る夜はほとんどない。
それに伴ってぼんやりする時間も減っていった。
私を虐げていたマリがいないのがやはり大きい。
いつ部屋に入ってきて汚い言葉で罵られるか。
頭ごなしに人格を否定され、恐ろしい言葉で脅されるか。
高圧的に言動を制限され、大事な物を奪われるか壊されるか、暴力を振るわれるか――そんな恐怖から解放されたのだから。
「少し背が伸びましたね。袖も伸ばさないといけません」
もしこれまでのマリの暴挙を七歳だったジュリエッタが受けていたら、もっとずっと早い段階で心が砕け散っていただろう。
前世の記憶が蘇り、今の私となったことで何とか助かったんじゃないかと思う。
けれどお父さまから受けた拒否と暴力とネグレクトは、私でも心が壊れかけた。
そう考えると回復がこんなにも遅くなったのも当たり前かもしれない。
「最近はずいぶん食事の量も増えたのよね。だからすぐにまた元気になれるわ」
「はい、伯母さま」
柔らかい声をかけてくれる伯母さまに笑顔が浮かぶ。
ゆっくりでも回復しているのは確実で、助けてくれたのは屋敷の皆の優しさだ。
お祖父ちゃまやエルマンノ伯父さま、ベラ伯母さまにアルノルド叔父さま、使用人の皆まで私をとことん甘やかす。
生まれて初めてというくらいに誰からも甘やかされて怖くなったほどだ。
花のお屋敷で敵だ味方だと神経をすり減らすようなこれまでが何だったのか不思議になるほど、蔦のお屋敷では皆が私の言うことをいつも正面から聞いてくれて何の疑いもなく信じてくれる。
まるで本当の家族みたいに何度も抱きしめてキスをしてくれる。
だから、何の構えもなくすごせるのだ。
笑う回数も圧倒的に多くなった。
全部お祖父ちゃまの――このお屋敷の皆のおかげだ。




