平穏の終わり
フレッドさんたちとの話し合いのあと、また熱が出た。
高い熱ではなかったけれど、その後もとろとろと微熱が続いて、体調はなかなか元に戻らない。
早く元気になってずっと看病してくれているポーラを安心させたいのに、子供の体は不安定で、自分でどうにかしようとしてもムリだった。
気付けばもう八月に突入していた。
「ジュリエッタお嬢さま、めずらしいプレゼントが届きましたよ。ご覧ください、氷レモンです! まだ青いレモンなんです。ロッシ伯爵家のアントンさまが、体調を崩されたジュリエッタお嬢さまを心配して送ってくださったのですよ。お手紙もあります」
ポーラが見せてくれたのは、籠いっぱいに入ったレモンだ。
前世で見ていたレモンより小さくてまだ青いが、手に取ると清々しいレモンの香りがした。
「いい匂い。普通のレモンより爽やかな気がする。アントンにお礼を言わなきゃ」
「青レモンもいいですね。そうだ、これでハニーレモンを作りましょう! 冷たいお水で割ったら美味しいですよ。熱もすぐに下がりましょう」
「ふふ、美味しそう。そうだ! お母さまにも飲んでいただけるかしら。デブラに聞いてみてちょうだい。喉ごしがいいから、きっと大丈夫だと思うの」
「はい。ではさっそく――」
「待って。ひとつだけ手元に置いておきたいわ。いい香りだもの」
今の私の手に収まるくらいちんまりした氷レモンは深い緑色をして美しい。
微熱は今日もあるけれど久しぶりに気分はよかった。
氷レモンの香りはさらに元気づけてくれる気がする。
アントンからの手紙には、ルカーシュさまに呼ばれてもう二度も王宮の蝶の研究所に行ったことが書かれていた。
ソフィ伯母さまは絶対行かせないと言い張っていたが、伯爵さまの鶴の一声で行けることになったらしい。
どうやら偉い人の口添えがあったようだ。
そうして、パールモルフォ蝶の一斉羽化も見ることが出来たらしい。
まるで夢のような光景だったと。
「羨ましい……」
せっかくお祖父ちゃまのお屋敷に行く計画があったのに行けなかったなあ。
本当なら先月、私も王宮の温室でその夢のような光景を一緒に見られるはずだったのに、体調を崩したことで何もかもキャンセルになってしまった。
季節はもはや晩夏に近く、ベッドで寝てばかりで全然夏らしいことをしていないのがとても悔しい。
北に位置するシュレーゲル国は夏もそれほど暑くならない。
日中は汗ばむほど気温が上がっても、朝晩は長袖を着なければいけないほど冷え込むこともしばしば。
暑さもからりとしているので、日陰に入ると涼しくて気持ちがいい季候だ。
そんなすごしやすい夏は、しかしとても短いらしい。
去年までのことはあまり覚えていないけれど、八月も半ばになるとあっという間に涼しくなるという。
そうして長い秋と冬と春がやってくるそうだ。
だからこそ貴重な夏を満喫したかったのに……。
窓から見下ろす庭も青々していて散歩するとさぞ気持ちよさそうだが、今の私に許可が下りるわけがない。
庭師のトム爺が届けてくれる庭の切り花を眺めるのが唯一の楽しみだった。
寝てばかりいるせいで体はすっかり痩せ細ってしまったし筋力も落ちている。
部屋のトイレへ行くのにも息切れがする今の有りさまが歯がゆくてならない。
足に力が入らないのだ。
元気になったら歩くリハビリから始めないといけないようだ。
早く元気になって、庭を歩けるようにならなきゃ!
もう一度青い氷レモンを鼻先に近付けようとしたとき、唐突にドアが開いた。
断りもなく入ってきたのはマリだ。
「へえ、ちゃんと療養してたんだ? てっきり嘘かと思ったのに。みっともないほどガリガリになって、ざまあだわっ」
鼻で嘲笑うマリに、体が反射的にこわばった。
姿を見るだけで震えが生まれる。
声を聞くと胸が苦しくなる気がした。
ここずっとマリと会っていなくて安らかだったのに、心が一気に竦み上がる。
「けど、あんたさー。もっと骸骨みたいにキモくなればいいのに、何で儚げ~な方向に痩せるのか。そういうとこがヒロインなわけ? あー、何かムカつく。顔見たらやっぱムカつくわ、あんた」
マリがめずらしく何の手入れもしていないストレートな髪のままなのは、エリーナがいなくなったせいだろうか。
以前の――『嫌なマリエッタ』が出てくる前の――マリの見た目に戻ったけれど、表情が違うせいで大好きだった双子の妹の面影はどこにもなかった。
「あーもーここずっとマジウザかったわ。やっとのんびりできる」
ソファーにドンッと勢いよく座ると、行儀悪く足でもう片方の靴のストラップボタンを外す。
そのままだらしなくぽいっと脱ぎ捨てた。
もう片足の靴も同じように脱ぐと、今度は手に持ち替えてマリは楽しげにベッドに横たわる私へと投げつけてくる。
「きゃっ」
「ちょっと! 何でよけんのよ。ったく、面白くない。ちゃんと当たれよっ」
とんでもないことを口にして、ソファの上であぐらを組んだ。
ドレスがめくれようが関係ない。
いつものマリだった。
「あー疲れた。やっぱここは楽だわ。帰ってきてよかったー」
「……どこかに行ってたの?」
「お母さまの療養で屋敷が慌ただしくなるからって、だったら別荘で避暑の方がマシかと思ってデブラについてったら、待ってたのは別荘なんて名ばかりの狭い家と行き遅れのオバサンでさあ。家庭教師だかガヴァネスだか知らないけど、お高くとまって勉強だのマナーだの上から指図ばっかり。終いにはヒステリックにきゃんきゃん叫んで、もう本っ当ウザっ! お父さまにがんがん手紙書いてようやく帰って来れたわ。さっきお父さまに散々文句言ってあのオバサンをクビにしてもらったし、これで思い知ったでしょ」
あの事故のあとマリが部屋に現れないと思ったら別の場所にいたらしい。
デブラの名前が出てきたし、意図して屋敷から移動させられたのかもしれない。
精神的にマリに会いたくなかったし、マリのことを考えたくもなかったからポーラにも誰にもあえて聞かなかったが、そもそも屋敷にいなかったのか。
マリがいないんだったら、少しくらい屋敷の中を散歩出来たのにな……。
知りたくなかったから聞かなかったけれど、それが裏目に出た感じでちょっと悔しかった。




